65.生けるオクト、生ける伊達を走らす
「そろそろ5分だ。行くぞ」
伊達が壁から身を離す。
動けないでいると、腕を掴んでひき起こされた。
タスクさんが出て行ってしまってから、私達は一言も口をきかなかった。
私はずるずるとその場に座り込み、伊達は壁に背を預けて腕を組み、目を閉じると1ミリも動かなかった。
きっと、ずっと時間を数えていたのだろう。
「ロップヤーンまで、何が何でもたどり着くぞ」
頷くかわりにゆっくりと瞬きをした。
伊達は何も言わずにじっと私の顔を見つめていたが、腕を離すと、外へと出、慎重に辺りを見回し、手招きをする。
その手の動きに誘われるままに、足を動かした。
足元がふわふわとして、まるで貧血の時のように体の感覚が覚束無い。
「なるべく音をたてるなよ」
伊達の声がやけに遠く感じた。
「………掴んどけ」
大人しく後をついて行っていたというのに、数メートル進んだところで、伊達がくるりと振り返り、腰帯の端を私の掌に握りこませた。
「うん」
私は柔らかな布をぎゅっと握り締めた。
「今は余計な事は考えるな」
伊達の声が少し近くなった気がした。
ホデリの敵は雑魚ばかりだった。タスクさんが言っていたように、伊達クラスなら一撃で倒せる。
でも、なるべく戦闘を避けて逃げ続けた。逃げながらずっとタスクさんの顔が頭から離れなかった。
別れる間際のタスクさんは、妙にさっぱりとした顔をしていた。もともと穏やかな表情ばかりが目に付く人だったけれど、それでも、憑き物が落ちたように見えたのだ。
でも、私にはタスクさんの判断が正しかったのか分からない。
産まれてくる子供に父親は必要だろう。子供の為に、私たちを囮にしてでも生き延びるという選択もまた、蔑まれるものではないと思う。少なくとも、奥さんと子供にとっては。
ふと、佐藤さんの姿が脳裏にちらつく。
自分を犠牲にして私達を生かすという選択に、ROの関係者であるという自責の念が一役買ったのではないだろうかという気がして仕方が無い。
佐藤さんが無茶をしていないか気がかりだった。
「おい」
背を向けたまま、伊達が声を上げた。
「余計な事、考えるなっつっただろ」
……どうして分かったんだ。
「分かるにきまってんだろ」
器用にも私の脳内と会話をしつつ、捩れた太い蔦を刀で切り落とすと、伊達は振り返る。
ぶすっとした表情で、私の眉間を小突いた。
「タスクさんにはタスクさんの想いがある。それを尊重するのが助けられた俺達の務めだろーが。――――それに、タスクさんが助からねえと決まったわけじゃねえ。あのおっさんの事だ、しぶとく生き延びて…………」
伊達が目を見開いて背後を見詰める。
「どうしたの?」
問いかけながら私は振り向いた。
その先に居たのは、樹木に覆われた狭い空間に苛つき、小刻みに羽を動かす、コアトールの姿だった。
「タスクさん………」
あいつがここに現れたということは、タスクさんはもう――――。
奥歯がかたかたと鳴る。それが恐怖のせいなのか悲しみのせいなのかは分からない。
呆然と宙に浮かぶコアトールを見詰めていると、掌に温かいものが触れた。
「こっちに来い」
伊達はコアトールを睨みつけて、私の手をとり、自分の側に寄せる。
「今度こそ何も考えるな。死ぬ気で走れよ」
その言葉を合図に私達は身を翻して駆け出した。
デューネレーゲンブルムに追われた時を思い出す。
あの時と違うのは障害物が多い森の中という点だが、それはコアトールにとっても同じだった。
羽が枝にあたる度に、破裂音に似た音がする。
「出口だ!」
地の理は私達にあった。
屈まなければ通り抜けられない入り口は、コアトールの羽を封じてくれるだろう。
頭から飛び込むようにして、穴を潜り抜ける。
その寸前のことだった。
紫の霧が視界を覆う。
拙いと思った時にはそれを吸い込んでしまっていた。
木々の枝葉のせいで薄暗かったホデリから、日の光が当たる場所へと飛び出て視界がくらんだ。なだらかな傾斜を2回、3回と横転して、ようやく体が止まる。
頬に草のあたる感触を感じながら、ホデリ山の入り口を見ると、ただぽっかりと開いた穴が見えただけだった。しばらくそうして睨みつけていたが、コアトールが追ってこないと分かると、その場に顔を伏せた。
逃げ切れた。
ほっとして全身の力が抜けていく。
どんどんと力が抜けていく。
恐ろしい速さで抜けていく。
あれ? あれれ?
何かおかしいと思う間にもみるみる力は失われ、地面に吸い取られるように、末端から体が冷たくなってった。
と同時に、吐き気と眩暈が目まぐるしく交互に訪れる。
「おい、おい!?」
伊達の声がした、気がする。
体が揺すられた、気がする。
自分の体なのに、触れられても揺すられても、全てが遠くの出来事のように感じられた。
強烈な眩暈と吐き気だけが身近にあって、体を丸める事も、目を閉じる事も出来ず、ただ喘いだ。
「毒霧か………」
絶望に染まった伊達の声。
「くそっ! くそっ! くそっ!」
慟哭に合わせて、目の前の草むらに拳が振り下ろされた。
「こんなことってあるかよ!! なんで死ぬんだよ。俺達脱出出来たんだぞ! ロップヤーンに帰るんだろうが!!」
あれ? 私死んだ事になってる?
冷え切った体の背筋がさらに冷たくなった気がした。