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第八十五話:岩竜の盾、神狼の拳

 メスチノの街が遠ざかり、街道の喧騒が途絶えてから数時間。カイトたちが足を踏み入れたのは、天を突くような切り立った崖が連なる山岳地帯、通称「鉄槌の断崖」であった。その名の通り、荒々しく削り取られた岩肌が重なり合い、迷い込んだ者を圧殺せんとする巨人の迷宮のようでもある。

 今回の討伐行において、カイトの「両翼」とも言えるクラリスとリィンの姿はない。街道の安全確保と、急増する避難民への対応、そして街の防衛指揮を執るため、二人はジーグムント伯爵邸に留守番を命じられていた。 そのため、この峻険な山道を往く布陣は、伯爵率いる精鋭騎士数名と、カイト。そして、主の背後に音もなく、幽霊のように付き従う銀髪のメイド・ルーヴという、奇妙極まる組み合わせとなった。

「見ろ、カイト。あれが今回の元凶……ロックリザードだ」

 ジーグムントが苦渋に満ちた表情で指差す先。そこには、山の斜面そのものが意志を持って動き出したかのような、おぞましい巨塊が鎮座していた。 全長は優に十五メートルを超え、四肢を地に着けたその姿は、周囲の岩肌と完全に見分けがつかない。背中には、数千年に及ぶ大地の圧力を受けて結晶化した、紫黒色の魔鉱石が剣山のように生え揃っている。その一つ一つが名剣にも勝る鋭利さを持ち、吐息が漏れるたびに、周囲の重力が捻じ曲がるような凄まじい威圧感を放っていた。

「冒険者ギルドのベテランたちにも依頼を出したが、あの岩の装甲に剣がことごとく弾かれてしまってな。無理に攻めた実力者たちは、自慢の武器を折られ、巨大な尾の一撃で肉塊に変えられるばかりだ。本来なら本職の宮廷魔導師を招聘すべき案件だが……お前が帰ってきたと聞いて、恥を忍んで頼らせてもらった」

 実際、目の前の怪物は自然が作り上げた動く要塞そのものだった。物理的な硬度のみならず、魔力に対しても絶大な抵抗力を持つその皮膚は、通常の鉄はおろか魔導銀の武器ですら傷を付けるのは至難の業に見えた。

「さて、どう料理するか。広域殲滅魔法で内側から沸騰させるか、それとも関節の隙間に空間転移で一撃を叩き込むか……」

 カイトが顎に手を当て、最も効率的かつ「周囲の地形を壊さない」討伐プランを脳内で組み立て始めた、その時だった。

「――私がやりましょうか、カイト様?」

 涼やかな、それでいて絶対的な静謐を湛えた声。 一歩前に出たのは、この険しい山道にあっても髪一筋すら乱さず、汚れ一つない完璧なメイド服を纏ったルーヴだった。琥珀色の瞳が、冷徹に獲物の急所を捉え、その深淵には仄暗い闘志が揺らめいている。

「ルーヴか。行けるか? あいつ、見た目通りかなり固いぞ。下手をすれば腕が折れる」

「問題ありません。主の手を煩わせるまでもない些事でございます。……掃除のついでに、害獣を片付けてまいります」

 ルーヴの返答には一切の迷いがない。その背後で騎士たちが「無茶だ!」

「メイドが一人で何をするつもりだ、死にに行くようなものだぞ!」

 と色めき立つが、

「静かに」

 ジークムントが声をあげ、騎士たちは静かになる。

「じゃあ頼む。あまり派手にやりすぎて、服を汚さないようにな。クラリスがうるさいからな」

「畏まりました。……五分で終了させます」

 ルーヴはスカートの裾を両指で軽く持ち上げ、淑やかな一礼を捧げた。その直後、眼前に居た彼女の姿が——世界から消失した。

 ドォォォォォォォォン!!

 地鳴りよりも鋭く、爆辞に近い衝撃音が鼓膜を叩く。 ルーヴが地面を蹴ったその一点を中心に、半径十メートルの岩盤がクモの巣状に砕け散り、陥没した。 彼女の動きは、もはや「走る」や「跳ぶ」という次元を遥かに超越していた。重力を嘲笑うかのように垂直の崖を一気に駆け上がるその銀光は、空を裂く落雷そのもの。

 驚愕したロックリザードが、その巨体に似合わぬ速度で反応した。山をも薙ぎ払わんとする巨大な太尾が、暴風を伴ってルーヴへと襲いかかる。

「……遅いですね」

 ルーヴは空中を歩くかのような軽やかさで、迫り来る「岩の壁」を紙一枚の差で回避。逆に、その尾を反発ステップの足場として利用し、さらに加速する。

 ルーヴの四肢に、凝縮された魔力が黄金の脈動となって駆け巡り拳に集まる。純粋な肉体強化を超越した「神狼の加護」。 一瞬にしてロックリザードの鼻先に肉薄した彼女が、白く細い拳を固める。

「――お掃除の時間です」

 放たれたのは、何の変哲もない、最短距離を突く「正拳」。 だが、その拳の先には、山一つを更地にするほどの質量が一点に圧縮されていた。

 ――カァァァァァァァァァン!!

 世界が真っ白に染まった。 あれほど名だたる冒険者たちを絶望させた硬質の装甲が、ルーヴの拳が触れた一点から、ガラス細工のように粉々に砕け散った。衝撃は内部へと浸透し、リザードの脳漿を沸騰させ、巨頭を内側から爆砕する。苦悶の声すら上げる暇を与えない、一方的な蹂躙。

 しかし、ルーヴの追撃は止まらない。 彼女は空中で身を翻すと、爆発的な衝撃で宙に浮き上がったリザードの太い脚を、その細い両手でガッシリと掴んだ。

「――主の視界を遮る汚れは、根こそぎ排除せねばなりません」

 信じがたい光景だった。 自身の何十倍もの重量がある巨躯を、彼女は細い腕一本の力だけで強引に振り回し始めたのだ。 グオオオン、と空気が悲鳴を上げる。凄まじい遠心力が加わり、巨大なトカゲが虚空で巨大な独楽と化す。 そしてルーヴは、柔道の一本背負いのように、その巨体を断崖の底へと叩きつけた。

 ――ズ、ドォォォォォォォォォォォォォォォン!!

 山岳地帯全体が激震に見舞われ、鳥たちが一斉に飛び立つ。 砂塵が数百メートルも塔のように舞い上がり、ロックリザードの体は地層を突き破って、地面の奥深くに埋没した。かつて「山の主」と呼ばれた怪物は、ただの一合、ただの一撃で、完全に沈黙したのである。


 静寂が戻った。 砂塵が夕陽に照らされながらゆっくりと晴れていく中、崖の下から銀髪のメイドが何事もなかったかのように歩み寄ってきた。 歩くたびに、メイド服の埃を手で軽く払い、乱れたヘッドドレスのリボンを鏡も見ずに整える。

「掃除が完了いたしました。……申し訳ありません、主。少しだけ、右の袖口を汚してしまいました」

 カイトの元へ戻った彼女は、先ほどの神罰のごとき暴挙が嘘のように、淑やかで落ち着いた様子で報告する。その背後では、ピクリとも動かず、変わり果てた姿となったロックリザードが無惨に横たわっていた。

「やりすぎ。頭を殴りつけたところで、終わってただろ? 素材も肉もお金になるんだから、」

「申し訳ございません。久々なもので、少しやりすぎたようです」

 頭を下げるルーヴ。

「でもありがと。お陰でけが人一人でなかった」

 その頭をカイトが撫でるとルーヴの尻尾が大きく振れた。


「……カ、カイト。お前の、その……連れているメイドは、一体、何者なのだ……?」

 ジーグムント伯爵は、抜いたままの剣を鞘に戻すことも忘れ、戦慄に震える声で尋ねた。他の騎士たちも、腰を抜かして地面に座り込んでいる。王国の精鋭騎士団が一週間かけて包囲網を敷き、それでも犠牲を覚悟せねばならない災厄を、わずか数分。しかも、素手。

「ああ、うちのルーヴはグレートウルフが人化したもので非常に優秀なんですよ。屋敷の掃除も、料理も、クラリスの警護も……。そして、目の前の邪魔なゴミを駆除するのも、彼女にとっては日々の家事の一部ですから。多少、力が強いのが玉にきずですが」

 カイトは満足げな笑みを浮かべ、呆然と立ち尽くす伯爵と騎士たちを横目に、討伐部位の回収へと歩き出した。 「さて、伯爵様。ぼろぼろになったとはいえ、この背中の魔鉱石は純度が高い。学校の備品代に充てさせてもらいます。……ルーヴ、帰ったら最高のお茶を頼む。少し喉が渇いた」

「はい、主。主のお好みを、最高のアフタヌーンティーと共に用意させていただきます」

 夕暮れに染まり、静まり返った山脈に、ルーヴの澄んだ、しかしどこか甘やかな声が響く。 最強の「影」を従え、もはや人の領域を超え始めた少年の歩みは、動乱の予感に満ちた王国を突き進んでいく。


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