73.暑い夜の涼み方
「戻れたらボードに書き込みにいくからな。――――オクト、約束守れよ」
何時の間に約束を交わした事になっていたのだろう。
泉につくなりさっさと装備を脱ぎ捨て、下着姿になったリカさんは、青い水に足首を浸して、振り返ると、にやりと笑って手を振った。
「が、がんばります?」
思わず語尾が上がってしまった。
そんな私を見て、リカさんは相好を崩す。
戻れる保証もない、何が起こるかも分からない危険な賭けなのに、リカさんの顔には気負いも怯えも見当たらなかった。
むしろ提案者の佐藤さんが、ぽよぽよの口元を引き締め、厳しい表情で成行きを見守っている。
「それじゃあ、お先に」
腰まで水に浸かると、リカさんは大きく息を吸い込み、一気に水中へと体を沈めた。ポコポコと気泡が上がり、水面越しにぼんやりと見えていたリカさんの姿を隠す。小さな波が幾度か岸辺の草をぬらすと、あっという間に水面は静けさを取り戻した。
「………戻ろう」
鏡のように凪いだ泉から顔を上げて佐藤さんが呟いた。
リカさんは泉の中にはいない。泉の透明度は高く、それは間違えようがない。
泡が消えると共にリカさんの姿もまた泉から消え去ったのだ。まるで人魚姫のように。
ボードの書き込みを確かめるため、踵を返し虎徹の手綱を握り締めた佐藤さんを、ペイズリー柄の手袋に包まれた手が止めた。
「俺はもう行くわ」
佐藤さんが眉を顰めたのは、「行く」と言ったロクの足先がコアトールカとは逆の方向を向いていたからだろう。
「何を言っているんだ? ロップヤーンに戻ってボードを確かめないと………おい! 何をしている」
ロクは虎徹の横をすり抜けながら、マントを取り払う。次いでシャツをズボンを………。極彩色の羽を一枚、また一枚と毟り取り、泉にその身を浸した。
「確認に行かないのか!?」
佐藤さんが水際に足を踏み入れで叫んだ。
ロクが振り返る。
「わざわざ確認に戻るんが何や面倒になってきたわ。実際、リカは泉から消えたし、行く末を見定めずに飛び込んでみんのも一興やん。ぼやぼやしとったら朝になってまうしなー。お前らも困るやろ、起きてきた家族に、動かん体を発見されるんは」
確かに意識不明の状態で見つかれば、どえらい騒ぎになるだろう。
母はきっと泣いて取り乱すだろうし、父とてどうなるか分からない。きっと一番冷静になれるのは修也だろうけれど、ちゃんと119番通報してくれるか心配だ。
でも、まだロップヤーンに行って戻る時間は充分に残されていたはず………。
「伊達、おかんに発見されたくなかったら、次はお前の番や。男やったら腹括ってさっさと来いよ。親に心配かけたないやろ」
名指しを受けた伊達は「うっ」と呻いて顔を青くさせる。
ロクは私達に顔を向けたまま、少ずつ後ずさり、泉の中心部へと進んでいく。
「それからなソルト。最後を見届けるんは、やっぱり若い奴に譲ったれ。老兵は死なずただ消え去るのみや」
にやにやと皮肉めいた笑みを浮かべながらそう言うと、ロクはくるりと体を反転させて、背を向けた。
「それよりもお前にはやらなあかん事があるはずや。ええ加減歩き出せ、いつまで足踏みしとんねん!」
それは二度目に聞いたロクの怒声だった。
怒りのせいなのか、むき出しの肩が小刻みに揺れる。
「――――悪かった」
長いための後、ロクは静かに告げた。
「完成、一緒に祝えんで悪かったなあ。全部、お前に押し付ける事になってしもて悪かった。無理させてしもてほんまに悪かった。」
深い後悔の滲んだ声だった。
佐藤さんが息を呑む音が聞こえる。そっと視線を移せば、凍りついたように固まり、ロクを見詰める佐藤さんがいた。
ロクは……ロクは佐藤さんの何だったのだろう。ロクと佐藤さんの間に何があったのだろう。
カイトと佐藤さんが知己であるように、タスクさんと佐藤さんが同じ企業の人間であるように、ロクと佐藤さんもまた何らかの繋がりがあったのだと、私は確信していた。
ロクがゆっくりと振り返る。
泣き出しそうな顔をしているのだろうか、それとも苦悩に満ちた顔をしているのだろうか。私はその表情を見るのをためらい、顔を伏せた。
「でもなあ、お前いっっっっっつまで引きこもっとんねん。めそめそめそめそしやがって。あほちゃうか」
馬鹿にしたような声音に伏せたばかりの顔を上げると、ロクは呆れたような半眼で佐藤さんを見据えていた。
「繊細なんが愛らしいんは乳を卒業するまでや」
はやっ!
「いい歳こいたおっさんがいつまでも落ち込んどっても、鬱陶しいだけやぞ。赤ん坊みたいに誰かが引っ張ってくれる訳やないんや。さっさと自分で立たんかい。ええな、今立て、直ぐ立て、即座に立て。せやないと――――久遠の主は王のままや。さっさとどうにかせえよ。それから、賭けの結果はちゃんと見届けて、報告に来てや。楽しみに待ってるわ」
―――――頼んだで、佐藤
呆気にとられる私達の前で、言いたい事は言ったとばかりにロクは身を翻し、一気に水中へ潜る。
ざぶんという大きな水音で、漸く、呪縛から解けたように佐藤さんが動き出した。
「……い……とう? 」
よろりと佐藤さんの体が傾ぐ。
「斉藤? 斉藤、斉藤なのか!? 待ってくれ………待ってくれ!」
私はぐるんと首を捻って伊達の顔を見た。
どっかで聞いた名前ですよねえええええええ。
青ざめた伊達の顔に、私の思い違いではなかったのだと思い知った。
まさかのホラー展開きたよ。
寒くもないのに震える体を抱える私の目の前で、ロク……もとい、佐藤さん曰く斉藤の後をおって、小さなシュージュの体がどんどんと水の中に飲まれて行く。
「佐藤さん!」
カイが声をかけた時にはもう、佐藤さんは首の下まで水の中に入っていた。
「カイ! 君の案に乗る。後は……頼んだよ。必ず、必ず、助ける」
振り返った佐藤さんは水飛沫越しにカイを見ると、泉の中へと消えていった。