トイワホー国における復讐 4章
その後のビャクブはカラタチの部屋のチャイムを鳴らした。カラタチはしばらく待っていても姿を現さないので、カラタチはまだ起きていないのかなとビャクブは思い始めた。
6時台では早すぎると思ったので、ビャクブはわざわざ7時になるのを待ってここまでやって来たのである。ビャクブはヤツデがカラタチと初めて会った時のカラタチは7時には散歩をしていたという証言を元にして訪問する時間を決定したのである。ビャクブはそれまで仮眠をしていたのである。
2510室のドアはビャクブが出直そうとした時に開いて巨漢のカラタチが現れた。カラタチは全く寝むそうではないので、ビャクブはその点について安堵をした。カラタチはむしろ朝から元気である。
「やあ。ビャクブくんはまた顔を見せに来てくれたんですな?」カラタチは朗らかに聞いた。
「はい。昨日は音楽会に誘って下さってありがとうございました」ビャクブは返事をした。
「いえいえ。そんなことはなんでもありませんよ。どうぞ。中へ入って下さい。おや?ヤツデくんはいらっしゃっていないのですかな?」カラタチは廊下をきょろきょろと見回してから聞いた。
「はい。ヤツデは用事をすませているので、今回はおれだけなんです」ビャクブは部屋に入らせてもらいながら簡単な説明をした。カラタチは部屋に入るといそいそと作業を進め出した。
「カラタチさんは忙しそうですが、おれはひょっとしてお邪魔でしたか?」ビャクブは聞いた。
「いえいえ。私はただお風呂へ行く準備をすませているだけです。私はドアを開けに行くのもそのせいで遅くなってしまいました。どうもすみませんでした」カラタチは礼儀正しくぺこりと頭を垂れた。
「いやいや。それくらいはどうっていうことありませんよ。時に、カラタチさんには今日もお尋ねしたいことがあってきたのですが、おれは質問させてもらってもいいですか?」ビャクブは聞いた。
ビャクブはそうしながらも畏まってベッドに腰をかけた。ビャクブはそして楚々としたカラタチの手際に目を向けた。カラタチはやがてビャクブの予想のとおりの答えを口にすることになった。
「ええ。それはもうなんなりと聞いて下さって構いませんよ」カラタチは鷹揚である。
「ありがとうございます。それではまず昨日のカラタチさんは音楽会の会場を抜け出して本当はどこへ行こうとされていたんですか?」ビャクブは単刀直入にズバリと切り込んだ。
ビャクブは言ってしまってから歯に衣着せぬもの言いだったかなと少し後悔をした。しかし、そんなことはなかった。ビャクブはヤツデと一緒にいるとヤツデに感化されてただでさえも柔らかい物腰がさらに砕けたものになって行くのである。ビャクブはそれに気づいていないのである。
「私はトイレに行こうとしていたのです」カラタチは即答をした。しかし、ビャクブは反論をした。
「でも、カラタチさんの向かった先には確かトイレなんてなかったですよね?」
「ははは」カラタチは急に笑い出した。「そうなんですよ。音楽を聴いていたら、私は急にお腹の調子が悪くなってしまってすぐにでもトイレに駆け込まなくてはならなかったのにも関わらず、あの時はトイレのある場所を間違えてしまったんですよ」カラタチはビャクブには思わぬ発言をした。
「え?それだけですか?」ビャクブは聞き返した。ビャクブは内心では拍子抜けしている。
「ええ。そうなんです。私はその上にヤツデくんの知り合いのシランさんという方とぶつかってしまって今では笑い話ですみますが、あの時のお腹とお尻は全く修羅場でしたな。あの後の私はすぐに持薬を服用したのですよ。おそらくは牛乳を飲み過ぎたのがいけなかったのでしょうな」カラタチは言った。
「なーんだ。そんなことだったんですね。でも、大事には至らなくてよかったですね?ははは」ビャクブは力なく笑った。実はカラタチが音楽会を抜け出してどこかへと向かってしまったことについてはなにかしらの重大な秘密でも隠されているのではないのかとビャクブは思っていたのである。
「そうですな。しかし、あんな体験はもう二度としたくはありませんな」カラタチは真顔である。
「それはそうですよね。そういうのはおれも体験したくはありません。おれは話を戻しますが、カラタチさんはシランさんとぶつかってしまった時にシランさんがどこから出てきたかはわかりますか?」ビャクブは気を取り直してヤツデから頼まれていたもう一つの疑問を聞いた。
「シランさんという方はビャクブくんともお知り合いだったんですな。ええと、ビャクブくんはちょっと待って下さいますか?」カラタチはそう言うとお風呂の準備を終えてベッドに腰をかけて考え込む仕草をした。ビャクブは言われたとおりに大人しく待っていた。カラタチは語り出した。
「あれは確か2301号室から出てきていたような気がしますな。クリーブランド・ホテルの部屋の配置は何階でも同じですから、おそらくは間違いないと思います」カラタチは力強く断言をした。
「シランさんは2301号室から出てきたんですか?2301号室はマツブサさんの部屋じゃないですか。シランさんは一体全体になんの用事があってマツブサさんに会いに行ったんだろう?いや。シランさんとマツブサさんはそれ以前に知り合いだったのか」ビャクブは心から驚いている。
「うーむ。マツブサさんとはどちらさんのことですかな?」カラタチは不思議そうにしている。
「マツブサさんというのはシランさんが出てきた部屋に住んでいる男性です」ビャクブは答えた。
「ほほう。ホテルに住んでいるのですか。なにやら、マツブサさんは大物みたいですな。それで?マツブサさんはシランさんと会っているとなにか不都合でもあるのですかな?」カラタチは無邪気に聞いた。
「不都合は別にある訳ではありませんが、マツブサさんはこのホテルで起きた殺人事件の被害者の友人なんです。カラタチさんはシランさんがそんな人に用事があるなんてちょっと不思議に思いませんか?」
「うーむ。なにやら、話は込み入ってきて難しくなってきましたな」カラタチは考え込んだ。
「そうですね。まあ、おれがここでカラタチさんと議論を戦わせても全くの無益ですよね。すみませんでした。おれは些細なことでお邪魔をしてしまいました」ビャクブはそう言うと緩慢に立ち上がった。
「おや?ビャクブくんはもうお帰りですか?ビャクブくんはせめて一緒に大浴場まで行きませんか?」カラタチは提案をした。カラタチは相変わらずのお風呂マニアぶりを発揮している。一瞬はどうしようかと迷ったが、断る理由はないので、ビャクブは結果的に承諾をすることにした。
「わかりました。一旦は部屋に戻ってから、おれは大浴場へ行くので、カラタチさんは先に行っていてもらってもいいですか?カラタチさんにとってはその方がおれを待たなくてもすみます」
「はい。承知しました。お気遣いをありがとうございます」カラタチは重々しげに頷いた。
即興にしては見事な措置を取れたなとビャクブは一人で悦に入った。ヤツデはマツブサとネズに対して手際よく質問をしていたが、ビャクブは自分もやればできるのだと自信を持った。
一方のカラタチは窓から空模様を見て笑顔になると洗面所で顔を洗った。カラタチはそして清々しい気持ちになるとにこやかにビャクブと別れて大浴場へと向かうことにした。
ビャクブはそんなカラタチの気持ちを忖度して自分も明るい気持ちになった。だから、今のビャクブは意気揚々だが、この後のビャクブは思わぬトラブルに遭遇することになる。
ビャクブはこうして一旦は部屋に戻ってきた。ヤツデにはまだ帰宅した様子はなかった。そのため、ビャクブはハム次郎に対して挨拶をすると入浴に必要なものを持って部屋を後にしようとした。
しかしながら、ビャクブはここで運の悪いことにテンダイとミズキと鉢合わせしてしまった。とはいっても、ビャクブは嫌がっている訳ではなくてカラタチとの約束があるので、今は間が悪いのである。
テンダイはヤツデとビャクブのことを消そうとしているのかもしれないのだということを思い出したので、ビャクブはなにげなく入浴セットを盾にしながら心持ち身構えることにした。
「おはようございます。ビャクブくんは早朝から精が出ますね。お時間を少し頂けませんか?ほんのちょっとです」テンダイは礼儀正しくお辞儀をすると礼儀に適って丁重に口を開いた。
「おはようございます。ビャクブさん」ミズキはテンダイと同様にして頭を下げた。
「おはようございます。ええと、時間は大丈夫ですよ。それで?どうかしましたか?」ビャクブは相変わらず身構えながら聞いた。今はカラタチとの約束があるから、ビャクブはやや急かすようになってしまったのである。しかし、テンダイは特にそれをなんとも思わなかった。テンダイは一度だけ頷いた。
「はい。ぼくは昨日にヤツデくんとビャクブくんに言われたとおりに警察署まで行ってきました」
「そうでしたか。それはよかったです。テンダイさんはあらぬ疑いをかけられませんでしたか?」ビャクブは聞いた。テンダイは警察署に行ったと聞いたので、ビャクブはすでに警戒を解いている。
「ええ。エレベーターには驚いたことにもぼくよりも先に乗り合わせている人がいたそうでしたので、そのことについてはなにも言われませんでした。警察からは確かにトランプの件と死体発見時のことをあれこれと聞かれましたが、ぼくは特別にお咎めを受けるようなことはありませんでした」テンダイは噛み砕いて説明をした。ミズキは隣で黙ってテンダイに寄り添っている。ビャクブはすると意外そうにした。
「ああ。そうか。エレベーターにはテンダイさんの先にも先客がいたのか。おれはなんでこんな簡単なことにも今まで気づかなかったんだろう。そう言えば、この点はヤツデも指摘していなかったな。ヤツデにしては軽率だな。どうしてだろう?」ビャクブは少し考え込んだ。ビャクブはそもそもテンダイの話を聞くまでそのことを忘れていたのである。いい加減と言えば、いい加減な話だが、ビャクブはシランの持ち物やバニラの悩みやすでに解決ずみのカラタチの行動の謎といったようにしてヤツデと一緒に抱えきれない程の厄介事を引き受けているので、それは致し方ないのである。ビャクブは気を取り直した。
「それはさておき」ビャクブは言った。「テンダイさんは疑われることもなく真実を白日の下に晒すことができてよかったですね?」ビャクブはテンダイの立場になってものを言っている。
「はい。勇気を持って秘密を打ち明ければ、誰かはきっと理解してくれる。私は本当にヤツデさんの言葉のとおりだと思いました」ミズキは感極まった様子である。ミズキは大慶の至りなのである。
「ところで」テンダイは言った。「今朝はヤツデくんがいらっしゃらないようですね」
「はい。今のヤツデは残念ながら用事があって外へ出かけているんです」ビャクブは説明をした。一瞬は迷ったような仕草をしたが、テンダイはすると改まって次のように言った。
「それではあとでヤツデさんにもお伝え下さい。ぼくとミズキはヤツデさんとビャクブさんに甚く感謝しております。これは大袈裟だと思われてしまうかもしれませんが、このご恩はとわに忘れません。ぼくはミズキにも不要な心配をかけてしまいましたが、ぼくとミズキはこれでなんの迷いもなく結婚式に臨めます。本当にありがとうございました」テンダイはそう言うとミズキと一緒に深々とお辞儀をした。
「いやー!なんと言いますか。テンダイさんからはそこまで感謝されると、おれたちはお役に立てた甲斐がありました。ヤツデにはもちろんおれから伝えておきます。テンダイさんとミズキさんの言葉を聞いたら、ヤツデはきっとおれと同じくらいに喜ぶと思います」ビャクブは頭を掻いている。ほどんどはヤツデの手柄なのだが、ビャクブはそれでも照れ笑いを浮かべている。
「ありがとうございます。機会があれば、ぼくたちはまたいつかお会いしましょう。ビャクブさんとヤツデさんのことは決して忘れません」テンダイは言った。ミズキはテンダイに続いて言った。
「あたしはヤツデさんとビャクブさんのお二人とお会いできて本当によかったです。さようなら」
「それはおれも同じですよ。それではさようなら」ビャクブは挨拶を返した。
テンダイとミズキはちなみに今日の午後に華燭の典を控えている。だから、ビャクブに対してはそのことを言いそびれてしまったのだが、テンダイはかといってわざわざ言い足しておくのも野暮になると思ったので、テンダイとミズキはそのまま一緒に退去をさせてもらった。
テンダイとミズキと別れた後のビャクブは早速にカラタチの待つ大浴場へと歩を進めようとした。なんといっても、ビャクブは気がやさしいので、人を待たせることは嫌いなのである。
温泉の泰山北斗であるカラタチからはどんな話を聞けるのかなとビャクブはそれも楽しみに思っている。ところが、ビャクブはまたもや呼び止められることになってしまった。
「あら」バニラは前方から歩いて来た。「ビャクブさんはちょうどいい時にいらっしゃってよかった」
「私は昨日の夕食でヤツデさんとビャクブさんから手紙に関してお話をして下さった時からずっと考えていたんですけど、お手を煩わせてはしまいますが、ヤツデさんとビャクブさんにはやっぱり手紙の内容をご覧になってもらおうと思ったんです。ヤツデさんはいらっしゃらないのですか?」バニラは今のヤツデの状況について聞いた。バニラはビャクブだけではなくてヤツデも頼りにしているのである。
「はい。今のヤツデは用事があって外に出かけているんです」ビャクブは答えた。この日は三度目となる今や定番のセリフである。この説明はカラタチとテンダイとミズキに続いてバニラで三度目である。
「手紙はやっぱりヤツデさんと一緒にご覧になられた方がいいですか?」バニラは確認をした。
「うーん。おれはたぶんその方がいいと思います。ヤツデはおれよりもしっかりしていますからね」
「それなら、私はヤツデさんとビャクブさんのお部屋で待たせて下さいませんか?」
「おれは別にいいですよ。それでは部屋でヤツデを待ちましょう」ビャクブは了解をした。ビャクブはバニラを部屋に引き入れてエノキさんには悪いなと思いつつも心なしか鼻の下を伸ばしている。
ビャクブの頭からはちなみにこの時点でカラタチとの約束は完全に消え去っていた。つまり、ビャクブにはけっこういい加減なところもあるという訳である。
ビャクブはそしてなぜか暇つぶしとしてバニラはコーン・ポタージュが好きで小学生の頃はバスケット・ボールをやっていたというバニラの身の上話を聞くことになった。
一応は自分が先に悩みの元である手紙を見せてもらおうかとも思ったのだが、バニラはあまりにも意気揚々としていたので、ビャクブはバニラの気分を落ち込ませると悪いような気がして結局は言い出せなかった。とはいっても、ビャクブにとってはバニラと話ができて有益な時間になった。
ここではちなみにまじめな話もしておくと、バニラはすでに例の手紙をスミレとシランの二人に対して見せているが、結局のところはずっとバニラが恐れていた事態にはならなかった。
その後のビャクブとバニラは朝食までヤツデを待っていたが、ヤツデは帰って来ることはなくて仕方がないので、ビャクブはバニラと朝食を共にした。バニラはそして自室へと一旦は帰ることになった。
「それではヤツデさんが帰ってきたら、ビャクブさんは私の部屋にヤツデさんと一緒に来て下さいますか?」バニラは聞いた。ビャクブと親しくなれたとはいっても、バニラは少し気を落としている。
「わかりました。すみません。こんなにお待たせしてしまって」ビャクブは恐縮そうにしている。
「いいえ。ビャクブさんのせいではありませんから、ビャクブさんは謝らないで下さい。ヤツデさんにしても悪気がある訳ではないのですから」バニラはビャクブが責任を感じないようにやさしく言った。
「バニラさんはそうおっしゃって下さると、おれはうれしいです。それでは一旦はさようなら」ビャクブは頭を下げた。ヤツデは早く帰ってきてくれないかなとビャクブはヤツデのことを心待ちにしている。
「ええ。さようなら」バニラも笑顔でそう言うと去って行ってしまった。
ビャクブとバニラはこうしてそれぞれの部屋へと帰って行った。今日の天気はいいが、ビャクブとバニラの心はなにぶんにも少し靄がかかった状態になってしまった。しかし、お願いをしているのは自分だということを忘れてはいないので、バニラは自分でも言っていたとおりにヤツデとビャクブのことを恨みがましく思ったりは決してしていない。ただし、自分は役に立たなかったから、バニラには頼りない男だと思われてしまっただろうかとビャクブは心配をした。とはいっても、カラタチとの約束を反故にしてしまうくらいに大胆不敵なら、ビャクブは十分に大したものである。
ヤツデを待つ間のビャクブは部屋に戻ってテレビをぼんやりと観ながら時を過ごした。そこでは知恵の輪が取り沙汰されていたので、ビャクブは自分もやってみたくなった。
ビャクブは子供の頃に一度だけ知恵の輪をやってみたことがあるのを思い出した。しかし、その時は全く解ける気配すらなかったので、ビャクブはやっぱり知恵の輪をやりたくなくなった。なにしろ、ビャクブは現金な男なのである。というよりも、ビャクブは諦めが早い男なのである。部屋のチャイムはしばらくすると鳴った。ヤツデはビャクブの第六感でそろそろ帰ってくるかなと思っていたので、ビャクブは期待をしてドアを開けに行くとそこにはやはりお待ちかねのヤツデの姿が認められた。
「ヤツデは遅かったじゃないか。バニラさんはヤツデのことをずっと待っていたんだよ。それに、ヤツデの留守中には色々とあったから、おれは積もる話もあることだし、ヤツデはとにかく帰って来てくれてよかったよ」ビャクブは言った。ビャクブはこのようにして熱い言葉を投げかけてくれたので、ヤツデはうれしい気持ちになった。ヤツデは頼りなくてもビャクブには信頼をされているのである。
「ごめんね。警察署までは距離があったから、時間は少なからずかかっちゃったんだよ。それで?ビャクブは積もる話っていうのを聞かせてくれる?」ヤツデはそう言うとベッドに腰をかけてハム次郎を隣に座らせて話を聞く姿勢を取った。ビャクブはやがて自分のベッドに腰をかけて話を始めた。
「まずはなにから話を始めたらいいだろう?とりあえずは今日にあったことを順番に話すよ。ヤツデと別れた後のおれはすぐにカラタチさんのところに行ったんだけど、結論から先に言えば、昨日のカラタチさんは音楽会の会場を抜け出してトイレに行こうとしていただけだったらしいんだよ。それじゃあ、カラタチさんはなんでトイレとは違う方向にいたかっていうとただ単に場所を間違えただけらしいよ」ビャクブは言った。ヤツデはビャクブの話が途切れると高飛車にならないように口を挟んだ。
「やっぱりね。ぼくはそうだと思っていたよ。ぼくはなんでそうだと思ったかっていうと、実はぼくと初めて会った時に自分の部屋が二号館にあるのにも関わらず、カラタチさんは一号館の方に帰ろうとしていたからなんだよ。カラタチさんは極度の方向音痴だったんだね。まあ、人のことはぼくも言えないんだけどね。ぼくはそういう点でもカラタチさんには好感を持っていたんだよ」ヤツデは理路整然と述べた。
「そうだったのか。おれは全く脱力するよ。おれはてっきりカラタチさんとマツブサさんの間には人には言えない関係がなにかあるのかと思っちゃったよ。ああ。そうそう。でも、カラタチさんとマツブサさんには確かに繋がりがないっていうことはわかったけど、シランさんとマツブサさんには驚くべきことにもなにか繋がりがあるらしいんだよ」ビャクブは一気に捲くし立てた。ヤツデは合いの手を入れた。
「それはぼくがカラタチさんに聞いてほしいって言ったもう一つの件だね。シランさんは察するにカラタチさんとぶつかった時にマツブサさんの部屋から出てくるところだったんだね?」
「ああ。そのとおりだよ。シランさんとマツブサさんの二人にはどんな繋がりがあるんだろうな?」
「そうだね。不思議だね。ただし、ぼくにはある一つの可能性が考えられるとは思っているけどね」
「え?本当かい?ヤツデにはどんな可能性が考えられるんだい?」ビャクブは興味津々である。
「それはあとで話すよ。それよりも、今はビャクブの話の続きを聞かせてくれる?」ヤツデは聞いた。
「ああ。もちろんだよ。その後のおれは部屋に戻ったら・・・・あー!」ビャクブは大声を出した。
「ビャクブはそんなに大声を上げてどうしちゃったの?一体」ヤツデはびっくりした様子で聞いた。
「おれは大事な用事を忘れていたんだよ。カラタチさんからは話を聞かせてもらった後で大浴場に一緒に行こうって誘われていたのにも関わらず、その後には色々とあったから、おれはうっかりとその約束をすっぽかしちゃったんだよ。どうしよう?カラタチさんは怒っているだろうな。おれは謝りに行かないとダメだろうな。うーん」ビャクブは頭を悩ませている。ビャクブは既婚者ではないが、今のビャクブはまるでワイフの誕生日を間違えてしまったかのような大失態をしてしまったかのようである。ビャクブはようするにそれくらいの罪悪感に苛まれているということである。
「それじゃあ、ぼくはビャクブと一緒にカラタチさんに謝りに行くよ。元はと言えば、ビャクブにはぼくがカラタチさんから話を聞いてもらうように頼んだんだからね。ぼくもいるから、ビャクブはなにも怖くないよ」ヤツデは穏やかである。ヤツデは『愛の伝道師』として当然のことを言っている。
「ありがとう。恩に着るよ。それじゃあ、おれは話を続けてもいいかい?」ビャクブは聞いた。ヤツデは『うん』と短く答えた。ヤツデはこういうビャクブの切り替えの速さも買っている。
「おれはどこまで話していたんだったっけな?ああ。そうだ。カラタチさんと別れた後は部屋に戻って来て大浴場まで行こうとしたんだよ。そうしたら、向かいの部屋からはちょうどテンダイさんとミズキさんが出てくるところでその二人に呼び止められたんだよ。用件は大体の察しがつくかい?」
「うん。用件はテンダイさんが死体発見現場にいたっていう事実を警察に申し出たかっていう話でしょう?テンダイさんはビャクブを呼び止めたっていうことは事情を警察に打ち明けたんだろうね?」
「ああ。そのとおりだよ。でも、おれとヤツデは肝心なことを忘れていたじゃないか。だってだよ。認識していなかったとはいっても、死体を発見している人はテンダイさんよりも前にもいたんだから、犯人はテンダイさんな訳はなかったじゃないか」ビャクブは主張をした。しかし、ヤツデは否定をした。
「ううん。昨日の時点ではそう断言はできなかったんだよ。だってね。テンダイさんは死体の発見現場にいながらも警察にはそれを秘密にしていたっていうことはなにか後ろめたいことがあって秘密にしていたっていうことが第一に考えられるからね。つまり、もしも、犯人はテンダイさんだったとしたら、テンダイさんは犯行を行った後で死体から目を離せない事情がなにかあったのかもしれないでしょう?もっとも、テンダイさんは結果的に警察に行って事情を話してくれたのだから、その可能性はこれでほぼ完全になくなった訳なんだけどね」ヤツデは論理的に言った。ビャクブは納得をさせられた。
「言われてみれば、それは確かにそうだな。ああ。そうそう。テンダイさんは言っていたよ。これは大袈裟だと思われてしまうかもしれませんが、このご恩はとわに忘れません。ぼくたちはこれでなんの迷いもなく結婚式を挙げられます。テンダイさんとミズキさんの感謝の気持ちをヤツデにも伝えておいて下さいってね。ヤツデはこうなることを願っていたんだから、悪い気はしないだろう?」ビャクブは聞いた。
「うん。そうだね。テンダイさんとミズキさんにはこれからもお互いが信じあえる仲でいてほしいね」ヤツデはやさしい口調で言った。ヤツデはしかもすごくうれしそうである。
「それでだ。話はこれからが一番に重要なるかもしれないんだけど、バニラさんはおれがテンダイさんとミズキさんと別れた後に誰かさんから送られてきた手紙の内容を見せに来てくれたんだよ」
「それはよかった。手紙の内容はどんなものだったの?」ヤツデは興味深そうにして聞いた。
「いや。実はまだ見せてもらっていないんだよ。おれはヤツデも一緒に見た方がいいと思ってな」
「そっか。ビャクブとバニラさんはそれで一緒にぼくのことを待っていてくれたんだね。どうもありがとう。それじゃあ、ぼくたちは早速にバニラさんのところへ行って内容を見せてもらおうか」ヤツデはそう言うとハム次郎と握手をしてから立ち上がった。そのため、ビャクブはヤツデと同じく立ち上がった。
「それで?ヤツデの方は警察署に行ってその結果はどうだったんだい?」ビャクブは聞いた。
「そのことはあとで教えるよ。それよりも、今はバニラさんのところへ行こうよ」ヤツデは急かした。
「ああ。そうだな。まずは一つずつ問題を解決することにしよう」ビャクブは肯定をした。
ヤツデとビャクブの二人はこうして自室を後にして1301号室へと歩を進めることになった。自分たちはいよいよバニラの役に立てるかもしれないので、ビャクブは大いに張り切っている。
一方のヤツデは卓識を持っているとうぬぼれたりはしないが、実はすでにバニラから見せてもらう手紙の内容は大体の予測がついている。だから、今のヤツデの心配事はそうなるとそれが外れた時にどのようにしてバニラの問題に対処すればいいのかということの一点なのである。
とはいっても、その時はその時で『愛の伝道師』としてバニラに対してヤツデはやさしく接するつもりである。もっとも、ヤツデの人当たりはそうしなくてもいつもいい方である。
ヤツデは1301号室の部屋のチャイムを鳴らした。バニラはするとうれしそうにしてヤツデとビャクブの二人を迎え入れてくれた。ヤツデとビャクブは早速に部屋の中に入らせてもらった。スミレとシランの二人は和室で雑談を交わしていた。スミレとシランの二人は自分たちも話に加わろうか、少しの間は迷っていたが、結局のところはヤツデとビャクブからお呼びをかけられてから話に加わることにした。
ヤツデとビャクブは窓際のベッドに揃って腰をかけさせてもらった。バニラは窓際にあるテーブルのイスに腰をかけた。今のバニラには他事は頭になくて不安と期待が五分五分の気持ちである。
「ヤツデさんとビャクブさんはお忙しいのにも関わらず、時間を割いて下さって本当にありがとうございます。私は感謝してもしきれません」バニラはそう言うと改めて佇まいを正した。
「いいえ。とんでもないです。ぼくは職務を離れていても『愛の伝道師』ですし、ビャクブはやさしい心を持ち合わせた善良な市民なんですから、困っている人がいたら、手を差し伸べるのは当たり前のことです。それに、ぼくたちにはなにができるのかはまだわかりませんしね。それよりも、バニラさんはせっかくぼくのことを待っていて下さったのにも関わらず、ぼくは中々帰れないでどうもすみませんでした」ヤツデは謝った。ヤツデはそのことについては本当に申し訳なく思っている。
「いいえ。大丈夫です。私は全く気にしていません」バニラは畏まって言った。
「気を使って下さってありがとうございます。それでは早速に何者からか送られてきた手紙を拝見させてもらってもよろしいですか?」ヤツデは催促をした。ビャクブは気を引き締めている。
「ええ。その手紙というのはこちらです」バニラはそう言うとヤツデに対して手紙を差し出した。ビャクブはヤツデの持つ手紙を横から覗き込んだ。ビャクブはそれを読むとびっくり仰天してしまった。なにしろ、そこにはビャクブの想像もしていなかった文句が並んでいたのである。一方のヤツデはしばらくその手紙を見つめていたが、次の瞬間には勝利を確信したスポーツ選手のようにして表情は明るくなった。そこに書かれていたことはビャクブと違ってヤツデの予想のとおりだったのである。
「ぼくたちは何人かの人に話を聞く必要が出てきました。とりあえずはチェック・アウトをすませ終えたら、ぼくは早速に行動を開始したいんだけど、ビャクブは最後までぼくに付き合ってくれる?」ヤツデはきちんと確認をした。ヤツデは多情なのである。ビャクブはその問いに即答をした。
「ああ。ヤツデはなにを今さら水くさいことを言っているんだい?おれはもちろん付き合うよ」
「ありがとう。これからは少し慌ただしくなるけど、ぼくたちの行動は無駄にはならないと思うよ」
「ヤツデさんは手紙の差出人を特定させるためにどちらかへと行って下さるのですか?」バニラは口を挟んだ。バニラは今やヤツデを深く信頼しているので、ヤツデに対しては期待に満ちた瞳を向けている。
「はい。ぼくの考え違いでなければ、全ての問題は今日中に解決すると思います。その真相が少し残酷なものだとしても、バニラさんはきちんとぼくの話を聞いて下さる心の準備はありますか?」ヤツデは最後の確認をした。ヤツデにはすでに事件のからくりが手に取るように判明しているのである。
「ええ。私はこの手紙を見てからずっと悩んできました。私はどんな真相が暴かれたとしても今ではそれを受け止める心の準備はできています。これ以上のショックを受けることはないと思います」
「わかりました。送られてきた二枚の手紙をお借りすることはできますか?」ヤツデは聞いた。
「ええ。もちろんです」バニラはそう言うとヤツデに対してテーブルに置いてあった二枚目の手紙の方も丁寧に手渡した。ビャクブはなにも考えずにただそれをぼんやりと眺めている。
「それから、バニラさんにはもう一つお願いがあるのですが、ぼくたちはもうチェック・アウトをしなければならないので、荷物をこちらの部屋に置かせてもらうことはできませんか?」ヤツデは聞いた。バニラはするとそのことをシランとスミレにも確認した。スミレとシランからはOKが出た。
「問題は特にありません。ヤツデさんとビャクブさんは遠慮なくこちらの部屋にお荷物を持ってきて下さって構いません」バニラは親切に言った。ヤツデはバニラのやさしさに触れて微笑んだ。
「バニラさんは何から何までありがとうございます。それじゃあ、ぼくたちは行こうか」ヤツデはビャクブに対して軽やかな口調で言った。今のヤツデはサーファーのようにして波に乗っている。ただし、ヤツデはこういう時こそ冷静にならなくてはならないものかもしれないと思い直すことにした。
ヤツデは実際にこれから重要な局面に遭遇することになる。今のところのビャクブにはヤツデの真意はさっぱりとわからないが、とりあえずはヤツデについて行けば、おそらくはバニラのためになるのだとビャクブは信じて気合いを入れてヤツデのサポートをすることにした。今のビャクブはただヤツデを信じているのである。ヤツデとビャクブの二人はこうしてバニラに対してお別れの言葉を述べると一旦は1301号室を後にした。その時にはすでにヤツデも浮ついた気持ではなくなっていた。
その後のヤツデとビャクブの二人はバニラのいる1301号室に荷物を移動させてもらった。ヤツデはその際に一つだけバニラに対して思い出したことを質問させてもらった。
それは些細なことだが、バニラの答えはヤツデの考えを肯定してくれるものでもあった。とはいうものの、ビャクブにはそれを知ったからと言って謎が解ける訳ではなかった。ヤツデとビャクブの二人はチェック・アウトの手続きをすませると2103号室を訪れた。しかし、イチハツとエノキはチェック・アウトをすませたあとだったので、ビャクブはとてもそのことを残念に思った。もっとも、ヤツデはどうしてイチハツとエノキを訪ねたのか、その訳はビャクブにはわからなかった。
ヤツデとビャクブの二人は次にバスでキエフ市のオルレアン公民館の前を訪れることにした。住所は知っていたので、ヤツデとビャクブの二人はとりあえず方々を探して回ることによって幸いにもエノキの住む二階建てのアパートの一室を見つけることに成功した。
ビャクブは表札をしっかりと確認した上でエノキの部屋のチャイムを鳴らした。エノキはすると一秒後にはドアを開けて顔を出した。エノキは玄関の靴脱ぎでしっかりと靴を履いた状態である。
「ヤツデさんとビャクブさんはどうされたのですか?一体」エノキは非常に驚いた顔である。
「エノキさんは驚かれたでしょうが、おれたちもこんなにも早くドアが開くなんて驚きましたよ。エノキさんはこの状態を見る限りではどこかへお出かけになるところだったのですか?」ビャクブは聞いた。
「ええ。そうなんです。それにしても、私は驚きました」エノキはまだ困惑した様子である。
「ぼくたちは重要なお話があってこうしてお宅を訪問させてもらったのですが、エノキさんはどちらかにお出かけなのでしたら、一旦は引き返しますよ」ヤツデは丁寧に問いかけた。そのため、エノキは少し迷ったような素振りを見せたが、やがてはヤツデとビャクブに対して快い返事を返してくれた。
「いいえ。私はお話しをお伺いしましょう。もしも、出かけてしまったら、私はヤツデさんとビャクブさんのお話が気になって仕方がないですからね。どうぞ」エノキはそう言うと自らも靴を脱いでヤツデとビャクブを室内に案内した。エノキはやはり好人物だなとビャクブは内心で思った。
「おれたちは連絡もなく突然に来訪させてもらっちゃってすみません。エノキさんにはご迷惑でなければいいのですが、エノキさんはどこかに寄り道をしていても、おれたちはエノキさんと会えないところだったから、とりあえずはちゃんとエノキさんと会えてよかったな?」ビャクブはエノキの部屋の中を歩きながらヤツデに対して同意を求めた。ビャクブはいつにも増して雄弁になっている。
「うん。そうだね」ヤツデはか細い声で頷いた。ヤツデは妙に元気がないような気がしたので、ビャクブは不思議に思った。ただし、ビャクブはヤツデが疲れているのだろうと推測をした。
エノキはまだ驚きを隠せない様子だったが、とりあえずは来客のヤツデとビャクブをリビング・ルームへと案内した。そこにはまだ旅行用バッグが整理されていないまま置かれている。
「どうぞ」エノキはやおら口を開いた。「お座り下さい。ヤツデさんとビャクブさんはわざわざ私の家までいらっしゃって下さってお疲れでしょう。それにしても、ヤツデさんとビャクブさんとまたこうしてお会いできるなんてうれしいですね。私はお二人を歓迎しますよ」エノキは笑顔である。
「ありがとうございます」ビャクブは代表してお礼を言った。ヤツデは頭を下げた。
「ヤツデさんとビャクブさんはせっかくいらっしゃって下さったのですから、私は粗茶でもお出ししましょう」エノキはそう言うとキッチンへと引き下がった。その間のヤツデは考え事をしていた。
ビャクブはその間にエノキの部屋を見渡した。エノキの部屋は1LDKである。エノキはよく掃除と片付けをするので、室内は質素でもモデル・ルームのように綺麗である。
薄型テレビの横にはポプリがあって芳香を楽しむことができるようになっている。エノキはようするに整然とした環境を好んでいるのである。ビャクブはそんな清潔な部屋を好ましく思った。
エノキの仕事は司書である。エノキは宿舎のある仕事も魅力的に思ったが、一生に関わる選択はやはり本当に自分のやりたいことに基づいて決めるべきだと思い直して司書になったのである。
とはいっても、去年の三月までは学生だったので、エノキは一年間の留年をしているヤツデと同じくまだまだ新米なので、仕事については学ぶべきことはたくさんあるのである。
司書とはちなみに図書館で書物の収集や整理などに関する業務を担当する職員のことである。エノキはこれもまたヤツデと同じく本が好きなのである。そのため、エノキはヤツデがバスの中で読書をしていたのを思い出して本についてクラクフ水族館でヤツデと少しおしゃべりをしていたのである。エノキは間もなくしてキッチンから戻ってきた。ゆくゆくは料理長を目指しているイチハツだが、自炊はしないので、エノキはイチハツと違って毎日のようにしてレトルト食品を食べて暮らしているのである。エノキはヤツデとビャクブが座っている前にある座卓に麦茶の入った二つのグラスを置いた。
「さてと」エノキは腰を下ろして言った。「それではご用件をお聞きしてもよろしいですか?」エノキは確認をした。ヤツデはするとポーカー・フェイスを維持したまま柔らかな口調でゆっくりと答えた。
「用件というのは他でもありません。このようなことを申し上げるのは心苦しいのですが、ぼくたちはどうしてエノキさんがクローブさんの殺害を思い立ってしまったのかをお伺いに参ったのです」
エノキはヤツデの突然の告白に対して思わず目を見張った。つまり、当然と言えば、当然なのかもしれないが、エノキにとってはこのような話が出てくるとは全くの予想外だったのである。
今はエノキの家の中では物音の一つもしない完全な閑寂が場を支配していた。例の話はなにぶんにもヤツデからは聞かされていなかったので、ビャクブは驚きのあまりに唖然として金縛りにあったようにして身動き一つしていない。ただし、ビャクブはヤツデが冗談を言っているとは思っていない。
当のヤツデは悲しそうな顔をしながらも動じた様子はない。なにしろ、ヤツデはここに来るまでに何度もこの時のことを考えていたので、少しは心の準備はできていたのである。
ヤツデは穴のあく程に黒色の瞳でエノキのことをじっと見つめている。それは明らかに談笑している時とは違う目の色である。ヤツデはエノキに笑ってごまかすようなことをしてほしくはないのである。
「ヤツデさんがそうおっしゃるからにはなにかしらの根拠があってのことなんでしょうね?」エノキはヤツデからは目を逸らさずに沈黙を破った。エノキの素振りからは怒っているような感じは受けないが、口調はやや冷淡である。エノキはそれ程に動揺を隠せないでいるという訳である。
「根拠はもちろんあります。ぼくは順を追って説明させて頂くので、最初にお話することは絶対的な証拠とはなりません。ですが、まずはエノキさんに犯行が可能だということを裏づけする手助けになるものだと思ってお聞き下さい。ぼくらはクローブさんの遺体が発見されていた時には一緒にバスでクリーブランド・ホテルへと向かっていました。それではエノキさんにはクローブさん殺害を企てることは不可能でしょうか?ぼくはここでぼくの考え出した『白と黒の推理』というものを活用してみました。ぼくはその内の『黒の推理』を使ってとことんこの疑問と向き合ってみました。答えはすると出ました。不可能ではありません。昨日のことです。イチハツさんからエノキさんが卓球をしにくるまでの間に聞いた話ではエノキさんは事件があった日の午前7時から一時間ほどイチハツさんと別行動を取っていたようですね?そうなると、エノキさんにはあの日の7時から8時まではアリバイがないということになります。クローブさんの死亡推定時刻はそして午前7時30分から8時35分頃だそうです。これなら、イチハツさんと別れたあとすぐにイチハツさんと一緒に訪れるであろう場所に予め止めておいたバイクを使ってクリーブランド・ホテルまで戻っておおよそ7時30分の前後に必要な作業を終える。それが終わったら、エノキさんはまたバイクに乗ってイチハツさんとの待ち合わせ場所の近くまで直行してバイクを止めて8時までには何くわぬ顔をしてイチハツさんと再会することは可能です。ですから、そう考えれば、死体発見時刻の7時35分にも無理はありません。ぼくたちがバスの中で知り合いになった時刻はそれから約30分後のおよそ午前8時30分の前後でした。となると、その時のエノキさんはすでに、犯行を終えていたということになるんです」ヤツデは落ち着きを見せながらも少し冷厳に言った。
「なるほど」エノキは譲歩した。「ですが、それは初めにヤツデさんがおっしゃったとおりに私がクローブさんという方を殺害したということについては無関係かもしれませんよね」エノキは反論を試みた。
「おっしゃるとおりです。ぼくが先に申し上げたのは補足事項に他なりません。本題はここからです。ぼくたちはこちらにお伺いさせてもらう前にバニラさんから謎の人物から届いた一枚目の手紙を拝見させてもらって拝借もしてきました。それはこちらです」ヤツデはエノキにも見えるようにしてその手紙を広げた。今までは堪然としていたエノキも顔を上げて問題の手紙に目を向けた。ただし、そのレターは初めて見るものなのか、そうでないのか、そのエノキの様子からは少し判断が難しかった。
しかし、ヤツデはそもそもエノキの反応を窺うようなことはしなかった。エノキはどう反応するのかは別に見なくてもすでにヤツデにはエノキとその手紙の関係はわかっているのである。
文面は短いものだが、そこには二つの衝撃の事実が記載されているので、手紙はかなり重みのあるものになっている。そこにはとにかく次のようなことが書かれていた。
本日の私は8年前の復讐を果たしました。過ぎ去ってしまった時は戻りませんが、止まっていた時は動き出すことを願います。バニラさんのお兄さまの無念はこれによって晴らせたことと思います。
ビャクブはこれを見ると胸のつまるような思いに捕らわれた。もしも、これをエノキが書いたのだとしたら、エノキは本当に殺人を犯したということになるからである。
ビャクブはそして短兵急にエノキとの数々の会話を思い出した。そうすると、今までは微塵もそんな素振りを見せなかったエノキは途方もなく上等な男優だったのだなとビャクブは思った。とはいっても、ビャクブはそのことについて少しもエノキを軽蔑するようなことはしなかった。この手紙には二つの要点がある。第一に、重要なのはこの手紙の主がクローブを殺害した点である。第二に、重要なのはクローブこそがバニラの兄を殺害した真犯人であるということが書かれている点である。
「これはタイミングから見てもクローブさん殺害事件の犯人から届いた手紙だと見てまず間違いはありません。もしも、事実なら、この内容は確かにバニラさんに知っておいてもらいたいという気持ちもよくわかります」ヤツデは割とあっさりとした口調で話を続けた。そのため、エノキはヤツデの知謀を計りかねている。バニラが他の人に悩みを話さなかった理由とは自分の兄を殺害したかもしれないクローブに対して制裁を加えた何者かを守ってあげようとしていたからだったのである。
「ただし、8年前の事件についてはひとまず置いておきます。ですから、今はクローブさんが殺害された事件についてのみ考えます。犯人からはバニラさんに当ててもう一枚の手紙が届いています」ヤツデはそう言うと先程と同様にしてエノキにも見えるようにして二枚目の手紙も広げて見せた。
「ぼくはこの手紙を見て一つの引っかかりを覚えました。それは『寝起きから失礼を致します』という部分です。一見すると、これはなんでもないような文章で読み飛ばしてしまいそうですが、よく考えてみると、この一節は不要なものと言えば、不要なものですよね?それなのにも関わらず、その一節はしっかりと挿入されています。この一節は必要なものなのかではなくてなにか意味のある必要なものだとぼくは信じてみることにしてみました。いわゆる、ぼくの言うところの『白の推理』です。ぼくはそしてこの一節について深く考え続けました。結論を言えば、ぼくにはある一つの考えが思い浮かびました。これはアナグラムですよね?まずは寝起きをアルファベットでローマ字表記にしてみます。NEOKIです。これを少しだけ並べ替えると、ENOKIにもなります。つまり、この一節はエノキから失礼を致しますと言うのが真の意味だった訳です。ホテルではエノキさんがバニラさんに熱い視線を送っていた理由にもこれで説明はつきます。エノキさんはバニラさんに一目惚れをしていた訳ではなくて8年前の事件の関係者だということを記憶の糸を手繰り寄せて確かめようとしていた訳です。それに、エノキさんならば、バニラさんの借りている部屋の番号も知っていたはずです。なぜなら、ぼくは1301号室の部屋のキーについてイチハツさんとエノキさんに対してお話しをしたからです。つまり、エノキさんはそれを記憶していればよかったということです。犯人はちなみに二枚目の手紙を差し出す時に少しだけビャクブと擦れ違いざまに話を交わしています。ビャクブとすれ違ったその時の男性は声が高かったということですが、その男性は咄嗟のことだったとは思いますが、おそらくは意図的に普段の自分の声とは違うトーンで話したのでしょうね。相手はましてや知り合いであるビャクブですからね。ビャクブから聞いた話で参考になりそうなことはもう一つあります。その謎の男とエノキさんの背格好がほぼ一致するということです。いかがですか?ここまででのお話でどこか間違っているところはありましたか?」ヤツデは聞いた。
ヤツデはなにもこれだけのことが一瞬でわかった訳ではない。なにしろ、ヤツデの一隻眼というものは時間をかける程に有力になってくるので、ヤツデはアナグラムの例を一つ取ってみても二日間もかけてやっとの思いで考えつくことができたのである。ヤツデは考え抜く力に長けているのである。
「降参です。無駄な抵抗は私も遠慮しておきます。ヤツデさんには負けました。バニラさんへの手紙には罪を自白してありますから、それと私を結びつけられてしまったら、私は降参せざるを得ません。ヤツデさんはいつから私が怪しいと思い始めていたのですか?きっかけはやはりバニラさんの手紙を見てからですか?」エノキはたっぷりと間をおいてから聞いた。しばらくは何も言わずに黙っていたのである。
「いいえ。エノキさんの発言にはそれ以前から不可解な点がありましたから、きっかけはそれを知ってからです」ヤツデは答えた。隣にいるビャクブは興味深そうにしてその話に聞き入っている。
「私はどんな不可解なことを言ったのですか?」エノキは興味深げである。
「あれはぼくたちがクラクフ水族館でお会いした時のことです。あの時のエノキさんはぼくたちに対して確か『クラクフ水族館はクリーブランド・ホテルからも見えるくらいに近いからいいですよね』とおっしゃいましたよね?ところが、クリーブランド・ホテルからクラクフ水族館が見える場所は限られているんです。ぼくが毒物を発見した部屋からは確かにクラクフ水族館が見えました。しかし、ぼくはその後で試しに5階からクラクフ水族館を見てみようとしましたが、クラクフ水族館は他の建物が障害物となって見ることはできないんです。それではエノキさんはクリーブランド・ホテルの6階にどんな用事で行ったことがあったのか、その時は漠然とした疑問を抱いただけでしたが、とりあえずはそれがエノキさんに対してぼくの感じた不信感でした。とはいっても、エノキさんはクリーブランド・ホテルから割と近いところにお住みになられています。ですから、エノキさんは以前にたまたま6階に部屋を借りたことがあるという可能性も考えられなくはありません。しかし、エノキさんは自宅からわざわざ近くのホテルに来たことがある可能性は低いかもしれません。ぼくはそこで昨日にもう一つ気になる話を聞きました。それはエノキさんがなくしてしまったうちわの行方についてです。イチハツさんは昨日にエノキさんがうちわを発見したところを見てはいないとおっしゃっていましたが、エノキさんがうちわを発見していることは知っていました。しかし、普通は失くしたうちわをそう簡単に発見できるものでしょうか?ぼくはここで再度『黒の推理』を使いました。答えは発見できるです。ただし、それは場所がわかっていればの話です。エノキさんはうちわを簡単に発見されたという事実と先程にも申し上げたエノキさんが6階に行ったことがあるという事実という一見すると関係のなさそうに見えるその二つの事実を繋ぎ合わせて考えれば、エノキさんは2604号室にうちわを忘れてきたということになりはしないだろうかとぼくは考えたのです」ヤツデはゆっくりとした口調で言った。エノキはヤツデの話が途切れると持ち前の低音で言った。
「ヤツデさんはすばらしい推理力ですね。全てはヤツデさんのおっしゃるとおりです。話は前後してしまいますが、バニラさんについてのことも当たっています。私は初め他人の空似なんじゃないかと思いました。しかし、それはやはり違いました。その証明はヤツデさんからクラクフ水族館で聞いた話でなされました。バニラさんはクローブさんと面識があったらしい。ヤツデさんはそのようにおっしゃっていましたからね。私はこんな偶然があるなんて思いもよりませんでした。ヤツデさんは初め私に対して『どうしてクローブさん殺害を思い立ってしまったのかをお伺いに参ったのです』とおっしゃっていましたが、バニラさんからあの手紙を見せてもらっている以上はそのことについてもおおよその見当はついているのではありませんか?私にはそう思えてなりません」エノキは言った。今はエノキがクローブを殺害した理由について話題に上っているので、聞き役に回っているビャクブはますます話に引き込まれている。
「はい。考えはおぼろげながらあります。これはぼくの推測ですが、プスタ県で8年前に殺害されたアイさんという看護師はエノキさんのお母さんなのではありませんか?ぼくはこちらをお伺いする前にバニラさんからお聞きしたのですが、アイさんには息子さんが一人いたということでしたからね。それに、話にはまだ出ていませんが、それは動機という点から考えても妥当なところだと思います」ヤツデは言いきった。バニラの部屋に荷物を置きに行かせてもらった時のヤツデはアイの息子のことをバニラから聞いていたのである。ビャクブは同時にエノキと初めて会った時にエノキが一人っ子だと言っていたのを思い出した。となると、ヤツデはそんな細かい点でも裏づけを取っていたのかとビャクブは感心をした。
「そのとおりです。私の母はバニラさんのお兄さんに殺害されたことになっていますが、それは事実ではありませんでした。私は三ヶ月前に母の遺品を改めて整理をしていたら、このようなものが出てきたのです」エノキはそう言うと服のポケットから一枚の紙を取りだすとヤツデに対して丁寧に手渡した。
つまり、その手紙によってエノキの母親であるアイはバニラの兄であるルーではなくてクローブによって殺害されたということがわかるようになっているという訳である。
様々な事実が明るみに出されて少し頭は混乱しているし、なによりも、ビャクブは圧倒されっぱなしではあるが、とりあえずはビャクブも横からそれを見せてもらうことにした。
エノキは悲しげだが、今ではヤツデとビャクブには自分がクローブを手にかけようとした理由の全部を知ってもらおうと思っている。そこには以下のような内容のことが書かれていた。
内容についての察しはつくかもしれないが、私はルーとアイとの関係について話がある。午後11時に病院の屋上で会おう。話はプライベートなことだし、私はもちろんだが、今宵はアイにとっても聞かれたくない話をする予定だ。このことは誰にも言わずに一人できてほしい。クローブから愛するアイへ。
エノキはヤツデのことを注視していたが、ヤツデはどんな反応も見せなかった。ヤツデは今もってポーカー・フェイスのままである。ヤツデは実際に文章を読んでも特に驚かなかった。
そのため、エノキはまたもや感心をした。エノキは同時にどうやら自分のことをヤツデは理解してくれているのだなと思って少しばかり安堵のような気持を抱くようになった。
一方のビャクブはヤツデの持つ紙を横目で見ながら一驚してしまった。今まではヤツデとエノキの話に中々割って入れなかったが、ビャクブは久しぶりに発言をすることにした。
「え?アイさんとクローブさんはそういう関係だったんですか?しかしですよ。配偶者はアイさんにもクローブさんにもちゃんといるじゃないですか。つまり、アイさんとクローブさんは二人共が不倫をしていたということですか?」ビャクブは混沌としていて全く話について来られていない。
「いえ。私の母の場合は不倫ではありません。私の父は私が5歳の時に胃の進行ガンで命を落としているのです」エノキはことさら無表情で言った。エノキは当然のことながら未亡人になってしまった母と理屈もよくわからぬまま最愛の父を亡くした昔の自分については思い出したくないことなのである。
「しかし、クローブさんの場合は違います。私は当時からクローブさんにはネズさんという奥さんがいるということを母から聞き出していたんです。だから、私は『そんな関係を続けるのはよくないから、そんな交際はすぐに止めた方がいい』と母に何度も言いました。しかし、母は私の言うことには耳を貸してはくれませんでした。話は横にそれてしまいました。お二人にご覧になってもらっている手紙に書かれた待ち合わせ時刻は母が殺された時刻なんです。つまり、その時刻に母と一緒にいたのはルーさんではなくてクローブさんだったということです。これは何を意味するのかは言うまでもありません。母を殺害した真犯人はクローブさんだったという訳です」エノキはビャクブにもわかるようにして結論を出した。
隠されていた真実が明るみに出ることによってエノキにとっての不倶戴天の敵はクローブだったということが判明した訳である。となると、バニラの兄のルーは紛れもなく冤罪だったという訳である。
「ルーさんの動機が弱い点はぼくも気になっていたことです。それは十分に考えられる話ですね」ヤツデは合いの手を入れた。その間のビャクブはヤツデから紙を受け取ってその紙をじっと眺めている。
「そればかりか、おそらくはルーさんを殺害してルーさんに対して濡れ衣を着せたのもクローブさんだと思います」エノキは断言した。つまり、クローブは極悪非道なことにも死んでしまって反論することのできないルーのことをスケープ・ゴートとして利用していたということである。
「それは確かに体格差から言っても可能でしょうね」ヤツデは再び口を挟んだ。
「ヤツデさんはなぜルーさんとクローブさんの体格をご存じなのですか?」エノキは意外そうである。ルーは確かに小柄だったし、クローブは大柄だということはエノキも知っているのである。
「それはもちろんバニラさんとネズさんからそれぞれお聞きしたからです」ヤツデはさらっと答えた。
「ヤツデさんは聞き込みも入念になさっていたみたいですね」エノキは感心した様子である。エノキは衷心からヤツデに敬服をしている。エノキはそして真剣な表情で話を再開した。
「母が逝ってしまったのは私が15歳の時でした。私が拒食症になったというお話はお二人もイチハツの口からお聞きになられていますが、それはこの時のストレスと不安が原因だったのです」
エノキはアイが亡くなると中学校の三年生から20歳まで児童養護施設で育って大学は奨学金の制度を利用して在学していたのである。ビャクブはエノキの苦悩を思うと自分も悲しくなった。
「今となっては母には言い残したことやもっとしてあげたかったこともなにもしてあげられません。私はなんの恩返しもできないままもう二度と母とは会えなくなってしまいました。私はそして先程も申し上げましたように三か月前に事件の真相を知りました。私は母の命を奪って私の人生やそれだけではなくて濡れ衣を着せられたルーさんとその家族の人生までも狂わせているという事実を知ると湧き上がる怒りを抑えつけることはどうにも不可能な程に膨れ上がって行きました。クローブさんはかっとなると誰にでも暴力を振るって喚き散らしていたそうです。それなら、殺人の容疑は抱かれてもよさそうですが、クローブさんには友人と一緒にいたという鉄壁のアリバイがあったのです。クローブさんにはさらに動機もなかったのです。それもそのはずです。なぜなら、殺人の動機は普段から人に振るっていた身体的な暴力や精神的な暴力の延長でなされたことだったからです。ヤツデさんの推理には驚かされましたが、ビャクブさんからクラクフ水族館で聞いた話によると、バニラさんは明日までクリーブランド・ホテルに滞在する予定らしいので、私はしっかりと計画を改めて考え直してから直接にバニラさんに全ての事情を伝えることができたなら、実は自首をするつもりだったのです。ですから、バニラさんに手紙を出した時は誰か他の人に姿を見られないようにわざわざ変装をしていたのです。でも、正直に申し上げると、始めは確かに私も逃げおおせるつもりでした。しかし、それでは結局はクローブさんと同じになってしまうと気づいたのです。しかし、それはどうやら叶いそうにもないですね。ヤツデさんとビャクブさんは私を殺人犯として警察へと突き出して下さい。ヤツデさんとビャクブさんによって引導を渡されるなら、私は本望です」エノキはそう言うと立ち上がろうとした。ビャクブはなにもできずにおろおろしている。
「そのセリフが根本から間違っていることを一番によくわかっているのはエノキさんご自身のはずですよ。ぼくは初めに『エノキさんはどうして殺人を犯そうと思い立ってしまったのですか?』と聞いたのですよ。ぼくはそれからも気を使って話を進めてきたつもりです。ぼくは『エノキさんはどうして殺人を犯してしまったのですか?』とは一回も聞きませんでした」ヤツデはきっぱりと言った。
立ち上がりかけていたエノキはそれを受けると動きを止めて固まってしまっていたが、やがてはすとんと腰を下ろした。エノキにとってはやはり今のヤツデの言葉は予想外だったのである。
エノキの家の部屋では再び沈黙が場を支配していた。ヤツデは落ち着きという点では桁外れにビャクブとエノキを凌駕している。それはもちろんヤツデがこの沈黙をもたらした張本人だからである。
一方のビャクブは頭が混乱している。先程のヤツデのセリフは寝耳に水だったので、ビャクブは完全に固まってしまっている。今のビャクブは魑魅魍魎でも目にしたかのようにしてぽかんとしている。ビャクブはようするに話についていけていないのである。ビャクブはある意味ではかわいそうである。
エノキは腰を下ろしてから座卓の上にあるクローブの手紙をぼんやりと見つめていたが、沈黙を破ったのはまたもやそのエノキだった。エノキはやがて勃然と口を開いた。
「まさかとは思いますが、ヤツデさんはそこまで推理をされているのですか?私にはとても信じられません」エノキは呆然としている。ヤツデはエノキの言うとおりに全ての真相を知っていた。ヤツデはそれに答えようとしたが、ビャクブはエノキの質問を宙吊りにしたまま発言をした。
「エノキさんはちょっと待ってくれませんか?おれは訳がわかんなくなってきました。ヤツデは今までエノキさんがクローブさん殺害事件の犯人として話を進めてきたんじゃないのかい?話の流れはどう考えてもそうだよな。うん。それとも、まさかとは思うけど、実はこの事件には他に犯人がいたとか言いだすんじゃないだろうな?」ビャクブは心中の読めない相棒のヤツデに対して質問を発した。
「もしも、そうなら、それはかなり衝撃的だけどね。でもね。ぼくは他に犯人がいたなんて言い出したりはしないよ。今回の事件はだって正確には事件じゃなくて事故なんだからね」ヤツデは笑みを浮かべて言った。ヤツデは自分の推理に自信を持っていることもあって落ち着き払っている。
「え?なんだって?事故だって?」ビャクブは突拍子もない声を上げた。
「ぼくは自分で推理したことを話してもいいんだけど、ここにはせっかく当事者がいるんだから、事情はエノキさんに話してもらおうよ。もしも、よければ、エノキさんはお話を聞かせて下さいませんか?」ヤツデは丁寧に懇願した。ビャクブはとりあえず成り行きに身を任せることにしている。驚きはあまりにも大きくて未だに茫然自失の体だったが、一度は頷いてからエノキは話を切り出した。
「わかりました。それにしても、ヤツデさんには驚かされます。ヤツデさんはひょっとして現場を見ていたんですか?さもなければ、ヤツデさんは超能力者か、あるいは千里眼だとしか思えません。私は『私は8年前に母が殺された事件の真実を知っている。私はそのことで話をしたい』といったような趣旨の手紙を匿名でクローブさんに宛てて出しました。私は手紙を出してしまうと証拠を残してしまいますから、最後には『この手紙は持参するように』と書き添えておきました。会う場所はクリーブランド・ホテルの2604号室です。時間は午前7時と指定しました。殺害現場はなぜクリーブランド・ホテルにしたかときかれたら、イチハツはその頃には偶然にもクリーブランド・ホテルに泊まって旅行をしたいと言ってきていたのです。私はいっそのことこれを利用したいと思いました。理由はあとでお話しますが、クローブさんの遺体は人の多くいるところで発見されなければならなかったからです。部屋は私が偽名を使って一度はビャクブさんに見られてしまった変装をして借りたのです。自室とは別の部屋を借りたのはイチハツには迷惑をかけないでなおかつ当初は私も嫌疑を受けないようにするためでした。毒物はインターネットで手に入れることができたので、殺害方法は毒殺を予定していました。私はそもそも血を見るのが苦手なのです。しかし、一応は不慮の事態に備えてナイフも用意しておきました。事件のあった日のことです。クローブさんはほぼ時間のとおりに姿を現しました。私は窓際のテーブルのイスにクローブさんを招きました。テーブルには毒入りのコーヒーを用意していましたので、私はそれをクローブさんに勧めました。しかし、計画にはやはり無理があったのか、警戒をしているせいもあったのでしょうが、クローブさんは結果的にコーヒーには口をつけることはしませんでした」エノキは言葉を切った。
「クローブさんはタバコを吸っていたからではありませんか?」ヤツデは口を挟んだ。
「え?ええ。それはまさしくそのとおりでした」エノキは目を丸くして答えた。
どちらも高性能とはいっても、クリーブランド・ホテルの客室には火災報知機とスプリンクラーが天井に設置されているので、本当は禁煙なのである。だから、部屋には灰皿がなかったのである。
ところが、エノキとの密会中のクローブは窓を開けて喫煙をしていたのである。クローブの横暴さはそこからも窺うことができる。クローブみたいにして粗暴な人間はトイワホー国では滅多に見られないタイプである。常識はきちんと持ち合わせているので、その時のエノキはそのようなクローブの掟破りを見ていると少し気分が悪くなってしまった。エノキはやがて当然の疑問を口にした。
「ヤツデさんはなぜクローブさんがタバコを吸っていたということをご存じなのですか?」
「それは簡単な推理です。クローブさんはネズさんから聞いた話では喫煙者であるということでした。2604号室にはそしてタバコの吸い殻が落ちていました。あとはこの二つの事実を繋げて考えればいいだけの話です。ぼくはそれによって2604号室にクローブさんが足を踏み入れた可能性を強めました」
「そうでしたか。ヤツデさんの慧眼には全く驚かされます。話を元に戻しますが、話はその間にもクローブさんが8年前の事件の真犯人であってその証拠も揃っているということにまで及びました。しかし、予期しないことがここで起きました」エノキはその時のことを思い出しながら説明をしている。
その時のクローブはなんとエノキの口を塞ぐためにだみ声で叫びながら飛びかかってきてきたのである。しかし、クローブはテーブルの脚に突っかかって転んでしたたか頭を打ってしまった。当たりどころは運悪くも悪かったので、クローブはそのまま死んでしまったのである。エノキは話を続けた。
「クローブさんは左腕を骨折していたようだったので、地面には手をつくことができなかったのです。カップに入っていた毒入りのコーヒーはその時に零れて床に染み込んでしまいました。私は全く予期していなかった事態に直面しましたが、とりあえずは血痕を拭き取ってクローブさんの服のポケットから私が出した手紙を見つけて取り出しました。私はそして予ねてから計画していたようにクローブさんの遺体を多くの人の目に晒すためにエレベーターへと運びました。どういう訳なのか、私の母は病院のエントランスの柱に凭れかけられて発見されていたからです。つまり、意地の悪い嫌いは避けられませんが、私はクローブさんにも同じ醜態をさらしてもらいたいと思ったのです。警察には結果的にエレベーターが殺害現場であるという印象を与えてしまったようですが、遺体を移動した本当の理由は先に申し上げたとおりなのです。遺体の移動は捜査を撹乱させるためにしたことではありませんでした。私はそして遺体を運び終えた時にふとナイフで遺体を刺せば、クローブさんの遺体はもっと人目を引くんのではないかと思ったのです。先程も申し上げたとおり、血液はなるべく見たくなかったので、刺したあとはそちらに目を向けないようにしてそのとおりにしました。ただし、その時は気が動転していたので、私はヤツデさんのおっしゃったようにして不覚にも2604号室にうちわを忘れてきてしまいました。以上は今回の事件の一部始終です」エノキはようやく長い話を終えた。しかし、エノキには苦々しい様子は見られない。
「三重殺はそのようにして結果的にでき上がったという訳ですか」ビャクブは感想を述べた。
まとめてみると、エノキはまず毒殺をしようとしたが、それはあえなく失敗した。クローブは次に転倒をして死亡をした。エノキは死体を運搬したから、クローブは撲殺されたように見えた。エノキは最後に人目を引くようにクローブを刺したから、クローブはあたかも刺殺されたかのように見えていたので、結局は三回も殺されたように見えたのである。順番は毒殺→撲殺→刺殺である。
「私は自身も事態に翻弄されていたのですが、ようはそういうことです。ヤツデさんはひょっとして母の遺体がなぜ柱に凭れかかっていたのかも推理できていませんか?」エノキは聞いた。
「ぼくなりの考えはあります。クローブさんはたぶんアイさんを屋上から突き落としたあとで交通事故に見せかけるために遺体を別の場所へと移動しようとしたのかもしれません。しかし、アクシデントがそこで発生した。その場には誰か人が現れたのです。クローブさんは遺体を引きずっていたのでは明らかな不審者ですから、とりあえずは遺体を柱に凭せかけて怪しまれないようにしてから遺体をそのままにしてその場を早々にあとにしたのではないかとぼくは思います。ただし、この推測には合っているかどうかの自信はありません」ヤツデは謙抑な態度を見せた。しかし、エノキの評価は違った。エノキは言った。
「私の行動を全て推理して当てて見せたヤツデさんです。真実はきっとヤツデさんのおっしゃるとおりなのでしょう。しかし、そうではなかったとしても、今となってはどうでもいいことです」
「おれにはヤツデの意見が合ってそうに思えますがね。となると、ああ。そうだ。でも、クローブさんがアイさんとルーさんを殺害した理由はまだわかりませんよね?」ビャクブは聞いた。
「うん。そうだね。ただし、アイさんに来た手紙の内容から察すると、アイさんはルーさんと仲が悪いという評判とは裏腹にして本当は懇意な仲だったのかもしれないね。だから、クローブさんは自分も不倫をしているということを棚にあげてアイさんにそのことを問いつめた。おそらくはその話がこじれて殺人へと繋がってしまったんだと思うよ。それから、クローブさんはたぶんアイさんの浮気相手であると思い込んでいたルーさんに対して罪を着せようとしたから、それこそはクローブさんがルーさんを殺害した理由なんじゃないかな。もっとも、アイさんとルーさんの間には本当に恋愛感情があったかどうかは怪しいけどね。さてと、それじゃあ、ぼくとビャクブはそろそろホテルに戻ろうか。エノキさんはもちろん一緒に来て下さいますよね?真実はエノキさんの口からバニラさんに伝えてあげて下さい。エノキさんはそしてルーさんを恨んでいないと伝えてあげて下さい。一度は直接にバニラさんに会おうとなさっているのですから、エノキさんにとってはそれが本望なはずですよね?」ヤツデはゆっくりとした口調で問うた。
「ええ。それはそうなんですが、ヤツデさんは本気ですか?」エノキは驚倒した。エノキはヤツデがそんなことまで取り計らってくれるとは思ってもいなかったのである。しかし、ビャクブに言わせると、ヤツデはそんな人間なのである。ビャクブはその証拠としてそれを至当な処置だと思っている。
「はい。ぼくは本気です。エノキさんはそもそもこれから自首をしようとしていたのにも関わらず、ぼくたちは邪魔をしてしまったんですよね?」ヤツデは質問をした。エノキはしばらくそれに対して二の句が継げない様子だった。エノキはやがて冷静になってから次のようにして返答をした。
「おっしゃるとおりです。しかし、それは私がそう言っただけです。私はそれでも自首をさせてもらえるのですか?」エノキは確認をした。エノキはてっきりとヤツデが自分を追いつめに来たと思っていたのである。ヤツデはここでようやくポーカー・フェイスを崩した。この場の空気は少し軽くなった。
「エノキさんはそうおっしゃらなくても自首扱いにならならないとおかしいですよね?エノキさんの中では確かにバニラさんと連絡が取れなくて自首をした方がいいかどうかという葛藤は生じたかもしれませんが、最後には自首なさることに決めたはずです。ぼくたちがこちらにお伺いをした時のエノキさんが靴脱ぎにいらっしゃったのはそのためです。それから、エノキさんはクローブさんがアイさんを殺害した真犯人であることを示す証拠の手紙をポケットに入れておいたのもそのためです。もっと言えば、先程のエノキさんは玄関でこのようなことをおっしゃいました。もしも、出かけてしまったら、ぼくとビャクブの話が気になって仕方がない。このセリフはしばらくぼくたちとは会うことができなくなるということを暗示しています。なぜなら、エノキさんはこれから自首する気でいたからです。そうですよね?」ヤツデは完全なる理詰めによって確認をした。ヤツデはなおも切り札を隠し持っていたのである。
「おっしゃるとおりです。しかし、私は自首よりも先にヤツデさんとビャクブさんに真実を暴かれたのであれば、逮捕されることは仕方がないと思っていたのです。それに、信じてはもらえないかもしれませんが、結局は殺人を犯しませんでしたが、私は殺人犯として逮捕されてもいいと思っていました。私はそれくらいに大変なことをしでかしてしまったと思っているからです。ヤツデさんは私にバニラさんと話をさせて下さるだけではなくて自首までさせてくれるとおっしゃるのですか?」エノキは驚いている。
「はい。もちろんです。ビャクブはもちろんそれでもいいよね?」ヤツデは確認をした。
「ああ。問題はないよ。おれはエノキさんとは三日前にお会いしたばかりですが、赤の他人よりはエノキさんの人柄をわかっているつもりです。だから、エノキさんの考えそうなことはわかります。エノキさんは自首をしようとしていたっていう話はおれも信じていますよ」ビャクブは穏やかに言った。
「お気遣いを本当にありがとうございます。私は感謝してもしきれない程にヤツデさんとビャクブさんに対しては本当に感謝をしています。用事がすんだら、私は間違いなく自首をします。それはなんとしても固く誓います」エノキは宣言をした。ヤツデとビャクブはエノキのセリフを信じている。
「それでは決まりですね。ぼくたちは早速にバニラさんのところへと行きましょうか」ヤツデは再び黒い瞳でエノキをじっと見つめたままそう言うとゆっくりとした動作で立ち上がった。
エノキは推理力も去ることながらこの『愛の国』トイワホー国においてもヤツデのやさしさは多くの人を超越しているなと気づいた。なにしろ、見たくれや心遣いだけではなくてヤツデの口から出てくる言葉はことごとく温良なのである。そのため、エノキは安心ができるのである。
エノキは元々外出をする予定だったので、戸締りをする必要はなかった。そのため、エノキはやがてヤツデとビャクブと共にすぐに自宅をあとにすることになった。
自分は話の聞き手になっているだけであまり役に立たなかったなとビャクブは考えた。ただし、ビャクブはヤツデと違ってその程度のことではくよくよとするような玉ではない。
ビャクブはそもそも本人も気づいていないことだが、そばにはビャクブがいたから、ヤツデは今まで自信を持ってエノキと話ができていたのである。つまり、ビャクブはヤツデにとっていてくれるだけでうれしい知音なのである。それに、活躍の機会はまだビャクブにも残されている。そのため、ビャクブはヤツデにも気づいていない事実を打ち明けるのが密かな楽しみなのである。
ヤツデとビャクブとエノキの三人はこうしてバスに乗ってクリーブランド・ホテルまで帰ってきた。ヤツデとビャクブの二人はそして早速に緊張気味のエノキを連れてバニラのいる1301号室を訪れた。
バニラはすると最初こそ第三者であるエノキのことを興味深げにして観察をしていたが、エノキはヤツデとビャクブの友人であると紹介されるとすぐに三人は部屋に入らせてもらえた。
という訳なので、ヤツデとビャクブとエノキの三人はバニラと共に和室の部屋にテーブルを挟んで腰を落ち着けた。スミレとシランは気を使って離れたところでテレビを見ながらおしゃべりをしている。
「バニラさんにはいいニュースと悪いニュースがあります。まずは独断で申し訳ないのですが、ぼくはいいニュースから申し上げます。バニラさんはそれでもよろしいですか?」ヤツデは話を切り出した。
「ええ。それは構いませんけど、あなたとはどこかでお会いしたことがありましたか?」バニラはヤツデの質問に頷いてからエノキを見据えて聞いた。そのため、ヤツデは改めてエノキを紹介した。
「バニラさんはエノキさんと8年前に会ったことがあります。バニラさんは覚えていませんか?8年前と言えば、ルーさんとアイさんの事件があった時のことです。ぼくがバニラさんと初めてお会いした時にもエノキさんはあの場にいたのですが、バニラさんはやっぱりお気づきにならなかったのですね」ヤツデは言った。あの時のヤツデとエノキはちなみに別のテーブルの席に腰を下ろしていたのである。
「ああ。あなたは私の兄のルーに殺害されたアイさんの息子さんですね。言葉だけでは許されることではないということはわかっていますが、その節はどうもすみませんでした」バニラは陳謝をした。
「私の母を殺害したのはルーさんではないのですから、バニラさんはどうかそんなにも恐縮なさらないで下さい。バニラさんは信じられないかもしれませんが、実は私が手紙に記載させてもらったことが事実なのです」エノキは断言をした。予想していたこととはいっても、バニラは『え?』とエノキの言葉を聞き返した。そのため、ヤツデとエノキの二人はバニラに対して8年前の事件の真相とクリーブランド・ホテルにおけるクローブの死について包み隠さずに説明をした。ビャクブは反復をするためにそれに耳を傾けていた。なにしろ、今日は色んな事実が判明したので、ビャクブは少し混乱気味だったのである。
多少は解説が遅れてしまったが、事件後のクローブがルーの妹であるバニラに対してやさしい態度を取っていたのはもちろん少しは申し訳ないと思っていたからである。
バニラはとにかくヤツデとエノキの話を真剣な表情をして聞いていた。ヤツデはできるだけわかりやすく話すことを心がけた。バニラはやがてヤツデとエノキの二人が話を終えると言った。
「エノキさんから頂いた手紙のとおり、私の兄はやっぱりクローブさんが殺害したんですね。8年前の事件があったあとのクローブさんはあんなにも私によくして下さっていたのにも関わらず、私は未だに信じられません。でも、私の兄のルーの汚名を晴らすことができたこともエノキさんが殺人犯にならなくてすんだことは本当によかったです。私にとってはエノキさんがクローブさんと同じことを繰り返したのだと思うことは本当につらかったんです。エノキさんからのお手紙には『復讐を果たした』と書かれていたので、エノキさんはてっきり本当にクローブさんを殺害してしまったのかと思っていましたが、実はそうではなかったなんてびっくりです」バニラは大体の事情を把握して感想を漏らした。
「エノキさんの犯行がお釈迦になったことについては同感です。もしも、エノキさんがクローブさんを殺害されていたら、バニラさんでさえもひょっとしたらお兄さんのルーさんの苦衷を察することができない程につらいものだったと思います。そう言えば、先程のエノキさんはぼくたちに対してこのようなことをおっしゃっていました。クローブさんの犯行は濡れ衣を着せられたルーさんとその家族の人生までも狂わせているという事実を知ると湧き上がる怒りを抑えつけることはできなくなりました。エノキさんはアイさんの無念の復讐のためだけではなくてバニラさんを含めたルーさんの家族のためにも今回の凶行を思い立ったのです」ヤツデは理路整然と大事な事実を伝えた。バニラは驚きを隠せない様子である。
「そうだったのですか?エノキさんは私達のためも思って復讐を企てたのですか?」
「確かに」ビャクブは口を挟んだ。「そう考えれば、エノキさんが二度もバニラさんに手紙を送って接触を図ろうとしたことにも説明はつきますからね」ビャクブは鋭い指摘を入れた。ヤツデは話を続けた。
「ぼくは人の心の痛みをわかろうとする努力に畏敬の念を抱きます。また、ぼくはそんなやさしい心を持ち合わせた人の幸福をも願っています。それはたぶんバニラさんも同じだと思います。エノキさんは殺人罪に問われることはありません。それでも、エノキさんは罪を償ってアイさんのためにも力強く生きて下さい。大したことは言えませんが、それはきっと今のエノキさんにとっては重要なことだと思います」
「わかりました。私はやはりヤツデさんとビャクブさんには感謝してもしきれない程にお世話になりました。今の私がこうしてバニラさんとお話をさせてもらえているのもヤツデさんとビャクブさんの好意によるものです。本当にありがとうございます」エノキは噛み締めるようにして言うと深く頭を下げた。
「それではお気の毒なことですが、バニラさんには悪いニュースもお伝えしなければなりません」ヤツデは中庸な立場から言った。しかし、エノキはヤツデの言葉に対して少し意外そうにして言った。
「え?バニラさんにとってのいいニュースというのはルーさんが無実であったということで悪いニュースというのはクローブさんが真犯人であったということだと私はてっきり思っていましたが、それは違うのですか?一応はお聞きをしますが、その悪いニュースとは私も関係していることなのですか?」
「バニラさんにはエノキさんのお宅を訪ねる前にクローブさんが8年前の事件の犯人であるということを示唆したら、バニラさんはそれを受け入れる心の準備はできているということでしたので、ぼくはあえてそのことを悪いニュースだとはカウントしませんでした。だから、お察しのとおり、悪いニュースの方はエノキさんとは全く関係はありません」ヤツデの口調は暢達としている。しかし、ヤツデの内心は少しつらいのである。ビャクブはなんのことをヤツデが言っているのかは理解できてはいない。
「それでは私は席を外しましょう。私はもう警察署へ行ってきます」エノキは立ち上がった。
「ああ。もしも、よろしければ、エノキさんはアイさんの遺品を整理していたら、出てきたという紙を貸して頂けませんか?」ビャクブはエノキを呼び止めた。エノキは紙をポケットから取り出した。
「それは構いませんが、これは警察で事情を説明する時に必要になりますから、私はビャクブさんの用事が終わるのを一階のロビーで新聞でも読みながらお待ちしていましょう。ビャクブさんはそれでもいいですか?」エノキは確認をしながらもビャクブに対して紙を差し出した。ビャクブはエノキから紙を受け取った。今回ばかりはヤツデにもビャクブの目的を計りかねている。ビャクブは応じた。
「おれはもちろんそれでもいいです。すみません。ありがとうございます。なあ。話は全てすんだら、おれはこの紙を持ってマツブサさんのところへ行きたいんだけど、ヤツデは一緒にきてくれるかい?」
「うん。ぼくはもちろん構わないよ。マツブサさんにはちょうどぼくも用事があるからね」ヤツデは頷いた。ヤツデはビャクブと同様にして腹に一物があるものの言い方をしている。
「それでは私は一階でヤツデさんとビャクブさんをお待ちしています。失礼を致しました」エノキは最後にはバニラに対して言うと退室をした。ヤツデはそれを見届けてから少し大きめな声で言った。
「シランさんとスミレさんはちょっとお話を聞いて下さいませんか?」ヤツデは呼びかけた。
「はい。わかりました」スミレは返事をすると見ていたテレビの電源を切った。スミレはそして女性週刊誌を眺めていたシランと共にヤツデとビャクブとバニラのいる和室の部屋に腰をかけた。
「まずはシランさんには謝らなければならないことがあります。ぼくはスミレさんにお願いをしてシランさんの持ち物を無断で持ち出してもらったんです。ごめんなさい。シランさん」ヤツデは謝った。
「え?ヤツデくんはなんでそんなことをしたの?」シランはきょとんとしている。
「その理由を簡単に申し上げれば、シランさんには不可解な行動が見受けられたからです。それはともかくぼくはスミレさんから受け取ったシランさんの持ち物を警察に調べてもらいました。ぼくはそして『お助けカード』を使ってその結果も教えてもらいました。結論を言うと、ぼくがスミレさんから受け取ったシランさんの持ち物はモルヒネという名の麻薬でした」ヤツデは衝撃的な事実を明かした。スミレは『そんな』と言って絶句をした。バニラは同様にして少なからずヤツデの発言には驚いている。
しかし、バニラにはなにぶんにも気が強いところもあるので、少なくとも、スミレよりは泰然自若としている。シランはというと明らかに動揺の色を隠せない様子で顔が青ざめている。そのことについては全く知らなかったので、ビャクブはバニラとスミレと一緒になって動転をしている。
「警察の本検査の結果が出ないことには確かなことはまだ言えませんが、シランさんには思い当たる節は
ありますか?」ヤツデは聞いた。シランは黙り込んでしまったので、バニラは代わりに口を開いた。
「ですが、私とスミレはシランと一緒に過ごしていますけど、シランには麻薬をやっている兆候なんて全く見受けられませんでしたよ。とはいっても、私はもちろんヤツデさんのことを疑っている訳ではありませんけど」バニラはシランの親友として一応の反論を試みた。ヤツデはそれでも動じなかった。
「仮に」ヤツデは言った。「シランさんは麻薬の常習者であったとしても、常習者であるという特徴は麻薬を使用したことのない未経験者から見破ることは非常に難しいと以前になにかの本で読んだことがあります。なんにしても、ぼくは先に申し上げたように全ては警察の本検査待ちということになります。その結果は明日にでも出るようです。ぼくはスミレさんには深く感謝をしています。どうもありがとうございました」ヤツデは万謝をした。ビャクブはこれでこの件も丸く収まったかと思った。しかし、スミレは些か憤ったような様子である。スミレは怒気を含んだ口調でヤツデに対して抗議をした。
「ヤツデさんは私を騙したんですね?私はこんな結果になることなんて予期していませんでした。こんなことになるのなら、私はいっそのことヤツデさんとビャクブさんのお願いなんて聞くべきではありませんでした。ヤツデさんはどうしてそれを私に話して下さらなかったのですか?」スミレはそう言うとヴァイオレットの瞳をヤツデに対して向けた。しかし、ヤツデは戸惑いを見せないでいる。ヤツデは隣にビャクブがいると安心していられるのである。ビャクブは実際にヤツデを庇う準備はある。
「ごめんなさい。でも、ぼくは本当にスミレさんのことを騙すつもりなんてありませんでしたよ。こんな結果になるとはスミレさんにお願いをした時点ではぼくにも予測はしていませんでした。スミレさんはシランさんを守ろうというやさしい気持ちでそうおっしゃっているのでしょうが、シランさんを本当に守りたいのなら、本当はシランさんから麻薬を取り上げてしまった方がいいのですよ」ヤツデはスミレの勢いに押されないようにしてやさしい口調ながらも必死になって言った。
「事態は悲しいけど、事実はしっかりと受け止めなくてはならないのよ」バニラはスミレを宥めた。スミレはまだなにかを言いたそうにしていたが、バニラは先に口を開いた。シランは黙り込んでいる。
「それでは用事はすんだので、ぼくたちはそろそろお暇させてもらいます。荷物はもう少し置かせてもらっていてもよろしいですか?」ヤツデはバニラに対して立ち上がりながら聞いた。
「ええ。それは構いません」バニラは答えた。ビャクブはそこで思い出したようにして言った。
「そうだ。バニラさんは一緒にヤツデを部屋で待っていた時にハムスターのぬいぐるみを気に入っているようでしたよね?よかったら、おれはぬいぐるみを差し上げましょうか?」ビャクブは宥めるような視線をバニラに対して投げかけた。これはビャクブなりの親切心である。しかし、バニラは頭を振った。
「いいえ。今はそういう気分じゃないんです。私は本当に申し訳ないとは思いますが、ぬいぐるみは今の私には受け取れません」バニラはやんわりと否定をした。そのため、ビャクブは恐縮してしまった。ヤツデはやがて1301号室の部屋を出て行きながらがっかりしているビャクブを見て言った。
「ビャクブは別にしょんぼりすることはないよ。一連の事件の解決はもう時間の問題だろうからね。それに、ハム次郎の引き取り手はしっかりといることだし」ヤツデは少し間を開けた。
「それはもちろんぼくのことだけどね」ヤツデはカッコいいセリフを言ったかのようにして胸を張っている。ヤツデはそしてビャクブが自分を見るとやさしい雰囲気でにっこりと破顔一笑した。
ビャクブはそう言われて改めてヤツデのハム次郎に対するご執心ぶりについて思い出した。これは少々大げさだが、この男になら、ハム次郎は託せるとビャクブは同時に確信をした。
そのため、ハム次郎はバニラには上げてしまわない方がよかったかなとビャクブは思い直した。なにしろ、ビャクブという男はヤツデと違ってポジティブに物事を考えられる人間なのである。
だから、実はスミレに怒られてしまったことについてけっこうヤツデの方こそ落ち込んでしまっているので、ビャクブはそれに気づくとヤツデに対して慰めの言葉を送ってあげることにした。
ビャクブはハム次郎の件についてヤツデの言葉によってすっかりと気を取り直した。ヤツデはそしてスミレと麻薬の件についてビャクブの言葉によって少し立ち直った。
しかし、こういうことは珍しい。なぜなら、気分の浮き沈みはヤツデの方が激しいので、大抵はビャクブがヤツデを慰めることが多いからである。それでも、ただ一つ断言できることはヤツデとビャクブの二人にとって友愛というものはあまりにも当然すぎるということである。
そのため、ビャクブはマツブサのいる2301号室へ向かいながら少しうれしい気持ちになった。しかし、よくよく考えてみると、今はそんなことを言っている場合ではないなとビャクブは思った。
「おれは麻薬を止めようとすると禁断症状が起きるって聞いたことがあるけど、シランさんはちゃんと足を洗えるかな?おれは別にシランさんを信用していない訳じゃないけど」ビャクブは言った。
「シランさんは麻薬の常習者じゃなくてまだ始めたばかりなのかもしれないし、シランさんにはスミレさんっていう心のやさしい人がついているから、ぼくはきっと大丈夫だと思うよ。それに、シランさんと麻薬の関係については『愛の伝道師』も補助をしてくれるし、ショックから立ち直れば、バニラさんも当然のことながらスミレさんと一緒に支えになってくれるだろうしね」ヤツデは明るく言った。ヤツデはスミレによって怒られても決してスミレが嫌いになった訳ではないのである。
「そうだな。おれたちはそう信じよう。根はシランさんもやさしい人だしな」ビャクブは断定をした。依存性や毒性の強いアヘンやコカインといった麻薬はトイワホー国だけではなくて世界的に使用が厳しく規制されている。しかし、シランも手にしていたとおり、トイワホー国ではごく少数だが、麻薬は世間には出回ってしまっている。とはいっても、トイワホー国には大きな犯罪組織が存在する訳ではない。そのため、トイワホー国における麻薬の栽培や密輸は少人数の集団か個人の手によって行われている。トイワホー国ではちなみにこれでも他国に比べてあまり麻薬は流通していない方なのである。
なにしろ、麻薬の流通は流通でも医療の現場で処方されているものも含んでいるからである。麻薬は痛みに対する感覚を鈍らせるので、医師からは鎮痛剤として処方されることもあるのである。
天地という惑星では大麻や覚せい剤についても世界的に別個に規制がなされている。麻薬の麻はちなみに麻酔薬からきている。一方の大麻の麻はアサのことを指している。
「そう言えば、ヤツデはさっき気になることを言っていなかったかい?一連の事件の解決はもう時間の問題だとかなんだとかいっていたよな。その口振りだと、ヤツデもひょっとして裏に隠された真相に気づいているのかい?」ビャクブは落ち着いた口調ながらも少し驚いている。ヤツデは聞き返した。
「え?ヤツデ『も』ということはビャクブも裏に隠された真相に気づいているの?」
「ああ。たぶんな。詳しくはマツブサさんの部屋に行ったら、おれは話すよ」ビャクブは秘事にした。
「それは今までのぼくがビャクブに対して言っていたようなセリフだね」ヤツデは心からおかしそうにしている。とはいっても、ヤツデはビャクブがどんなことを知ったのかは興味津々の様子である。
ビャクブはマツブサの部屋の前まで来ると部屋のチャイムを鳴らした。ビャクブにしては珍しく少し緊張気味である。マツブサは間もなくドアを開けて顔を出すと言った。
「おや?ヤツデさんとビャクブさんはまた事件のことについて話を聞きに来て下さったのですか?ヤツデさんとビャクブさんは私の無実を証明して下さるのなら、協力は惜しみませんよ。どうぞ。中へお入り下さい」マツブサはそう言うとヤツデとビャクブの二人を自宅へと招き入れた。
ビャクブは『失礼します』と言うとヤツデと一緒にマツブサによって部屋の中まで案内されて和室の部屋に腰を下ろした。窓際のテーブルのイスには昨日と同じようにしてネズの姿が認められた。ネズはすると一緒に話を聞きたかったので、とりあえずは立ち上がってヤツデとビャクブとマツブサの三人のところへ来て腰を下ろした。ネズはやがて会釈をしたので、ヤツデとビャクブの二人は一礼を返した。
「さて」マツブサは言った。「どうですか?私とネズの無実の証明のための捜査は進んでいますか?」マツブサはのんびりした口調で聞いた。そうはいっても、進展があったとはマツブサも思ってはいない。
「そのことですが、マツブサさんとネズさんの無実の証明はすでに成されました。遠まわしに言わず、ぼくは直接に申し上げると、クローブさん殺害事件の犯人は判明したのです」ヤツデは厳粛に答えた。
「なんと!」マツブサは驚倒した。「犯人はヤツデさんとビャクブさんが見つけたのですか?」
「はい。そうです」ビャクブは短く答えた。ネズはすると身を乗り出して聞いた。
「それでは主人を殺害した犯人は誰だったのですか?犯人は私達の知っている人なのですか?」
「便宜上」ヤツデは言った。ぼくは犯人とは言いましたが、今回の事件は正確には事件ではなくて事故だったのです。しかし、クローブさんの遺体をその後に遺棄したのは8年前に病院の屋上からクローブさんに突き落とされて殺害されたアイさんの息子さんです。ですから、この事件は復讐殺人だったのです」ヤツデは力説をした。ネズは『そんな』と言って絶句をした。マツブサは急には声が出せない程に驚いている。ネズは当然のことながら犯人を知ったことよりもクローブが8年前の事件の犯人だということについて驚いているのである。ヤツデはそれを見ると少し言い方がきつかったかなと後悔をした。
「ええと」マツブサは動揺をしている。「今のヤツデさんはなんとおっしゃいましたか?」
「つまり、8年前の事件の犯人は主人だとヤツデさんはおっしゃるのですか?」ネズはヒステリックな口調ながらも話をまとめた。ビャクブはまだヤツデに対して説明を頼んでいる。
「はい。ルーさんはアイさん殺害の責任を負って自殺したと考えられていました。ところが、それは事実ではありませんでした。それだけではなくてルーさんを殺害したのもクローブさんだと考えてほぼ間違いないと思います。つまり、ルーさんはクローブさんの罪の巻き添えだったんです」ヤツデは腰を据えている。ビャクブはこっそりとマツブサの様子を窺ったが、マツブサの表情には変化はないように見受けられた。ヤツデはショックを受けているネズを横目に見ながら真剣な表情で言った。
「ところで」ヤツデは話題を変えた。「ぼくとビャクブの友人でこのホテルに滞在中のシランさんという女性が麻薬を持っていたことも判明しました。その出所はマツブサさんですよね?」ヤツデは聞いた。
「ヤツデさんは藪から棒に何を根拠にそんなでたらめをおっしゃっているのですか?」マツブサは顔を顰めた。この話は想定外だったので、ビャクブはネズと一緒になって驚いている。
「根拠は麻薬の受け渡し方法です。シランさんは麻薬をレストランから持ち去って行きました。ところがです。この受け渡し方法は危険なこと極まりないですよね?ぼくは独自の推理法『黒と白の推理』の『白の推理』を使って考えました。仮に、この受け渡し方法はさして危険じゃないということを信じたら、どうなるだろうかとぼくは考えたんです。危険ではないという可能性は一つだけ考えられました。それはあの時のあの場所には人の出入りがないということを知っている人間の仕業であるという可能性です。ホテルに住んでいらっしゃるマツブサさんなら、そのあたりの事情は熟知していることでしょうね?それではなぜそんな受け渡し方法を取るのかと言えば、おそらくはホテルに来るお客さんが何人もマツブサさんの部屋を訪れていたら、マツブサさんは不審に思われてしまうからでしょう。違いますか?」ヤツデは問いかけた。マツブサはすると緊張感のある中でヤツデの言葉を頭の中で整理するようにして間をおいた。
「なるほど」マツブサは余裕である。「ヤツデさんはそう考えたのですね?おっしゃっている意味はよくわかりました。しかしですよ。となると、私の他にもホテルに住んでいる人はいますし、ヤツデさんのおっしゃる事情はこのホテルで働いている人だって熟知しているのではありませんか?」マツブサは反論を試みた。ビャクブはヤツデの旗色が悪くなってハラハラしている。
「はい。その可能性は十分に考えられます。ですが、シランさんは昨夜の音楽会が開かれていた時にマツブサさんの部屋から出てくるのをカラタチさんという方が目撃しています。ビャクブはカラタチさんに対してマツブサさんの部屋から出てきたという疑いを持つのなら、ぼくたちはシランさんに対してもそうするべきだったんだよ。失礼しました。話を戻します。シランさんはなんの用件があってマツブサさんを訪ねたのでしょう?シランさんとマツブサさんはそもそもなぜ知り合いなのでしょう?その答えはシランさんとマツブサさんが麻薬取引の買い手と売り手であるからです。いかがですか?もしも、間違いがあれば、どうか、マツブサさんは訂正をして下さい」ヤツデは無二無三な口調で言った。ビャクブは狡猾なマツブサが次にどんな切り返しを見せるかと見守った。マツブサは静かに答えた。
「仕方のない話ですね。認めましょう。全てはヤツデさんのおっしゃるとおりです。シランさんが麻薬を発見されてしまった以上は出所が私であるということに警察が気づくのも時間の問題でしょう」
「マツブサくんは本当にそんなことをしていたの?」ネズは心から驚いた様子で聞いた。
「ああ」マツブサはもう完全に観念している。「悪いことはできないものだな」
マツブサは麻薬の受け渡し方法についてまさかそんな取引をそんなやり方ではやらないだろうという盲点をついたということになるのである。つまり、マツブサは下手にこそこそと買い手と会うとそれを目撃される可能性があるので、結局はそのような売買の仕方を考えついたのである。
「昨夜の私は確かに麻薬の取引のことでシランさんとは話をしました。シランさんは友人にも勧めたいから、昨夜は余分に麻薬が欲しいと言ってきたのです」マツブサは悪意のこもった口調で言った。
「なんですって?シランさんは本当にそんなことを言ったのですか?」ビャクブは驚いて聞き返した。
「ええ。私は今さら嘘をついても仕方ありません。事実は間違いなく私の申し上げたとおりです」マツブサは厳然と言った。なお、マツブサという男には人を陥れようとする悪癖がある。
「もしも、このことを知ったら、バニラさんとスミレさんはなんて言うだろう?」ビャクブは絶望的に言った。ビャクブはバニラとスミレのことを不憫に思っている。しかし、ヤツデはそんな虚言を信じていなかった。ただし、ヤツデはそれについては触れずに話を続けた。
「ぼくたちはそれだけを問いつめにきた訳ではないんですよ。実は麻薬に負けず劣らずに重要な用件があるんです。クローブさんが8年前にアイさんを殺害するように仕向けたのも、その後のクローブさんがルーさんに罪を着せるためにルーさんの殺害を企てたのも、それは全てマツブサさんですよね?つまり、この一連の事件を裏側で画策していた黒幕はマツブサさんだったという訳です」ヤツデはきっぱりとした口調で言った。実はこのことに関して言えば、ビャクブはヤツデに聞かなくても気づいていた。
「ヤツデさんは何をおっしゃっているのですか?」ネズは怪訝そうにしている。ヤツデは話を続けた。
「人の生命に軽重はないとはいっても、生前のクローブさんの行動には同情の余地は全くありません。ですが、マツブサさんはクローブさんにアイさんとルーさんを殺害させてなおかつ鉄壁のアリバイをクローブさんのためにこしらえました。ぼくはマツブサさんのあの時の言葉がずっと引っかかっていました。ぼくはマツブサさんに対して『8年前の事件のことを知っていますか?』と質問をさせてもらったら、あの時のマツブサさんは確かこうおっしゃいましたよね?看護師さんが何者かによって呼び出されて突き落とされた事件とその突き落とした人が自殺した事件のことなら、私はネズさんと同じく存じていますよとおっしゃいました。ところが、このセリフは明らかにおかしいですよね?マツブサさんはなぜアイさんがクローブさんに呼び出されていたことをご存じだったのでしょう?真実はもしかしたらアイさんの方がクローブさんを呼び出していたのかもしれませんよね。それでも、マツブサさんが断言をできていたのはクローブさんとアイさんを屋上で引き合わせたのがマツブサさんだったからです。ぼくにはそもそもわざわざ相引の場所を手紙で屋上に指定する意味がよくわかりません。もし、クローブさんの病室は個室なら、クローブさんはアイさんとは二人きりで話をすることは簡単にできたかもしれません。ぼくは極端な話をするようですが、クローブさんはナース・コールでアイさんを呼べば、話はそれですみますからね。ですが、仮に、クローブさんの病室は大部屋だったり、病室では差し支えのある話であったりしても、それなら、クローブさんはアイさんに対して直接に別の場所で話がしたい旨を伝えればいいだけの話です」ヤツデは自分の推理をゆっくりと述べた。今のネズは呆気に取られてしまっている。ビャクブはやがてなにかを言いたそうにしているマツブサを制止して相棒のヤツデの話を引き継いだ。
「証拠はまだあります。おれはエノキさんからアイさんが呼び出された紙を預かっているんです。手紙には『午後11時に病院の屋上で会おう』と書かれています。その中でも『11時に』というところをよく見て下さい。『1』の終わりの部分はカタカナの『レ』のようにして跳ねて書かれていますよね?おれは一度だけこの珍しい書き方をする『1』を見たことがありました。おれはしかもこのマツブサさんの部屋で見ました」ビャクブはそう言うと立ち上がってカレンダーのあるところまで歩いて行った。ヤツデは興味深そうにしてそれを見ている。ビャクブはやがてカレンダーの一カ所を指差して言った。
「ここには予定が書き込まれていますよね?注目するべきなのは『11時に歯医者の診療の予約』という箇所です。この『1』も最後がカタカナの『レ』のようになっています。つまり、アイさんを屋上に呼び出したこの紙に文字を書き込んだ人物はほぼ間違いなくマツブサさんであるということです」
「ビャクブはそんな細かいところに気づくなんてすごいよ。」ヤツデは感心した様子で言った。
「いやー!おれはそれ程でもないよ。実はマツブサさんの部屋でヤツデが聞き込みをやっていた時にぼんやりとカレンダーを見ていたら、その時のおれには偶然にもこれが目に入っただけなんだ」ビャクブは照れている。マツブサはビャクブとは対照的に顔が青ざめている。ヤツデは最後通帳を言い渡した。
「証拠はこれで決定的ですよね?異論はありますか?」ヤツデはマツブサに向き直って聞いた。
「やれやれ。まさか、私も8年前の事件の真相が今になって明かされるとは思いもしませんでしたよ。真相を炙り出したのはしかも捜査の素人ですからね」マツブサは少しの間をおいてからゆっくりと口を開いた。ビャクブとネズは無言だった。この場の話の主導権はヤツデが握っていた。
「それでは今のぼくらが申し上げたことをマツブサさんは事実だとお認め頂けるのですね?」ヤツデは問いかけた。マツブサはそれに対して大して迷うような素振りを見せずに厳めしい顔つきをして答えた。
「ええ。私は全てを認めましょう。私はアイさんに麻薬を買わないかと勧めたのです。しかし、それは不覚ながら拒否をされ手挙げ句の果てには私が麻薬密売をしていることを公にするとアイさんには言われてしまいました。だから、私はなんとかしてアイさんの口を塞がなくてはならなくなりました」マツブサはその時のことを思い返した。8年前の病院の外にある人工芝の上においての話である。アイには秘密を知られた直後にそのまま通報をされてはたまったものではなかったので、マツブサはアイに対して次のような屁理屈を並べることにした。マツブサは確かに自身も麻薬の幻覚症状の虜になっていたこともあるが、それは以前に悪友によって麻薬とは知らずに無理やり服用をさせられて否応なしにのめり込むことになってしまったということや何度も止めようと試みても離脱症状に抗えないでいるということを話したのである。そのストーリーは出任せだけではなかったので、それはすらすらとマツブサの口をついて出てきた。アイはやはりトイワホー国の国民らしく相当に慈悲深い性格をしていた。
アイはすると次のようにして言った。マツブサは本当に反省をしているのなら、自分は三日だけ待つから、あなたは必ずその間に警察へ出頭して自らの口から全てを白状するようにとマツブサに対して言ってくれたのである。しかしながら、この仏心はアイの一生を大きく変えることになってしまった。
情けは人のためならず、天網恢々は疎にして漏らさず、そうはいっても、この時ばかりはアイも心を鬼にして悪いことは悪いと糾弾すべきだったのかもしれない。しかし、アイのやさしさを非難することはあまりに尊すぎて部外者には到底できないことである。マツブサは今も話を続けている。
「私はそんな時に偶然にもルーさんとアイさんがナース・ステーションで仲良く談笑している場面を目にしました。これは使えると思いました。まずはクローブにこのことを伝える。もしも、うまく行けば、クローブはアイさんを殺害するかもしれないと思ったからです。私はこうしてクローブとアイさんの二人を病院の屋上に呼び出すために偽の手紙を認めました。クローブは本当にアイさんを殺害するかどうかなんてことはもちろん私にもわかりませんでした。私としてはむしろいくらクローブの気性が荒くて嫉妬深い性格だからと言って実際にクローブがアイさんを殺害する確率は低いと思っていました。だから、あの時のあの行動は私としても単なる悪あがきにすぎないつもりでした」マツブサは沈んだ口調のまま赤裸々に事実を打ち明けた。マツブサは弁解をしているような口調だが、ビャクブは結論を口にした。
「でも、殺人事件は実際に起こりました。それは変えようのない事実ですね」
「それで?その後のマツブサさんはどうされたのですか?」ヤツデは話を促した。
「その後のクローブは私に助けを求めにきました。人を殺した。どうすればいいかとね。クローブは私の代わりにアイさんの口を塞いでくれたのです。私はとりあえずクローブのためにクローブのアリバイを主張しました。私はさらに表向きはアイさんと仲が悪いことになっているルーさんに罪を着せればいいという考えをクローブに唆しました。クローブはそして愚かにもそのとおりにしたという訳です。もう一つ付け足しておくと、ルーさんのノート・パソコンに偽の遺書を書いたのは私です。とはいっても、私は直接には一度も殺人に手を染めることはしませんでした。私は8年前の事件でどのような罪に問われるのでしょうか?」マツブサは質問をした。ネズはマツブサの告白を怯えた様子で聞いていた。
「ええと」ビャクブは戸惑った。「マツブサさんはどんな罪に問われるんだろう?大学では法学部を卒業しているから、ヤツデはなんとなくでもわからないかい?」ビャクブは質問をした。
「マツブサさんはたぶんクローブさんの偽のアリバイを主張したことで犯人蔵匿罪に問われてクローブさんにルーさんの殺害を仄めかしたことで殺人の教唆罪に問われることになると思います」ヤツデは答えた。ビャクブはするとヤツデの忠勇に対してよくぞここまで辿り着けたなと褒めたくなった。
ヤツデの言ったとおり、マツブサは殺人の教唆に相当するが、共犯の類型には教唆犯と幇助犯の二つがある。ここでは念のために少しだけそれの説明をしておくことにする。
教唆犯はまず正犯を唆して犯罪を実行させる犯罪の形態である。例を上げると、教唆犯はお金がないと嘆いている友人に対して『あの家は盗みがしやすいんじゃないか?やってみるだけの価値はあるんじゃないか?』と言ってその友人が本当に犯行の決意をして実行をすれば、それは窃盗の教唆になる。
教唆犯について考える上ではとても重要なことがある。教唆犯とは今まで全く犯行を考えていなかった者に対して犯行の決意を生じさせている点である。
一方の幇助とは正犯の実行を容易にする行為のことである。例えば、犯行を決意した正犯を応援して精神的に鼓舞したり、犯行に使用する凶器や侵入先の見取り図を提供したりする行為がこれに当たる。教唆とは違って犯行の決意を有する者の意思をより強固にする場合が幇助なのである。
「私は8年前にそんな異常なことがあったなんて露ほども思いませんでしたわ。主人は二人も人を殺害していてマツブサくんがそれをやらせていたなんて俄かには信じられませんわ。私は身震いがします」今までは黙って話を聞いていたネズは口を挟んだ。ネズの立場になってみたら、ショックは確かに小さくはないのである。ヤツデは両手で自分の腕を掴んでいるネズを一瞥してから徐に応えた。
「ネズさんにとってはつらい真実であることはぼくにもよくわかります。しばらくはショックで立ち直れないかもしれません。ですが、ネズさんはどうか起こってしまったことを永くは悩まないで下さい。時は悲しみを癒してくれます。いずれは気持ちの整理ができたら、ネズさんはまたしっかりと前を向いて生きて下さい。ぼくは応援をしています」ヤツデはできるだけ陰気にならないようにした。ネズは少し項垂れていたが、ヤツデに対しては首を縦に動かして応えてくれた。ネズはヤツデの澄清に触れて元気を出そうとしているのである。なにしろ、ネズは殺人犯であるクローブの妻でもあってなおかつ殺人事件の被害者であるクローブの妻でもあるのである。後者について言えば、トイワホー国では対策が取られている。
どういうことなのかというと、殺人事件の被害者遺族は無料でカウンセリングを受けられて心のケアをしてもらえるのである。ネズはひょっとするとそれによっても傷心を癒せるかもしれないのである。
ヤツデは丁寧に別れを告げてビャクブと共にマツブサの部屋を辞した。しかし、ヤツデとビャクブの二人の心境は手柄を立てたからと言っても羽化登仙のようにはいかない。今はマツブサの暴挙とネズの立場を思っているので、ヤツデとビャクブの二人の雰囲気は重苦しいものである。
ヤツデとビャクブの二人はやがて少し気持ちを切り替えて一号館の一階のロビーへとやって来た。エノキはふかふかのイスに腰をかけて足を組みながら新聞紙を広げて読んでいた。
もっとも、記事の内容は全くエノキの頭に入ってこなかったので、エノキは新聞をぼんやりと眺めていたのに過ぎない。だから、今のエノキはこうしている間も心ここにあらずの状態である。
それでも、これから先はとてもじゃないが、自分には長楽が待っているとは思っていないので、それなりの覚悟はエノキもしているのである。その気張りはヤツデにも感じ取ることはできた。
「お待たせしてしまってすみません」ビャクブはまずエノキに対して声をかけた。
「いいえ。こんなことはなんでもありません。それよりも、私はこれから警察に罪を自白するとは思えない程にくつろいでいるところを見られてしまいましたね」エノキは気恥しそうにした。
「まあ、今くらいはいいんじゃないですか?こちらはお返しをします。ありがとうございました」ビャクブはそう言いながらマツブサがアイに対して書いた手紙を差し出した。ヤツデはそれを見ると相棒のビャクブの活躍を思い出して微笑んだ。エノキはそれを受け取りながら聞いた。
「それで?ヤツデさんとビャクブさんはこの紙を使って期待したような成果は得られたのですか?」
「はい。成果はおかげさまで得られました。おれは自分で言うのもなんですが、少しはおれも活躍をしましたしね。そうだ。あの一件は重要なことだから、ヤツデはマツブサさんのことをエノキさんにも話した方がいいとは思わないかい?」ビャクブはヤツデと共にイスに腰をかけながら聞いた。
「うん。エノキさんには知る権利はあると思うよ。なによりも、マツブサさんの部屋でさっき明らかになった事実はエノキさんの犯行動機を裏づけるものにもなるからね。クローブさんはマツブサさんという友人に殺害をするように仕向けられていたのですよ。実はアリバイもそのマツブサさんという友人がでっちあげたものでした」ヤツデはなるべく穏やかな口調になるように心がけて言った。
ヤツデはエノキに対してすでに凶暴性がないことを察している。エノキはどんな反応を示すだろうとビャクブは興味深げにしてエノキを見つめていた。しかし、エノキは意外にも軽い口調で言った。
「そうでしたか。でも、結局は直接に手を下したのがクローブさんなら、私はそのマツブサさんという人に復讐をしようとは特に思いません。まあ、そうでなくとも、私はもう同じことを繰り返すつもりはありませんけどね」エノキは肩を竦めた。エノキはすでに殺人をしようとしたことを悔いているのである。ただし、エノキはマツブサのことも警察には話すつもりである。叩くと、埃は出るだろうから、マツブサはもう捜査の網からは逃れることはできないのである。その後のマツブサは実際に警察によって身柄を拘束されて麻薬の件とクローブの件で起訴されることになる。少しはアイの無念も晴らされるのである。
「ぼくはそれを聞いてほっとしました。これは不躾な質問で大変に恐縮なのですが、エノキさんは初犯ですか?」ヤツデは聞いた。ヤツデにしては随分と踏み込んだことを聞くなとビャクブは思った。エノキはただ『ええ』と短く答えた。ヤツデの言いたいことはなんとなくエノキにもわかった。
「ああ。そうか。それなら、エノキさんには執行猶予がついたりするのかい?」ビャクブは聞いた。
「うーん。それはわからないね。エノキさんは犯罪に手を染めるような人には見えないから、ぼくは興味本位で聞いてみただけだからね」ヤツデはビャクブに対して曖昧な返事を返した。
もっとも、ヤツデの内心ではきちんと思うものがあった。エノキの殺人未遂は自分の意思で辞めた中止犯というものではなくて外部的な障害による障害未遂によるものであってさらにクローブの遺体をエレベーターに移したのは死体遺棄に当たるのではないだろうかとヤツデは思ったのである。
そうなると、執行猶予はつかないのではないかとヤツデは考えたのだが、しょせんは素人の考えなので、とりあえずは黙っていることにしたのである。黙っているのは最上の分別である。
刑罰に関する付言をすると、トイワホー国には死刑はないので、極刑は無期懲役である。それは無辜の民を裁かないためだけではなくて国が人を殺さないことで国民の皆に生命の尊さを訴えるためという理由もあって犯罪が世界でも稀にみる少なさを誇る『愛の国』ならではの発想である。
それから、トイワホー国では謀殺と故殺で罪をわけるようなことはしていない。謀殺とはちなみに計画的な犯行のことである。一方の故殺とは一時の激情によって生じた犯行のことである。
「ああ。でも、裁判ではエノキさんの性格や境遇や犯罪の動機やその後の態度なんかによって裁判官が情状酌量してくれるかもしれませんね」ヤツデは思い出したようにして言った。
「ヤツデさんは犯罪者に対してもやさしいんですね。でも、私はどんな罰でも甘んじて受け入れます。それは当然の報いです。そんなことは母を殺された私が一番によくわかっていなければならないはずなのですがね」エノキは悲壮感を滲ませた。ヤツデは姿勢を正して改まった口調で言った。
「ぼくは人の最高の美点の一つにはこんなものがあるんじゃないかと思います。それは一度も失敗しないことではなくて倒れるごとに起き上がれるということです。偶然の出来事とはいっても、エノキさんは殺人を犯してしまった訳ではありません。でも、今のエノキさんのおっしゃったとおり、エノキさんの選んでしまった復讐殺人という方法は決して許される行為だとは言えません」ヤツデは少し間を置いた。
これはもしかするときれいごとに聞こえてしまうかもしれないが、普段から持ち合わせているヤツデの一家言は罪を憎んで人を憎まずというものなのである。そのため、例え、どんな邪悪な人間だったとしても、この世に生まれてきた以上は他の人間との価値は変わらないはずなのである。
しかし、ヤツデはだからといってそのような人間だけを庇っている訳ではない。これを切りつめていけば、人間としての価値は凡人も天才も同じなのである。例えば、成功した人間の価値が高いとすれば、落伍者は必然的に価値が低いか、あるいは無価値な人間なのではないかと錯覚するようになってしまう。だから、ヤツデはどんな人の命も価値は絶対的に平等なものなのだと思っているのである。
よしんば、人に傷つけられた代償が大きすぎて恨みが膨れ上がったとしても、それがエスカレートすることによって殺してやりたい程の憎悪があったとしても、それは周囲の人間や『愛の伝道師』や場合によってはトイワホー国がしっかりとその心の傷を消し去ってあげるべきなのである。
それができなければ、復讐というものは当事者以外の人間にはどのようにしても止められなくなってしまうのである。もっとも、怒りは本人が静めるのが一番にいいのは言うまでもない。
しかし、今回のケースのようにしてベストを尽くしたかどうかはともかく警察による捜査が甘かったためにクローブという殺人者が野放しになってしまって周りの人や『愛の伝道師』によるエノキの心のケアが不十分だったため、エノキは怒りを鎮められなかったのである。そう考えると、犯罪は犯罪者だけの問題ではないということになるのではないかとヤツデは考えているのである。
「エノキさんはクローブさんの死に関して直接に手を下した訳ではなくても今よりもっと犯してしまった罪を後悔する時は来るかもしれません。例え、そんな時がきても、エノキさんはきっと大丈夫です。壁というものは乗り超えられる可能性がある人にしかやってこないものですから」ヤツデはやさしい口調で言葉を切った。エノキはその言葉を噛み締めるようにして間を開けてから応えた。
「わかりました。私はヤツデさんのその言葉を胸に刻んでこれからはやっていこうと思います。それでは私はこの足で警察署に出頭します。私はヤツデさんとビャクブさんのお二人には本当によくして下さいました。私は改めてお礼を言わせてもらいます。ありがとうございました。さようなら」エノキはそう言うと踵を返してホテルの出口まで歩いて行った。エノキの後ろ姿に迷いは見られない。
ビャクブはエノキの後ろ姿に向かって『さようなら』と最後の挨拶をした。エノキはこうして警察署へと出頭をした。特筆すべきはエノキが毒物を入手していたということである。トイワホー国の国民は善人ばかりだし、自殺する者はもちもん少ないので、トイワホー国ではインターネットで毒物が入手できるのだとしても中々それは露見しないのである。だから、そこは重要な着眼点でもある。
しかし、今回は警察による徹底的な質問によってエノキは毒物を入手した経路を洗いざらい話すことになる。エノキはそういう点で少し警察に貢献することになる。
今後は勧善懲悪に基づいてそんなことが起きないように警察は対策を取ることになる。トイワホー国では犯罪が少ないので、トイワホー国の警察は個々の事件に深入りすることができるのである。
死生の問題を取り扱うのは初めてなので、ヤツデは正直に言うと想到することのできなかった事柄もあったのではないかと気がかりである。しかし、今はヤツデも急変することのない現状を受け止めることにしてエノキに対してかけた言葉については後でしっかりと反省をすることにした。
もっとも、それはヤツデに向上心があるからというよりも神経質な性格がそうさせている。このヤツデの性格は得てして無駄な結果を呼び込むことも多いが、ヤツデの神経の過敏さはたまには役に立つこともあるのである。ビャクブはやがてエノキを自動ドアの向こう側にまで見送ると気が緩んだ。それは大きな一仕事がすんだと思ったからである。しかし、ヤツデはそれを吹き飛ばすような提案をした。
「ぼくたちはこれからどうしようか?まずはカラタチさんのところへ謝りに行くことにする?」
「いや。おれはまだ心の準備ができていないから、とりあえずはバニラさんのところから荷物を引き取ってチコリーのところへ行かないかい?」ビャクブは話を逸らすようにして言った。
「うん。ぼくはそれでもいいよ。それじゃあ、今日は全ての用事がすんだら、ぼくたちはカラタチさんのところまで行こうね」ヤツデはいつものやさしい口調で言った。
とはいっても、ヤツデにはさすがにビャクブが及び腰になっているということはよくわかっている。ビャクブによるカラタチへの謝罪は後伸ばしにしても仕方ないのだが、ヤツデはそれでもビャクブの意見を最大限に尊重してあげられるのである。ビャクブはそれに感謝をしている。
ヤツデとビャクブの二人はこうして1301号室へと歩を進めて行った。ヤツデとビャクブは部屋に到着するとバニラに対して荷物を取りにきた旨を伝えた。バニラはヤツデとビャクブをすぐに部屋の中に引き入れてくれた。という訳なので、ヤツデはなんとなくスミレとシランに対して申し訳ない気持ちを抱きながらもビャクブと一緒に荷物を持ち上げた。ヤツデはスミレとシランとの間にしこりが残ってしまうのかと思うと心苦しかった。スミレはするとヤツデとビャクブの二人に対して話しかけてきた。
「あの、私はヤツデさんとビャクブさんのお二人が行ってしまってからよく考えてみたんですけど、間違っているのはやっぱり私の方なんだって気づいたんです。私はお二人に騙されたなんてひどいことを言ってしまって申し訳ありませんでした」スミレはそう言うと深々とお辞儀をした。
「いやいや。そんなことはいいんですよ。なあ?」ビャクブはヤツデに対して確認をした。
「うん。そうですよ。どうか、スミレさんはお気になさらないで下さい」ヤツデはやさしい言葉つきで取り成した。スミレとはどうやら和解できたみたいなので、ヤツデは内心では大喜びをしている。
「これからはシランも新しい気持ちでゼロからやっていけると思います。ね?」バニラは聞いた。
「ええ。昨夜はマツブサさんのところへもう麻薬を買うことを止めたいって相談をしに行っていたの」シランはバニラの言葉を肯定した。今のシランは妙に畏まって正座をしている。
「え?マツブサさんとの話とは食い違いがあるな」ビャクブは不意を突かれたようである。
「ビャクブはどっちを信じる?」ヤツデはビャクブの方を向いて聞いた。ビャクブは即答した。
「ああ。そうか。それは確かにそうだな。おれは考えるまでもなかったか。それじゃあ、おれたちもシランさんの再出発を応援しています」ビャクブは本心からエールを送っている。事の真相というのは最後の最後に顧客ではなくなってしかも自らの罪まで露悪される羽目になってしまったので、マツブサはシランに対して嫌がらせをしていただけだったのである。本人の言葉を借りれば、あの時の妄言はマツブサの無意味な悪あがきというやつである。ビャクブはようやくそれに気づいたのである。
シランは悪い影響を及ぼすとわかっていて友達を道連れにするような女性ではないのである。類は友を呼ぶと言うし、バニラとスミレの友人なら、シランは間違いなくそんなことで嘘はつかないと考えてヤツデとビャクブの二人はそれを信じたのである。それはそして間違いではないのである。
「だから、一応は言っておくと、私は罪を暴かれても全く怒ってないのよ。ヤツデくんは特にそのことを気にしていたんでしょう?ヤツデくんってけっこう気が弱そうだものね」シランは言った。
「それは確かに図星です。それに、ぼくは勝手にシランさんのものを持ち出してしまったことを今でも申し訳なく思っています。でも、ぼくはシランさんのやさしい気遣いのおかげで安心できました。ありがとうございます」ヤツデは丁寧にお辞儀をした。ヤツデはいつの時でも腰の低い人間なのである。
「そうそう。それから、場所を取るのにも関わらず、皆さんは荷物を置かせて下さってありがとうございました」ビャクブはそう言うとバニラとスミレとシランに対してお辞儀を返した。スミレは『いいえ』と言ってやさしくいなしてくれた。ヤツデは軽く会釈をするとバニラの方に体を向けた。
「バニラさんはあまりクローブさんに裏切られていたということを深く考えない方がいいですよ。明日は明日の風が吹くです。楽に生きましょう」ヤツデはにっこりと微笑んで言った。
バニラはすると微笑を返してくれた。ヤツデとビャクブは真相を解明してくれただけではなくていくどもやさしくしてくれたので、バニラはヤツデとビャクブの二人に対して恩義を感じているのである。
という訳なので、ヤツデとビャクブの二人は最後にも礼儀正しくお辞儀をしてから暇乞いをするとそろそろと部屋を出て行った。スミレとシランの二人とは和解できたので、今のヤツデは棘が抜けたような心境である。そのことはもちろんビャクブもうれしく思っている。
スミレはそのヤツデとビャクブの後ろ姿に対して手を振った。自分でも言っていたとおり、スミレだけではなくてシランでさえも麻薬密売の秘密が漏れたことを幸いだと思っている。
その後のヤツデとビャクブの二人は2309号室の部屋を訪れた。チコリーはすると部屋から出てきてヤツデとビャクブの二人を快く向かい入れてくれた。ヤツデは黒に青のラインが入ったバッグを持っている。一方のビャクブは黒に黄色のラインが入ったバッグを持っている。それらのバッグは絨毯に置かせてもらうことにした。ヤツデとビャクブの二人はそれぞれベッドに腰をかけた。
チコリーはすると早速にハムスターのぬいぐるみ(ハム次郎)に対して目を止めた。ヤツデはハム次郎をバッグに入れたり、袋に入れたりせずにそのまま持って歩いているのである。
それでも、その程度のことなら、ヤツデは全く恥ずかしくないし、トイワホー国の国民はそもそもその程度のことで冷やかしたり、後ろ指を指したりするようなことはしないのである。
「この子はかわいいね?」チコリーはハム次郎を褒めた。ヤツデはそれに対して応えた。
「いいでしょう?ハム次郎はぼくがビャクブからもらったんだよ。だから、残念だけど、ハム次郎は欲しいといってもチコリーには上げられないよ」ヤツデは子供っぽい口調ながらも申し訳なさそうである。
チコリーは『えー!そんなー!』と言って残念そうにしている。しかし、チコリーは我に返ると小さなハンカチーフをスーツ・ケースから取り出してそれをヤツデの手に押しつけて言った。
「これは服にオレンジ・ジュースを零しちゃったお詫びよ。これはおばあちゃんに教わって私が刺繍したんだよ。よかったら、ヤツデさんは受け取ってね。それから、ごめんなさい。一応は言っておくね」チコリーは取ってつけたようにして謝った。チコリーはそれでもちゃんと謝れる程に素直な子なのである。
「これはチコリーが作ってくれたの?ぼくは大切にするよ。どうもありがとう」ヤツデは感謝をした。
「えへへ」チコリーは少し照れた。「ヤツデさんは喜んでもらえたみたいでよかった」
「それで?おれの方にはプレゼントはないのかい?」ビャクブは焼餅を焼いた。
「だって」チコリーはさらりと答えた。「私はビャクブさんには何もしていないじゃない」
「なるほど。それは確かにそうだな」ビャクブは納得した。しかし、ビャクブは『何もしていない』という言葉尻を受けてなんだか恥ずかしくなった。とはいっても、チコリーは当然のことながらビャクブに対して自分が粗相をしていないという意味で言ったのである。チコリーには決して悪意はない。
「その様子だと、ヤツデさんとビャクブさんのお二人はもうお帰りになられるみたいですが、マツブサくんの無実の証明はできなかったのですかのう?」シロガラシは話に割って入った。そのため、ヤツデとビャクブの二人はできるだけ丁寧に事情を説明した。シロガラシは話を聞き終えるとやわら言った。
「なるほど。それではマツブサくんも無傷ではすまないようじゃな。いやはや。それにしても、マツブサくんは殺人教唆と麻薬の密売と来ましたか。わしは全く気づかなかったのう。わしは鈍いからのう」
しかし、シロガラシはこの話を聞いても最初から嫌な予感を抱いていたので、それ程には衝撃的ではなかった。シロガラシはあまり衝撃を受けすぎると心臓に悪いので、その点に関してだけ言えば、それは結構なことである。それを見ると、シロガラシはやはり大人なのだなとビャクブは解釈をした。
一方のチコリーはショックを受けている。チコリーはマツブサと頻繁に会っている訳ではないが、マツブサからは温和な男性というイメージを受けていたし、実はかわいがってもらってもいたからである。
「それにしても、ヤツデさんとビャクブさんにはよくして下さったのですから、私達はなにかのお礼をするのが筋というものですよね?ヤツデさんとビャクブさんのお二人の洪恩にそぐうにはどんなお礼がいいかしら?」ミツバは誰にともなく聞いた。チコリーはするとすぐに発言をした。
「それなら、おじいちゃんとおばあちゃんのお家に招待をしておもてなしをするっていうのはどうかしら?その時は私も一緒にもてなすから」チコリーは提案をした。チコリーはもうマツブサの件についてショックから立ち直っている。それは薄情だからではなくてチコリーが明るい性格だからである。
「それは名案じゃな。それではお便りを出したいので、よろしければ、ヤツデさんとビャクブさんは連絡先を教えて下さいますかのう?」シロガラシは遠慮気味に聞いた。
そのため、ヤツデとビャクブは同意をして連絡先をシロガラシに対して教えた。チコリーはするとその時のことを考えて早くも浮き浮きした気持ちになっている。その後のチコリーはすっかりとヤツデとビャクブを気に入っているので、ヤツデとビャクブの二人に対しては弁舌も豊かに世間話をした。
シロガラシの家はリフォームしたばかりなので、今はかなりハイカラな家であるということやチコリーの父親はノン・キャリアの官僚であるということなどを話したのである。
チコリーはとにかくヤツデとビャクブに対して心を許しているので、現在は戸板に豆の状態である。しかし、騒々しいとは言わないが、チコリーはミツバによってやさしく宥められて話を止めた。
数をいうまい羽織の紐である。つまり、際限のないおしゃべりは慎もうという意味である。ただし、ヤツデとビャクブは当然のことながらチコリーの話を少しも鬱陶しいとは思わなかった。
ヤツデとビャクブの二人はそしてチコリーには惜しまれてシロガラシとミツバの二人には賑やかに送別されて挨拶をして2309号室を後にした。立つ鳥は跡を濁さずである。ヤツデはこれからのチコリーとシロガラシとミツバの三人もつつがなく暮らせることを祈った。マツブサの逮捕はチコリーとシロガラシとミツバの三人にもショックだったということはヤツデにもよくわかるからである。
ヤツデは荷物を持ったまま一向に気の進まない様子のビャクブを引き連れて2510号室の前までやって来た。ビャクブはなにしろ勝手に急追状態に陥ってしまっているのである。
しかし、やさしいから、ビャクブはそうなるのであってとてもじゃないが、それは厚顔無恥な人間にはできないことである。ものは考えようというやつである。ヤツデはそんなビャクブを見て不憫に思っている。できれば、ヤツデは変わってあげたいくらいなのである。
ヤツデはビャクブと同じくやさしいので『自分に厳しく他人にやさしく』ということをモットーにしているのである。カラタチの部屋のドアはするとビャクブがチャイムを鳴らす前に開いた。
「おや?ヤツデくんとビャクブくんはその様子だともう帰宅するようですが、お二人はもしかして帰宅する前に私のところへ来て下さったのですか?」巨体のカラタチは姿を現すと早速に聞いた。
「はい。なにしろ、カラタチさんには謝らないといけないことがありますのでね」ヤツデは答えた。
「おれは大浴場に行くというカラタチさんとの約束を破ってしまってごめんなさい」ビャクブは話を引き継いだ。ビャクブはカラタチの大きな拳から鉄拳でも飛んでこないかと身構えた。ヤツデはそれを見ると笑いそうになった。豪放磊落なカラタチはやはりそんなことをする訳はなかった。
「ああ。用件はそのことでしたか。そんなこともありましたな。ビャクブくんはお気になさらなくても大丈夫ですよ。なるようになっただけです。私はそんな小さなことは気にしません。ははは」カラタチは笑いながら大様に言った。ビャクブは今も固まってカラタチの顔を直視できないでいる。
「ははは」ヤツデはカラタチと同じく笑みを浮かべた。「ビャクブはカラタチさんからお叱りを受けるんじゃないかと思ってびくびくしていたんですよ。トイワホー国の人はやさしい人ばかりですし、カラタチさんの度量の広さは十分にぼくも知っていますから、その心配はさすがにぼくもしていなかったのですけどね」ヤツデはこうなることを予測していたのである。ビャクブはようやくカラタチと目を合わせた。
「そうでしたか。ビャクブくんはやはりやさしいですな。私なんかはそんな失敗をしょっちゅうしてしまいます。私はビャクブくんが私のことを気にかけてくれたということをとてもうれしく思います」カラタチはやさしい口調で言った。ヤツデはそれを受けるとますます笑顔になった。
「本当ですか?おれはもう感無量です。『お詫びカード』はもちろん進呈させて下さい」ビャクブはそう言うとサイフから『お詫びカード』を取り出して物々しくカラタチに対して手渡した。
「どうも」カラタチは恐縮をしている「話は変わりますが、私はこれから近くの食堂で食事を取りに行くところだったのですが、荷物は私の部屋に置いてヤツデくんとビャクブくんもご一緒しませんか?」カラタチは気安く提案をした。カラタチはここでもヤツデとビャクブに会えたことを幸福に感じている。
「それはいいですね。ぼくは今日の朝ご飯を食べていないから、実はお腹がペコペコだったんです。ビャクブはもちろん賛成だよね?」ヤツデはやさしい笑みを浮かべながら同意を求めた。
「ああ。もちろんだよ」ビャクブは顔に満面の笑みを浮かべて言った。
人間は生きていると色んな場面に遭遇したり、色んな経験をしたりすることになる。人間にはそこで普遍的に大切なものがある。その一つとして上げられるのはやさしさである。
なぜなら、人は他の人の協力を得ることによってようやく幸せを得ることができるので、その時のやさしさを大事にしていれば、人と人が衝突する可能性は消滅することになるからである。
トイワホー国の『愛の伝道師』はまさしく人が他の人と仲良くできるように協力をしてくれているのである。皆に対してやさしくすることを一人一人が大事にすれば、世界は一転するはずである。
だから『愛の伝道師』のスローガンである『無差別の愛は世界を変える』という文言は間違いではないのである。ただし、それには誰一人として仲間外れは作れないので、自分一人くらいなら、やさしくしなくてもいいやという考えを持っていては決していけないのである。
例えば、自分はやさしい人間になっても、世の中は変わらないと思うかもしれないが、そんなことはないのである。なにしろ、そう思っている自分自身だってこの世界を構成している張本人でもあるので『無差別の愛は世界を変える』という結論が揺らぐことは決してないのである。
実際のところのトイワホー国の国民のほとんどはそれに気づいている。現在のトイワホー国はその結果として『愛の国』と呼ばれるに至っているのである。ヤツデはビャクブに対して気を使ってやさしくしてくれた。エノキはずっとバニラを気遣っていた。チコリーはヤツデとビャクブに対して多大な感謝の気持ちを寄せてくれた。テンダイは愛ある姿勢で警察から話を聞いてもらえた。
カラタチはビャクブの犯した無礼を笑い飛ばしてくれた。ビャクブはそれを思うと心が和んだ。今日という日はビャクブにとって多くの人のぬくもりをひしひしと感じる一日になった。