第八十三話:メスチノの再会と、親馬鹿な報告会
アウラが、幾重にも重なる雲海を鋭く切り裂き、高度を下げた。眼下には、夕闇に染まり始めた懐かしきメスチノの街並みが広がっている。夕陽を浴びてオレンジ色に輝く石畳の道、家々の煙突から立ち上る夕餉の煙、そして市場の店仕舞いをする人々の活気。
一行を乗せたアウラが、慣れ親しんだ宿屋「夕焼けの雁亭」の広い裏庭にふわりと舞い降りると、巨大な翼が巻き起こした猛烈な突風が木々を揺らし、厩舎の馬たちが驚いて嘶いた。その騒ぎを聞きつけ、一人の女性が裏口から勢いよく飛び出してきた。
「おいおい、どこの貴族様が殴り込みかと思えば……なんだ、カイトじゃないか!」
腰に手を当てて豪快に笑ったのは、宿の女主人ベルタだ。カイトにとっては、この街での食客時代を支えてくれた母親のような存在である。しかし、カイトの無事を確認して安堵したのも束の間、ベルタの鋭い視線が彼の背後に控える見慣れぬ美少女――翠の髪をなびかせるエルフのリィンを捉えた瞬間、その目がニヤリと意地悪く細まった。
「ちょっとアンタ、またカイトが新しい嫁候補を拾ってきたのかい? 相変わらず隅に置けないねぇ、この色男! 王都はそんなに美人が落ちてるのかい?」
「ベルタ母さん、勘弁してくれよ。変な誤解を招くような言い方はよしてくれ」 カイトは溜息混じりに首を振った。「彼女はリィン。深い事情があって、今は俺の助手をしてもらっている精霊使いだ。行き場がなくてな」
「あら、カイト。私の時と同じような紹介の仕方ですわね? 懐かしいですこと。当時は私も『深い事情』扱いでしたわ」 クラリスが少しだけ目を細め、優雅ながらも剃刀のような鋭い横槍を入れる。修羅場の気配を察したベルタは、火に油を注ぐように、
「はっはっは! こりゃ賑やかでいいや! 嫁同士の挨拶は済ませたかい?」
と笑い飛ばし、リィンの細い背中をガハハと豪快に叩いて歓迎した。
リィンは耳まで真っ赤にしながらも、瞳を潤ませて小さく、
「カイト様の……嫁……正式な……」
と、夢見るような、あるいは呪文のような小声で呟くのだった。それを見た従魔のランバが影の中から「旦さん、こりゃあ夜の宿代が高くつきそうでんなぁ!」と茶々を入れるが、カイトの冷たい視線に射抜かれて即座に沈黙した。
宿での再会と、ベルタが振る舞う「帰郷祝い」の豪勢な夕食(山盛りのポトフと焼きたてのパン)を終えたカイトとクラリスは、次いでクラリスの実家であるメスチノ伯爵邸を訪れた。
「おお、クラリス! よくぞ無事で……! 王都での生活はどうだ? 苦労はしていないか?」
愛娘の帰還を喜ぶ伯爵に対し、クラリスは淑女としての礼を保ちつつも、誇らしげに胸を張り、一通の重厚な羊皮紙の書状を差し出した。
「お父様、驚かないでくださいまし。今日からカイトを呼ぶときは、その名に敬意を払わねばなりませんわ。彼は今、アルフレッド陛下から直々に授与された『騎士爵』を持つ身なのですから!」
「……何だと? 騎士爵だと!?」 伯爵は思わず椅子から立ち上がり、手渡された書状を二度見、三度見した。そこには王家の金蝋封と共に、歴代の勇者や英雄にのみ許される特殊な文言でカイトの名が記されている。
「グランヴィル公爵家の威光を借りた名誉職ではないのか……?
いや、これは『実爵』ではないか! あの気難しい、実力至上主義のアルフレッド陛下が、これほど若き者に一軍を率いる権利すら含む爵位を授けるとは。カイト、君はいったい向こうで何をしたんだ?」
伯爵の驚愕はそれだけでは収まらなかった。クラリスは、まるで自分が成し遂げたことのように、道中の武勇伝を熱っぽく報告し始めた。
「お父様、驚くのはまだ早うございます。移動の道中、オークキング率いる数百の群れに蹂躙され、全滅寸前だったセレス男爵家の騎士団を、カイトが……いえ、彼の従魔たちが一瞬で救ってしまったのです。騎士団長ハガード殿も、膝を突き、九死に一生を得たと感謝しておられましたわ」
「あのハガード殿の騎士団を……か。彼は国境付近の小競り合いを幾度となく退けてきた、王国でも指折りの精強な一団だぞ。それを、移動の『ついで』に救うとは……カイト、お前は本当に人間か?」
伯爵は感嘆の溜息を吐き、改めてカイトの前に立った。かつては娘を守るための、どこか影のある不思議な少年だったはずの存在が、今や一国の重鎮すら畏怖させる風格を纏っている。伯爵は、少年の肩をがっしりと、力強く掴んだ。
「カイト、いや、カイト卿。君がクラリスの側にいてくれることを、これほど心強く思ったことはない。王都での噂は風の便りに聞いていたが、君は私の想像を遥かに超える、本物の英雄としての道を歩み始めたようだな。……一人の父親として、そしてこの領地を預かる者として、心から礼を言わせてくれ」
伯爵の眼差しには、娘の従者への信頼だけでなく、一人の騎士に対する深い敬意が宿っていた。対するカイトは、気負う風もなく、まるで明日の天気を予報するかのような平然とした表情で答える。
「いえ、俺はただ、道を塞ぐ面倒な障害を片付けただけですよ。……お嬢様の隣に並び、その日常を平穏に守る立場にいる以上、それくらいはできないと務まりませんから。騎士爵も、そのための『便利な道具』の一つに過ぎません。それに、カイト卿と呼ばれるとむず痒いので、今まで通り、カイトと呼び捨てで……」
その揺るぎない、傲慢ですらある自信に満ちた言葉の後に続いた言葉、
(変わっていないな)
伯爵はカイトを見て満足げに深く頷いた。若き騎士の頼もしさを、伯爵は確信していた。
「……ふむ。これでは、クラリスに悪い虫がつく心配どころか、君という大きな火に群がる蛾を払う方が大変そうだな。ハッハッハ!」
笑う伯爵の横で、クラリスは「本当ですわ! もう次から次へと……」と頬を膨らませ、カイトは苦笑しながら、メスチノの穏やかな夜の風を感じていた。




