前編 SIDE:ユーグ
「ねえ、ナタリー。おとなになったら、けっこんしようね」
幼馴染のナタリーに結婚の申し出をしたのは、僕たちがまだ五歳の頃だった。彼女は、にっこり笑って頷いた。
うららかな陽射しのもと、二人で手を取り合って歩いた並木道。すべてが、僕たちを祝福してくれているみたいだった。柔らかくて小さな手を握りしめる。「ナタリーをずっと守りたい」——そんな気持ちが自然と湧き上がってきた。
モンターニュ領に広がるマロニエの木の下で、泥だらけになりながら駆け回っていたあの頃。ナタリーは頭が良くて綺麗だったけれど、お転婆さからとても子爵家の娘には見えなかった。僕は貴族と平民の違いすらよく分かっていなかった。ただ、そのきらきらと輝くまっすぐな瞳に惹かれたことをよく覚えている。
……当時の僕なりに、真剣な想いのつもりだった。だけど、歳を重ねるにつれ、身分差が身にしみて分かってきた。彼女は子爵家の娘。僕は彼女の家に勤める護衛騎士の息子。結ばれるはずがない。モンターニュ子爵夫妻のご厚意で、まだ子供だからと遊び相手をさせてもらっているだけなのだ。
だから、驚いた。十二歳の夏、彼女が持ってきた報せに。
「ユーグ。聞いて!お父様が認めてくださったの。私たちの結婚を」
ナタリーは力に満ち溢れた表情で、僕の手を取った。
「ええ!?まさか。結婚って……そもそも、覚えていたんですか。七年前の約束を」
驚きのあまりのけぞる僕を見て、彼女は顔をしかめた。その腕に力が込もる。
「は?覚えてるに決まってるじゃない。ユーグ、まさかあなた、本気じゃなかったなんて言わせないわよ」
「……もちろん、本気です。でも、この身分差で本当に結婚できるなんて……」
「大丈夫」
彼女はきっぱりと言い切った。
「あの日から、ずーっと説得してたんだから。今日ついに承諾してくれたわ。弟のニコラが無事に爵位を継いだら、結婚してもいいんですって!……私、平民になるわ。今から勉強して、教師か物書きになって家計を助けるから、ユーグは何も心配しなくていいわよ」
怒涛の勢いで説明され、唖然とする。僕は勝手に諦めていたのに、彼女の行動力は想像を超えていた。
(ナタリーにはかなわないな)
「ありがとうございます。ナタリー様。全力であなたをお支えします」
ひざまづくと、ナタリーは満足げにこちらを見つめて微笑んだ。
その夜、事の顛末が両親にバレてしこたま怒られた。だが翌朝、子爵様に一緒に挨拶に伺い、結婚の許しを得ると「お嬢様をしっかりお守りするんだぞ」と父から念を押され、認めてもらうことができた。
——ニコラ様が成人するまで十一年。身分差から正式な婚約は結ばず、口約束に過ぎなかった。僕はこの時、彼女との幸せな未来のことしか想像していなかったんだ。
* * *
モンターニュ領内で、僕たちは恋人同士みたいに過ごした。一緒にお茶を飲んだり、本を読んだり、僕の剣術の稽古をナタリーが見にきてくれたり。ニコラ様も交えて食事をすることもあった。五つ下のニコラ様は、愛らしい子で僕にもよく懐いてくれていた。
ある日、木陰の下で、ナタリーは自ら書いた物語を読んで聞かせてくれた。それは、僕たちをモデルにした小さな恋の話だった。臨場感があって、よく書けていたと思う。ニコラ様は前のめりになって聞いていた。だけど、少し気恥ずかしくなった僕は、うまく感想が言えなかった。
「うーん。あんまり面白くなかったかしら。物書きを目指そうかと思って、書いてみたのだけれど……」
「えー!姉さまの話、おもしろいよ!」
ニコラ様はナタリーを憧れのまなざしで見つめている。
「ありがとうニコラ。あなたはいつも褒めてくれるわね。でも、ユーグの反応がイマイチだから……」
(だめだ。僕の恥ずかしさで、彼女の才能を曇らせるなんて……)
「いえ、僕がうまく言えなかっただけで、面白いと思います。……ナタリーがやりたいことをやってください」
ナタリーは首を傾げ、こちらを見た。栗色の巻き毛が風に揺れている。最近……すっかり大人びたみたいだ。
「僕も、騎士爵を目指すつもりです。そうすれば、少しは生活しやすくなるかと。身分を投げ打って嫁いでくださるあなたが、せめてやりたいことをやれるよう応援させてください」
「ユーグったら馬鹿ね。もともと私は貴族の夫人になんてなりたくなかったわ。……あなたと結婚するからこそ、私は生きたいように生きられるのよ」
「ナタリー様……」
その時、雲の切れ間からたくさんの光が射し込んできた。彼女は光を浴びて、ひときわ美しく輝いていた。
* * *
十五歳になると、ナタリーはソレイユ王都へ引っ越し、小ぢんまりとした別邸に身を寄せた。ソレイユ王国では、貴族の子女は三年間王立学園に通うのだ。僕もタイミングを合わせて王都の騎士団に入団し寮に入った。約束を守るために、ここでのし上がらなくてはいけない。
休みの日には、別邸でナタリーと落ち合う。
「はあ……可愛いニコラに全然会えなくて辛いわ……」
夏になると、ナタリーはそう言ってため息をついた。太陽がギラギラと照りつける暑い日だった。
ソレイユ王国では十五歳未満の子女は各領で学ぶのが習わしだ。自然、五年間は離ればなれになる。
僕はおずおずと“蝋板”を取り出した。
「あら?それは……?」
「ニコラ様は、あなたの“物語”を聞くのが好きだったでしょう。騎士団には、いろんな場所から来ている者が多いので……各地に伝わる“物語”を聞いてきたのです。彼へのお土産にできればと思って」
ヴェルナン領に伝わる、救国の英雄・ベルトランの若き日の伝説。シェリエ領での貿易商の成り上がり。ロシュフォール領で農夫が見つけた宝物の話。
蝋板を手渡すと、ナタリーは顔をぱっと明るくして、夢中で読みふけった。
(お金がない僕には、これくらいしかできないから……)
それに、彼女が本当に物書きになるのだとしたら、たくさんの物語を知っていることが、役に立つかもしれない。
「ありがとう!ユーグ。帰った時に、ニコラに話して聞かせるわね」
彼女の笑顔を見ると、すべてが報われる気がした。何もない僕でも、少しはその隣に立つ価値がある気がしたから。それからもずっと、新しい物語を仕入れては彼女に伝えた。
「ベルトランの裏話、ニコラも気に入ってたわ!」
帰省するたび、彼女はニコラ様の反応を教えてくれた。
鍛錬しながら、騎士団員に話を聞くことは、僕にとっても思わぬ財産になった。交流が生まれ、任務で連携がしやすくなったのだ。
何もかもが、うまくいっているように感じていた。そんな幸せな日々が急に終わったのは、僕たちが成人——十八歳を迎えた春のことだった。
* * *
始まりは、モンターニュ子爵夫妻が急死したという知らせだった。不幸な馬車の事故だった。顔をぐしゃぐしゃにして泣くナタリーの手を取って、ただそばにいることしか出来なかった。
ナタリーは、ニコラ様が成人するまでの五年の間、暫定的に子爵を継ぐことになった。この国では十八歳未満には相続権がないからだ。
成人したとはいえ、ナタリーは十八歳になったばかり。継ぐ予定のなかった子爵になる準備に大慌てだった。一方のニコラ様は、生意気になってきたとナタリーから聞いてはいたが、まだ十三歳だ。さぞかしお力落としのことだろう。
王都を離れ、子爵領に戻った彼女と会える機会は減ってしまったが、できるだけ寄り添いたいと思った。だけど、僕にはそれすらも許されなかった。
これまで僕が、ナタリーと過ごせていたのは、ひとえに前子爵夫妻の温情だった。それがよくわかったのは、彼女からある報告を受けたからだった。
* * *
「ナタリー様。リュクサンブール侯爵と婚約……されるのですか」
陰り始めた陽射しが、子爵家別邸の応接間に色濃く影を映し出している。
僕は、震える手を机の下で握りしめて平静を装い、テーブルの下に映る影だけをしばらく見つめていた。出された紅茶に、口をつける気にはなれなかった。
侯爵閣下のことは僕でも知っている。若き美貌の侯爵として名を馳せておられる方だ。リュクサンブール領は王都に近く、その領都は芸術の町としても有名である。
痛いほどの沈黙を、切り裂いたのは落ち着いたナタリーの声だった。
「……勘違いしないで。これは“偽装婚約”よ」
三ヶ月ぶりに顔を合わせた彼女は、ひどく真面目な顔をして言った。その横顔には、子供の頃と同じ、まっすぐな光が宿っていた。
「子爵になったせいで、親戚が貴族と結婚しろってうるさいのよ」
ニコラ様が子爵を継いだ後、ナタリーは平民となって僕と結婚する予定だった。……親戚たちには内緒で。だけど、五年間子爵を務めることになり、婚約すらしていないことを咎められたのだという。
「先日のお披露目の夜会で、リュクサンブール侯爵閣下とお会いしたの。彼も“虫除け”を求めているそうだから、お互いにちょうどいい取引ってわけ。ニコラに子爵位を譲ったら、婚約は解消するわ」
僕は息を呑んだ。
「そんなに、都合のいい話があるのですか?」
ナタリーは一度視線を落としてから僕に向き直った。茜色の光に照らされたその顔は、なんだか強ばって見えた。
「侯爵閣下と、“賭け”をしたの。“愛”と“お金”のどちらが大事かって」
(“賭け”だって?)
「五年後、婚約を解消してあなたを選べば、“愛”——私の勝ち。そのまま侯爵閣下との結婚を選べば、“金”——閣下の勝ち」
それは、荒唐無稽な話に思えた。金持ちの道楽なのだろうか。僕にはよく分からない。
「あなたはそれを受けたのですね」
目の前にいる彼女が、急に見知らぬ女性みたいに思えた。
(意味は理解できるが、気持ちがついていかない)
「ええ。この五年の問題が解消できれば、予定通り、あなたと結婚できるんですもの。だから、待っていて。私を信じてくれる?ユーグ」
けれど、彼女にそう言われれば、信じるしかなかった。
「……もちろん、あなたを信じます。ナタリー様」
そもそも、平民である僕が子爵の彼女と結婚を願うこと自体、夢物語のようなものなのだから。機会が残されただけでも、ありがたいと思わなければ。
“偽装婚約”と“賭け”にまつわるいくつかの取り決めを交わし、僕は子爵邸を後にした。
1.偽装婚約とはいえ、形式の上では正式な婚約。ナタリーと僕は直接の面会禁止。
2.“賭け”に関する僕からの噂の流布の禁止。
3.五年後に侯爵邸にて、“賭け”の結果が発表される。
屋敷を出ると、太陽はもう沈みかけていた。路面に映し出された長い影を見つめながら、重い足を引きずって寮へと帰った。
* * *
取り決め通り、ナタリーとは直接会うことが難しくなった。僕は、蝋板だけを子爵家別邸に届けに行った。ニコラ様は次期子爵としての勉学が忙しい。だからこそ、気晴らしになる物語は絶やさないように。そして——それがいつかナタリーが夢に戻る道標になると信じた。
しがない貧乏騎士である僕にできることは、ひたすら鍛錬をし、騎士爵を目指すこと。そしてナタリーのためになると信じて物語を集めて届けることだけだった。
「ユーグ。お前さあ、何をそんなに焦ってる?給料日に、飲みにも行かず剣を振るってるなんてお前くらいだぞ?」
同僚のヴァンサンはよく飲みに誘ってくれたが、鍛錬していなければ気持ちが落ち着かなかった。騎士団の中には、貴族も多かったためか、よくナタリーの噂を耳にしていたのだ。
「モンターニュ子爵、最初は田舎貴族かと思ったが、えらく垢抜けたなあ。この前の夜会、リュクサンブール侯爵とよくお似合いだったぞ」
「最近は、貴婦人のサロンでも人気らしいぞ。美貌や立ち振る舞いだけでなく、教養もある方らしい」
(ナタリーは、もう僕の元へは、戻ってこないんじゃないか?)
胸の奥が固く冷えていく。こんな時はいつも、彼女の言葉を頭の中に思い浮かべた。
(「私を信じてくれる?ユーグ」)
その言葉があれば、なんとか温かさを取り戻せるような気がした。
* * *
季節が巡り、次の夏が来た頃、王都にやってきた父と顔を合わせた。急に騎士団を訪れたことには驚いたが、ともかく早めに上がって、食堂に足を運んだ。
「お前、お嬢様のことはもう諦めろ」
注文したエールが届く前に、父はそう切り出した。
「いえ、ナタリー様は“偽装婚約”だ、と」
乾いた唇がはりつくのを感じながら、なんとかそれだけ返す。
「何が“偽装婚約”だ。モンターニュ領の運営資金も、人材も、ニコラ様の学びも──すべて侯爵閣下が手配してくださっている。……いらっしゃらなければ、もはや立ち行かないだろう」
父の声は、低く、しかしはっきりと響いた。
……確かに、そこまでの手助けとなれば“偽装婚約”では説明がつかない。自分を選ばせるために、“金”を惜しみなく使っているのか?
(だとすれば、侯爵閣下はナタリーのことを……?)
狼狽えた僕は思わず話を逸らした。
「……ニコラ様は、お元気ですか」
「お元気だ。すでに領内の視察にも参加され、現場を学ばれている。お若いのに、ずいぶんと落ち着かれた。……時々、お前の話もされているな」
(……ナタリーに渡した蝋板の話だろうか?)
ナタリーとニコラ様の笑い合う姿を思うと顔が綻んだが、すぐに父に制された。
「何を笑っている。お前の問題はニコラ様ではなく、ナタリー様のことだ」
現実に引き戻された。僕は気まずげな顔をして店員が運んできたエールを口に運び、痛む胸をごまかそうとした。何の味もしなかった。
「ナタリー様は『私を信じて』と……」
「その言葉は、お嬢様の優しさだろう。幸い、お二人がご結婚されるのはニコラ様が跡を継いでからだ。そこまでの時間があれば……お前も、お嬢様のことを忘れられるだろう」
父の言葉は、死の宣告のようだった。
(分かっている。何もない僕なんかが、侯爵閣下に叶うはずもない)
だが、僕はなんとか歯を食いしばった。ナタリーとの約束だけが支えだった。何者でもない僕だからこそ、信じることだけは負けたくなかったんだ。
「私は、誰がなんと言おうと、ナタリー様を信じたいんです。彼女は、七年かけて結婚の話を前子爵に通してくれました。だから、それより短い五年くらい、僕は待てます。もし、本当にご結婚されれば諦めますが——それまでは」
父は、悲しそうな顔をして首を振った。だが、それ以上言葉は重ねなかった。それから僕たちは、一言も交わさず、届いた食事を黙々と口に運んだ。
店を出た時には、まだ早い時間のはずなのに、通りは真っ暗だった。月明かりすらない、新月の日だった。
(リュクサンブール侯爵閣下とこのまま結婚したほうが、ナタリーは幸せなのかもしれない。もし、そう言われたら、僕は……)
彼女の幸せを願い、僕はそれからも蝋板を届け続けた。彼女と僕とのつながりは、今やそれしかなかった。僕はそれに縋っていたのかもしれない。
聞いて回った物語の蓄えは底をつき、いつしか僕は自分のことを記すようになっていた。まるで日記みたいに。隊長から一本取れたこと。王宮の警備に抜擢されたこと。次第に、立ち振舞いから怪しい人間を察知できるようになってきたこと。
返却された蝋板には、いつも「ありがとう」とだけ刻まれていた。それは願望だったのかもしれない。でも僕には、その文字が不思議と力強く見えた。
(この積み重ねが、どうか未来につながっていますように)
騎士爵を得たのは、それから二年後。ナタリーの偽装婚約が満期を迎える少し前のことだった。同僚のヴァンサンとテオと共に王城警備をしていたとき、不審者を捕らえたのが評価された。なんと、陛下の暗殺を企んでいたらしい。
最も貢献したテオは伯爵家と縁づくことになり、ヴァンサンと僕は騎士爵を賜った。
あんなに目指していた爵位なのに、諸手をあげて喜べなかったのは、約束の日が迫っていたからだろう。
そして、僕はついにナタリーに呼び出された。リュクサンブール侯爵家別邸にて、侯爵閣下と三人で話したいとのことだった。
一張羅の騎士服を着込み、身だしなみを念入りに確認する。心は、驚くほどに凪いでいた。ようやく、決意が固まったからだ。
(僕は、ナタリーの幸せを尊重する)
いずれにせよ、それしかできないのだから。
——すべての答えが得られる場が、すぐ目の前に迫っていた。




