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第八十四話:無自覚な招待と、ベルタの秘策

 夕焼けの雁亭を赤く染めていた夕陽が沈み、メスチノの街は穏やかな夜の帳に包まれようとしていた。伯爵邸の広いエントランスで、カイトは軽く背伸びをして暮れなずむ空を見上げる。

「さて、今日は『夕焼けの雁亭』に帰るか。クラリス、お前は伯爵と積もる話もあるだろう。リィンはどうする? お屋敷の客間を借りて、ここでゆっくり休むか?」

 カイトの問いに、リィンは俯き、長い耳の先まで赤くしながら指先をモジモジと動かした。蚊の鳴くような、だが切実な声が漏れる。

「あの……できれば、私も……その、夕焼けの雁亭に行ってもよいでしょうか……?」

「ん? ああ、部屋なら問題ない。俺の借りている部屋は元々二人部屋だしな。狭くてもいいなら、一緒に来るか?」

 カイトのあまりにも無自覚な誘いに、リィンの顔は瞬く間に熟した林檎のように真っ赤に染まった。隣でそれを聞いていたクラリスが、鋭い声を上げて二人の間に割って入る。

「ちょっとカイト! 何をさらっと爆弾発言を……! 殿方の部屋に年頃の乙女を泊めるなんて、騎士として、いえ、人間としてどうなんですの!? だったら私も行きますわ! 私が監視役として同行いたします!」

「お前はダメだ。王都での生活やアカデミーでの近況について、陛下への報告も含めて話すことが山ほどあるだろう」

 背後から音もなく現れたジーグムント伯爵にガッシリと肩を掴まれ、クラリスは「離してくださいお父様! これはある意味、領地の安全保障に関わる問題なんですの!」と空中で足をバタつかせたが、そのまま邸内へと連行されていった。


 夜の街を抜け、懐かしい木の看板が揺れる「夕焼けの雁亭」に戻ったカイトは、使い込まれた重い扉を押し開けた。

「ただいま、母さん」

「おかえり……って、あんた。伯爵邸に豪華な寝床が用意されてるんじゃなかったのかい?」

 厨房から顔を出した女主人のベルタは、驚いたように眉を上げた。

「あそこは広すぎて落ち着かないんだ。ここの部屋が一番いい。それに、リィンもこっちがいいそうでね」

「あいにく急な客で個室は塞がってるんだが……まあ、あんたの部屋は元々予備のベッドがある二人部屋だ。同じ部屋でいいなら、勝手にしな」

 リィンは借りてきた猫のように直立不動になり、

「は、はいっ! 粗相のないよう努めます! 失礼します!」と叫ぶように応え、逃げるように階段を駆け上がっていった。ベルタはそんなリィンの背中を見送り、ニヤリと口角を上げる。

「へぇ……カイト、あんたは先に荷物を置いてきな。リィンちゃん、ちょっと厨房を手伝っておくれ。女同士の話ってやつがあるからね」


 夕食の準備が進む厨房の隅で、ベルタは野菜を刻むリィンを呼び寄せた。

「リィンちゃん、いいかい。あの子は昔から剣と魔力、それに効率のこと以外にはとことん疎いんだ。ただ後ろをついて回ってるだけじゃ、一生『便利な助手』止まりだよ。それでいいのかい?」

「ど、どうすればよいのでしょうか……? 私は、カイト様のお役に立てるだけで幸せなのですが……」

「欲がないねぇ。でもね、女の武器は魔法や剣だけじゃないんだ。隙を見せるのさ。例えばそうさね……風呂上がりに、少し弱ったふりをして困った顔で相談事を持ちかけてごらん。あの子、ああ見えて頼られるとトコトン弱いからねぇ。懐に入り込む隙を自分で作るんだよ」

 リィンはベルタの言葉を一言も漏らさぬよう真剣に聞き入り、瞳を輝かせた。その表情は、難解な古代魔法の奥義を授けられた修行僧のような、悲壮なまでの決意に満ちていた。


 夕食を終え、風呂を済ませて部屋に戻ったカイトは、部屋の空気が妙に張り詰めていることに気づいた。ベッドの端に座るリィンは、風呂上がりで微かに上気した肌を寝巻きに包み、少し湿った白い髪の間から覗く潤んだ瞳で、じっとカイトを見つめていた。

「……あの、カイト様。実は、少し……いえ、重大なご相談したいことが……」

 ベルタに教わった通り、肩のラインを少し内側に丸め、上目遣いでモジモジとするリィン。彼女から放たれる空気は、艶やかな「誘惑」というよりは、これから魔王の首を取りに行くかのような「決死の覚悟」に近い。

(……なんだ? 部屋が狭くて居心地が悪いのか? それとも、俺の知らないところで不穏な魔物の予兆でも感じ取ったのか?)

 カイトは自身のベッドに腰掛け、あまりにも強張っているリィンを見て首を傾げる。彼女の肩が小さく震えているのを見て、カイトは彼なりの「配慮」で口を開いた。

「……リィン、もしかして母さんに何か言われたか? 厨房で無理に手伝わされたり、変な説教を食らったんなら俺から言っておくけど。疲れてるなら先に寝ていいぞ」

「ち、違います! ベルタさんはとっても親切で……そういうことでは……っ! その、カイト様が、あまりにも……」

 リィンの声は次第に小さくなり、最後は消え入るようだった。カイトの真っ直ぐな、だが全く意図を汲み取っていない澄んだ瞳に見つめられ、リィンの心臓は限界を迎えた。

「ああああ、もう! おやすみなさいませ!」

 リィンは赤面したまま、勢いよく布団の中に潜り込み、蓑虫のように丸まってしまった。カイトは、

「やっぱり慣れない移動で疲れが出たのかな?」

 と能天気に結論づけ、明日の領地視察の準備を黙々と始めるのだった。

 窓の外では、メスチノの夜風が穏やかに吹き抜けていく。リィンの恋の戦いは、最強の騎士であるあるじの「無自覚」という難攻不落の城壁を前に、初日から大きな壁にぶつかっていた。


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