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中編 SIDE:フィリップ・ド・リュクサンブール

その“妙な女”に出逢ったのは、とある夜会だった。女たちに追いかけ回されるのに疲れた俺は、大広間を抜け出し、庭園へ足を踏み入れたところだった。


……二十三歳の若き侯爵。血筋も財産もある。自分で言うのもなんだが、両親から譲り受けた美貌も相まって『優良物件』ということなのだろう。多くの女たちからアプローチをされるのには辟易していた。


どの女もたいして変わり映えしない。どれだけいい条件で結婚できるかにしか興味がないのだ。会話は薄い。たまの関係ならまだしも、共に暮らすとなるとうんざりだ。


だがその日、庭園のベンチに座って、ワインをがぶ飲みしていた女は、これまで会ったどんな女とも違っていた。


青い瞳と栗色の巻き毛は美しいが、流行遅れの野暮ったいドレスに、淑女としてはぎりぎりの所作。思わず目を見張ると、彼女は驚いたように目をぱちくりさせてつぶやいた。


「リュクサンブール侯爵閣下。……なぜこのようなところへ。会場で、多くのご令嬢から声をかけられていたではありませんか」


頭こそ下げていたものの「早く去れ」と言わんばかりの物言いだ。


「モンターニュ子爵こそ、お披露目の場なのだから、会場に戻るべきでは?」


「まあ。私のことをご存知なのですね」

彼女は諦めたように頭を振ると、ベンチの隣を指し示した。


「よろしければ、お座りになりますか?」


決して言い寄ってくる様子ではなかった。真意は分からなかったが、このおかしな女に付き合うのも、退屈しのぎとしては悪くないだろう。


それから、俺はなぜか、ワインを飲みながら彼女の打ち明け話を聞いていた。


「——と言うわけで、私は幼馴染のユーグと結婚する予定なのに、親戚たちから貴族と婚約しろと言われて困っているのです」


他人の恋愛談になど興味はなかったが、あまりにもその語り口は軽妙で愉快だった。思わず聞き入ってしまった。


「でも、爵位目当てで寄ってこられても困るんですよね。五年後に弟が成人したら、爵位は譲る予定なので」


(……こんなに、俺に興味を示さない女は初めてだ)


止まらない弁舌を聞きながら、そう思う。こちらを見つめる時でさえ、その瞳に映っているのは俺ではなく、彼女の記憶の中の出来事のようだ。


「では君は、弟に爵位を譲ったら、その幼馴染と結婚するつもりなのか?」


彼女は即答した。なんの迷いも感じられない笑顔だった。

「はい!私はユーグと結婚します。もともと『平民になって彼と結婚する』と約束していたので」


吹き出した。まさか、貴族に生まれながらわざわざ平民になりたがる人間がいるとは思わなかった。しかも、金持ちでもなんでもない貧乏騎士の妻とは。


「な、何がおかしいんですか!?」


真っ赤になって抗議する姿も新鮮だ。田舎貴族だからか、自由に育っているのか。社交界では苦労するだろう。


「君はわかっていないようだが、世の中、“金”だ。“愛”なんて一時の錯覚に過ぎない。その男を選べば、不幸になるぞ」


「——そんなことはありません」


彼女の声が、急に低くなった。


(面白い。ならば、試させてもらおう)


「では、ひとつ“賭け”をしないか?」


ちょっとした思いつきだった。悪ふざけといってもいいかもしれない。


「“賭け”ですって?」

声に疑念が宿っている。


「ああ、お互いに利益のある“賭け”だ。君と同じく、私も親戚からの『婚約しろ』という圧力に悩んでいてね。だから“偽装婚約”をしないか?」


「“偽装婚約”?それのどこが“賭け”だと言うんですか?」


彼女は顔をしかめたが、何か思案しているようだった。


「——簡単なことだ。君の弟が成人する五年後まで、“偽装婚約”をし、“虫除け”にする。五年間は、私から君に援助もしよう。そして、時が来たら君は選べばいい。大事なのは、“愛”か、それとも“金”かを」


「……“愛”を選んだ場合は、予定通りユーグと結婚する、と言うことですよね?では、“金”を選んだ場合は?」


「“金”を選んだ場合は、“偽装婚約”を真実に変え、私と結婚するのだ。いくらでも贅沢はさせてやる。だが……“白い結婚”だ。私の女関係にも文句は言わないでほしい。私は特定の女性と関係を築くのが苦手でね。だがいずれ結婚はせねばならん。どうだ?悪くない条件だろう。君が“愛”を貫けるのであれば、貫けばいいだけのことだ」


悪ふざけに婚姻を賭けるなど、我ながら馬鹿げているのかもしれない。だが彼女を見ていると、これが「いい考え」だとなぜか思えたのだ。


生まれながらに何でも手に入る人生は、便利だが面白みはなかった。この“賭け”は、俺の退屈な人生の、壮大な暇つぶしとなるだろう。結果として自由な結婚生活まで手に入ればいうことはない。


しばらく逡巡したのち、彼女はうなずいた。

「わかりました、リュクサンブール侯爵。……ですが、ひとつだけ、条件を追加しても?」


彼女が付け加えたのは、他愛もないことだった。


「この“賭け”は公開にしても構いませんか?……お互いに、不正を働けないように」


(……頭をひねったつもりだろうが、所詮はこの程度か)


不正など働くはずもない。働かなくとも、楽に勝てるのだから。この“賭け”に勝てば、随分と気楽な生活が手に入る。その時の俺は、そんな考えに支配されていた。


『一度幼馴染に説明してから、この婚約と“賭け”を公表したい』と言う彼女の要望に合わせ、翌月我が家で開く夜会に合わせて、発表をすることにした。


やはり彼女は貴族社会に疎い、田舎者だ。こんな稚拙なやり方で、俺に勝てるわけもない。


* * *


“偽装婚約”とはいえ、しょぼくれた女が相手では俺の沽券に関わる。


まずは、外見から整えた。衣装屋を手配し、宝石を送り、侯爵邸で磨き上げると、多少は見栄えがよくなった。まあ、もともと素材は悪くなかったのだ。


「よく似合っている。やはり“金”があればこそ、君にふさわしい装いができるというものだ」


「……ありがとうございます。ですが、それで褒めたおつもりですか?」

彼女は含みのある表情でこちらを見た。


「……そんなに本音が出るようでは、社交界ではやっていけないぞ」


「侯爵閣下こそ、先のお言葉は外向きのものではないでしょう?私はあなたに合わせたまでですわ」


(……ここまで整えてやっているというのに、口の減らない女だ)


だが、そんなやりとりも不快というよりはむしろ、愉快に感じられた。こんなふうに対等に向き合ってくる女はいなかったからだ。


——俺の瞳の色と同じ、翡翠色のドレスをまとった彼女をエスコートし、夜会の場に出ると。松明の炎が石壁を赤く照らしていた。人々がこちらを認めると、大広間のざわめきが静けさに変わる。


俺は毛皮のマントを翻し、彼女の手を引いたまま、高座へと進み出た。


「本日は参列いただき礼を言う。この度、私は結婚することになった。我が婚約者を紹介しよう。——ナタリー・ド・モンターニュ子爵だ」


静寂を埋めるように、ためらいがちな拍手が広がっていく。そこには悲鳴のような叫びも混じっていた。……あれは確か、いつも夜会で群がってきていた女たちだ。


横目で彼女を見ると、身じろぎもせず堂々と人々を見据えていた。田舎の子爵家では、ここまで貴族の注目を浴びたことなどないはずだが、生来肝が座っているのだろうか。


(だが、こう言えばどうかな?)


「……とはいえ、婚姻は彼女が弟に家督を譲った後だ。我々は、ひとつ“賭け”をしていてね。この五年で私が彼女を“口説き落とせれば”無事に婚姻が成立する。……失敗すれば、彼女は身分違いの恋を貫き、幼馴染の貧乏騎士の妻となる。どうだ、愉快な“見世物”だろう?」


俺の言葉に、大きなざわめきが広がった。興味深そうにこちらに目をやる若い貴族に、眉をひそめる老人たち。その表情には、強い非難の色を感じた。


真実の全ては伝えず、俺に都合のいい言葉だけで埋め尽くした。流石に「“白い結婚”を望んでいる」などとのたまえば大きな批判は避けられない。


当然“賭け”ということだけでも、裏では批判する者が少なくはないだろう。だが、それもまた一興。


愉快な玩具を見つけてしまった今、慎みだけで生きていくには退屈すぎるのだ。


表立っては誰も「侯爵」の邪魔をするわけがない。すべて思い通りに運ぶはずだ。“金”か“愛”かと言ったが、実際に物を言うのは“立場”と“権力”だ。——最初から、勝てる勝負なのだ。


「卑怯な言い方だ」と抗議するかと思った彼女は、一瞬こちらを見やっただけだった。


「……お見事な開戦の合図でしたわ。お互い、正々堂々と勝負いたしましょう」


すぐに真っ直ぐに向き直り、ただ静かに人々の方を見つめる。その横顔は、何者にも媚びぬように凛として美しかった。


娯楽の少ない社交界だ。俺たちの婚約と“賭け”の話はあっという間に駆け巡り、貴族たちの噂の的となった。


* * *


ナタリーは、意外なほどすぐに社交界に溶け込んだ。特に夫人や令嬢にはやっかまれるのではないかと思ったが、貴婦人のサロンにも顔を出しているようだった。


(こんなにすぐに、受け入れられるはずがないのだが……)


茶会に招いた折、疑問を口にしてみた。


「……嫌がらせを受けてはいないのか?」


紅茶を飲んでいた彼女は白磁のカップをテーブルに置くと、意外そうな顔でこちらを見た。


「あら、フィリップ様が心配してくださるとは思いませんでしたわ」


「……仮にも婚約者なのだから、心配くらいはするだろう」

渋面を作ると、彼女は面白そうに笑った後、考え込むそぶりを見せた。


「であれば、社交界よりも領地のことに頭を悩ませておりますの。婚約の件でなかなか戻れなかったので補佐官に実務を任せておりますが、報告が要領を得なくて……。弟も、何から学んでいいか戸惑っているようです」


「ふん。そんなもの、金で解決できる。有能な補佐官と教育係を送ってやる」


「まあ!ありがとうございます。フィリップ様って、とても頼りになりますわね」


ナタリーは珍しく、瞳を輝かせて本心から喜んでいるように見えた。その笑顔を見ていると、理由もなく胸の奥がざわついた。


(この、不可解な感覚はなんだ?)


いや、ともかく。こうやって少しずつ、金の力で浸食していけば、抜け出せなくなる。彼女も負けを認めざるを得なくなるだろう。


……腑に落ちなかった貴婦人のサロンの件も、夜会に出れば一目瞭然だった。視線は彼女に集まり、夫人たちは袖を取って囁き合い、笑い声を広げている。かつて俺を追いかけてきた令嬢たちさえも、彼女に好意的な視線を向けていた。


(……どうしてここまで急に?)


その疑問は、ちょうど声をかけてきたロシュフォール公爵夫人に聞いてみた。我が国の元王女で、影響力の大きい人物だ。


「リュクサンブール侯爵閣下とのご婚約、最初は驚きましたけれど……。ナタリー様のお話ってとっても面白いんですもの。私のサロンでもいつも引っ張りだこですのよ」


公爵夫人はこちらを見て上品に微笑み、ゆったりと扇で口元を隠した。


(ナタリーはそんなに、話術が堪能なのか?……俺の知らない顔だ)


むしろ、歯に衣を着せぬ発言で場を凍らせそうな印象しかないのだが……。何かが引っかかる。


(いや、もしかしたら……あんなに本音を言うのは“俺にだけ”なのかもしれないな)


気づけば俺も彼女に引きずられ、本音を漏らすことが増えている気がする。本来は、貴族が容易く本音を口にするなんて、恥ずべきことだ。だが不思議と、それを心地よく感じている自分がいた。


* * *


始めのうちこそ、ナタリーはモンターニュ領に赴いていることが多かったが、領の運営が落ち着くと、王都に滞在する時間が長くなっていった。


「フィリップ様の派遣してくださった者たちのおかげで、領をつつがなく運営できています。最近は、ニコラの成長も著しくて。わかりやすい報告書を自身で作れるようになったのですよ。私なんて、あっという間に追い抜かれてしまいましたわ」


ナタリーはある日モンターニュ領の書類を持って我が邸宅を訪れ、頭を下げて礼を言ってきた。しょっちゅう弟のことを話題にするので、名前を覚えてしまったほどだ。


最近は、高位貴族と変わらないほどの所作になり、気品を感じられるようになった。


「……そろそろ、“金”を選ぶ気になったか?」


冗談めかして言うと、彼女はくすくすと笑った。


「選ぶかどうかはともかく、お金が大事であることは最初から否定しておりません。ですが、あの者たちをお選びになったのは、フィリップ様ご自身の才覚もおありになるのでは?彼らに話を聞いたところ、あなたが見出されたそうではありませんか」


「……まあ、人を見出して使うのが私の仕事だからな」


侯爵ともなれば、大半は人に任せて重要な決済だけを行わねば効率が悪い。確かに、採用には力を入れていた。


「具体的には、どうやって見つけられているのですか?平民と関わりなどないですよね」


「学園の教師を抱き込めば、優秀な生徒の情報は勝手に入ってくる。紹介してきた使用人には褒賞を与える。……結局、人間は“金”に従うものだ」


「なるほど!それってつまり……」


彼女は俺の話を聴きながら、熱心に蝋板にメモを取っていた。


「とっても勉強になりましたわ。フィリップ様のお話って本当にわかりやすいですね。ありがとうございます」

なぜかその時のナタリーの笑顔が、やけに脳裏に焼き付いた。


(俺を褒めてくる女などいくらでもいたが……こうやって熱心に政治の話を聞こうとする女など、一人もいなかったな)


彼女は俺と共にあることに利益を見出し始めている。順調なはずだ。俺はただ、このまま時が来るのを待っていればいい。


……形だけ結婚すれば良いと思っていたが、社交でも夫人たちに好かれ、領政においても勉強熱心なのであれば、案外侯爵夫人としても悪くない“買い物”かもしれん。


(そういえば、彼女と話すのは退屈しないな)


悪くないどころか、むしろ良い相手かもしれない。あくまでも、政略結婚の相手としてだが。“白い結婚”ならば、お互いに縛られすぎることもない。


「そういえば、例の貧乏騎士とは会っていないんだろうな?」


ふと、彼女が愛しているという貧乏騎士のことが頭をよぎった。念のため婚約発表の前に調べさせたが、毒にも薬にもなりそうにない、地味な男だった。騎士団の末端に位置する、勤務態度が真面目なのだけが取り柄の男。……さすがに、あんな男にやるには惜しい。


「会っていませんよ。……“偽装婚約”とはいえ、婚約者以外の男性と会えば醜聞ですから」


穏やかだった彼女の声が、急に張り詰めて聞こえた。笑顔はそのまま変わらないのに。


「騎士団ならば、“遊び”も激しいだろう。これだけ会わなければ他の女ができているに決まっている」


嫌味っぽく告げてやるが、彼女は揺らがなかった。


「いいえ、フィリップ様。……私は彼を信じています」


彼女はそう言ったが、寂しそうな笑顔を浮かべていた。勝算は全て俺にあるはずなのに、なんだか胸が騒いだ。——金でも理屈でも測れぬものに揺さぶられるはずがない。なのに、否定できぬ感覚が確かに残っていた。


念のため、二人が密かに通じているのではと調べさせた。結果は白だった。あの男は、時折モンターニュ家別邸に足を運んでいるようだったが、毎回すぐに出てきていて、ナタリーとは顔を合わせていないようだった。


胸が軽くなり、すぐに苛立つ。——彼女を“失いたくない”と一瞬でも思った自分に。


(馬鹿な。貧乏騎士になど、負けるはずもない。俺は、一体何を焦っているんだ)


* * *


婚約から、あっという間に五年が経とうとしていた。全ての決算が迫ったある日、ロシュフォール公爵家での夜会に招待された。


その日のナタリーは光輝くばかりに美しかった。萌葱色のドレスが白い肌を美しく彩り、緩やかなカールを描く髪が幾重にも重なった様は芸術的だった。だが何よりも——その瞳が自信に満ち溢れているように見えた。


洗練と格式を物語る大広間には、多くの人々が賑わっていた。陛下はあいにく来られなかったようだが、国内の重鎮はほぼ揃っていると言っていいだろう。


公爵と夫人に並んで挨拶した時、夫人が鷹揚と切り出した。


「お二人には、どうしてもお伝えしたいことがありましたのよ」


(公爵夫人が、俺たちに——?)


要領を得ず、曖昧に相槌を打った。


「この度、我が領でも旅芸人を支援することに致しましたの。リュクサンブール侯爵領でも演劇にはお力を入れてらっしゃると思いますので、念のためお声がけをと思いまして」


「旅芸人を……?」


急な報告に少々戸惑った。いや、特に問題はないのだが。領にいる両親は芸術への造詣が深いが、俺自身はさほど興味がないだけだ。


「ええ。もちろん、競合しないように致しますわ。侯爵領の演劇は冒険譚が中心でしょう。私どもは恋愛劇に特化しようと思いますの」


「恋愛劇……ですか?」


「女性はやっぱり、恋愛劇が好きですもの。ですわよね、ナタリー様?」


「はい、公爵夫人」

二人はうなずき合い、微笑み合っていた。


「ほとんどの貴族が政略結婚ですから、やっぱり“恋愛”には憧れるもの。私たちみたいに両立できている夫婦は稀ですわね、あなた」


突然話を振られた公爵はギョッとしていた。

「人前でそんなことを言うのはやめなさい」


「ふふ、あなたたちも両立できる夫婦になれるのかしらね?」

公爵夫人は意味深な言葉を告げると、次の挨拶相手を見つけたようで去っていった。まるで嵐みたいだった。


一つ、ため息をつく。夫人に触発されたのか、自然と言葉がこぼれ落ちていた。


「……君もまだ“恋愛”なんかに憧れているのか?」


ナタリーは、こちらに顔を向け呆れたような目をした。


「ほとんどの女性はそうだと思いますよ。フィリップ様。……まあ“白い結婚”を望むあなたにはお分かりにならないかもしれませんが」


“白い結婚”を望む——?


そうか、そうだ。俺が出した条件だった。


(「“金”を選んだ場合は、“偽装婚約”を真実に変え、私と結婚するのだ。いくらでも贅沢はさせてやる。だが……“白い結婚”だ」)


五年前、自分が発した言葉が蘇った。だが、誰か別の人間が言った言葉のように響いた。


……ふと、侯爵夫人として隣に並ぶナタリーの姿が思い浮かんだ。領の未来を共に語り、人を采配し、子を抱いて笑う彼女。その光景は、奇妙なほど自然で、何の違和感もなかった。


——そして次の瞬間、背筋が凍った。それは俺が「夢」ではなく「欲望」を見ていたからだ。


形だけの婚姻で済ませるはずが、子を抱く姿まで想像している。俺が拒んできた未来を、自ら望んでいる。


グラスを握る手が軋む。涼しい顔を装おうとしても、頬が熱い。掌には汗が滲み、どうにも隠せない。


(馬鹿な……俺が“愛”など選ぶはずがないのに)


だが胸の奥は、痛みと共に甘く震えていた。

この瞬間、俺は負けた。まだ言葉にもならぬ感情に。ナタリーという女に。


(俺は、勝算しかなかったはずの“賭け”に……負けるのか)


無意識のうちに過去の自分を裏切り、ナタリーへの“愛”を選んでしまっていた代償として。


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