第十一話 とある夏の日、旅立ちの宣言
とある夏の、肌を刺すような熱気に満ちた日。
ギルドのカウンターに、カイトは一枚のカードを静かに――しかし確かに置いた。
「十二歳になりました。……今日から、外へ出ます」
短い宣言だった。
だが、その言葉が持つ意味を理解できない者は、この場にはいない。
ミランダとベルタは、思わず顔を見合わせた。
「あら……今日が誕生日だったの?」
「……俺自身、今日知ったよ」
カイトは肩をすくめる。
「今までは年齢を意識していなかった。でも、カードの数字が、いつの間にか更新されていたからね」
この世界の暦は、一月三十日、一年三百六十日。
夏の二月二十七日――それは、少年がこの異世界で正式に「一人前」として扱われる日だった。
メスチノの街。
伯爵の治めるこの街で、森の恵みを糧に生きる人々に囲まれながら、カイトはようやく揺り籠から這い出す。
「……アンタ、魔法も使えたのかい?」
ベルタの低い声に、ミランダがくすりと笑う。
「そうよ。私とギルドマスターだけの秘密」
そう言ってから、わざとらしく肩をすくめた。
「でもいいじゃない。ベルタはカイト君の“母親”みたいなものだもの。他所へ話したりしないわよね?」
「……ん、まあね」
不意を突かれた言葉に、ベルタは鼻の下を掻き、照れ隠しをした。
そして、ぐっと腕を組む。
「よし。なら初陣だ」
その目に、かつての冒険者の光が宿る。
「森へ行きな。フォレストディアを狩ってこい。アンタが仕留めた最初の獲物――アタイが、最高の一皿にしてやる」
翌日。
カイトは街の東に広がる深緑の森へと足を踏み入れた。
影から、フライたちが音もなく飛び立つ。
微細な羽音すら、彼には情報だった。
(……湖のほとり。群れがいる)
風下へ回り込み、気配を断ち、足音を殺す。
やがて視界に映ったのは、美しい毛並みを持つフォレストディアの群れだった。
その中心――
一際立派な角を戴いた、雄。
(この世界は、“呼吸”は知っていても……)
カイトは、静かに魔力を整える。
(“酸素”という概念までは、知らない)
一度、試してみたかった。
理屈が、どこまで通じるのかを。
対象の周囲、数メートル。
酸素のみを選択的に排斥し、高濃度の二酸化炭素で満たす――その明確なイメージ。
刹那。
フォレストディアは、跳ねることも、鳴くこともなく、
糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
群れは、何が起きたのか理解できぬまま、四散する。
(……暗殺の極致だ)
背筋を、冷たいものが走る。
(これは……人には、教えられない)
カイトは静かに獲物へ歩み寄り、湖水で丁寧に血を抜く。
その巨躯を担ぎ上げる腕には、すでに少年のものとは思えぬ力が宿っていた。
「ベルタさん、戻りました」
宿の裏口。
獲物を地面に置いた瞬間、ベルタは言葉を失った。
「……なんだい、その大きさは」
しばし沈黙。
「アンタ……一人で担いできたのかい?」
「一番いい素材を選びました」
カイトは淡々と答える。
「……解体、お願いします」
ナイフが走る。
迷いのない刃。
皮を裂き、内臓を外し、肉の繊維を傷つけず部位ごとに切り分けていく。
それは戦いではなく、儀式だった。
「血抜きが完璧だ」
汗を拭いながら、ベルタが笑う。
「いい肉だよ、カイト」
最後に残ったのは、傷一つない毛皮と、見事な角。
「これを丸めて、ギルドへ持って行きな」
背中を軽く叩く。
「……報酬、しっかり掴んでくるんだよ」
「フォレストディアの皮……!」
ギルドへ戻ると、ミランダが目を見開いた。
「いきなり大物ね、カイト君」
案内された査定所。
そこにいたのは、岩のような筋肉を持つ解体責任者――ロラン。
「ほう……デカいな」
毛皮を広げ、じっと見つめる。
「カイトか。噂は聞いている」
一つ、頷いた。
「脂は残っていない。傷もない。……ベルタの仕事だな。相変わらず見事だ」
ロランは腕を組み、即座に判断を下す。
「このサイズのオス、しかも無傷。装飾品としても一級だ」
「――銀貨二十枚」
「すごいわ!」
ミランダが声を上げる。
カイトは、ただ静かに頷いた。
(……この人は、嘘をつかない)
「俺は素材に妥協しない」
ロランの声は低く、重い。
「これは銀貨二十枚の価値がある。それだけだ」
差し出された袋を受け取り、カイトは深く礼をした。
「ミランダが言っている。お前は、普通じゃないとな」
ロランの大きな手が、背中を叩く。
「上を目指すなら、俺も力を貸す。解体できない獲物を仕留めたら、持ってこい」
銀貨二十枚。
それは、かつての「探し物」の報酬とは、まるで重みが違った。
剣。
誰にも教えられぬ魔法。
そして、背中を押す大人たち。
カイトは――
前世の柔道整復師・蘭海斗ではなく、
この世界の冒険者・カイトとして生きる覚悟を、静かに固めた。
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