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「君の代わりはいくらでもいる」と言われたので、本当に百人用意して引き継ぎをしたら、全員辞めました

掲載日:2026/11/06

 「君の代わりなど、いくらでもいる」

 殿下がそう言ったのは、月曜の正午、鐘が鳴っている最中だった。

 私は王太子執務室の、自分の机にいた。窓の外では、中庭の噴水が昼の光を弾いている。部屋には、インクと古い紙の匂いが染みついていた。陳情書の山を三つ目まで崩したところで、咳が出た。二日前から微熱が下がらない。机の角には、ひと月前から毛布が一枚、きちんと畳んで置いてある。殿下のものだと思っているので、触ったことはない。隣の蜂蜜湯は、とうに冷めて、底に蜂蜜が沈んでいた。それも殿下のだろう。

「リゼット」

 殿下が立ち上がった。エドガー・フォン・ローゼンハイム、二十五歳。この国の王太子で、私の婚約者。金の髪に青い目、肖像画のままの顔をして、表情だけが肖像画より動かない。

「君の代わりなど、いくらでもいる。——」

 そこへ正午の鐘が、頭の上で割れた。

 殿下の唇は、まだ動いていた。続きがあったのだと思う。熱で視界が揺れて、唇の形までは読めなかった。王宮の鐘は十二回、容赦なく鳴る。最後の一打が消えたとき、殿下は何かを言いかけた形のまま、私を見ていた。

 なるほど、と思った。

 四年間、毎朝四時半に起きて、この机で一人で回してきた。陳情書は日に三百通。席次は月に二十。財布は七つ。それに、殿下のご機嫌。横で全部見ていた人が言うのだ。代わりはいくらでもいる、と。

 始まりは、四年前の婚約の日だった。伯爵家の娘の私は十八になったばかりで、殿下の机に陳情書が雪崩のように積もっているのを見て、「お手伝いしましょうか」と言った。殿下は無表情のまま、「頼む」と答えた。それが、四年続いている。「頼む」のあとに何か言われた記憶は、あまりない。

 不思議と、腹は立たなかった。「頼む」の続きが、これだったのか、と思っただけだった。かわりに、頭の中で計算が始まった。

「承知しました」

 私は、殿下が息を吸うより先に立ち上がった。少しふらついて、机の端をつかんだ。

「いくらでもいる、ということですので、百人ほどご用意しましょうか」

「……百人?」

「少ないですか」

「いや、少ないとかではなく」

「では二百人」

「リゼット、そうではなく——」

「大丈夫です。引き継ぎ書は、今夜のうちに作ります」

 殿下の顔から、表情がすうっと消えた。もともと少ない表情が、きれいにゼロになる。口角は下がっていない。怒っているときは少し下がるので、怒ってはいないらしい。では何だろう、と考えかけて、やめた。今は考えている余裕がない。

 扉の外で、老秘書官のブルーノが書類を床にぶちまける音がした。

*

 その日の午後、王宮の掲示板に張り紙を出した。


 『王太子執務補佐 一日体験 募集百名

  日給金貨一枚 昼食つき 経験不問』


 金貨一枚は、街の職人の十日分にあたる。日給は、私の貯めてきた小遣いから出すことにした。惜しくはなかった。証明のためだ。

 翌朝、門の前には二百人が並んでいた。抽選は面倒なので、先着百名にした。

 引き継ぎ書は、一晩で書いた。最初は紙一枚に収めるつもりだった。書きはじめたら止まらなくて、夜明けには四十枚、百十二項目になっていた。


 一、始業は朝四時半。

 七、殿下の紅茶は三分蒸らす。不機嫌な日は二分半。

 十一、伯爵三人(ハイネ、オルト、ザイツ)は互いに口をきかない。同席させるときは別紙の図を見ること。

 三十、愛犬ガウスの散歩は、殿下が引きずられたい日だけ殿下が行く。ほかの日は侍従が引きずられる。

 四十四、殿下が「ところで」と言い出したら、予定がすべて変わる。上着を持つこと。

 七十三、殿下の字の読み方。(別紙)

 百八、老秘書官ブルーノは、耳が遠いふりをする。聞こえている。


 そして十七番。


 十七、殿下は嬉しいときほど、無表情になる。紅茶の杯数で見分ける。一杯は普通、二杯は上機嫌。三杯は——まだ見たことがない。


 これを写字室に頼んで、総出で百部写してもらい、研修は水曜から十日間、一日十人ずつと決めた。引き継ぎ書は持ち帰り禁止で、帰りに門の返却台へ戻してもらう。

 我ながら、完璧な計画だった。熱が少し上がったが、気にしなかった。

*

 一日目。朝四時半、門に集まったのは九人だった。残る一人は五時に走ってきて、「早起きは得意なんです」と言い、六時には「やっぱり無理です」と帰った。受付番号、一番の人だ。

 二番は元兵士で、体格がよく、目に力があった。陳情箱を開けて、「これは」と言った。

「今日の分ですか」

「今朝の分です。昼にもう一箱来ます」

 二番は敬礼して去った。戦場へ出るような顔だった。

 三番は書記で、殿下の直筆メモを手に取って、長いこと眺めていた。

「これは、文字ですか。それとも縫い目ですか」

「文字です。『午後二時、ハイネ伯、断れ』と書いてあります」

「どこに」

「ここに」

「……縫い目に見えます」

 読めるようになるまで、私は二年かかった。

 四番の商人は予算表を見て、「財布が七つあるのはなぜですか」と聞いた。殿下の財布は、王家の財布と国庫の財布と私費の財布と、あとは細かく分かれて、お互いに貸し借りをしている。説明しているうちに、四番の目から魂が抜けた。

 五番は上品な老婦人で、壁の席次図の前で立ち止まった。ハイネ伯、オルト伯、ザイツ伯。三人を同じ晩餐に呼び、誰も隣り合わせず、誰の格も下げず、しかも王妃陛下の視界に入れない。矢印と線で、壁一面が埋まっている。

「戦の地図ですか」

「晩餐の席です」

「同じことでは」

 五番は静かに礼をして、帰っていった。

 六番は学者で、昼休みが三分と聞いて青くなった。鐘の前後で陳情書を読みながら、パンを口に入れる。それだけだ。

「それは食事ではなく、給餌では」

 七番は、ガウスの散歩を割り当てた青年だった。ガウスは牛ほどある大型犬で、七番は十分後に噴水の中にいた。

「犬の仕事は、聞いていません」

 私は黙って、濡れた七番に乾いた上着を貸した。

 八番は紅茶の担当だった。三分きっちり蒸らして、殿下に出した。「今日は不機嫌な日ですか。二分半にすべきでしたか」と聞かれた私は、殿下の右肩を見て、「普通の日です」と答えた。八番は殿下の肩をじっと見て、「どこが普通なんですか」と言った。私にも、うまくは言えない。四年見ていると、肩の線で分かる。

 八番と十番は、昼過ぎには荷物をまとめていた。九番は帰りぎわ、「あの」と言った。

「お昼、召し上がらないんですか」

「三分あれば食べます」

「今、一分四十秒です」

 九番は自分の分のスープを私の机に置いて、頭を下げた。私は三分以内に、飲んだ。熱いのに飲んだ。おいしかった。

 夕方、廊下の窓から返却台のある西棟の門を見下ろすと、殿下が立っていた。朝からそこにいたのだと、あとで聞いた。

 帰っていく人を、ひとりずつ呼び止めて、何かを書かせている。手に、小さな黒いメモ帳を持っている。

 退職願を書かせているのだろうか。そう思った。逃げた人間を、きちんと数えるつもりなのだ。この人は昔から、数字には細かい。

 殿下はこちらの窓には気づかなかった。私は咳をして、窓から離れた。

 二日目から四日目も、似たようなものだった。

 十三番は「殿下の機嫌の予測」の項を読んで、「占い師を雇うべきです」と言った。十六番は、殿下が「あれを」と言っただけで私が正しい書類を差し出すのを見て、「あれとは何ですか」と聞いた。九十一項に書いてある。殿下の「あれ」は、その日の文脈による。十六番は、文脈が分からなかった。私も、うまく説明できなかった。

 十九番は、鐘が鳴るたびに私が背筋を伸ばすのを見て、「鐘に命令されているようだ」と言った。二十番は朝からずっと時計を見ていて、夕方に「終業は何時ですか」と聞いた。「ありません」と答えたら、「では、寝るのは」と聞かれたので、「鐘です」と答えた。二十番は、そこで黙った。

 二十三番は、三項の「殿下の右肩が下がる日は頭痛」を確かめるのだと言って、殿下の背中を三時間、じっと見ていた。殿下は一度だけ振り返って「何だ」と言い、二十三番は「いえ」と言い、またじっと見た。三時間たって、二十三番は私の机に蜂蜜飴をひとつ置き、無言で去った。

 飴は、疲れた頭によく効いた。

 この頃から、使用人たちが「何時間もつか」で賭けをしているらしい。最短記録は十一番の四分。陳情箱の蓋を開けて、閉めただけだった。賭けの対象は、そのうち「殿下がいつ口を開くか」「十日目に何が起きるか」にまで広がったらしい。胴元がブルーノだと知ったのは、最後の日のことだ。

 三日目の夕方、廊下の角から、殿下の声が聞こえた。

「百人で足りるか。足りなければ、もっと集めさせろ」

「殿下、それは」

 ブルーノの声だ。

「彼女の言うとおりにする。——最後まで」

 私は足を止めた。そして、納得した。やはりこの人は、代わりを探しているのだ。胸の奥が、少し冷えた。

 咳をして、気づかれないように反対側の廊下へ回った。

 五日目の夜。蝋燭の芯がじじ、と鳴る部屋で咳が止まらなくなって、ブルーノが薬湯を持ってきてくれた。

「ブルーノ。殿下は毎晩、西棟の門で何をしているの」

「さあ。私は耳が遠いもので」

「昼間は、私の声がよく聞こえているはずだけれど」

「夜は遠いのです」

「百八項に書いてあるわよ」

「あれは誤字です」

 ブルーノは盆を置いて、咳払いをした。

「ただ、殿下は十日分の夜の予定を、すべてお空けになりました。理由は存じません。存じませんが」

「存じませんが」

「小さなメモ帳を、いつも手に持っておられます」

 あの悪筆を、門の暗がりで、誰が読むのだろう。私は薬湯を飲み干した。苦かったが、蜂蜜が入っていた。

 六日目の五十一番は元近衛隊長で、予算表の前でゆっくり片膝をついた。「どんな敵と戦ったときより、数字が多い」と言って、起き上がらなかったので、二人がかりで椅子に座らせた。

*

 七日目の夜、執務室に殿下が来た。

 殿下は自分の席に座らず、私の机の向かいに立った。私は十枚目の予算表の途中で、顔を上げなかった。

「リゼット。なぜ、百人なのだ」

「代わりはいくらでもいる、とおっしゃったので」

「それは、聞いた。聞いたが、なぜ君が、それを証明する」

「引き継ぎが済んだら、お暇をいただくつもりでした」

 ペンの音が、止まった。止めたのは私ではない。

「……お暇、というのは」

「婚約を、です」

 顔を上げた。殿下の顔から、表情がまたゼロになっていた。口角は、やはり下がっていない。

「代わりがいるのなら、私が殿下のおそばにいる必要は、ないでしょう」

 長い沈黙があった。殿下は何か言いかけて、口を閉じ、メモ帳を握りしめた。

「それは」

「はい」

「十日目まで、待て」

「十日目、ですか」

「百人全員が終わるまでだ。途中でやめる者を、引き継ぎとは呼ばない」

 もっともらしい理屈だった。そして殿下は、本当にそれだけ言って、出ていった。

 私は首をひねった。扉の外で、廊下を歩く殿下の足音が、一度、ふらついたように聞こえた。

*

 八日目と九日目は、熱で記憶が少し飛んでいる。

 覚えているのは、まず七十五番だ。七十五番は案内係を任されて、ハイネ伯とオルト伯とザイツ伯を、うっかり同じ応接室に通した。

 私が駆けつけたとき、三人は長椅子を一つずつ占領して、互いの顔を見ないように、窓の三方向を向いていた。空気が凍っている。七十五番は泣きそうだった。

 私は何も言わず、三人の前で一礼した。それから順番に、一言ずつ。

「ハイネ様、お孫様のご試験、通られたと伺いました」

 ハイネ伯の肩が、ぴくりと動いた。

「オルト様、新しい鷹のお名前は、決まりましたか」

 オルト伯が、咳払いをした。

「ザイツ様、お膝の具合は」

 ザイツ伯が、ぶつぶつと答えた。

 十分後、三人は同じ部屋で、それぞれ別の方向を向いたまま、自分の話をしていた。誰も隣の人には話さない。けれど誰も帰らない。七十五番は目を丸くした。

「魔法ですか」

「十一項の別紙です」

「孫の試験まで書いてあるんですか」

「書いてあります」

 七十五番は帰りに、返却台の前で引き継ぎ書を抱きしめて、なかなか手放さなかった。

 もう一人は、七十七番だ。公文書館に四十年勤めた老官吏で、夕方に帽子を取って、私に深く頭を下げた。

「四十年、この王宮におりましたが、これより忙しい一日は、戦のときにもありませんでした」

「すみません、うちの殿下が」

「いえ。あなたに謝られる筋合いはない。——ご自愛なさい」

 その言葉を、八日間で、私は七回聞いた。ご自愛なさい。お体を大事に。無理をしないで。辞める人は、なぜか全員、同じことを言って帰っていく。

 仕事の重さに、同情してくれているのだろう。そう思っていた。

 返却された引き継ぎ書は、毎晩ブルーノが箱に入れておいてくれた。数だけ数えて、中を開く余裕はなかった。

 八日目の夜は、机で眠ってしまった。明け方に目が覚めると、肩に毛布がかかっていた。机の角の、あの毛布だ。ブルーノだろう、と思った。私は毛布を畳み直して、元の場所に戻した。殿下のものだから、汚してはいけない。

 九日目の昼、殿下が来た。

 三分の昼休みに、黙って私の机の向かいに座り、パンの皿を引き寄せた。

「殿下、ご自分のお席は」

「ここでいい」

 殿下はパンをちぎって、口に入れた。一分四十秒で、むせた。

「三分で、これを?」

「噛みすぎると、時間が足りません」

 殿下は真剣な顔で、パンと格闘した。三分後に鐘が鳴って、私は立ち上がった。皿には、パンが半分残っていた。

「毎日、これを四年か」

「はい」

「……知らなかった」

 殿下はそれだけ言って、残りのパンを私の手に押しつけた。私は立ったまま、全部食べた。三分は過ぎていたが、初めて、誰も数えなかった。

*

 十日目の朝四時半。最後の十人の中に、見覚えのある顔があった。

 クラリス・フォン・ベルク侯爵令嬢。二十三歳。王都の社交界の花で、先週の茶会で、「殿下の婚約者はもうすぐ交代しますのよ。百人の中から、わたくしが選ばれますの」と笑っていたと、侍女から聞いている。先着百名の、ちょうど百人目に滑り込んだらしい。

 クラリスは、夜会のドレスだった。

 朝の四時半に、夜会のドレスで、扇を持って、百番目の席に座った。

「よろしくお願いしますわ。——代わりは、いくらでもいらっしゃるそうですから、わたくしのような者でも」

「引き継ぎ書です。四十枚あります」

「四十枚! 軽いこと」

 軽くなかった。クラリスは朝の陳情を見て扇を落とし、昼の鐘の下で三分のパンを口に詰め、午後の席次図の前で顔色が白から青に変わった。意地は一日、保った。それは認める。

 夕方の鐘が鳴ったとき、クラリスは壁の席次図の前で立ち尽くして、小さな声で言った。

「ハイネ伯とオルト伯とザイツ伯を、同じ晩餐に? ……どうやって」

「十一項に書いてあります」

「書いてあっても、できませんわ。こんなの」

 扇が、膝の上でふるえている。

「あなたは、毎日、これを?」

「四年間」

「笑って?」

「笑ってはいません。普通の顔でやっています」

 クラリスはドレスの裾と引き継ぎ書をつかんで、立ち上がった。そのまま廊下へ出て、扉を開け放して、泣き出した。

「こんなの、人間の仕事じゃありませんわ!」

 廊下には、午後の茶会から回ってきた貴婦人と、官吏と、侍従が十数人いた。「選ばれる令嬢」を見物に来ていたのだ。クラリスはその全員の前で、ぼろぼろ泣いた。

「あの方は、毎日、四時半に起きて、陳情書を三百通読んで、三分でパンを食べて、わたくしたちの夜会の席次まで一人で——代わりなんて、いるわけがないじゃありませんの!」

 廊下が、しんとした。

 その言葉は、その夜のうちに、王宮のあらゆる廊下を回った。婚約者様は熱を押して、百人分の研修を一人でやっていたそうだ、という尾ひれまでついて。婚約者様の代わりなんて、いるわけがない。茶会で笑っていた貴婦人たちが、どんな顔でそれを聞いたかは、見ていないので知らない。

 ただ、あのとき廊下の端に、殿下が立っていたのは見た。開け放された扉の向こうに。手に、あの黒いメモ帳を持っている。クラリスは涙も拭かずに、殿下の差し出した万年筆を受け取り、引き継ぎ書の余白に何か書き殴って、返却台に叩きつけて帰っていった。

 殿下はそれを見送ってから、こちらを向いた。目が合うと、メモ帳を後ろ手に隠した。隠し方が、あの字より下手だった。

*

 夜、執務室で、ブルーノの置いていった大きな箱を開けた。燭台の蝋燭が、半分まで減っている。

 返却された百部の引き継ぎ書。数えるだけで、中を見るのは、これが初めてだった。

 一部めくって、息をのんだ。

 余白に、書き込みがある。ほとんど全員の、違う筆跡で。

 三番の字は細かった。


『七十三項、殿下の字の読み方。貴女は二年かけて読めるようになったそうですね。私は三時間で諦めました。二年は、愛情だと思います』


 愛情、のところに、小さな丸が付いていた。

 七番、犬の青年。


『ガウスは私より、貴女になついていました。噴水の件は忘れません。お大事に』


 二十三番。


『三項。殿下の右肩が下がる日は頭痛のサイン、と書いてありました。三時間見ていましたが、分かりませんでした。貴女は毎朝、これを見ていたのですね』


 五十一番。


『警護の者として申し上げる。殿下を守っているのは、近衛ではなく、この紙だ』


 七十七番。


『四十年勤めました。明日から新入りには、あなたの名を最初に教えます』


 九番は、字が震えていた。


『スープは、冷める前に飲んでください。……ちゃんと、寝てください』


 そして百番、クラリスの流麗な字。


『悔しいので、感想は書きません。ただ、あなたの勝ちです』


 どの紙にも、最後の行は、同じだった。


『あなたの代わりは、私にはできません』


 百部とも。ひとつの例外もなく。

 私は椅子の背に頭を預けて、天井を見た。

 笑おうとして、変な声が出た。咳のせいにした。

 扉を叩く音がした。二回。入っていいかと聞く前に、扉は開いていた。殿下が、小さな黒いメモ帳を手に、髪を少し乱して立っていた。

「リゼット。熱が」

「ありません」

「ある。顔が赤い」

 殿下は三歩で私の机まで来て、手の甲を私の額に当てた。冷たい手だった。

「……門で、あの人たちに書かせていたのは、これですか」

 殿下の手が止まった。

「ずっと、退職願だと思っていました」

「退職願を百人分集めて、どうする」

「数えるおつもりかと」

「数えた。だが、数えたかったのは、辞めた数ではない」

 殿下は、メモ帳を握りしめた。

「最後の行の問いだ。『彼女の代わりは、務まりそうか』。百人に、同じことを聞いた」

 私は、返す言葉を探した。

「三日目の廊下で、『足りなければ、もっと集めさせろ』と」

「……聞いていたのか」

 殿下は額に手を当てた。

「二百人でも三百人でも、集めるつもりだった。全員が無理だと書くまで、君は信じないだろうから」

「信じません」

「だろうな」

 殿下は、そこで息を吸った。

「あの日の言葉には、続きがある」

 続き。私は椅子の上で背筋を伸ばした。『だから、お前はもう要らない』。その先に来る言葉を、四年分の覚悟で待った。

「『君の代わりなど、いくらでもいる。——だから、一日くらい休め。この国は、君が休んだくらいでは潰れない』」

 私は、瞬きを忘れた。

「鐘が、全部持っていった。言い直そうとしたら、君はもう『百人』と言って、引き継ぎ書を書く顔をしていた」

「毛布は」

「君用だ。ひと月前から置いてある。八日目の夜に肩にかけたのも、俺だ。朝には、きれいに畳んで戻されていたが」

「蜂蜜湯は」

「俺が淹れた。毎朝。冷める前に、君が飲んだことは一度もなかったが」

 私は声を出して笑った。笑いながら、涙が出ていた。熱のせいにした。

「それで……百人」

「百人とも、君にはなれなかった。当たり前だ。一人でも務まるのなら、この四年間、俺が毎日、君に頼ってきた理由がなくなる」

 殿下は、私の前に膝をついた。黒いメモ帳を開いて、こちらに見せた。縫い目のような字が、百行並んでいる。

 私は、一目で読めた。


『十三番 占い師を雇うべき。彼女は占わずに当てている』

『二十三番 飴を置いてきた。彼女は泣かなかった。泣かない人の泣き方を、初めて見た』

『七十七番 四十年で一番の人材。彼女が倒れる前に、一日休ませてやってほしい』


「……読めるのか」

「読めます」

「三番は、縫い目だと言った」

「縫い目に見えますから」

 殿下は、小さく笑った。口角が、わずかに持ち上がった。

「言い直す。あの言葉は、間違いだった。君の代わりは、一人もいない。だから、倒れるな。君に倒れられたら、俺が困る」

 殿下は、そこで一度、言葉を切った。

「それから、分ける。君の仕事は、百人でも足りなかった。三日目に言った『足りなければ、もっと集めさせろ』は、半分は本気だ。明日から、百十二項を一項目ずつ、人に付ける。ブルーノには、もう話してある」

 一人で全部をやらなくていい、と言われたのだと、少し遅れて分かった。

「それから、もう一つ。四年間、一度も言っていなかった。——ありがとう」

 私は、何も言えなくなった。四年分の「頼む」の続きが、いま、やっと届いた。

 口説き文句にしては下手で、告白にしては必死で、でも私の人生で、いちばん嬉しい言葉だった。

「殿下」

「うん」

「明日、お休みをいただいても、よろしいですか」

「命令だ。侍医も呼んである。診察と、薬と、睡眠。この順番だ。俺も休む。何もしない日を、作る」

 お暇のことは、どちらも口に出さなかった。出す必要が、もうなかった。

*

 翌朝、四時半に目が覚めた。窓の外は、まだ群青色だった。体が勝手に起きる。起きてから、今日は何もしない日だと思い出した。熱は、ほとんど下がっていた。

 扉の前に、盆が置いてあった。蜂蜜湯が一杯。湯気が立っている。その横に、縫い目のような字のメモが一枚。


『今日は休め。ガウスの散歩は俺が行く。噴水に落ちるのも俺だ』


 読めた。読めてしまうことが、おかしくて、寝台の上で少し笑った。

 昼前、庭の東屋で、執務室から持ってきたあの毛布にくるまっていた。藤棚の影が、膝の上で揺れている。君用だと言われたので、今日は堂々と使う。殿下は、そこへ戻ってきた。上着が濡れている。靴は泥だらけだった。ガウスは満足そうに、隣で舌を出している。

「落ちたのですか」

「落ちた」

「噴水に」

「ガウスが先に入った。俺は後から引きずられた」

「来週からは」

「七番が散歩に来る。初日に門で頼んだら、引き受けた。『今度は私が先に入ります』だそうだ」

 殿下は濡れた上着のまま、私の隣に座った。膝に、引き継ぎ書を一部のせている。

「朝から読んでいる。まだ四枚目だ」

「今日は、何もしない日のはずでは」

「これは仕事ではない。読書だ」

 十一項の図のところで、ページが折ってあった。

「ところで、朝から見舞いの籠が四十二個届いている」

 四十四項だ、と身構えた。上着は持っていない。

「見舞い、ですか」

「全部、先週の茶会で笑っていた貴婦人たちからだ。一番上の籠には、『認識を改めました』と書いてある。二番目には、『うちの夫の席次も、ぜひ』と」

「反省していませんね。返品を」

「部屋に入らない。庭に並べた」

 見ると、東屋の向こうの芝生に、果物と花の籠が行列を作っていた。その端に、ひとつだけ、りんごが一個きりの小さな籠が置いてある。札には、流れるような字で『悔しいので、りんごです』とあった。

 クラリスだ。思わず吹き出した。

「それと、今朝の掲示板だ」

「また張り紙ですか」

「朝のうちに、陳情書の仕分けを部署ごとに戻す布告を出した。三年間、期限切れの案件を全部こちらに回してきた三つの部署は、名前を並べて貼ってある」

「殿下、意地が悪いです」

「君の真似だ」

 そこへ、ブルーノが小走りでやってきた。手に、巻いた紙を持っている。

「殿下。お休みのところ、申し訳ございません。ですが、これだけは」

「今日は何もしない日だ」

「存じております。存じておりますが、署名がございまして」

 紙には、三人の署名が並んでいた。ハイネ、オルト、ザイツ。三色のインクで。


『王太子殿下の婚約者リゼット嬢に、十日間の休暇を賜りたく、連名にて願い奉る』


 三伯爵が同じ紙に名を連ねたのは、建国以来はじめてだという。昨日の廊下の件を聞いて、三人ともが「あの席次図を一人で回していたのは誰か」と調べ、同時に青くなったらしい。

「嘆願書の文面で、一晩、揉めました」

「揉めたのか」

「『賜りたく』か『賜わりたく』かで」

 殿下は嘆願書を受け取って、ブルーノの目の前で、静かに折りたたんだ。

「許可する。今日の分は、明日読む」

 ブルーノは深く一礼して、去っていった。昼の耳は、よく聞こえる人だ。

 入れ違いに、侍従が紅茶を運んできた。三分、きっちり蒸らしてある。

 殿下は紅茶を一杯、無表情で飲んだ。

 二杯目を注いで、飲んだ。無表情で。

 三杯目に手を伸ばしたとき、私は気づいた。

 三杯。

 十七番。嬉しいときほど、無表情になる。一杯は普通、二杯は上機嫌。三杯は——まだ見たことがない。

「殿下」

「何だ」

「今のお気持ちは」

「普通だ」

「三杯目です」

「……喉が渇いていた」

 私は笑った。四年間、見たことのなかった三杯目が、いま私の目の前にある。

「引き継ぎ書に、書き足します」

「何を」

「十七項。三杯は、私の隣にいるとき」

 殿下はカップを持ったまま、動かなくなった。それから黙ってポットを取り上げ、四杯目を注いだ。

 正午の鐘が、鳴りはじめた。

 殿下が私を見て、唇を動かした。

 鐘の音が、全部飲み込んでいく。何を言ったのか、耳では分からなかった。

 けれど、読めた。

 二年かけて、この人の縫い目みたいな字が読めるようになった。四年も見ていれば、唇くらい、造作もない。月曜は熱で霞んでいた目が、今日はちゃんと見えた。

「——私もです」

 私が答えると、殿下の無表情が、いっぺんに崩れた。

 殿下は私の手を取った。冷たかった手が、今日は温かい。そのまま、手の甲に唇が触れた。

 長かった。

「殿下、長いです」

「……加減が分からない」

 鐘が鳴り終わっても、殿下は手を離さなかった。三分は、とうに過ぎている。私は数えなかった。

 ただ、回廊の柱の陰で、ブルーノが「三分超え」と呟いて、使用人たちから金貨を集めているのが見えた。胴元は、最初から最後まで彼だった。

 引き継ぎ書の百十三番目は、今夜書き足そう。『殿下は、口づけが長い。三分を超える』。今日は、何もしない日だから。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

リゼットが、ちゃんと休めますように。

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