第一話:癒やしの掌、泥を掴む
アスファルトが陽炎に揺れる、ひどく暑い午後だった。
蘭 海斗――四十五歳。サンダルをぱたぱたと鳴らしながら、いつも通り夕食の買い出しへ向かっていた。
身長一九五センチ、体重一〇二キロ。
柔道で鍛え上げた巨躯は、歩くだけで周囲に無言の圧を生む。だが、その手――多くの人の身体を癒やしてきた掌は、驚くほど繊細だった。
(今日の患者さん、腰がだいぶ楽になったって言ってたな)
小さな達成感を反芻した、その瞬間。
視界の端で、赤い色が跳ねた。
「あ……っ!」
幼い子供の飛び出し。
同時に、視界を覆い尽くす大型トラックの巨大な鉄面。
危ない、と脳が結論を下すよりも早く、身体が動いた。
柔道の稽古で何万回と叩き込まれた足捌きが、思考を追い越して爆発する。
――ドンッ!
子供を突き飛ばした直後、海斗を襲ったのは、「衝撃」などという生温い言葉では表現できない破壊だった。
存在そのものを砕かれる感覚。
遠くで、誰かの悲鳴が聞こえる。
(ああ……)
意識が白く溶けていく中、ひどくどうでもいいことが脳裏をよぎった。
(せっかく新しく仕入れたマッサージオイル……試す前だったのに)
それが、現世での最期の思考だった。
次に意識が浮上したとき、海斗はまず「味」に気づいた。
――鉄の味。
(血、か……)
生きているのか。
その疑問を確かめようと身体を起こしかけた瞬間、全身を灼くような激痛が走った。
「……っ、ウッ……!」
声にならない呻き。
指先一つ動かすのに、断崖から飛び降りるほどの覚悟がいる。
薄く目を開け、自分の腕を見る。
そこにあったのは、見慣れた分厚い前腕ではなかった。
棒切れのように細く、どす黒い青痣が地図のように広がった、見知らぬ少年の腕。
(……なんだ、これは)
混乱より先に、冷静な観察が走るのは職業病だった。
「……チュッチュッ……」
微かな鳴き声。衣擦れの音。
視界の端に映ったのは、体長三十センチほどの、丸みを帯びた灰色のネズミだった。
一匹ではない。暗がりの至るところから、同じようなネズミがわらわらと這い出してくる。
彼らは驚くべき怪力で、海斗の身体を持ち上げた。
抵抗する力など、今の彼にはない。
そのまま、狭く湿った穴の奥へと引きずり込まれていった。
数日後。
ネズミたちが運んでくるパンの欠片と濁った水で、海斗はようやく思考をまとめられる程度には回復していた。
「……お前たちが、助けてくれたんだな」
掠れた声でそう告げる。
「ありがとう」
すると、ひときわ大きな個体――どうやらリーダー格らしいネズミが、短く「チュウ」と鳴いた。
次の瞬間、他のネズミたちが一斉に整列する。まるで軍隊だ。
その異様な光景に、海斗は眉をひそめた。
(……人間臭い、な)
問いかけるように見つめた、そのとき。
リーダーのネズミは、彼の足元の「影」の中へ、溶け込むように消えた。
同時に、全身から血が抜けるような倦怠感が襲ってくる。
(……これは)
理解が、感覚に追いつく。
(魔力、か。俺の魔力で……こいつらを維持している)
頭の奥で、何かが繋がる感覚。
自分が何者かは分からない。だが、この身体に備わった“機能”だけは、妙に明瞭だった。
――テイマー。
「他に、従魔はいるのか?」
半ば期待を込めた呟きに、影が震える。
カサカサ、と不快な音。
這い出してきたのは、黒光りする不沈の魔物――ゴキブリの群れだった。
「……ハハ」
思わず、笑いが漏れる。
「ゴキブリ、か」
かつて百キロを超えた肉体は、今や見る影もない。
ガリガリの少年の身体。従えるのは、ネズミとゴキブリ。
嫌われ、蔑まれ、踏み潰される存在たち。
「底辺のテイマー、か……」
お似合いじゃないか。
海斗は、かつて多くの人を癒やしてきた掌を、ゆっくりと握りしめた。
震えるその手には、それでも確かに残っている。
――生命の構造を知る知識。
――泥を啜ってでも生き抜く、野太い意志。
癒やしの掌は、今は泥を掴んでいる。
だが、それでも――離さない。
拙い作品を読んでいただきありがとうございます。




