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第八十九話:黄金の背の上の戦場

 メスチノでの賑やかで温かい休暇を終え、カイトたちは再び聖天竜アウラの背に乗り、王都への帰路についていた。広大な黄金の翼を広げて空を駆けるアウラ。その背上の空気は、行きとは明らかに異なっていた。物理的な風の冷たさ以上に、カイトの周囲には熱を帯びた「何か」が渦巻いている。

「カイト、喉は渇いていない? メスチノ特産の果実ジュースを持ってきましたの。はい、あーんしなさいな」

 クラリスが透き通るような青い小瓶を手に、カイトの口元へ身を寄せる。

 昨夜の「一番宣言」を経て吹っ切れた彼女は、周囲の視線を気にする様子すら見せない。むしろ、見せつけるかのような「正妻」の余裕を漂わせていた。柔らかな微笑みが、逆にカイトへの圧力を強めている。


「あ、ずるいですクラリス様! カイト様、こちらに私が作って最適温度を保った特製スープがあります。移動の風で体が冷えませんように、さあ、一口どうぞ」

 リィンも負けじと、カイトの反対側から身を乗り出す。精霊術を惜しみなく注ぎ込んだカップからは、食欲をそそる芳醇な香りが立ち上っていた。二番手として甘んじるつもりはない、その瞳には静かな、しかし消えない対抗心の炎が宿っている。


「……いや、二人とも。アウラの上でそんなに動くと危ないし、飲み物くらい自分で飲めるから、な?」

 困惑するカイトだが、二人の瞳に宿る「譲れない戦い」の意志は、魔王軍の幹部と対峙した時よりも頑固で揺るぎないものだった。

 そこへ、カイトの影から音もなく上半身だけを現す影があった。


「……お二人とも、その程度では甘いですね」

 ルーヴである。アウラの背を影の魔力で固定し、揺れを完全に殺しながら、手際よく銀のトレイを取り出した。そこには、カイトの体調を考慮して淹れられた完璧な温度の紅茶と、彼が好む甘さ控えめの焼き菓子が整然と並んでいる。

「カイト様の健康管理、および嗜好の完全な把握。それが影の従者であり、誰よりも近くで仕える私の務めです。……カイト様、どうぞ。道中の疲れを癒すための特別ブレンドです」

「ル、ルーヴまで……!」

「私も常に側に居ます、と言ったはずです。身の回りの世話に関しては、一歩も譲るつもりはありません」

 無表情ながらも、琥珀色の瞳で二人を静かに牽制するルーヴ。その迷いのない力強さに、クラリスもリィンも一瞬だけ動きを止めるが、すぐに火花を散らして食い下がった。


 右からはクラリスが差し出す瑞々しい果実ジュース、左からはリィンがふうふうと冷ます温かなスープ、そして正面の影からはルーヴが差し出す至高のティーセット。三方向から次々と、愛と執念が籠もった供物が運ばれてくる。カイトは千手観音でもなければ対応しきれない物量に、必死で応じるしかなかった。

「ちょっ……一度に全部は無理だ! 順番に……いや、本当に自分で食うから! 頼むから落ち着いてくれ!」

「「「ダメです(わ)!!」」」

 三人の声が、雲を突き抜けるほどの鋭さで完璧に重なる。周囲から見れば、絶世の美女三人に傅かれる贅沢極まりない光景だろう。しかし、カイトの表情は、絶体絶命の包囲網を敷かれた敗残兵のごとく切実そのものだった。

(……王都に着くまで、これが続くのか? 誰か、ランバでもいいから助けてくれ……!)


 必死の願いを込めて、影の奥底に意識を向ける。しかし、そこに潜むランバは助けるどころか、娯楽を楽しんでいる様子だった。

『ヒャッヒャ! 旦さん、これが世に言う「男の勲章」っちゅうやつでっせ! 羨ましい限りやわ。わてはここで特等席の観客として、高みの見物をさせてもらいま! 頑張りなはれや!』

 念波と共に伝わってくるのは、ポップコーンでも頬張っているかのような気楽な波動だけ。味方はどこにもいなかった。

 アウラが王都の白亜の城壁を視界に捉える頃、カイトは胃袋の限界と極度の気疲れで、極度の疲弊を見せていた。

 魔物や工作員、策略だけが戦場ではない。愛という名の奔流が渦巻く「日常」こそが、最も過酷な戦地になり得るのだ。カイトは、黄金の竜の背上で、その抗いようのない事実を身をもって知ることになった。

 王都の門が見える。だが、彼にとっての本当の休息が訪れるのは、まだ先のことになりそうだった。


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