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第八十八話:正妻の矜持と、揺るがぬ覚悟

 昨夜の熱狂的な騒ぎが嘘のように、メスチノの朝は清々しい静寂に包まれていた。

 カイトは早朝から、従魔のランバと共に「ロックリザード」の膨大な素材整理のため、冒険者ギルドへと向かっている。魔鉱石と竜鱗の査定には時間がかかる。


 それは、残された女性たちにとって「本音」をぶつけ合うための、誂え向きの空白時間となった。

 宿屋「夕焼けの雁亭」の二階バルコニー。 朝露に濡れたブドウの蔓が絡まる手すりの傍らで、クラリスとリィンの二人が向かい合っていた。差し出された二つのティーカップからは、湯気が真っ直ぐに立ち上っている。

 昨夜、カイトが口にした「俺は聖人君子じゃない。……俺にとって一番大切なのは、クラリスだ」という、残酷なまでに誠実な告白。それを受けたクラリスの瞳からは、もはや迷いも、恋敵への無駄な焦りも消えていた。

「ねえ、リィン……昨夜のカイトの言葉、貴女も聞いたでしょう?」

 クラリスはティーカップを置き、静かに、しかし逃げ場のないトーンで切り出した。伯爵令嬢としての気品に、正妻としての揺るぎない「格」が加わったその声は、朝の空気をぴんと張り詰めさせる。


「カイトは私を『一番』だと言い切りましたわ。彼は嘘をつけない男……いえ、つく必要がないほどに強い男です。つまり、貴女がどれほど身を粉にして尽くそうとも、私の座を脅かすことはできない。それは、カイトの隣を私と『分け合う』……それも、決して対等ではない形で甘んじるということですのよ」

 言葉を切ると、クラリスは真っ直ぐにリィンのエメラルド色の瞳を覗き込む。


「本当、それでいいのですの? 貴女ほどの精霊使いとしての才があれば、他の場所へ行けば誰かの一番、あるいは一国の至宝として崇められるはずですわ。わざわざ二番手の椅子に座り、私という壁を見上げ続ける……そんな茨の道を選ばずとも」

 リィンは一瞬沈黙した。長い尖った耳が微かに震え、視線は手元のカップに落ちる。だが、膝の上で握りしめられた白く細い手には、爪が食い込むほどの力がこもっていた。


「……はい。分かっています。カイト様は、私を哀れんで嘘をつくようなお方ではありません。昨夜の言葉は、氷のように冷たく、けれど太陽のように温かな真実でした。……私の胸に、痛いほど刺さりました」

 リィンはじっと顔を上げ、寂しげながらも、どこか憑き物が落ちたような清々しい微笑みを浮かべた。

「でも、クラリス様。私はあの森で、絶望の中にいた私を救い出してくれたあのお方の瞳を見た時、決めたのです。私の精霊も、この命も、未来のすべてをあのお方に捧げると。……誰かの一番になりたいのではありません。ただ、カイト様がいる場所にいたい。それがたとえ、クラリス様の背中を見守る二番目の場所だとしても……あのお方の傍らに居られる幸福を捨て、孤独な『一番』に戻るくらいなら、私は喜んで貴女の影に甘んじましょう」

 その言葉には、エルフ特有の頑固さと、数百年を生きる種族ゆえの一途な覚悟が宿っていた。一度愛した主を変えることは、彼女にとって魂を捨てることと同義なのだ。


 クラリスはリィンの答えを聞き、呆れたように小さく溜息をついた。だが、その口角は隠しようもなく吊り上がり、満足げな色が混じっている。

「……ふふ。呆れたわ。貴女もカイトに負けず劣らず、救いようのない強情者ですのね。エルフはもっと理知的で淡白な種族だと思っていましたわ」

「クラリス様こそ……あのお方に『一番』だと言われて、随分と余裕がおありですね? 昨夜まではあんなに眉間に皺を寄せていらしたのに」

「当然ですわ! 私はあの方に『選ばれた』のですもの。正妻としての矜持を保つのは義務ですわ」

 クラリスは胸を張り、リィンを見据えて不敵に微笑んだ。

「でも、そうですわね。カイトは放っておくと、無自覚に女性を惹きつける男のようです。これから王都へ戻れば、さらに面倒な『ハエ』たちが、彼の力や容姿を目当てに寄ってくるでしょう。……そのハエどもを叩き落とし、カイトの周囲を清浄に保つ番犬としては……貴女なら、私の隣に置くことを認めてあげてもよろしくてよ?」

「……光栄です、クラリス様。精霊の魔法は、目障りな虫を消し飛ばすのにも役立ちます。カイト様を煩わせる不埒な輩は、私が森の土に還して差し上げましょう」

 昨日のような刺々しい空気は霧散し、そこにはカイトという「あまりに魅力的で厄介な存在」を共有する者同士の、奇妙で強固な連帯感が生まれていた。


「さあ、そうと決まれば準備をしましょう。もうすぐカイトが素材を売り払って、ホクホク顔で帰ってきますわ。王都へ戻る準備、そして……これからの『ハエ叩き』の戦略会議をね。リィン、期待していますわよ?」

「はい。クラリス様の『一番』としての威光、存分に利用させていただきます」

 朝日に照らされた二人の美少女は、互いに不敵な笑みを交わし、最後の一口の紅茶を飲み干した。


 しばらくして戻ってきたカイトは、二人の間に漂う、昨日よりも一段と強固で「逃げ場のない」結束の気配を感じ取り、得体の知れない悪寒に背筋を震わせることになる。



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