表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/16

第九話:知の翼は、夜に育つ

 宿「夕焼けの雁亭」の食堂。

 一日の喧騒がすっかり収まり、薪が爆ぜる乾いた音だけが、夜の静けさを刻んでいた。

 夕食を終え、くつろいでいたミランダに、カイトは意を決して声をかける。

「ミランダさん、少し……いいでしょうか」

「あら、どうしたの? 改まって」

 この世界での生活にも、ようやく慣れてきた。

 買い物、宿代、報酬――数字に関しては、もはや不自由はない。

 値札を見て、店主とやり取りを重ねる中で、記号と価値の対応関係は、頭の中に正確な地図として描けるようになっていた。

 だが。

 その横に並ぶ、虫が這い回ったような「文字」だけは、依然として意味を持たないままだった。

「数字は……何となく、読めるようになりました。でも……」

 カイトは一度、言葉を選ぶように間を置き、続けた。

「文字を、言葉を教えてほしいんです」

 ミランダは、少しだけ目を見開いた。

「そういえば、今も代筆だったわね。……でも、どうして?

 今のままでも仕事は回っているでしょう?」

「掲示板の依頼票は、正直、今でも勘で選んでいます。ミランダさんが読んでくれるから、何とかなっているだけで……」

 カイトは視線を落とし、淡々と、しかし明確に言葉を継いだ。

「自分で読めれば、もっと効率を上げられる。

 目的地が近い依頼をまとめて選べば、一日に回れる場所は増える。

 今は……時間を無駄にしている気がするんです」

(……本当に、この子は)

 ミランダは、少年の瞳の奥に宿る老成した知性に、思わず息を呑んだ。

 現状に満足せず、常に次の一手を考える姿勢。それは、ベテランの冒険者でさえ持ち得ない資質だ。

「わかったわ」

 彼女は、にっと頼もしく笑った。

「確かに、上を目指す冒険者で字を読めない者はいない。

 知識は剣よりも鋭い武器になるの。……お姉さんが、叩き込んであげる!」


 翌日。

 カイトは市場で、小さな黒板と蝋石を買い求めた。

 それからの日々、ギルドの仕事が終わった後の夜は、彼にとっての「第二の戦場」となった。

 ミランダの部屋に呼ばれ、机を並べる。

 仕事上がりの彼女は、ときおり湯浴みしたばかりの石鹸の香りを纏い、薄手の寝間着姿で現れることもあった。

 前世が成人男性であるカイトにとって、少々目のやり場に困る場面ではあったが――

 教える側の熱意は本物で、気まずさなど挟む余地はなかった。

 カイトは、まず日常で使う単語から。

 特に、依頼票に頻出する名詞や地名を、貪欲に吸収していった。

 もともと高い理解力に加え、前世で培った「学び方」を知っている。

 子供の柔軟な脳は、乾いた砂が水を吸い込むように、異世界の文字を取り込んでいった。

 やがて。

 点と線の羅列だったものが、意味を持ち始める。

 時間はかかるが、複雑な文章や背景を持つ文書ですら、読み解けるようになっていった。


 文字が読めるようになると、カイトの仕事ぶりは一変した。

 掲示板の前で依頼内容を精査し、移動ルートを逆算する。

 まるでパズルのピースをはめ込むように、最短で、無駄のない巡回経路を組み立てる。

 一日にこなす「探し物」の密度は倍増した。

 それでいて、彼の疲労は――文字を知らなかった頃よりも、明らかに少ない。


 数ヶ月後のある夜。

 ミランダは、カイトが書き上げた複雑な報告書に目を通し、満足そうに息を吐いた。

「……もう、私から教えられることは何もないわね」

 彼女はペンを置き、柔らかく微笑む。

「読み書きに関しては、十分合格。あとは、どれだけ知識を積み重ねるか……それは、カイト君次第よ」

 それは、師から弟子へ贈られた、確かな“お墨付き”だった。

「……ありがとうございました、ミランダさん」

 カイトは姿勢を正し、深く頭を下げる。

「おかげで、世界が……少し広く見えるようになりました」

 かつては百キロを超える巨漢の柔道整復師。

 今は、漆黒の従魔を従え、知識という翼を得た小さな探し物屋。

 自室へ戻り、窓から夜の街を見下ろす。

 文字を覚えたことで、これまでただの“景色”だった看板や貼り紙が、すべて生きた情報として目に飛び込んでくる。

(次は……)

 視線は、明日の仕事の先へと、静かに向けられていた。


読んでいただきありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ