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第七話:夕焼けの雁亭と鋼の女将

 陽光が完全に失せ、石畳の通りから屋台の灯が消える頃。

 カイトはミランダに連れられ、大通りから数本外れた静かな路地へ足を踏み入れた。

 そこに佇んでいたのは、古びてはいるが隅々まで手入れの行き届いた木造三階建ての宿屋だった。

 軒先で揺れる看板には、夕闇を渡る雁の姿が刻まれている。

「ここが『夕焼けの雁亭』。……私の家でもあるわ」

 ミランダは少し誇らしげに言い、扉を押し開けた。

「さあ、入って!」

 中に足を踏み入れた瞬間、温かな空気と香ばしいスープの匂いが鼻をくすぐる。

 人の営みが、ここにはある。

「ベルタさん! お客さんを連れてきたわよ!」

 その声に応じ、奥の厨房から現れたのは一人の女性だった。

 燃えるような赤髪をバンダナで束ね、日に焼けた褐色の肌。

 長身で、無駄のない体躯――宿の女将、ベルタ。

(……いい筋肉だ)

 カイトの“職業病”が即座に反応する。

 重い鍋を振り、酔客をいなし、日々を回してきた実戦的な肉体。

 飾り気はないが、無駄もない。

(この宿は、規律が生きている)

 ベルタはカイトを一瞥し、眉を吊り上げた。

「……ミランダ。うちを迷子の収容所にした覚えはないよ。

 この坊主が“客”だってのかい?」

「そうよ」

 ミランダは胸を張った。

「カイト君。これでも一日で銀貨十枚以上を稼ぎ出した、超優良冒険者なんだから!」

「……十枚?」

 ベルタの視線が鋭くなる。

「嘘じゃないわ。マリアさんの依頼を含めて四件完遂、ボーナス込みで十三枚。

 疑うなら、ギルドの帳簿を見てきなさい」

 その一言で、空気が変わった。

 ベルタは改めて、カイトの佇まいと、肩に乗るラットを観察する。

「……従魔か。毛並みは悪くない。不潔な獣なら断るところだったが……そいつなら問題ない」

(……洗っておいて正解だったな)

 心の中で、カイトはマリアに感謝した。


「さて、坊主。客だってんなら話は別だ」

 ベルタは腰に手を当て、淡々と告げる。

「うちの個室にはランクがある。一泊、大銅貨二枚から、最高で銀貨一枚。

 ――で、どの部屋だ?」

 試すような視線。

(差額は小さいが、内容は大きく違うはずだ)

 カイトは即座に結論を出す。

(今の優先順位は、疲労回復と衛生。

 この“器”を立て直すには、環境への投資は削れない)

「銀貨一枚の部屋をお願いします」

 迷いのない声。

 ベルタはニヤリと笑った。

「わかった。最高級の設定だ。

 部屋に専用の風呂とトイレが付く。湯はいつでも使っていい。

 食事は好きな時間で、代金は宿泊費込み。

 洗濯物も出しておけば、こちらでやっておくよ」


(……なるほど。湯を張る手間も、時間制限もない。

 疲労回復と衛生管理を同時に満たせる。理想的だ)

「……私よりいい部屋……」

 ミランダが恨めしそうに呟く。

「ちなみに、ミランダさんは?」

「……私の部屋? 大銅貨六枚よ。共同の風呂で、時間も決まってるし、

 洗濯は自分。……まあ、受付嬢の身分なら十分なんだから!」

(専用の風呂を“いつでも”使えるというだけで、

 この世界では一段上の生活水準になる、か)


 かつての日本では当たり前だった生活水準。

 カイトは改めて、手元に残る銀貨の重みを噛みしめた。

「決まりだ」

 ベルタは分厚い掌を差し出す。

「ようこそ『夕焼けの雁亭』へ。

 この宿にいる限り、あんたの安全と胃袋は、私が保証する」

 その手は、岩のように硬く、そして温かかった。

「お世話になります、ベルタさん」

 カイトは深く一礼した。

 それは子供の礼ではなく、一人の大人としての挨拶だった。


 その夜。

 安眠を得る前に、カイトは一度だけ、街外れの廃屋へ戻った。

 短い時間とはいえ、ここは確かに――生き延びた場所だ。

「……最後だな」

 影から、ラットたちが音もなく現れる。

 掃除というより、痕跡の整理。

 腐った毛布、朽ちた木材、澱のように溜まった過去。

 次に誰かが使うかは分からない。

 だが、何も残さないことが、せめてもの礼だった。

 やがて、リーダーが瓦礫の奥から何かを咥えて戻ってくる。

「……それは?」

 千切れた鎖のついたペンダント。

 銀でも金でもない、鈍く蒼い光沢。

 翼を広げたドラゴンの紋章。

 指先に伝わる、ひやりとした脈動。

「……今の俺には、荷が重い」

 カイトはそれをポケットの奥へ仕舞い込む。

 勘が告げていた――これは、まだ表に出すべきものではない。

 がらんとした空間を見渡し、深く一礼。

 瓦礫の聖域に背を向け、彼は歩き出す。

 ポケットの中の重みが、

 やがて新たな波乱を呼ぶとも知らずに。

 ――温かな灯火の宿へ。


拙い作品を読んでいただきありがとうございます。

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