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第三十五話:寮の夜と、無自覚な指先

 王立アカデミーの寄宿舎、クラリスに割り当てられた個室。

 本来なら食堂で済ませるはずの夕食だが、カイトは早々に判断した。

「……この寮の食事、口に合わないな」

 見た目は整っているが、香りも味もどこか物足りない。カイトは小さく舌打ちし、備え付けの小さな台所へ向かう。漂ってくるのは、かつてメスチノの宿で嗅いだ、ベルタ直伝の食欲をそそる香りだ。

 手際よく食材を調理し、あっという間にクラリスのための夕食を整える。食事を終えると、後片付けももちろん自分でこなす。洗濯も同様で、最初はクラリスのデリケートな衣類を扱うことで一悶着あったが、カイト本人が「ただの布だ」と全く気にせず処理するため、結局すべての家事を自然にこなすようになっていた。


「……あーっ、もう! 今日の講義、難しすぎますわ!」

 机に突っ伏したクラリスが、教科書を放り出して嘆いた。

「そうか? 要は慣れなんだと思うんだが……」

 食器を洗いながら、カイトは振り向きもせずに応じる。

「またそんな、突き放したような言い方をして……。私はこれでも伯爵令嬢なんですのよ?」

「ここは寮の部屋の中だ。いつも通りで行かせてもらう。なんだかんだ、こっちの言い方の方が気に入ってるんだろ?」

「ち、違いますわよ!」

 図星を指されたのか、クラリスが顔を赤くして反論する。カイトは手を止め、水を切って彼女の方を向いた。

「勉強がわからないなら教えようか。今まで授業を傍で見ていたけど、多分わかる」

「えっ? どこでそんな知識を仕入れましたの?」

「ああ、ギルドの書庫だな。あそこは魔法が使えないと入れないんだ」

「私じゃ入れない場所ですのね……。ふん、自慢かしら」

「で、どうする?」

「……悔しいけれど、お願いしますわ」

「了解。洗い物が終わったら教えるから、教科書出しといて」


45歳の家庭教師(?)

「ここは、こういう順序で考えれば……ほら、簡単だろ?」

「……凄い。本当に簡単ですわ。教科書の通りにやったら、回りくどくて仕方がありませんもの」

「ここもその考え方を使えば、すぐ解ける」

「ええ、わかりますわ! こうすればいいのね!」

 前世の論理的思考と、今世の膨大な知識。カイトの教え方は、アカデミーの堅苦しい講師たちよりも遥かに合理的だった。クラリスはみるみるうちに問題を解き進めていく。

「そういうこと。えらいえらい」

 カイトは満足げに頷くと、何の気もなしに、頑張った子供を褒めるような感覚でクラリスの頭をポンポンと撫でた。

「あっ……」

 クラリスの動きが止まり、顔がみるみるうちに耳まで真っ赤に染まっていく。

「それじゃ次行こうか。次は……」

「えっ……ああ、ちょっと待って……くださいまし……」

「どうかしたか?」

「えーっと、はい、次は、この問題ですわね!」

 ぎくしゃくと、まるでおもちゃのような動きで教科書をめくるクラリス。そんな彼女の動揺に気づくことなく、カイトは「効率」を優先して解説を続けた。

 一通りの学習を終えると、カイトは伸びをして立ち上がった。

「おっと、もうこんな時間か。風呂に入って寝ないと。沸かしてくるから待ってろ」

 カイトが浴室へ向かうと、クラリスは一人残された部屋で、自分の頭にそっと手を置いた。

「頭、撫でられた……。家族以外に、あんなことされたの初めてですわ……」

 心臓の音がうるさい。勉強の内容なんて、もう半分くらい飛んでしまっていた。


 その様子を天井の影から覗いていたランバが、ヤレヤレと両手を上げる。

『……旦さんも相当鈍感でんなぁ。あのお嬢さん、今にも茹で上がるで』


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