第二十話 通う伯爵令嬢と、夕焼けの食卓
それは、三日と空けずにやって来るようになった。
夕焼けの雁亭の扉が、少しだけ遠慮がちに開く。
「……こんにちは」
「はいはい、いらっしゃい」
ベルタは鍋をかき混ぜながら、ちらりと視線を投げるだけだ。
そこに立っているのが伯爵令嬢であろうと、宿の客は宿の客。
特別扱いはしない。
クラリスは最初、それに少し拍子抜けした。
誰も跪かない。
誰も名前を呼ばない。
視線も、腫れ物に触るような遠慮もない。
ただ、「来たからそこにいる」だけ。
「……今日も、来たのか」
奥のテーブルで資料を広げていたカイトが、顔も上げずに言う。
「来たわ。悪い?」
「別に。空いてる席に座ればいい」
それだけだった。
クラリスは一瞬だけ唇を尖らせ、それから黙って椅子に腰掛ける。
最初は腹が立った。
自分が来ているのに、何の反応も示さないこの少年が。
だが、数日もすると分かってきた。
――これは、無視ではない。
彼は誰に対しても、こうなのだ。
「はい、今日のまかない。文句言うんじゃないよ」
ベルタが皿を置く。
湯気の立つシチュー。
豪奢でも、洗練されてもいない。
だが、妙に腹の底に落ちる匂いがした。
「……おいしい」
「そりゃそうさ。手ぇ抜いてないからね」
ベルタは当然のように言い切る。
クラリスは気づけば、食事の時間が楽しみになっていた。
屋敷では、料理は「供されるもの」だった。
ここでは、「誰かが作ったもの」なのだと、初めて実感する。
「今日は何してたんだ?」
カイトが、食後に何気なく尋ねる。
「……剣の稽古よ」
「へえ」
「なによ、その反応」
「いや。続いてるなら、悪くない」
それだけ。
褒めも、評価もない。
だが、不思議と不快ではなかった。
影の中から、ランバの声が忍び笑い混じりに届く。
「旦さん、完全に“居場所”扱いされとりますな」
「……勝手に居着いてるだけだろ」
「ほな、追い出します?」
「面倒だからしない」
クラリスは、そのやり取りが聞こえた。
当然、自分のことを言われているのだ。
だから、つい口が出る。
「……私、邪魔?」
「邪魔なら言う」
「……言わないの?」
「言わない」
短いやり取り。
それだけで、胸の奥が妙に落ち着いた。
帰り際。
「また来るわ」
「仕事の日は居ないって言っただろ」
「じゃあ、いない日は来ないだけよ」
「……そうか」
ベルタはその背中を見送りながら、ふっと鼻で笑う。
「まったく……。あの子、通い妻みたいになってるじゃないか」
「違う!」 カイトの声。
クラリスが即座に振り返る。
「……あら、聞こえてたのかい」
「ち、違います!」
顔を真っ赤にして出ていくその姿を、
カイトは少しだけ不思議そうに見送った。
(……厄介だが、悪くはない)
夕焼けの雁亭は、今日も変わらない。
だが、確実に一人分、椅子が“定位置”になりつつあった。
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