第九話:知の翼は、夜に育つ
宿「夕焼けの雁亭」の食堂。
一日の喧騒がすっかり収まり、薪が爆ぜる乾いた音だけが、夜の静けさを刻んでいた。
夕食を終え、くつろいでいたミランダに、カイトは意を決して声をかける。
「ミランダさん、少し……いいでしょうか」
「あら、どうしたの? 改まって」
この世界での生活にも、ようやく慣れてきた。
買い物、宿代、報酬――数字に関しては、もはや不自由はない。
値札を見て、店主とやり取りを重ねる中で、記号と価値の対応関係は、頭の中に正確な地図として描けるようになっていた。
だが。
その横に並ぶ、虫が這い回ったような「文字」だけは、依然として意味を持たないままだった。
「数字は……何となく、読めるようになりました。でも……」
カイトは一度、言葉を選ぶように間を置き、続けた。
「文字を、言葉を教えてほしいんです」
ミランダは、少しだけ目を見開いた。
「そういえば、今も代筆だったわね。……でも、どうして?
今のままでも仕事は回っているでしょう?」
「掲示板の依頼票は、正直、今でも勘で選んでいます。ミランダさんが読んでくれるから、何とかなっているだけで……」
カイトは視線を落とし、淡々と、しかし明確に言葉を継いだ。
「自分で読めれば、もっと効率を上げられる。
目的地が近い依頼をまとめて選べば、一日に回れる場所は増える。
今は……時間を無駄にしている気がするんです」
(……本当に、この子は)
ミランダは、少年の瞳の奥に宿る老成した知性に、思わず息を呑んだ。
現状に満足せず、常に次の一手を考える姿勢。それは、ベテランの冒険者でさえ持ち得ない資質だ。
「わかったわ」
彼女は、にっと頼もしく笑った。
「確かに、上を目指す冒険者で字を読めない者はいない。
知識は剣よりも鋭い武器になるの。……お姉さんが、叩き込んであげる!」
翌日。
カイトは市場で、小さな黒板と蝋石を買い求めた。
それからの日々、ギルドの仕事が終わった後の夜は、彼にとっての「第二の戦場」となった。
ミランダの部屋に呼ばれ、机を並べる。
仕事上がりの彼女は、ときおり湯浴みしたばかりの石鹸の香りを纏い、薄手の寝間着姿で現れることもあった。
前世が成人男性であるカイトにとって、少々目のやり場に困る場面ではあったが――
教える側の熱意は本物で、気まずさなど挟む余地はなかった。
カイトは、まず日常で使う単語から。
特に、依頼票に頻出する名詞や地名を、貪欲に吸収していった。
もともと高い理解力に加え、前世で培った「学び方」を知っている。
子供の柔軟な脳は、乾いた砂が水を吸い込むように、異世界の文字を取り込んでいった。
やがて。
点と線の羅列だったものが、意味を持ち始める。
時間はかかるが、複雑な文章や背景を持つ文書ですら、読み解けるようになっていった。
文字が読めるようになると、カイトの仕事ぶりは一変した。
掲示板の前で依頼内容を精査し、移動ルートを逆算する。
まるでパズルのピースをはめ込むように、最短で、無駄のない巡回経路を組み立てる。
一日にこなす「探し物」の密度は倍増した。
それでいて、彼の疲労は――文字を知らなかった頃よりも、明らかに少ない。
数ヶ月後のある夜。
ミランダは、カイトが書き上げた複雑な報告書に目を通し、満足そうに息を吐いた。
「……もう、私から教えられることは何もないわね」
彼女はペンを置き、柔らかく微笑む。
「読み書きに関しては、十分合格。あとは、どれだけ知識を積み重ねるか……それは、カイト君次第よ」
それは、師から弟子へ贈られた、確かな“お墨付き”だった。
「……ありがとうございました、ミランダさん」
カイトは姿勢を正し、深く頭を下げる。
「おかげで、世界が……少し広く見えるようになりました」
かつては百キロを超える巨漢の柔道整復師。
今は、漆黒の従魔を従え、知識という翼を得た小さな探し物屋。
自室へ戻り、窓から夜の街を見下ろす。
文字を覚えたことで、これまでただの“景色”だった看板や貼り紙が、すべて生きた情報として目に飛び込んでくる。
(次は……)
視線は、明日の仕事の先へと、静かに向けられていた。
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