閑話 帰る場所(ベルタ視点)
最近のカイトは、足が速い。
昔から素早い子だったけど、そういう話じゃない。家を出る背中が、だ。
朝、まだ火の入ったばかりのフライパンの前で振り返ると、もう戸口に立っている。
湯気の向こうで「行ってくるよ」と言う声は、相変わらず穏やかで、優しくて、変わらないのに。
「ちゃんと食べな。空きっ腹で出歩くんじゃないよ」
そう言って皿を出すと、文句も言わず、きちんと座って食べる。
そこだけは、昔のままだ。
でも、分かる。
この子は、もうこの宿の中だけに収まる器じゃない。
剣を持たせれば強すぎる。
知恵を使わせれば深すぎる。
そして最近じゃ……どこまで行ってるのか、聞かない方がいいような仕事までしている。
聞かない。
詮索もしない。
それが、アタイなりの線引きだ。
怖くないわけじゃない。
いつか、ふらりと出て行ったまま、帰ってこなくなるんじゃないか。
夕方になっても戸が開かなくて、夜になっても足音がしなくて。
朝になっても、あの席が空いたままなんじゃないか。
そんな想像、何度もした。
でもね。
だからって、この子の足を縛ることはできない。
育つってのは、そういうもんだ。
離れていくってのは、前に進んでるってことだ。
それを止めちまったら、きっとこの子は壊れる。
アタイは……そんな顔を、もう見たくない。
だから今日も、朝飯を作る。
腹いっぱい食わせて、「行ってきな!」って背中を叩く。
そして夕方になったら、火を入れる。
あの子が帰ってきたとき、一番に鼻をくすぐる匂いを用意する。
戸が開く音がする。
足音が聞こえる。
「おう、帰ったかい!」
そう言って振り返ると、そこにはちゃんと、いつもの顔で立っている。
……ほらね。
やっぱり帰ってくる。
明日も、その次の日も、いつか分からないその日まで。
アタイはここで、飯を作って、待ってるだけだ。
帰る場所がある限り、人は完全には迷子にならない。
それを信じるのが、母親ってもんだろ?
だから行きな、カイト。
どこまででも。
帰ってくる場所は、ここにあるんだからさ。
読んでいただきありがとうございます。




