76.ハッピーエンドはやって来ない 2/2
「ついたよ、降りて」
「あ……うん」
カイは槍を手に、ひらりと虎徹から飛び降りた。
カイの言葉に従って、のろのろと虎徹から降りると、私は辺りを見回した。
頭は痺れたように、ぼんやりとしている。
とうに壁のランタンは無くなり、虎徹に括りつけられたそれだけが、ほのかな光を放っている。
かびの臭い。湿り気を帯びた土壁、どこからとも無く響く水音。目が覚めたあの時と同じ光景がそこにあった。
虎徹の横で呆然と佇む私の側に来ると、カイはふわりと頭に手を置いた。
それは触れるか触れないかの軽い接触で、カイの気遣いに、逆に心がざわざわと波立つ。
あんな小芝居までして、伊達を先に帰して、カイはここにやってきた。その意味するところが分からない。
「少し待ってて」
「カイ?」
カイは後ろを向くと、壁に手を這わせ始めた。壁を撫でながら、ゆっくりと移動するカイ。と、槍を持ったカイの指ががするんと壁の中に吸い込まれた。
「うえええええ!?」
さらさらの砂に埋めるよりも、水の中に沈めるよりも簡単に、カイの腕は壁の中へ入り込んでいく。 肘まで土に咥えさせるとカイは、私を振り返った。土壁から腕が生えているようで怖い。
「ついて来て」
「え? いや」
腕を壁に飲み込ませたまま、目で促され、思わず拒否の言葉を吐いてしまった私にカイの腕が伸びる。
「え? ちょっとまっ」
長くとがった爪をもつ指が手首に巻きつく。
「やっ、ちょっと、カイ! 待ってってば」
訳が分からない。足を踏ん張って堪えようとしたが、強い力で有無を言わせず引き寄せられる。ざらりとした土が手の甲に当たった次の瞬間には、私の腕は土の中にめり込んでいた。
その感触を何と言えばいいのだろう。
摩り下ろしたリンゴを全身に浴びるような、バリウムのプールに浸かるような、わた飴の雲にダイブするような。どれもしっくりくるようで、こないけれど、とにかく、あまりいいものではない。
まとわりつく不快感に耐えて、漸く指先から空気に触れる。
ほっと息を吐く間もなく、次に私を襲ったのは、耐え難い光の渦だった。
頭が痛い。容赦なく瞼を擦り抜けて注ぐ光に貫かれ、私は小さく悲鳴を上げた。
眩しい。痛い。気持ち悪い。
「すぐに消えるから」
手首に撒きついていたものが離れると同時に、カイの声が聞こえた。
「カイ カイ? どこにいるの?」
触れていたものがなくなり、恐ろしい不安に苛まれる。
光に阻まれ、カイの姿を見る事も、存在を感じることも出来ない。
それでもカイを探そうと、震える膝を叱咤してよろよろと進もうとしたとき、再びカイの声が響いた。
「女神ノート! 駆けて来い!」
カイの声に呼応するように、それはやってきた。
天から雨が降るように、遥か頭上から、闇のベールがおりる。
さらさらと涼やかな音をたてながら、それが辺りを満たし、光が消えた。
「カイ」
視界が戻り、暗赤色の人影を認めて、私は走り寄ろうと足を踏み出した。
俯いていたカイが私を見る。釣りあがった瞳を珍しく、柔らかく細め。
そして、カイは槍を構えた。
すの鋭い刃先を私に向けて。
息を呑んで目を見開く、その一瞬で、カイは二人の距離を詰め、刃が私の体を貫いた。
灼熱の溶岩を押し付けられたような途方も無い熱がお腹に広がる。
どくん、と心臓が脈打つたびに熱が増した。
「カイ?」そう呟いて、小さく咳き込むと口の中に鉄の匂いが広まった。
「ど………して?」
泉に入れば戻れるのに、なぜ、ここで、私に刃を向けたの。
カイは答えない。ただ静かに私を見ている。
「カ……イ?」
もう一度名を呼ぶと、カイの唇がゆっくりと動いた。
けれど、その唇が紡いだ言葉は私が希望していたものではなかった。
「獄灼炎」と、カイはそう呟いたのだ。
腹をかき乱す熱が、途端に質量を増し、びくんと体が揺れた。
熱と痛みと共に意識が遠ざかっていく。
今、目を閉じれば、次に目に映るのはカイの姿ではなくて、見慣れた私の部屋だろう。帰れるんだ、このままカイに殺されれば………
でも、
でも、
こんな終わり方は嫌だ。
せめて理由を知りたい。泉ではなく、この方法を選んだ理由を。
私の事が嫌いだった? 苦痛を与えたかった? それとも何か他に訳があるの?
こんな終わり方は絶対嫌だ!
歯を食いしばり、カイを睨みつけようとした時だった。
血のあふれ出す腹から、金色の光が零れた。
じわじわと染み出た光は、すぐに流れる血の量を凌駕し、地面に沁み込み、また槍の柄を侵食した。
驚く私の目の前で、光は小さな小さな虫に形を変え、そして――――――
「カ……イ………これ、な……に?」
虫はカイの体を這い登る。
餌に群がる蟻の大群のように。
「カイ………なんな……の?」
泣き出しそうな私を見て、カイは苦しげに眉を寄せ瞑目した。
「HPが強化されてるのか」
強化ってなに、いや、それよりも、この光の虫はなに!
「カイ!!!!!」
たまらず叫ぶと口の端を血が伝い、溢れる光の量がまた増えた。
カイが重そうに瞼を上げる。
「無窮の王は………その名の通り滅びない」
観念したようにぽつりぽつりと話し始めるカイ。
私は今にも途切れそうな意識を必死に繋ぎとめて、カイを見詰めた。
「久遠の洞窟の主の座は、倒したプレイヤーに引き継がれて行く」
王が交替制?
でも、それじゃあ……私は……私は……。
「あんたは初代の王だったんだ」
「私が………王?」
「あんたが王じゃないかと、佐藤さんと俺はずっと疑っていた」
思いがけない言葉だった。
「あんたは髪も目も初期設定から変えていないと言っていただろう。でも違う。実際には髪も目も金色だ。プレイヤーの色は黄色や金に近い色合いに設定出来ても、真実、金色には設定出来ない」
金色? ああ、それで………。
私は佐藤さんとの出会いを思い出していた。私を見るなり、戦闘態勢に入った佐藤さん。『………しかし………なぜ』に続く言葉は「なぜ、名前が表示されないんだ」ではなく、「なぜ、金色なんだ」だったんだ。
「けど、髪色だけで断定するのは危険だと様子を見る事にした。敵に認識されないと分かった時、推測が当たっている可能性が高くなったと思ったよ。そして、あんたが泉で伊達に傷を負わせたと聞いた時、あんたは王だと、俺は判断した。プレイヤーにもNPCにも、他のプレイヤーに傷を負わせる事はできない」
あんたが只のレベル1のプレイヤーなら、コアトールの毒にやられて生き延びられるはずがないんだ!そう、カイは吐き出して、目を伏せた。
そっか、レベル76のタスクさんに耐えられなかった毒が、レベル1のオクトに耐えられるはずもなかったんだ。私はNPCではなくて、無窮の王だったのか――――。
「苦しませて悪い。でも、ここで死んでくれ。無窮の王が泉に入れば何が起こるか分からない。これしか方法がないんだ」
金色の蟻がカイの首に到達したのを見て、私ははっとした。
「まっ……て、じゃあ、カ……イ……は?」
無窮の王である私を倒したカイはどうなる。
当然、カイが次の王になってしまうんじゃないのか!?
「後は佐藤さんにまかせる」
任せるって………。佐藤さんの「必ず助ける」ってこのことだったの?
でも、助けるってどうやって? 無窮の王のシステムを書き換えるつもり?
それにはどれくらいの時間がかかるの? それまでカイは1人でここに居るの? この誰もいないROの中に?
そもそも、本当に佐藤さんはカイを助けられるの!?
混乱して頭がどうにかなりそうだった。
「駄目!………そ、なの……い…やだ!」
カイは静かに首をふる。
「俺は帰れなくても別にいい。帰っても、ここに居ても、やる事は変わらないから。あんたは違うだろ。早く帰ってくれ」
いやだ! いやだいやだいやだ!
駄々っ子のように髪を振り乱し、槍を体から抜くべくもがこうとするが、私の体からそんな力はとうに失われていた。
カイがゆっくりと唇を動かし、魔法を発動する。その呪文が別れの挨拶になった。
―――――――頭が痛い。
まるでずっと眠り続けていたように、芯が痺れていた。
苦労して体を床から引き剥がす。
握り締めていたコントローラーを落とし、顔を上げると、目の前にある真っ暗なモニターには、仁木杏の顔がぼんやりと映りこんでいた。
私は帰って来た。