第1話 開いた扉
ガチャ。
静まり返った教室に、やけに軽い音が響いた。
俺とスーツ姿の男は、ほとんど同時に顔を上げる。
教室の扉が開いていた。
さっきまで何度引いても、押しても、びくともしなかったはずの扉だ。
誰かが外から開けたのかと思った。
だが廊下に人影はない。
ただ、開いた扉の向こうに、薄暗い廊下が伸びているだけだった。
「……開いた、よな」
スーツ姿の男が、信じられないものを見るように呟いた。
「ああ」
俺もそう答えるのが精一杯だった。
扉が開いた。
普通なら喜ぶべきことだ。
閉じ込められていた部屋から出られる。
それだけなら朗報のはずだった。
だが、今は違う。
あまりにも都合が良すぎる。
校内放送で体育館へ集まれと言われた直後に、さっきまで開かなかった扉が開く。
偶然とは思えない。
むしろ、最初からそうなるように仕組まれていたと考える方が自然だった。
出ろ。
体育館へ行け。
そう命令されているような気がした。
俺は無意識に首元へ手をやる。
そこには冷たい金属の感触がある。
首輪。
考えれば考えるほど、まともな状況じゃない。
「どうする?」
男が聞いてきた。
どうする。
そんなことを俺に聞かれても困る。
俺はこの状況を説明できる側の人間じゃない。
むしろ説明してほしい側だ。
だが、教室に残る選択肢が正しいとも思えなかった。
指示に従わない場合は失格。
さっきの放送が頭の中で繰り返される。
失格。
その言葉が何を意味するのか分からない。
分からないからこそ怖い。
「行くしかないだろ」
自分で言っておきながら、声が少し掠れていた。
男も小さく頷く。
俺たちは、どちらからともなく廊下へ踏み出した。
廊下は長かった。
蛍光灯は点いている。
だが、明るいとは言い難い。
白い光が天井から降り注いでいるはずなのに、どこか薄暗い。
まるで光だけがそこにあって、温度や生活感が抜け落ちているようだった。
足音だけが廊下に響く。
それ以外の音は何もなかった。
校舎全体が息を潜めているようだった。
「なあ」
後ろから男が小さく声をかけてくる。
「これ、本当に何なんだろうな」
その声は震えていた。
俺も怖かった。
だが、怖いと口にした瞬間、それが決定的な現実になってしまう気がして嫌だった。
「分からない」
結局、それしか言えなかった。
「誘拐かもしれないし、テレビ番組かもしれない。何かの実験とか……いや、そんなわけないか」
言いながら、自分でも無理があると思った。
テレビ番組で人に首輪を付けるわけがない。
実験ならなおさらだ。
誘拐なら、なぜこんな大掛かりな校舎に閉じ込める。
どれも当てはまりそうで、どれもしっくりこない。
常識で考えようとすると、常識の方が先に壊れていく。
その時だった。
ガラガラッ。
別の教室の扉が開いた。
俺と男は足を止める。
中から出てきたのは若い女性だった。
二十代前半くらいだろうか。
肩まで伸びた髪は乱れ、スーツのジャケットは少し着崩れている。
泣くのを我慢しているのか、唇を強く噛みしめていた。
彼女は俺たちを見つけると、助けを求めるようにこちらへ駆け寄ってくる。
「あの、ここどこなんですか?」
俺たちも知りたい。
返事をする前に、さらに別の教室の扉が開いた。
今度は高校生くらいの男子。
スマホを握りしめ、何度も画面を確認している。
「電波ないんだけど。何これ、圏外って」
続いて作業着姿の中年男性。
苛立った様子で壁を拳で叩きながら出てくる。
「ふざけんなよ! 誰だよ、こんなことした奴!」
さらに杖をついた老人。
顔色を悪くした主婦らしき女性。
泣きじゃくる女子高生。
俺たちと同じように、別々の教室から次々と人が現れる。
そして、全員に共通しているものがあった。
首輪だ。
年齢も性別も服装も違う。
だが、首元には同じような金属製の首輪が巻かれている。
その光景を見た瞬間、胸の奥が冷たくなる。
俺だけじゃない。
このスーツ男だけでもない。
ここにいる全員が、同じ状況に置かれている。
それは安心材料ではなかった。
むしろ逆だ。
人数が増えれば増えるほど、この出来事が偶然ではないことがはっきりしていく。
「警察呼べよ!」
「だから携帯繋がらないんだって!」
「ここどこの学校!?」
「誰か先生いないの!?」
廊下は一気に騒がしくなった。
怒鳴り声。
泣き声。
混乱した声。
それらが狭い廊下に反響して、頭の奥をかき乱す。
誰も答えを持っていない。
誰かが責任者を探している。
誰かが出口を探している。
誰かがただ泣いている。
皆、俺と同じだった。
知らない教室で目を覚まし、首輪を付けられ、体育館へ集まれと言われた。
理由も目的も分からない。
だからこそ恐ろしかった。
人間は知らないものを恐れる。
その意味が、今なら嫌というほど分かった。
やがて人の流れができ始めた。
校内放送が言っていた体育館。
そこへ向かう流れだ。
誰かが先導しているわけではない。
だが、立ち止まっていても何も変わらないと、皆どこかで理解しているのだろう。
俺も流れに従った。
隣には、さっきのスーツ男がいた。
いつの間にか自然と並んで歩いている。
この男のことを何も知らない。
名前も知らない。
信用できるかどうかも分からない。
それでも、一人で歩くよりはマシだった。
「俺、高橋」
不意に男が言った。
「え?」
「名前。高橋」
こんな状況で自己紹介か、と思った。
だが、たぶん高橋も落ち着きたかったのだろう。
名前を名乗る。
それだけで、相手がただの得体の知れない人間ではなくなる。
「春人」
俺も短く返した。
「春人……さん?」
「呼び捨てでいい」
「じゃあ、春人」
高橋はそう言って、小さく息を吐いた。
ほんの少しだけ、緊張が和らいだように見えた。
俺も同じだった。
名前を知ったからといって状況が良くなるわけではない。
それでも、横にいる人間が高橋という名前を持った一人の人間だと分かっただけで、少しだけ現実に足がついた気がした。
途中、窓の外を見た。
やはり真っ暗だった。
街灯がない。
建物もない。
車のライトも見えない。
普通の夜なら、どこかしらに光があるはずだ。
だが、窓の外にあるのは闇だけだった。
黒い絵の具を雑に塗りたくったような、奥行きのない闇。
学校だけが、世界から切り離されている。
そんな馬鹿げた想像が浮かんだ。
すぐに否定しようとする。
だが、否定する材料がない。
「外、変だよな」
高橋も窓の外を見ていた。
「ああ」
「これ、本当に日本なのか?」
その言葉に返事が詰まる。
もし、ここが日本じゃなかったら。
もし、俺たちが知っている場所ではなかったら。
もし、もう元の生活に戻れなかったら。
嫌な想像が次々と浮かび上がる。
考えるな。
まだ何も分かっていない。
分からないことを勝手に怖がっても、余計に動けなくなるだけだ。
そう自分に言い聞かせながら歩き続けた。
やがて体育館の大きな扉が見えてくる。
扉の前には既に人だかりができていた。
中へ入るのを躊躇っている者。
誰かと話し込んでいる者。
泣き続けている者。
皆、不安そうな顔をしている。
当然だ。
誰も状況を理解していない。
理解している人間がいるなら、今すぐ説明してほしかった。
「入るしかないか……」
高橋が呟く。
俺は無言で頷いた。
ここまで来て引き返しても意味はない。
むしろ、放送に逆らった方が危険な気がした。
俺たちは人混みをかき分けるように体育館へ入る。
その瞬間、思わず足が止まった。
広い。
想像していた以上に広い体育館だった。
だが驚いたのは広さではない。
人の数だ。
体育館の床には、既に何十人もの人間が集まっていた。
いや、何十人どころじゃない。
百人近い人間がいた。
学生も、会社員も、老人もいる。
共通しているのは首輪だけだった。
見たこともない人たちが、同じ場所に押し込められている。
そして全員が、首輪を付けていた。
その光景は異様だった。
まるで人間ではない。
管理されるために集められた何か。
家畜。
そんな嫌な言葉が頭をよぎり、すぐに打ち消す。
だが一度浮かんだ考えは消えない。
この首輪は、俺たちを人間として扱っていない証のように思えた。
「おい!」
「誰か説明しろよ!」
「ふざけんな!」
「帰らせろ!」
怒号が飛び交う。
だが、答える者はいない。
答えられる人間がいないのだ。
その時だった。
体育館の照明が一斉に消えた。
「きゃあっ!」
悲鳴が上がる。
空気が凍りつく。
誰もがその場で動きを止めた。
直後、正面の巨大スクリーンがゆっくりと光を放つ。
真っ白な画面。
体育館中の視線が一斉に集まった。
さっきまで響いていた怒号すら消えている。
異様な静寂。
自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえた。
ドクン。
ドクン。
嫌な予感しかしなかった。
やがて、白い画面に黒い文字が浮かび上がる。
【参加者100名を確認】
百人。
その数字が妙に引っ掛かった。
体育館を見渡しても、とても数えられる人数じゃない。
それでも、なぜか頭の片隅に残った。
ざわり、と体育館が揺れた。
「参加者って何だよ」
「ふざけてんのか?」
「誰がやってるんだ、これ」
不安と苛立ちが混ざった声。
だが文字は消えない。
そして、次の文章が表示された。
【第1回生存ゲームを開始します】
その瞬間、背筋が冷たくなった。
生存ゲーム。
聞き間違いじゃない。
確かにそう書いてある。
「ゲーム……?」
誰かが呟いた。
笑う者はいない。
全員が理解していた。
これは冗談じゃない。
首輪。
監禁。
謎の放送。
そして生存ゲーム。
全部が一本の線で繋がり始めていた。
俺は無意識に首輪へ触れる。
冷たい。
その感触だけが、やけにはっきりしていた。
夢じゃない。
悪い冗談でもない。
俺たちは本当に、何かへ巻き込まれている。
その時、スクリーンの文字が消えた。
代わりに映し出されたのは――。
一人の人影だった。




