後編 SIDE:ナタリー・ド・モンターニュ
「姉さん……今まで、本当にありがとう」
弟のニコラが成人し、正式に爵位継承の手続きが終わった。五年分の肩の荷が一気に降りたような気分だった。あの頃の反抗的だった姿はなりをひそめ、大人びた表情を見せたニコラは、私の手を強く握ってお礼を言った。
子爵邸の窓の外には、マロニエの花が咲いていた。ふと、子供の頃のことを思い出す。今となってはもう、まるで現実感のない昔の記憶。
「無事、あなたに子爵を譲れてほっとしたわ」
継ぐ予定のなかった子爵位だった。だけど、重荷でなく希望と思えたのは、ニコラがいたからこそだろう。
「こんなことにならなければ、姉さんは“偽装婚約”なんてする必要もなかった。五年間、もっとユーグと一緒に過ごせたのにね」
ニコラの目は、泣きそうに見えた。だけど、それは違う。
「いいえ……かえってよかったわ。“偽装婚約”のおかげで私、本当に欲しいものを手に入れられることになったの」
目が輝き、頰が紅潮しているのが自分でも分かった。
「……姉さん?」
ニコラの目は、不安そうに揺れていた。
「大丈夫。あなたが案ずることは何もないわ。子爵としての活躍、期待しているわね」
私はそれだけ告げると、踵を返した。
「俺が、この領を守るから。姉さんも、絶対幸せになってくれ」
ニコラの声が、後ろから響いた。
私はそのまま、待たせていた馬車に乗り込み、王都へと向かった。全ての決着をつけるために。もう、振り向きはしなかった。
この先何があっても、私にはニコラとモンターニュ領が待っていてくれる。その想いが、私に力をくれた。
* * *
この五年間、幾度となく訪れた侯爵邸なのに、なんだか今日は違って見える。屋根の破風に施された精緻な彫刻がやけに目についた。まるで、建物全体が壮大な物語のようだ。
主人公は私。ここはクライマックスの舞台。燦々と降り注ぐ陽の光が、私を後押ししてくれた。
大理石の床を踏みしめ、一歩一歩確かめるように前に進む。
案内された応接室に入ると、二人の男性が私を待っていた。似ても似つかない、“侯爵”と“騎士”。
二人が顔を合わせたのは初めてのはずだ。私が来る前に、何か言葉を交わしたのだろうか。けれど、着いた時にはもはや沈黙しか広がっていなかった。居心地の悪い、言い知れない緊張感が肌を刺す。
私は今日も、翡翠色のデイドレスを身に纏っていた。そう、二人の瞳の色。フィリップ様とユーグはまるで似ていないのに、その瞳だけは——同じ翠玉の色をしていた。そう、このドレスは彼らの色だ。
フィリップ様は、なんだか機嫌が悪そうだった。気忙しげに手を握ったり閉じたりしている。こんな様子を見たのは初めてだ。その瞳が、私を真っ直ぐに射抜く。その奥には、苛立ちと、どこか焦りのような色が宿っていた。
ユーグは、私を見ると嬉しそうに立ち上がった。直接会うのは何年ぶりだろう。彼の視線には、懐かしさと戸惑いが入り混じっていた。だけどその奥には、変わらぬ温もりがあった。
「フィリップ様、ユーグ。大変お待たせ致しました。それでは、私たちの“賭け”の結果を明らかにしましょう」
早くなる鼓動を誤魔化そうと、深呼吸してから話し始めた。狙い通り、ゆっくりと落ち着いた声が応接間に響き渡った。
口火を切ったのは、意外にもユーグだった。
「……ナタリー様。その前に“賭け”の内容を再度確認させてもらえませんか」
その真剣な口調に思わず気圧された。フィリップ様の眉間の皺が深くなる。二人の視線が交錯した。
私は、二人をまっすぐに見つめた。
「“偽装婚約”の終わりはあなたに告げた通り、ニコラに爵位を譲った時。私は先立って領地で、それを果たしてきたわ。そして、賭けの要は——今この場で、私が“お金”か“愛”かを選ぶこと」
ユーグが発した言葉は私の想像とは大きく違っていた。
「もはや、そんな“賭け”は成立しないのでは?」
「どうして?そんなことないわ。私が“お金”を選べば、フィリップ様の望み通り、彼と“白い結婚”をする。私が“愛”を望めば、あなたと結婚する。それが全てよ」
ユーグの眉間の皺も深くなった。しばし、逡巡しているようだった。
「侯爵閣下。……あなたはそれでよろしいのですか?」
ユーグが話しかけたのは、私ではなくフィリップ様だった。
フィリップ様は、苦々しげにユーグを見やった。
「……君は、敵に塩を贈るつもりか?」
「敵ではありません。僕にとっての敵は、ナタリー様を不幸にする人間ですから。侯爵閣下は、そうではないでしょう」
その言葉の意図を私は理解しかねたが、フィリップ様には伝わったようだった。彼は、長いため息を吐き、観念したように私に向き直った。
「……ナタリー」
私を呼ぶ声が、なぜだかとても優しく聞こえた。そしてその翠玉の瞳が、柔らかく細められる。
「“賭け”は私の負けだ。……君を、愛している」
* * *
——どれくらい時間が経ったのだろうか。私はただ、そこに立ち尽くしていた。
(フィリップ様が、私を愛しているですって?)
穏やかで、少し寂しそうな彼の笑顔。こんな顔をする人だなんて思わなかった。とても、嘘をついているようには見えなかった。
心臓が、ピリッと痛む。
この“賭け”を持ちかけられたとき、私はいくつもの勝ち筋を模索した。でも、そのどれにも当てはまらない方法で、勝ってしまうなんて思いもしなかった。
ユーグは、“愛”を信じて、騎士爵という身分を掴んでここに来てくれた。会えない時間の中でも、彼の献身は私を支え導いてくれた。
フィリップ様は“お金”を信じていたはずが、私への“愛”を選ぶのだと言う。才覚があり頼りになる、実は優しい人だととっくに分かっていた。
“お金”か“愛”かならば簡単だった。けれど、どちらかの“愛”を選ぶなんて、私にはおこがましく感じられる。
指先が震えた。二人は何も言わないまま、答えを待つように私を見つめていた。四つの翠の瞳が、私の心を突き刺す。
(選ばないわけには、いかないわよね)
……ならば、私は。どうしても、この“賭け”をフィリップ様の白旗で幕引きにすることはできない。
そして……たとえ悪者になったとしても。私は“愛”だけを選べない。
「——ごめんなさい。私はあなたたちみたいに無欲ではいられないの。“愛”も“お金”も両方いただくわ」
フィリップ様の眉がわずかに跳ね上がり、視線が鋭さを増した。一方、ユーグは表情ひとつ変えず、ただ真っ直ぐに私を見据えている。
胸の鼓動が早まる音だけが、自分に突きつけられているようだった。
先に声を発したのは、フィリップ様だった。
「それは、私を選ぶということだな?今の私ならば、“金”だけではなく“愛”だって与えることができる」
フィリップ様は、こちらに歩み寄り、私に向かってその手を伸ばした。
ユーグは、身じろぎもせず、ただこちらを見つめていた。まるで、私の真意を確かめるかのように。
私は——フィリップ様の手を押しとどめた。
「いいえ。フィリップ様。申し訳ございません。私にとっては、いずれも与えられるものではございません。勝ち取るものなのです」
私は歩み寄り、ユーグの手を取った。
「ですから私は——ユーグを選びます」
ユーグは、私を見つめて、大きく頷いた。
「何!?だが、騎士爵を得たとて、その男では“金”は得られないだろう」
私は笑った。自分は間違っていないのだと、自分自身に言い聞かせるかのように。
「聞こえませんでしたか?……“お金”は勝ち取るもの。そして私は、すでに勝利を掴んでいます。フィリップ様——あなたのおかげで」
私はユーグの手を取ったまま、フィリップ様の方を向き直って、大きく頭を下げた。震える指先を、ユーグがしっかりと握りしめてくれていた。
* * *
フィリップ様に“賭け”を持ちかけられた時、即座に浮かんだ大きな勝ち筋が一つあった。それを確かなものにするために、私は一つだけ、条件交渉をすることにした。
「この“賭け”は公開にしても構いませんか?……お互いに、不正を働けないように」
果たして、この条件は受け入れられた。なんの躊躇いもなく。それが、私の“王手”だとも気づかずに。
(有能な侯爵と聞いていたけれど、この程度か)
私とフィリップ様は、似たもの同士だと思った。もちろん、身分も財産も遥かに彼が上だけれど——欲しいものを手に入れるために手段を選ばないところが、自分のために生きているところが、そっくりだ。
だから、彼との化かし合いならば、胸が痛まないと思っていた。誤算だったのは、思ったよりも彼が“いい人”だったことだ。
言葉こそ嫌味で偉そうだったけれど、彼は私を磨いてくれた。有能な人材を派遣してくれ、躊躇せず資金を注ぎ込んでくれた。
「まあ、あなたたち。随分と面白い“賭け”をなさったのね?ぜひ一度、ゆっくりとお話ししたいわ」
夜会でご挨拶したロシュフォール公爵夫人には、最初から注目されていた。狙い通りだった。公爵夫人が恋愛譚を好んでいると言うことは、社交界では有名だったから。
そうして初めてサロンに呼ばれた時、私は小さな冊子を持っていき、公爵夫人にお土産と称して手渡した。
そう、“金”と“愛”にまつわる侯爵と子爵の賭けを記した、恋愛譚の第一巻を。公爵夫人は大いに喜んでくれた。
「嬉しいわ!まさか、こんなにじっくりとお話を楽しめるなんて」
* * *
数日後、王都の夫人や令嬢たちの間で“賭け物語”が密かに語られ始めた。
公開の“賭け”は、女性たちの好奇心に火をつけるには十分だった。それも——美貌の侯爵が主役のひとりであれば。
「ナタリー様のお話ってとっても面白いわ!ぜひまたサロンに来てちょうだい。お友達にも広めたいわ。しばらくは……女性の間で、こっそり楽しみましょう」
ロシュフォール公爵夫人は、いたずらっぽく微笑み、執筆の支援と読者の増加に大きく貢献してくれた。
初めは「なぜこんな女が侯爵の婚約者なのだ」と嫌味を言ってきた令嬢たちも、公爵夫人に応じて物語を読み始めるうちに、夢中になっていった。
「私も、こんなふうに愛されてみたいわ」
「爵位のせいで引き離されるなんて、あんまりですわ……」
私は“賭け”の公開により、“最も当たりやすい題材”と、“パトロンになってくれる人材”の両方を手に入れ、物書きという夢を叶える大きな一歩を踏み出したのだ。
冊数を追うごとに、読者は次第に増えていった。フィリップ様の領地経営の手腕や、ユーグが集めてくれた物語の数々も小説に彩りを添えてくれた。
貴婦人たちのサロンは、次第に俺様侯爵派と一途な騎士派に分かれて語り合うようになっていった。
「ナタリー様、この作品は売れるわ。“賭け”が決着したら、正式に本を出しましょう。そして我が領で旅芸人を雇うから、この恋愛劇を上演させてちょうだい」
「ロシュフォール公爵夫人!何から何まで、ありがとうございます」
私の、夢が叶った瞬間だった。
「いいのよ。我が領にも利益があるんですもの」
ロシュフォール公爵夫人は力強く頷いた。
* * *
すべてを話し終えると、場は再び静寂に包まれた。フィリップ様は信じられないといった顔で私を見つめていたが、何かを思い返すように宙に目線をやると、大きくため息をつき、かぶりを振った。
彼の姿が、こんなに小さく見えたのは初めてだった。すべてを手に入れているかのような顔をしていた男は、今や何も持っていないかのような顔をしていた。
(傷つけるつもりなど……なかったのに)
彼が私を侮って“賭け”を申し込んできたから、それに乗じて、機会を掴み取ろうと思っただけなのだ。
「……そうか。君の勝ちだな。ナタリー」
ようやく言葉を発した彼は、自嘲気味に笑う。
だが、その笑みは唇だけのものだった。翡翠の瞳は、まだ熱を帯びて揺れていた。
「私は、最初から君の手のひらの上だったということか……。とんだ道化だ」
「いえ、フィリップ様。あなたがいなければ私は、“お金”はもちろん“愛”も手に入れることはできなかったかもしれません。あなたの優しさに——感謝いたします」
「優しいなど、褒め言葉にもならない。……そう思っていたんだがな」
フィリップ様は、私から視線を外し、ユーグの方を見つめた。
「……大丈夫か。君には到底、手に負えない女だぞ」
ユーグはその言葉に、一瞬私の方を見やると、フィリップ様に向き直って苦笑した。
「そもそも、ナタリー様をどうにかしようだなんて思っていませんよ。……僕は、彼女がやりたいことを隣で支えるだけです」
そう口にした彼の声は静かだった。けれど指先は震え、まるで掴んだ私の手を離すまいというように、強く握り込んでいた。
応えるように、私も強く握り返す。
子供の頃から、つながれていたこの手。ずいぶんとたくましくなった。ユーグは「自分は何も持っていない」と言ったけれど、私にとってはずっと、この手こそが道標だった。
彼はいつだって私に、大切なものを思いださせてくれた。離れている時でさえ、この手で刻んだ蝋板を介して——。
フィリップ様はしばらく黙し、やがて鼻で笑った。
「……どうやら私は、最初から役回りを間違えていたらしいな」
その声音は悔しさを含んでいたが、同時にどこか余裕すら漂わせていた。
「だがまあ、退屈しのぎにしては十分楽しませてもらった。君のような妙な女に出会わなければ、私の人生はもっと味気ないものだったろう」
瞳がかすかに揺れ、唇に皮肉めいた笑みが浮かぶ。
「せいぜい、私の代わりにその男を振り回してやることだ。本人も望んでいるようだしな」
最後まで上から目線を崩さぬまま、彼は肩を竦め、背を向けた。その背筋は敗者ではなく、あくまで侯爵としての矜持を保った者のそれだった。
* * *
その春から、ロシュフォール公爵夫人が雇った旅芸人の一座が各地を巡り、恋愛劇『偽装婚約の果て〜愛とお金、どちらを選びますか〜』を上演した。芝居小屋の扉の外まで列ができ、立ち見の観客が舞台袖まで押し寄せたという。
おかげで、併せて出版した物語の売れ行きも好調だ。刊行を見届けに、王都の書店へ立ち寄ると、若主人が笑って言った——。
「発売日の翌朝には、もう棚が空でして。お客様が“続きはまだか”と口々に尋ねてくださるんです」
……真面目な老貴族たちは「けしからん」と噂し合い、近づきもしなかったが、それは仕方のないことだろう。
私は、原作の出演料として、フィリップ様に利益を分配することを申し出た。彼に世話になっておきながら、結局利用しただけで終わってしまった。せめてもの罪滅ぼしのつもりだったのだが……。
「君は言っていなかったか?“金”も“愛”も勝ち取るものだと。私も同じだ。与えてもらう必要などない」
きっぱりと断られた。いかにも彼らしい言葉だった。それは、決別の言葉のようで——そんな資格はないはずなのに、ちくりと心が痛んだ。
(もしも、出会い方が違っていれば……。いや、無様な感傷に浸るのはやめよう)
——そしてついに、私とユーグは、モンターニュ領の広場でささやかな結婚式を挙げた。
ニコラも祝福してくれた。
「領主として、そして弟として——心から二人を祝福します」
そう堂々と述べ、青年領主らしい爽やかな笑みを浮かべて。
……これは、私が“偽装婚約”によって“金”と“愛”と、そして“生き方”を勝ち取った物語。
これからは私の物語で、たくさんの人が生きる力を得られる、そんな物書きになれますように——。
願いを込めて、今日も私はペンを執る。窓の外には、満開のマロニエの花が咲き誇っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
作中何度か出てくるマロニエの木。栗の語源であり、多くの実りがあることから、本作を象徴するモチーフとして選びました。
花言葉は、「贅沢」「天才」「天分」「博愛」。奇しくも三人の登場人物を表す言葉たちが織り重なっているように見えます。試行錯誤を重ねながら作品を仕上げていますので、もし楽しんでいただけていたら、とても嬉しいです。
また★評価や感想をいただけると、今後の励みになります。
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