72.無自覚の自覚
何となく、虎徹にはカイと乗るものだと思っていた。
だからカイの後をついて虎徹に近づいたのだが………。
「佐藤さんと話がしたい。あんたはあっちに乗ってくれないか」
カイはもう一頭の虎徹を目で示す。
え、ああ、そうですか。ちょっと困った顔をした佐藤さんと、すごすごと入れ替わると、リカ姉……兄さんが、さっと虎徹に跨った。
「あんたは俺とな」
………あー、うん、それはいいんだけど、引っ張り上げてもらえますか。
リカさんの折れそうな腕に負担をかけないように、なんとかよじ登ると、鬣を掴んだ。
「行くか」
背後でロクと伊達が何やらもめているけど、気付かない振りをして私達は出発した。
洞窟の中ではぴたりと添わせていた二匹の虎徹は、今は、数頭分の距離を開けて草原を駆けている。余程佐藤さんとの会話を聞かれたくないのか、カイが離したのだ。遠目にも険しい顔をして口を動かしている佐藤さんと、冷めた表情を崩さないカイがどんな会話を交わしているのか、気になって仕方がなかった。
「あっちもこっちも揉めてるわねえ」
『あっち』は佐藤さん&カイ組で、『こっち』は伊達&ロク組だろう。
「ですねえ。コアトールカの方は口論の内容は想像つきますけど」
なんせまた嘴に咥えられてるからね。
お姉言葉に戻ったリカさんに首を捻りながら私は頷いた。
「ふうん、本命はあっちなの?」
は? 振り返ったリカさんの視線は、大小二つの影を乗せて疾走する虎徹に向けられていた。
「本命も何も………」
「私ねえ、あなたの事嫌いよお」
へ? 唐突で意味不明な質問に窮していた私は、脈絡のないいきなりの嫌い宣言でさらに混乱した。
「はあ」と間抜けな返事を返す意外にどうしろというのか。
「だってあなた、産まれた時から女の子の体を持ってるんだもの。髭も剃らなくていいし、いらない筋肉がついて悩んだ事なんてないでしょお?」
産毛はあるから時々剃るし、自転車通学していた中学時代はぽっこりふくらはぎになったけど。
「私ねえ、リカちゃんになりたかったのよねえ。女らしい体に格好いい彼氏がいて、可愛い妹がいて」
リカちゃんって、人形の? そういえばいつの間にか妹増殖してたなあ。
指折り数えて妹達の名前を思い出そうとして、ふと、我に返った。
「ネカマ………じゃないんですね」
恐る恐る問えば、リカさんの笑い声が耳をくすぐった。
「そうよお。でも女でもないわよ」
私は押し黙った。
「性同一性障害ってやつねえ。って言っても、誰にも言わずに隠してきたから、診察を受けた事もないんだけどねえ」
ずっと、分からなかったのよね。自分が何なのか。ただ違和感だけがあって、どうしたらそれが無くなるのかも分からなかったの。ピンクやスカート、可愛いものに憧れたけど、あえて反対のものばかり選んできたわ。でも、もう限界だったのよねえ。ホストとしてお店に出た後はいつも吐いてた。違う、違うのにって苛々して落ち着かなくて、それでも自分は男なんだって言い聞かせてきたけど――――とリカさんは言葉を切ると大きく息を吸い込んて、長い時間をかけてそれを吐き出した。
「やっと分かったわ。この体になって、やっぱり私は女なんだって、思い知ったの」
なんと言葉をかければいいのか分からなかった。リカさんが歩む人生は容易なものではないだろうけど、同情の言葉も励ましの言葉もおこがましい気がする。
沈む私の頭をリカさんは指で弾いた。
「あんたはせっかくちゃんと女の子の体に産まれたんだから、手を抜かないで磨きなさいよ」
髪は梳かすだけか、ひっつめ。スキンケアも日焼けにも気を使ってないでしょ。と苦笑するリカさん。
はっきり言って図星だった。
リカ姉さんは後ろから手を伸ばして軽く頬をつねる。
「若いからって油断してちゃ、あっというまにしわくちゃのばばあよ。あんたみたいなタイプは特にね。モテ期もチャンスも逃しまくって、逃した事にも気付かないわ」
散々な言われようだ。そこまで鈍くない、とむすっとしていると、リカさんは私の耳元で真面目なのかふざけているのか判別し難い声音で囁いた。
「いーい? 戻れたら、どっちか絶対に捕まえなさいよ」
どっちかって、どっちかって、カイと伊達の事ですか!? まさか佐藤さんとロクの事じゃないよね?
いやいやいや、伊達はほら、チャラ男だし、戻ったら挨拶交わして友達になるんだって決意してるし、カイは何と言うか親鳥? 刷り込み? な関係なわけで、二人で居ると気まずかったりするし、うんうん、どっちも在り得ないから。そもそも捕まえるってどうやって!? 背中にあたるふくよかな胸も、括れた腰も、さっきから耳元で囁いてくれてるような色っぺえ声もないんですよ!
「伊達は純情だし、カイはクールぶってるし、どっちも可愛いわよねえ」
そんな同意を求められても困る。
「なっ!? ちがっ、私はっ、そんな」
何を言ってるんですか、違います。私にそんな気はありません。と伝えたかったのだが、伝わったかどうか。
「さあ、ついたわよ。―――――ほら、さっさと降りろよ」
うろたえているうちに、女神の泉についてしまった。
途端に男言葉に戻るのは佐藤さんに気を使わせない為だろうか。
きらきらと光を反射する水面を見詰めて、私はため息をついた。
なんか、疲れた…………。