77.夢か現か
カーテンの外がうっすらと明るい。
窓に寄ろうとして、膝に毛布がかけられている事に気付いた。
母が来たのなら、たたき起こしてでもベッドで寝かそうとしただろうから、修也が顔を出したのだろう。
寝心地がいいとは言いがたい絨毯の上に、長い時間寝転んでいた体は、あちらこちらが微かに痛んだ。
窓辺に来ると、カーテンを引いて、窓を開けた。
朝の冷たい風があっというまに室内を満たす。
新聞を配達しているのだろうバイクの音が、せわしなく動き回る音が遠くで聞こえていた。
夢………だったのかな。
ROの世界でオクトとして過ごした記憶ははっきりと頭の中に残っている。
夢と割り切るには、余りに生々しい記憶を持ちながら、それでも私は夢を見ていたのではないだろうかと思い始めいてた。
ゲームの中に、キャラクターとなって入り込む。そんな話が現実に起るはずがない。そう、あるはずがないんだ。何度もそう自分に言い聞かせながら、目覚ましが鳴るまでの時間を、私は窓の外を眺め続けて過ごした。
時折、視線が放置されたゲームとモニターへと向かう。しかし、すぐさま視線を逸らし、また窓の外を見詰めた。
一度目のベルですぐさま目覚ましを止めると、パジャマのまま階下に降りて顔を洗う。
16年間つきあってきた顔が、ぼんやりとした眼を鏡の中から自分に向けていた。
私だ。
整えようとして失敗してしまった右の眉も、目の下の黒子も、肩までの黒い髪も、間違いなく私のものだ。
なのに、小さな違和感がずっとついてまわっていた。
私の手は、もっと筋張っていた。体は筋肉隆々だった。夢の中の自分と現実の自分がひどく曖昧になっているような奇妙な感覚だった。
寝起きの悪い私が、一番に朝食の席についた事に、母は「明日はまた嵐ね」と大げさに驚いて見せた。
制服に着替え、玄関で靴を履いていると、今日は休みの修也が、寝ぼけ眼を擦りながら階段を下りてくる。
「ねーちゃん、寝落ちしてたぞ。全部落としといてやったけど、気をつけろよなあ」
母さんにばれたら俺までとばっちり食らわあ。そう言って、修也はリビンクに入っていった。
世の母親の例に漏れず、うちの母はゲームに良い顔をしない。
それでも節度をまもってする分には何も言わないが、電気をつけっ放しで寝落ちなどしたとばれた日には、角が生えるのは必至だろう。
「行って来ます」
リビングにいる母に聞こえるように声をあげると、「行ってらっしゃい、気をつけてね~」とお決まりの返事が返ってきた。
いつもと何も変わらない朝だった。
いつもと同じように電車に揺られ、改札を出る。空はどんよりと曇っていた。今にも振りだしそうな曇天だが、置き傘があるから、学校につくまでもてばいい。
学校においてある、赤い傘を思い出して、またなんともいえない違和感に襲われた。赤じゃなくて黒い傘を持っていたのに――――そう思ったとき、軽く肩を叩かれた。
驚いて振り向くと、まず最初に私と同じ柄のブレザーと、ネクタイが目に入った。
「よお」
頭上から振る低い声に顔をあげる。
そばかすの散った頬に色の抜けた毛先がかかっていた。
「……………」
こいつ何て名前だったっけ?
食い入るように顔を凝視したまま、口を開かない私に、相手は怯んだようだ。眉を下げて、視線を逸らすと、もごもごと口を動かした。
「あー、昨日は、じゃなくて、えーと、なんつーか、ああっ、くそっ!!」
男は両手で頭をかきまわすと、さらに視線を逸らして、ぼそりと呟いた。
「………おはよう、仁木」
ああ、そうか、アドバイスの通りに挨拶してくれたんだ。
なら私も決めていた通り返さないと。それにしてもこいつの名前が思い出せない、田中? 田口? 田所? いや、違う。
ああ、そうそう。
「おはよう、伊達」
――――――――あ。
名前を口にした瞬間、どっと現実が落ちてきた。
霞がかかったようにぼんやりとしていた頭が一気に動き出す。
誰よ伊達って、何言ってんのよ、私は!
アドバイスって………、あれは夢で! ああああああああ、やばい。私、夢と現実をごっちゃにしちゃってるよ。
「あー、その、違うの、ちょっと寝ぼけてて………」
慌てて取り繕おうとした私が見たものは、真っ青な顔で、金魚のように口をぱくぱくと動かして私を指差すチャラ男の姿だった。
「お………まえ………誰、だよ」
は?
かすれた声で呟いた伊達の顔が、今度は見る見るうちに真っ赤になっていく。
「リカさん?じゃねえ。佐藤さん?違う。ロク?はない…………まさか………まさか………オクト……か?」
さして重くも無い鞄が、どさりと音をたてて、地面に落ちた。
私は震える指で伊達を指し返す。
「だ……て?……ほんとに? ほんとにほんとに!? 本当に、フォールンエンジェ」
正式名称を叫ぼうとした私の口を、伊達が恐ろしい速さで塞いだ。
「おまっ、黙れよ! その名前は言うな、頼むから」
いやいや、これは失敬。
絶対に口に出すなよ。絶対だぞ! と何度も念押しされて、ようやく開放される。
私はへたへたとその場にしゃがみ込んだ。
「夢じゃ、なかったんだ」
「みたいだな、で、お前、オクトでいいのか?」
私の前に、そのでかい体を折りたたんだ伊達が、顔を覗き込んで尋ねる。
私はこくりと頷いた。
「オクトか。まじかあ。お前、俺だって気付いてたのか? いつ………って、あー、木の上でか。お前なあ、気付いたんなら言えよな。本人に相談って、俺馬鹿みたいじゃねえか。え? や、別に俺は怒ってねえし、元はと言えば、俺のせいだし、な?」
ぶつぶつと文句をつけていた伊達が急に取り乱して、宥め始めたのは、恐らく私が今にも泣き出しそうな顔をしていたからだろう。
でも、私は別に伊達に責められて、そんな顔をしているわけではない。
「夢じゃ、なかった………」
なら、カイは?
「伊達、どうしよう。どうしたらいい?」
「なっ、なんだよ」
「カイが、カイがまだあそこにいるかもしれないの」
「はっ!? どういうことだよ………あー、ごほんっ、とりあえず、こっから離れるか。話は後で聞くから、いいな」
慌てた様子で立ち上がった伊達に腕をひかれて顔を上げれば、同じ制服に身を包んだ生徒が、ちらちらと此方を伺いながら歩いている様子が見えた。それも、何人も………。
そう、ここは学校の最寄り駅。当然、登校時間帯は大勢の生徒が利用するわけで。
「そっ、そうだねっ」
私達はそそくさとその場を後にした。