第四十六話:老いた名門と、失われた紋章
休日の王都。伯爵家の別邸に呼び出されたカイトとクラリスを待っていたのは、領地から上がってきたばかりのエルザだった。
「お婆さま、お久しぶりですわ!」
「お久しぶりです、エルザ様。本日はどのようなご用件で?」
カイトが問うと、エルザはどこか感慨深げに二人を見回した。
「今日はね、昔馴染みに会いに行こうと思ってさ。向こうも結構な歳でね、体の節々が悲鳴を上げている。カイト、あんたのその不可思議な腕で、少しばかり楽にしてやってくれないかい?」
「お婆さま、ちゃんと報酬は弾んでくださいませね?」
クラリスが茶目っ気たっぷりに笑うと、エルザは豪快に笑い飛ばした。
「いいさ、金貨三枚出そう。ただし……『夫婦の治療』というかたちになるがいいかい?」
その言葉の真意を測りかねつつも、カイトは静かに頷いた。
馬車が到着したのは、伯爵邸を遥かに凌ぐ、広大な森に抱かれたような屋敷だった。
「相変わらず無駄に広い屋敷だね。まあ、あいつの家はうちより爵位が上なんだ、仕方ないさ」
夕陽に照らされた手入れの行き届いた庭園を抜け、一行は中へ。馬車を降りるエルザの手をカイトが取り、流れるような動作でクラリスをエスコートする。
重厚なオークの扉が開くと、そこには執事に支えられ、杖をついた痩身の老人が立っていた。髪は薄く、顔には深い皺が刻まれているが、その双眸だけは、かつて戦場を駆けた猛将の鋭さを失っていない。
「久しぶりだね、オズワルド。まだ生きていたのかい」
「久しいな、エルザ。お前こそ、その足腰でよくここまで来られたものだ」
「ふん、ここにいるカイトに治してもらったのさ。私の孫娘の従者でね、腕は私が保証する。あんたのそのボロボロの体も、少しはマシになるだろうよ」
オズワルド侯爵は、カイトを値踏みするように見つめた。
「……ふむ。若すぎるようだが、エルザが言うならやってもらおうか」
一目見てカイトが頷いている。
「……失礼。見たところ、右の膝でしょうか」
カイトの指摘に、侯爵は薄い唇を吊り上げた。
「よくわかるな。杖の突き方で察したか」
「では、椅子にお座りください。――失礼します」
カイトの手が淡い白光を帯び、侯爵の膝を包み込む。
「通常の『ヒール』は、痛みの神経を麻痺させ、傷口を塞ぐだけです。それでは一時的に楽になっても、すぐに再発する。膝の痛みは、骨を保護する軟骨が削れることで起こるものですから。私は今、魔力で軟骨そのものの組織を強制的に再生させています」
数分後。カイトが手を離すと、侯爵は半信半疑のまま立ち上がった。
「……痛くない。重石が取れたようだ。今なら、あの重い両手剣を振り回せそうだな」
壁にかかった身長ほどもある大剣を見るオズワルド。
「お前は両手剣が一番似合う男だったからね」
エルザが満足げに笑うと、侯爵は切実な眼差しで言うと、
「カイト殿……どうか、妻のマリーも診てはくれまいか。腰を痛めて久しく、今は奥の寝室で伏せっているのだ」
カイトの手を握った。
マリーの寝室は、微かな薬草の匂いが漂っていた。メイドたちが甲斐甲斐しく世話を焼く中、カイトは静かに診断を下す。
(……脊椎すべり症。加齢による筋力の衰えで骨がずれているな)
カイトが集中して施術を進め、魔力で骨の位置を微調整していた、その時。影の中で待機していたランバが、部屋の隅にある古い木箱の隙間に、不自然に引っかかっている「何か」を見つけ出した。
(……旦さん。これ、どっかで見たことあるで。王都に来る前、旦さんの荷物の中にあった……)
治療が終わり、マリー夫人が震える足でしっかりと床を踏みしめた時、部屋に歓喜の溜息が漏れた。
「二人で、この美しい庭を歩いてみてください。陽の光を浴びれば、体も心も活力に満ちるはずです」
「まあ……二人で庭を。夢のようですわ」
感謝の言葉がカイトに降り注ぐ中、不意にランバがカイトの影から姿を現した。その手には、泥と錆に汚れた「ペンダントヘッド」があった。
「旦さん勝手な真似してすんまへん……ただ、これを見つけてしもうて」
「ランバ? それは……!」
クラリスが息を呑む。そこに刻まれていたのは、気高く翼を広げる「ドラゴンの紋章」だった。
「それは……私の……私のペンダント!」
マリー夫人が悲鳴のような声を上げた。侯爵が震える手でそれを奪い取るように受け取る。
「これは、我がグランヴィル侯爵家の正式な紋章だ! 私とマリーに一対作り、私のものは娘の成人に合わせて贈ったもの……! 十数年前、アカデミーで一人の男と駆け落ちし、行方不明になって以来、ずっと、ずっと探し続けていたものだ! なぜ、なぜお前がこれを持っている!?」
部屋の温度が数度下がったかのような錯覚。カイトは静かに、記憶の底にあるボロボロのあばら屋を思い出した。
「……わかりません。物心ついた時から、それだけが私の手元にありました。母親も、父親の顔も知らないまま育ちましたから」
「カイト……お前に『十字の痣』はないか?」
侯爵が、今にも壊れそうな声で縋り付く。それはグランヴィル家の血筋に稀に現れるという、契約の聖痕。
カイトは無言で首元の服を少し崩し、背中を見せた。
そこには、赤ん坊の拳ほどの大きさの、はっきりとした「十字の痣」が刻まれていた。
「ああ……間違いない。私の、私たちの孫だ……!」
侯爵の声が慟哭となり、マリー夫人はカイトに抱きついて泣き崩れた。
「そんなに簡単に、確定できるのですか……?」
困惑し、他人事のように問い返すカイトに、侯爵は自らの腕にある全く同じ痣を見せ、力強く、そして慈しむように頷いた。
「私にもある、娘にもあった……。カイト、お前にもあるということは、我がグランヴィル侯爵の血を引く証明なのだ」
カイトは静かに、マリー夫人の細い肩を支えながら、窓の外に広がる琥珀色の庭園を見つめる。
自分の中に流れる血の重み。そして、これから背負うことになる巨大な責任の予感。
影の中でランバが「ええ仕事したやろ?」と言わんばかりに小さく鼻を鳴らし、静かな夜が、運命の変わった屋敷を包み込んでいった。




