第二話:ひのきの棒と黒い噴水
石畳を叩くサンダルの音は、もうない。
今、海斗の足元を覆っているのは、煤に汚れ、指先が覗くほど擦り切れた布切れの靴だった。
蘭 海斗――
いや、今は名もなき少年の器を借りた男は、ネズミの群れ、その先頭を行くリーダーに導かれるまま、湿った裏路地を抜けていく。
そして、一歩。
表通りへ足を踏み出した瞬間。
「……っ」
溢れ出した光と音の奔流に、思わず目を細めた。
人の声。金属の擦れる音。笑い声と怒号。
鉄板で焼かれる肉の脂が焦げる匂いが、空腹という名の獣を強く揺り起こす。
――市場だ。
中世の絵画そのままの光景に、胸の奥がざわめいた。
(立ち眩みがする……)
近くの水桶に映った自分の姿を見る。
痩せ細った手足。骨ばった肩。せいぜい十歳そこそこ。
(百キロ超えの肉体は、どこにもないか)
苦笑が漏れる。
(RPGなら、ここで「ひのきの棒」くらいは支給される場面だろうが……)
現実は、
布の服すら怪しいボロ切れ一枚。
歩き出した、その背に。
石礫のような悪意が叩きつけられた。
「おい、死に損ない。まだ生きてやがったのか」
振り返る。
三人、いや四人。
中心に立つリーダー格の少年が、腰の木剣を指先で弄んでいた。
その顔を見た瞬間。
少年の身体に刻み込まれた“記憶”が、泥水のように溢れ出す。
恐怖。
痛み。
冷たい石畳。
(……なるほど)
海斗は、静かに理解した。
(こいつらが、この身体の前の持ち主を「殺した」)
動かなくなるまで殴り、
邪魔になったからゴミ溜めに捨てた。
そんな理由だろう。
「動かねえから死んだと思ってよ。親切だろ? 捨ててやったんだぜ」
下卑た笑い声。
少年たちがじりじりと距離を詰める。
野次馬は、見て見ぬふりだ。
「よくあるガキの喧嘩」。それ以上でも以下でもない。
「行け」
合図一つ。
二人の手下が、押し出される。
「こねくり回せ」
その言葉に、海斗の内側で何かが冷たく反転した。
“手”を、
人を癒やすためではなく、
壊すための玩具としか思っていない言葉。
静かな怒りが、芯に灯る。
「……コックロ」
無意識に、名を呼んでいた。
「頼む」
次の瞬間。
海斗の足元の影が――爆ぜた。
カサカサカサ、と不快な駆動音。
影の中から、黒い噴水が噴き上がる。
数百という漆黒の群れ。
ゴキブリたちが、噴水のように溢れ出し、手下たちの顔面を覆い尽くした。
「うわああああっ!?」
「なんだこれ!? 取れねえ!」
視界を奪われ、狂乱する。
「……次は、俺の番だな」
呟きと同時に、海斗の身体が動いた。
細く、軽い。
だが、動きに迷いがない。
魂に刻まれた技術は、肉体の大小を選ばない。
混乱する一人の懐へ潜り込み、
剥き出しの脛を、鋭く蹴り上げる。
「ぐあっ!」
反射で頭を下げた瞬間。
顎へ、下から膝を叩き込む。
脳を揺さぶられた少年は、その場に崩れ落ちた。
こぼれ落ちた木剣を、流れるように拾う。
もう一人が、恐怖を振り払うように殴りかかってきた。
半身でかわし、
膝裏を、木剣で一閃。
「いだぁっ……!」
崩れた背後から、返す刀で後頭部を軽く叩く。
少年は白目を剥き、石畳に突っ伏した。
残ったのは、リーダー格ただ一人。
「な、なんだよ……お前……」
数秒前までの余裕は、欠片もない。
腰が引け、足がもつれる。
海斗は無言で、木剣を肩に担ぎ、一歩ずつ距離を詰めた。
「……わっ」
短く威嚇する。
それだけで、少年は情けない悲鳴を上げ、逃げ出した。
「……やりすぎたか」
木剣を軽く振る。
安物だが、重心は悪くない。
「コックロ、戻れ」
命令とともに、漆黒の群れが潮が引くように影へと戻っていく。
異様な沈黙。
次いで、ざわめき。
「おい……あいつ、魔物使いだぞ」
「憲兵を呼べ!」
(待てと言われて待つほど、素直じゃない)
海斗は木剣を握り直し、細い路地へ全速力で駆け込んだ。
――――――
しばらく走り、背後の気配が完全に消えた頃。
薄暗い壁にもたれかかり、荒い息を整えながら、海斗は手にした木剣を見つめた。
「……ひとまず」
苦笑する。
「これが、お前の『ひのきの棒』ってわけか」
影の中から、ネズミのリーダーがひょこりと顔を出す。
心配そうに見上げるその姿に、海斗は小さく頷いた。
拙い作品を読んでいただきありがとうございます。




