第六十六話:不運な密偵と、影の掃除人
「ハエ」と罵られ、領地没収の影に怯えつつも、引き下がれぬのが他国の密偵の悲しい性である。
隣国から送り込まれた精鋭隠密——通称「ジャッカル」は、王宮の警備を避け、手薄と思われる学園内のクラリスの部屋を狙った。
「ふん、所詮は学園。グランヴィル家の秘密も、菓子の製法も、丸裸にしてやる」
深夜、月明かりを遮るように音もなくベランダへ降り立ったジャッカル。しかし鍵を開けようとした瞬間、背後の闇が「動いた」。
「……ハエが一匹、迷い込みよったな」
聞き覚えのない低い声に、ジャッカルは心臓が止まる思いだった。振り返ると、天井から逆さにぶら下がるランバが、小刀を回しながら退屈そうに微笑む。
「なっ……いつからそこに!」
「いつから? ずっとや。……おい、野郎ども。主の安眠を妨げる無粋な虫けらは、掃除の時間やぞ」
ランバの合図とともに、影の中から続々と「住人」たちが姿を現す。
カイトの命を受け、密かに影の警護を担うコックロとフライだ。音もなくジャッカルの四方を囲み、瞬く間に全ての逃げ道を塞ぐ。
「待て、話せば――」
「話す口があるのは、ワテらの仕事に支障が出るんでな。悪いけど、しばらく『荷物』になってもらうわ」
電光石火の打撃で意識を奪われ、手際よく全身を拘束されるジャッカル。わずか数秒の間に、クラリスが寝返りを打つ音さえ遮る、完璧な「掃除」が完了した。
翌朝、隣国の大使館は未曾有の騒ぎに包まれた。
厳重な警備の中庭の中央に、昨夜送り出したはずの精鋭ジャッカルが、丁寧にリボンで結ばれ、首から看板を下げて転がされていたのだ。
看板には殴り書きでこう記されていた。
『お宅のハエが迷い込んでましたわ。その発生源にハエを返しします』
大使館員たちは顔を青ざめる。
自慢の精鋭が傷一つなく、完璧に無力化され、まるで警告のように大使館へ「返却」されたのだ。
グランヴィル侯爵家の影には、一国の諜報機関を凌駕する「怪物」が潜んでいる——無言の宣戦布告であった。
学園の寄宿舎、いつもの天井裏。
ランバは、カイトが置いていった夜食のサンドイッチを頬張りながら、仲間に向かって得意げに笑った。
「へっ、見たかあの顔。国の軍隊でも、ワテら相手には持ってこんかい! スイーツ一つで命を懸ける度胸もないくせに、甘い汁だけ吸おうなんて百年早いわ」
下のリビングでは、カイトが穏やかな顔でクラリスに朝の紅茶を注ぐ。
「昨夜はよく眠れたか? クラリス」
「ええ、とっても。なんだか、悪い夢一つ見ない安らかな夜でしたわ」
その平穏が、天井裏の不敵な笑いと、闇に潜む忠誠心によって守られていることを、クラリスはまだ知らないのだった。




