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トイワホー国における復讐 3章

その後のヤツデとビャクブの二人は昼食を取るためホテルから歩いて行ける距離にあるレストランを訪れた。ヤツデとビャクブの二人はそこである人物たちと出くわすことになった。

その人物たちというのはチコリーとシロガラシとミツバの三人のことである。ヤツデとビャクブの二人はチコリーから一緒に食事を取るよう誘われた。ヤツデとビャクブの二人はシロガラシとミツバとチコリーの三人のいる6人掛けのテーブルの席に腰を下ろすことにした。

チコリーはキラキラと輝く笑顔でヤツデとビャクブの二人を迎え入れた。ヤツデとビャクブの二人は今ではすっかりとチコリーによって懐かれている。チコリーはあまりお行儀を悪くしないようミツバにより注意されるとちゃんと落ち着きを取り戻した。今のチコリーは大人しくサンマの燻製を食べている。このレストランはクリーブランド・ホテルと同様にバイキングの制度になっている。

「ヤツデさんとビャクブさんはわしのためにチコリーからの不躾なお願いを聞いてくれてありがとうございました」シロガラシはそう言うと頭を下げた。ヤツデは「いいえ」と静かに言った。

「今回はたまたまカラタチさんという男性と知り合いになれたから、ぼくはシロガラシさんの無実を証明できましたが、大したことはしていません。どうか、シロガラシさんはあまり深く考えないで下さい」ヤツデはシロガラシよりも恐縮してしまっている。ビャクブは同じく下手に出た。

「おれに至ってはもっと何もしていないので、シロガラシさんは全く恐縮する必要はありませんよ」ビャクブは大らかな口調で言った。ビャクブは現にヤツデと共にカラタチの話を聞きに行っているので、本当は何もしていない訳ではないとヤツデは知っていたが、シロガラシはヤツデがなにも言わなくてもそれが謙遜であることくらいはわかった。それはミツバも同様である。

「実は他にも無実の証明をしてもらいたい人がいるんだけど、ヤツデさんとビャクブさんはひょっとして興味はある?」チコリーはオレンジ・ジュースを飲み終わると飾らずに聞いた。チコリーはオレンジ・ジュースが好物である。ヤツデは黙り込んでチラシ寿司を食べている。

ヤツデはチコリーの言葉に拒否反応を示しているのではない。問題はバニラの悩み・ある人物の行動の意味・クローブ殺害事件における関係者への聞き込みといったように山積みなので、これ以上の厄介事を抱え込むと混乱してこないだろうかとヤツデは案じている。

「あらあら」ミツバは口を挟んだ。「それはあまりにも失礼よ。チコリーはもう散々お二人にはお世話になったでしょう?」ミツバはチコリーの提案を否定した。シロガラシは無言だったが、チコリーは不満そうにして頬を膨らませている。ビャクブは興味を魅かれ「いや」と打ち消した。

「おれは別にいいですよ。それで? 無実を証明してもらいたい人っていうのは誰だい?」

「その人はおじいちゃんの昔からの知り合いなんだけど、正確にはどういう関係の人だったかな? おじいちゃんは教えてくれる?」チコリーは聞いた。シロガラシは素直に答えた。

「少しややこしい関係じゃからのう。わしから見れると、彼は父の兄弟の孫に当たる男じゃよ」

「うん」チコリーは満足そうである。「ありがとう。そうだったね。それでね。その人はホテルであった事件の被害者の友達なの」チコリーは大人のように得意げに話した。ヤツデはここで相槌を打った。

「へえ」ヤツデは唐揚げを口に運びそれを食べ終えると意外そうにした。「そうだったんだ」

事件の関係者に対する聞き込みは先に述べたようにすでに抱えている問題の一つなので、外面には表さないが、ヤツデは内心でチコリーの話に興味津々である。

「その口振りだと、ヤツデさんはニュースかなにかで話を聞いておられるようじゃのう。このホテルに宿泊したのは元々そのマツブサという人物の顔を見るためだったのじゃよ。マツブサはわしが子供の頃から面倒を見てきた男なんです」シロガラシは説明した。チコリーは話を引き継いだ。

「そんなおじいちゃんの知り合いは事件とは無関係だと私は思っているの」チコリーは主張した。マツブサが事件の関係者である以上とても鵜呑みにはできない眉唾ものだとは思ったが、とりあえずはビャクブもシロガラシの前では頷いておいた。ビャクブは一応の猜疑心を持ちあわせている。

ヤツデは問題が多過ぎて注意力が散漫だったが、ヤツデの思考はここに来てようやく本領を発揮し追いついて来た。ヤツデにとってみるとこれは願ってもないチャンスである。

「シロガラシさんのお眼鏡に適った人なら、それは確かにそうかもしれないな。おれはチコリーがその人を信じたいっていう気持ちもよくわかるよ」ビャクブは上辺だけの納得をした。

「ご親切だから、否定はしづらいかもしれませんが、ヤツデさんとビャクブさんは警察や探偵ではないのですから、そんな依頼は迷惑ですよねえ?」ミツバは心配そうに聞いた。ミツバはチコリーの暴走を止めようとして必死である。ヤツデは首を左右に振り「いいえ」と言った。

「そんなことはありませんよ。ぼくたちが役に立つかどうかはわかりませんし、その確率は低いのかもしれませんが、そのマツブサさんという方からお話を聞かせて頂けるなら、マツブサさんとは喜んでお会いしますよ。ビャクブにも問題はないよね?」

 ヤツデは確認した。返答は案の定だった。ビャクブは二つ返事で「ああ」と了解した。

「おれたちは元々そういう話をしていた訳だしな。おれはノー・プロブレムだよ」

「あらあら」ミツバは意外そうにした。「ヤツデさんとビャクブさんは本当にご親切な方なのねえ」ミツバは感心をした。チコリーはうれしそうにしている。シロガラシはというと恐縮している。

「本当にすみませんのう。それではホテルに帰ったら、わしはヤツデさんとビャクブさんのことをマツブサのところまで行ってご紹介させてもらいましょう。言い忘れておりましたが、マツブサはクリーブランド・ホテルに住んでおるのですよ」シロガラシは言った。ビャクブは驚きながら聞き返した。

「ホテルにお住すみとはマツブサさんは相当なお金持ちなんですね?」

「ええ」シロガラシは平素の口調で言った。「まあ、大体はそういうことです」

話はヤツデとビャクブがマツブサから話を聞くということで決着した。ミツバはしきりに恐縮していたので、チコリーに頼まれたから、嫌々引き受けるのではなく自分が率先してやりたいから、マツブサに会うのだとヤツデは主張しミツバを安心させることにした。

シロガラシはヤツデとビャクブのことを見込んでいるからという側面もあるが、他人の抱えている問題に参与するということはトイワホー国ではよくあることである。

スミレがヤツデとビャクブに相談を持ちかけたように立っている者は親でも使えと言うと少し聞こえは悪いが、トイワホー国の国民は助け合いをしようという気持ちがすごく強い。


その頃のイチハツとエノキはフルーツ・パーラーにやって来ていた。トイワホー国では差別問題がないので、パーラーには男性でも気軽に入店できるような雰囲気になっている。トイワホー国では女性が一人で牛丼屋に入るのもごく普通のことである。トイワホー国では男だから女だからという理由でお店に入れないなんて笑止千万であるという考えがすっかりと定着している。

今のイチハツはチョコレート・パフェを食べている。エノキはシャーベットをパクついている。イチハツとエノキの二人は自由奔放な性格をしているので、今までは別行動を取っていた。それはイチハツとエノキの二人の中があまりよくないからというのではない。イチハツとエノキの二人にはその代り一匹狼なところはある。ヤツデは当然のことながら右に同じである。

イチハツは社交的な性格のくせに一人きりでも全くなんとも思わない。イチハツはそういう意味では相当に稀有な存在なのかもしれないが、情感はちゃんと持ち合わせている。

どちらかと言うと一方のエノキは一人が好きという性格である。だから、エノキとイチハツは気が合うのかもしれない。しかし、話しかけられたら、さすがにエノキはよく喋る。

エノキは喋ろうとしないだけであり別に無口ではない。ただし、エノキはイチハツのコミュニケーション能力に対し嫉妬心を抱いていたりもする。とはいえ、エノキはイチハツを妬んでいる訳ではないし、実は尊敬している部分もあるので、そこは注意が必要である。

「なんにしても」イチハツは言った。「エノキは団扇が見つかってよかったな。その団扇は愛着のあるものなのかい?」イチハツはエノキから失くした団扇を発見した旨を報告されると笑顔で聞いた。

「いや」エノキは言った。「そんなことはないよ。自宅には幼稚園の頃に使っていた団扇も後生大事に保管してあるけど、人はどんな物でも大切にしないといけないからな」

「それはご尤もだ。エノキは中々いいことを言うね。自分は物にも人にも思いやりって母からよく言われたよ。それにしても、殺人事件のあったホテルに滞在するなんてことは一生の内の一大イベントだな。みいちゃんやはあちゃんのつもりはないが、自分はつい人に話したくなる」

「それは確かにおれも同感だよ」エノキは同意した。普段のエノキは自分のことを「私」と自称しているだが、幼友達であるイチハツにだけは「おれ」という一人称を使っている。

「いや」イチハツは少しばかり動揺している。「自分でも不謹慎だとは思うよ。でも、こういうことは謹慎的ではないとわかっていても口にしてしまうのが人情じゃないかな? そのこと自体では別に死者を愚弄している訳でもないし」イチハツは弁明した。イチハツは人の死を軽く捉えてしまったかなと思っている。エノキは「うん」と素直に共感した。

「それは皆の気持ちを代弁しているのかもしれないな。対岸の火事は得てしてそういうものなのかもしれない。それでも、トイワホー国の国民はそれを自分のことのように悲しむことができる」

「ああ」イチハツは頷いた。「それと、忘れてはいけないこともある。尊い人の命が失われてしまったという事実を決して軽んじてはいけないということだよ。テレビの報道で人が殺されたということを聞いたら、自分だって心痛するよ。いや。自分はちょっと真面目な話をしすぎたみたいだな。それは悪いことではないとは思うけどね。話は変わるけど、エノキはバニラさんという女性との仲を深めなくてもいいのかい?」イチハツはここで一転しておちゃらけた口調になった。

「イチハツはちょっとしつこいな」エノキは呆れている。イチハツは「そうか?」と空とぼけた。

「この話はまだ二回目だろう? エノキだって自分くらいにはその話をしてくれてもいいだろう?」

「まあ、そうだけど、その話はもう100回は聞いているよ。おれはそのせいで耳に蛸ができた」

「いやいや」イチハツは笑顔で言った。「それは大げさすぎだよ。いくらなんでも」

 イチハツは単独行動が好きだとは言ってもエノキと一緒にいると心を休めることができる。その後はイチハツとエノキの間で殺人事件の話とバニラの話は話題に上らなかった。

イチハツは殺人事件について些か軽率な発言をしてしまい故意にその話題を避けた。エノキはバニラの話をするのは差し出がましいと思って控えておいたのである。

イチハツとエノキの二人の間ではしばし会話が途切れた。エノキは物思いに耽ることにした。一方の陽気なイチハツはクラクフの町並みを眺め旅行気分を満喫することにした。


昼食を終えると、ヤツデとビャクブはクリーブランド・ホテルに帰って来た。ヤツデとビャクブの二人は同行していたチコリーとミツバと一旦お別れることにした。ヤツデとビャクブの二人はシロガラシに連れられマツブサが住んでいるという2301号室を訪れた。トイワホー国の国民は皆が兄弟の気持ちを持っているので、特に緊張することはないのだが、ヤツデは少し緊張してしまっている。初対面の人と話をする時のヤツデはいつもそうである。ヤツデとしては前触れもなく人と出会った方が気は楽である。

一方のビャクブはどんな識者と会見する時であっても基本的に物怖じをすることはない。それは自信満々だからというよりもただ単に何も考えていないだけである。少し格好よく言ってみるとするなら、無我の境地はビャクブが得意とするところである。

シロガラシは何度も来たことがあるので、迷うことなくヤツデとビャクブの二人のことを先導してくれた。シロガラシは2301号室の部屋のチャイムを鳴らした。間もなくドアは開いた。

「こんにちは」マツブサは顔を出して挨拶した。「シロガラシさんはまた顔を見せにきて下さったんですね。ん?」マツブサはのんびりした口調で聞いた。「こちらのお二人はどなたでしょう?」

マツブサはヤツデとビャクブのことを指して聞いている。マツブサはのろのろと一語一語を丁寧に発音するのが癖である。シロガラシは臆することなく応じた。

「こちらのお二人はすぐに紹介させてもらうよ。でも、まあ、少し話は長くなるかもしれないから、とりあえず、わしらのことを中に入れてはくれんかのう?」

 シロガラシは申し出た。マツブサは躊躇うことなく「ええ」と了承した。

「それは結構です。歓迎しますよ。お入り下さい」マツブサは「どうぞ」と部屋の中へ誘った。ヤツデとビャクブは口々に「失礼します」と言ながらシロガラシに続きマツブサの部屋へ入って行った。マツブサの部屋は高級なスイート・ルームになっている。

マツブサはここに住んでいるので、この部屋にはテレビ・ベッドの他にも本棚・洋服ダンスも設置されている。部屋の大きさはヤツデとビャクブの部屋の二倍よりも遥かに広い。

しかし、室内は座布団や毛布だけではなくボックス・ティッシュやトイレット・ペーパーといったものも押し入れに収納されており、ごみごみはしていなく全体的にこざっぱりとしている。窓際のテーブルのイスには中年の女性が腰かけている。ネズと言う名の彼女はノー・スリーブを着ておりほっそりとした体形である。マツブサはシロガラシとヤツデとビャクブの三人を応接間へ案内した。

「まあ、シロガラシさんとお二人さんは腰かけて下さい」マツブサは相も変わらずのんびりした口調で言った。シロガラシとヤツデとビャクブの三人は腰を下ろした。マツブサは改めて質問した。

「それでは早速ですが、ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「ああ。もちろんじゃよ。だが、わしはその前に知人の二人を紹介しておこうか。こちらはヤツデさんとビャクブさんじゃよ」シロガラシは言った。ヤツデとビャクブは紹介された順に頭を下げた。

「はじめまして」マツブサは愛想よく応じた。「私はマツブサと言います。お二人とお近づきになれて非常にうれしく思います」マツブサはニッコリした。ビャクブは切り替えした。

「こちらこそ」ビャクブは言った。「シロガラシさんからお話を伺ったのですが、マツブサさんはクリーブランド・ホテルにお住みになっているそうですね。それはとてもすごいことですね?」

「ありがとうございます。だが、私はそれ程でもありません」マツブサは控え目な態度を取った。

マツブサの仕事は経営コンサルタントである。経営コンサルタントとは企業・病院・学校などの非営利組織に基づいて経営の実態を調査し問題の診断・改善方法を助言する職業である。

マツブサはきっと自分とは比較にならないほど頭がいいのだろうなとヤツデは思った。シロガラシはマツブサの言い方が嫌みに聞こえないようにするため話に割って入った。

「マツブサくんはいつもこのことを謙遜するのじゃよ。それではそろそろ本題に入ろうかのう。わしはマツブサくんの友人であったクローブくんが殺害された事件で不本意ながら多少なりとも関与することになった訳じゃが、ここにいるヤツデさんとビャクブさんのお二人はそこでわしの身の潔白を証明して下さったのじゃよ。わしはそこで事件のことについてマツブサくんもヤツデさんとビャクブさんのお二人に話を聞いてもらってはどうだろうかと思ったのじゃ。初めはチコリーの提案だったんじゃがのう」シロガラシはマツブサに対し少し長めの説明をした。マツブサは黙って話を聞いていた。

ヤツデはシロガラシの紹介を受け少し恥ずかしくなってしまった。なんだか、聞きようによっては自分がすごいことをしたかのような錯覚に囚われる気がしたからである。

マツブサは実際にヤツデとビャクブのことを切れ者として認識した。相手を持ち上げることはトイワホー国の国民の特徴の一つである。マツブサは間延びした口調で受け答えした。

「そうでしたか。チコリーちゃんの提案ですか。チコリーちゃんはさすがにシロガラシさんのプリンセスだけあって活発な子ですね。チコリーちゃんはそういう点では尊敬に値しますね。まあ、ヤツデさんとビャクブさんが私の無実も証明して下さるのなら、これ程にうれしいことはありません。ヤツデさんとビャクブさんはなんでもお聞きになって下さい。事件に関することなら、なんでも構いません」マツブサはゆっくりと言った。「私は包み隠さずにお話しをします」

「ありがとうございます。それではまず犯行が行われたと思われる時間のマツブサさんはどちらにいらっしゃいましたか?」ヤツデは聞いた。今のヤツデは気持ちを切り替えているので、内心では自分で自分を鼓舞している。ビャクブはヤツデに対し一旦は質問をお任せしている。

「ああ」マツブサはおそらくすでに警察からも聞かれたであろうヤツデの質問に対し淀みのない口調で答えた。「その時間なら、私はネズと一緒にこの部屋でテレビを見ていました」

「ネズさんと言うのはあちらにいる方のことですか?」ビャクブは質問した。ネズは席から立ち上がりこちらへ移動し敷物の上に腰を下ろしながら「ええ」と答えてくれた。

「ネズは私ですわ。殺されたクローブは私の主人です。私と主人とマツブサくんは古くからの顔馴染みなんですの。今回はマツブサくんに会いにくるため、私と主人はこのホテルに滞在することにしたのです」ネズは説明した。ネズの言葉を補足すると、マツブサはジオラマの作成を趣味の一つにしているので、ネズとクローブはそのジオラマを見せてもらいにきたというのも訪問の理由の一つである。

 マツブサのジオラマの趣味は長いので、ホテルの部屋に置けなくなってしまったジオラマはプリマス県にある別墅に陳列されている。マツブサはそれを眺めるのも好きである。

「この度はご愁傷さまです」ヤツデは夫を亡くしたネズに対し同情した。

「話を戻させてもらいますが、警察から聞いたではクローブの死亡推定時刻である午前7時半から8時35分の間は・・・・」マツブサは言いかけた。重複になってしまうので、シロガラシはマツブサの話のあとを引き取ることにした。シロガラシは端的にマツブサのセリフを先回りした。

「マツブサくんはネズさんとこの部屋で一緒だったんじゃな。話は実に理路整然としておるのう」

ヤツデはここで断りを入れてスマート・フォンのメモ機能を作動し忘れないよう死亡推定時刻を打ち込んでおいた。ビャクブはヤツデがあり合わせの作業を行っている間に確認した。

「それではマツブサさんとネズさんのお二人には完璧なアリバイがあるという訳ですね?」

「ええ」マツブサは返答した。「そういうことになります」

 この時のビャクブの頭には一つの可能性が思い浮かんだが、それは口に出さなかった。その想像はあまりにもこの場にはそぐわなかった。作業を終えると、ヤツデはネズに対し質問した。

「それではネズさんがクローブさんを最後に見た時の状況を教えて下さいませんか?」

「ええ」ネズは首肯した。「一昨日の朝は7時から7時半まで主人とルーム・サービスで食事をしていましたわ」ネズはここで少し一息を入れた。死亡推定時刻の初めの時間はネズがクローブを最後に見た時刻が元になっている。警察ではネズと一緒に食べたこの時の朝食の料理の消化状態から見て7時半から8時35分頃までが死亡推定時刻と見てまず間違いはないと判断している。

「私はその食事が終わると主人にマツブサさんのところへ一緒に行こうと提案したのですが、主人は一人で外を少し散歩したいということでしたので、私達は別れてしまいました。まさか、あの時に交わした会話が主人との最後の会話になるなんてあの時は思いもよりませんでしたわ」ネズは悲痛な面持ちで言った。ヤツデはそれを受け止めてから少し間を置き再び質問させてもらうことにした。

「マツブサさんとネズさんにはクローブさんを恨んでいる人物にお心当たりはありませんか?」

「おや?」マツブサは不思議そうにした。「ヤツデさんとビャクブさんは私の無実を証明して下さるのではなかったのですか? そんなことも私の身の潔白と関係してくるのですか?」

 ヤツデは踏み込みすぎたかなと思っているが、ビャクブは平然としている。ヤツデとビャクブに失礼があってはまずいと考えているので、シロガラシは慌てて「いやいや」と否定した。

「マツブサくんはなるべくヤツデさんの質問には答えてやってくれんかのう?」

「ええ」マツブサはのんびりと言った。「私はちょっと気になってしまっただけです。最初『なんでも聞いてくれて構わない』と申し上げたとおり、私は別に不快に思った訳ではありません」マツブサは難しい顔になった。「それはともかくクローブに対して恨みを持っていた人物は結構いるかもしれません」マツブサはそう言うとネズをちらっと見た。ネズは構わないといった感じで頷いた。

「些か、クローブは血の気が多く攻撃的な性格だったものですからね。彼はトイワホー国では絶滅危惧種なのではないかと思うほど気性の荒い男でした。ですが、このホテルに限って言えば、クローブに恨みを持っていた人物はいないはずなんです。クローブとネズさんはプスタ県に住んでいるから、私としては犯人がこのホテルで凶行に及んだ意味もよくわかりません」

 クローブは誰かに私恨を抱かれていたとしても行く先々で恨まれてばかりいたのか、クローブの気性を知っているとはいってもマツブサの立場からでもはっきりとしたことは言えない。

「そうですか。それは厄介な話ですね」ビャクブは頷いた。ビャクブはそう言いながらも床の間の軸物に目を奪われている。ビャクブの視線の先には発光ダイオード(LED)に照らされて古色蒼然とした一幅の掛け軸がある。何が言いたいのかというと、現在のビャクブは注意力が散漫になっているということである。ビャクブはヤツデと違いすでに集中力を切らしてしまっている。

「クローブさんはどんな体格の方でしたか?」ヤツデは再び質問を開始させてもらうことにした。

「体は大きい方だったと思いますわ。これはごく最近の話ですが、主人は階段で足を踏み外し床に腕を打ちつけたので、左腕は骨折していましたわ」ネズは受け答えした。ヤツデは新たな質問をした。

「話は変わってしまいますが、ネズさんは8年前にプスタ県の病院で起こった殺人事件と自殺事件のことをご記憶されていますか? 殺されたのはアイさんと言う看護師で自殺したのはルーさんと言う患者さんです。ぼくはプスタ県に住んでいる訳ではありませんが、その話は偶然にも知っているんです」

「そうでしたか。確か、あれは主人の知り合いの看護師さんが殺されたという事件ですわね。覚えていますわ。あんな状態で発見された死体の事件は忘れようと思っても忘れられません」

「あんな状態とは遺体はどんな状態で発見されたのですか?」ビャクブは興味深そうにしている。

「屋上から突き落とされたその看護師さんは病院のエントランスの外の柱に立てかけられて発見されていたんですわ」ネズは言葉を紡いだ。ビャクブは心の底から驚いたような表情を見せた。それは何が目的なのか、ビャクブは少し試行錯誤したが、結局はよくわからなかった。

「そうでしたか。それなら、ネズさんの記憶には確かに深く残っているかもしれませんね。マツブサさんはこの事件をご存じなのですか?」ヤツデは表情を変えることなく聞いた。

「ええ」マツブサは懇切丁寧に説明した。「看護師さんが何者かによって屋上に呼び出されて突き落とされた事件とその突き落とした人が自殺した事件のことなら、私はネズと同じく存じています」

 ヤツデは納得したように頷いた。ヤツデは一瞬の間を開け再び次の質問をした。

「それでは最後にお聞きをしますが、クローブさんはタバコをお吸いになられていましたか?」

「ええ」ネズは返答した。「クローブは喫煙者でしたわ」

 しかし、それはなんの役に立つのか、ネズにはわかっていなかった。

 ヘビー・スモーカーのクローブはよく10個詰めになったカートン単位でタバコを買っていた。そうすると、馴染みの店ではおまけとしてライターをもらえたからである。

 ただし、喫煙はニコチン中毒が起きたりタール分によって肺ガンの発生率を高めたりと人体には悪影響を及ぼすものである。タバコはさらに受動喫煙という問題も抱えている。

 嗜好品のタバコとは一年草のタバコを加工したものであり紙巻き(シガレット)・葉巻シガー・刻みタバコ・嗅ぎタバコ・噛煙草といったように様々な種類がある。キセル乗車のキセルとは刻みタバコを吸うための道具から来ている。余談はこれくらいにしておくことにする。

最初はネズと同様にビャクブには今のヤツデの質問の意図が読めなかった。しかし、少し考えてみると、ビャクブにはヤツデが2604号室のゴミ箱から発見した吸い殻のことを言っているのだということについて思い当たることができた。ヤツデは紳士的な態度を崩すことなく言った。

「マツブサさんとネズさんはご協力をどうもありがとうございました。お二人のお話はとても参考になりました。差し当たり、お聞きしたいことはこれくらいですので、ぼくたちはそろそろお暇を致します。なにか、ビャクブにはまだ聞きたいことはあるかな?」ヤツデは聞いた。マツブサの予定が書き込まれた壁面のカレンダーをぼんやりと眺めていたビャクブはヤツデに話しかけられ「いや」と慌てて返事した。

「おれからも特にはないよ。お話を聞かせて下さってありがとうございました」ビャクブはお礼を言うとヤツデと共に立ち上がった。それを見ると、シロガラシは立ち上がりヤツデに対して聞いた。

「どうじゃろう? この際ですから、マツブサくんとネズさんの無実の証明はできそうかのう?」

「今はまだなんとも言えませんが、とりあえず、ぼくにやれるだけのことはやってみるつもりです」ヤツデは慎重な態度になって答えた。しかし、ヤツデは答える前に首を傾げ少し答えを逡巡していた。

「そうですか。それは心強いですのう。それではマツブサくんとネズさんにはわしからもお礼を言うよ。ありがとう。さてと、部屋に帰ったら、わしはマッサージでもしてもらおうかのう」シロガラシは満足げである。ヤツデは色々と必要な情報を得たようなので、ビャクブは同じく満足である。

 マツブサとネズはヤツデとビャクブに対してお礼とお別れの言葉を述べてくれた。ネズは警察の他にも自分の味方になってくれる人間が増え心強いのである。とはいえ、それは心の面だけであってまだ四苦八苦している事件自体には光明が差し込んできている訳ではない。

 一方のマツブサはヤツデとビャクブとシロガラシの三人の見送りを終えると気持ちを切り替え本棚から辞典を取り出し机で調べ物を始めることにした。

失礼なことは承知しているが、正直に言ってヤツデとビャクブが本当に真相に辿り着けるとは思っていない。それでも、自分の身の潔白ついてだけなら、彼らでもひょっとしたら証明をしてくれるかもしれないとマツブサは考えている。マツブサはヤツデとビャクブに対し好意を持ったということである。


チコリーはシロガラシが自室である2309号室に帰ってくるとミツバに教わりちっちゃいハンカチに刺繍をしていた。チコリーはこのハンケチをヤツデへの進物としようとしている。

チコリーはどうしてプレゼントするのかと言うと対面の時にヤツデの服にオレンジ・ジュースを零してしまったお詫びをするためである。チコリーは反省の意を示そうと思ったのである。

チコリーはこのことについて二日前の昼食と夕食の間に作成することを決めた。チコリーはこうなることを予測していたので、あの件はここまで計画的な犯行だったのである。

そんなこととは露ほども知らず、ミツバはチコリーに対し刺繍のやり方を教えていた。ミツバは私心を持って行動できる点についてはチコリーを大いに評価している。

チコリーは割と気が強い方なので、頑固な一面もある。そのため、ミツバはチコリーが意固地になりすぎないよう一緒にいる時にはチコリーのことをいつも見張っている。だが、チコリーは幸い他人のことを思いやる気持ちをちゃんと持ち合わせている。

「あら」ミツバは部屋に入って来たシロガラシに対し声をかけた。「おかえりなさい」

 シロガラシとミツバは一度もケンカしたことがないほど仲のいい老夫婦である。

「ただいま」シロガラシは返答した。「がんばっているようじゃのう」シロガラシはチコリーのことを見て言った。シロガラシはチコリーが刺繍していることを知っているし、チコリーのことを応援してもいる。チコリーは作業を止めることなくシロガラシに「うん」と言った。

「時間はもう少しかかりそうだけど、私は諦めないで最後までやろうと思っているの。それで? どうだった? ヤツデさんとビャクブさんはマツブサさんのことをなんて言っていたの?」

「うーん」シロガラシは控えめな口調で言った。「わしからはまだなんとも言えんがのう。まさか、ヤツデさんとビャクブさんはマツブサくんの罪を暴くことにならなければいいのだがのう」

「あらあら」ミツバは口を挟んだ。「真実の追求はそんなに悪いことなのかしら?」

「いや」シロガラシは誠実な態度で言った。「それに超したことはないのじゃが、わしが言いたかったことはマツブサくんに後ろ暗いところがなければいいのだがということじゃよ」シロガラシはヤツデが射抜くような視線をマツブサに対し向けていたことを思い出している。

あのヤツデの視線は容疑者を相手にしているか、しからずんば、あの眼光はなにかしらの後ろめたいことがある人間に対し警戒をしているようにシロガラシには思えてしまった。

シロガラシはそもそも豪快な性格をしているから、普段は細かいことを気にしないのだが、幸か、不幸か、今回はたまたまヤツデの視線が必要以上に気になってしまったのである。

「え?」チコリーは不満そうである。「それはヤツデさんがマツブサさんのことを疑っているっていうことでしょう? おじいちゃんとおばあちゃんはマツブサさんのことを信用していないの?」

「あらあら」ミツバは穏やかな口調で言った。「私には別にそんなつもりはないのよ」

「わしも当然のことながら同様じゃよ。今の話はあくまでも仮定の話じゃよ。わしはマツブサくんを悪者だと決めつけている訳じゃないのだから、チコリーはそんなに深く考えなくてもいいのじゃよ」シロガラシは安心させるように言った。チコリーはあっさりと丸め込まれ「なーんだ」と言った。

「そうなのか。でも、ヤツデさんとビャクブさんってすごく鋭いよね?ヤツデさんとビャクブさんは探偵でもないのにね。副業はもしかして探偵なのかしら?」チコリーは大人びたことを言った。

「そういうことはおっしゃっていなかったから、それはないと思うわよ。ヤツデさんとビャクブさんはそんなことで嘘をつくとは思えないものね。こういうことを言うと、チコリーには時代錯誤だと思われるかもしれないけど、チコリーはあんまりヤツデさんとビャクブさんに頼りすぎてもダメよ」ミツバは注意した。シロガラシは口を挟まずにぼうっとしている。チコリーは不思議そうである。

「どうして? 私はもうヤツデさんとビャクブさんと仲良しになれたと思ったのに」

「ええ」ミツバは頷いた。「それはトイワホー国の国民のいいところね。でもね。諺では『親しき仲にも礼儀あり』って言うでしょう?」ミツバはチコリーの心のストッパーになろうとしている。

「そっか。そうだね。頼りすぎはおじいちゃんもダメよ」チコリーは注意した。

「おやおや? わしはチコリーに説教されてしまったのう。でも、わかったよ。おじいちゃんはちゃんとそれを肝に銘じておくよ。そうじゃった。わしはマッサージを頼むとしよう」シロガラシはそう言うとリラクセーションするべく電話の受話器を上げフロントにマッサージをお願いした。

今のシロガラシには胸騒ぎというに相応しいあまり根拠のない不安感が重くのしかかっており、それは打ち消そうと思っても打ち消しがたいものだった。

ヤツデとビャクブの二人のことを信頼しているからこそ、マツブサが本当に潔白なのかどうかとシロガラシにはそういった不安が募ってしまうのかもしれない。

 一方のチコリーは束縛を受けることもなく無邪気である。チコリーはテレビの視聴者になったりドラマの子役の真似をしたりしてミツバとシロガラシのことを元気づけてくれた。


ヤツデとビャクブはマツブサのいる2301号室を出てシロガラシと別れると暗いムードを払拭するため気分転換として少しホテルの周りを散歩することにした。それを終えると、ヤツデとビャクブの二人は自室へ引き返すことにした。ヤツデは今まで被っていた野球帽を持っている。一方のビャクブはオシャレとして被っていたバンダナを手にしている。散歩している間はヤツデもビャクブもマツブサとネズについての話を少しも交わさなかった。しかしながら、それはヤツデとビャクブの二人が自堕落だからではなくオンとオフの切り替えがうまいからである。ビャクブは自室へ向かう途中になるといよいよそのことについて話し込むことにした。ビャクブは言った。

「結局『幸せギフト』は使わないでマツブサさんとネズさんから話を聞けたな。それで? どうだい? なにか、ヤツデはマツブサさんの部屋で聞いた話から有益な情報は得られたのかい?」

「うん」ヤツデはうれしそうに答えた。「ぼくは想像以上の情報が得られたと思うよ」

その得られた情報の中にはシロガラシが心配している問題も含まれている。マツブサの証言の中には明らかにおかしな点が含まれていたので、ヤツデはマツブサという人物について油断なく失態のないよう注意を払っていた。マツブサは「なんでも話す」と言っておきながらなにかを隠しているということについて今のヤツデは確信を持っている。

実は真っ先に先程のようなヤツデの自信に満ちたセリフを聞きたかったので、ビャクブは内心ではとても満足している。ビャクブはそんなヤツデを横目に見ながら不思議そうにしている。

「ヤツデは8年前に起きたルーさんの自殺事件が今回の事件と繋がっていると思うのかい?」

「うん」ヤツデは首肯した。「それはまず間違いないと思うよ。アイさんっていう看護師さんの死体が病院のエントランスの柱に凭れかかって立っていたことと今回の事件でクローブさんの遺体がエレベーターの壁に凭れかかって立っていたということの二つを結びつけて考えるなっていう方が無理な話だと思うからね」ヤツデはしみじみとしている。ビャクブは「ああ」と得心した。

「それは確かにそうだな。でもさ。おれは全く違う考えが浮かんだんだよ」

「それはどんな考えなの?」ヤツデは興味深そうに相槌を打った。ヤツデはバニラ犯人説を聞いた時もそうだったようにいつでもビャクブの思いつきを買っている。

「マツブサさんとネズさんは不倫の関係にあるという考えだよ」ビャクブは言った。

「なるほどね」ヤツデは得心した様子である。「それは確かに興味深い考えだね」

「そうだろう?」ビャクブは遠慮気味に聞いた。「マツブサさんとネズさんの二人のアリバイを支えているのはだってお互いの証言だけなんだから、これは誰にでも考えつきそうなアリバイ工作だけど、かといってそれが嘘だというとことを証明するのは簡単じゃないと思うんだよ。それにだよ。マツブサさんとネズさんの二人は今さっき見てきたようにものすごく仲が良さそうだっただろう? ネズさんからクローブさんに向かって不倫を理由にして離婚を切り出したら、ネズさんには慰謝料なんかは入らない。だから、マツブサさんとネズさんの二人はお金も手に入れ合理的に結婚するため、ネズさんか、マツブサさんのどちらか一人がクローブさんを殺害した。この推測はどうだろう?」

「うん」ヤツデは反論しなかった。「ぼくは中々おもしろい考えだと思うよ。だけど、ネズさんとマツブサさんはお金欲しさにクローブさんを殺害することはないと思うよ。仮にネズさんがマツブサさんと結婚したいのなら、クローブさんのお金を手に入れなくてもホテルに住んでいるマツブサさんにはそれなりの財力はあるだろうからね。ん? ビャクブは今すぐ『幸せギフト』の商品券を出してくれる?」ヤツデは頼み込んだ。今のヤツデは少し取り乱しながらビャクブを急かしている。なぜなのかというと、ヤツデはビャクブと共に自室の1201号室に近づいていたら、いつか、見た一人の女性を発見したからである。ヤツデの見立てによると、その女性というのはこのホテルの殺人事件と少し関連がある。

「ヤツデはあの女性に商品券を渡してほしいっていうのかい?」ビャクブはあたふたと慌ただしげに商品券をウエスト・ポーチから取り出すと早速に聞いた。ヤツデは「うん」と頷いた。

「そうだよ。ぼくは何も言ってないのに、ビャクブはよくわかったね。ビャクブは嫌かな?」ヤツデは聞いた。ヤツデはこんな時でもビャクブへの配慮を忘れなかった。

「おれは嫌じゃないよ」ビャクブは向こう側から歩いてくる撫で肩の女性に対し手を上げ「すみません」と話しかけた。ミズキという名のその女性は少ししてからゆっくりと顔を上げた。

「はい」ミズキは聞いた。「なんでしょうか?」ミズキには警戒の色はない。女性が一人でいる時に他人から話しかけられたとしても必要以上に用心をしないのはトイワホー国では普通のことである。

「唐突で申し訳ないのですが『幸せギフト』として商品券をプレゼントさせてくれませんか?」ビャクブは聞いた。ビャクブが当たり前の如く受け取ってくれるだろうと思っていると、ミズキはやはりうれしそうにした。その間のヤツデは端っこで自分の出番を待っている。

「本当ですか? うれしいです。本当にありがとうございます」ミズキは無邪気にお礼を言った。

「喜んでもらえたなら、おれもうれしいです。『幸せギフト』を貰うのは初めてですか?」

「はい」ミズキは「そうなんです」と言うとビャクブから商品券を受け取った。

「いつかは貰いたいとは思っているんですけど、おれは未だに『幸せギフト』を貰ったことがないんですよ」ビャクブはトイワホー国の国民らしく親しげにミズキと会話をしている。

「親切な方なんですから、いつかはきっと貰えますよ」ミズキはしおらしく言った。

「そうですかね?」ビャクブはうれしそうにしている。「そうだといいですけど」

「ところで」ヤツデは突然に話に割って入った。「この頃のテンダイさんはお元気ですか?」

「ええ」ミズキは「え?」と不審な声を漏らした。話のテンポのまま頷いたが、ミズキはおかしな点に気がついた。ビャクブはあまりにも突拍子のない話に対し「へ?」と素っ頓狂な声を上げた。

「そうなんですか?」ビャクブは完全に話に置いて行かれてしまっている。「あなたはテンダイさんとお知り合いなんですか? ヤツデはなんでそんなことを知っているんだい?」

「え? テンダイさんですか? いいえ。私は知りませんけど」ミズキはしどろもどろになりながら否定した。ビャクブは不思議そうにしているが、そんな小細工はヤツデには通用しなかった。

「いや」ヤツデは微笑んでいる。「隠さなくてもいいんですよ。実は今さっきようやくぼくも気がついたのですが、テンダイさんが手品をしている部屋の入り口で呼び込みを行っていた女性はあなたでしたよね? 確か」ヤツデは確認した。ビャクブはヤツデに指摘されても今一納得できていない。言うか、言うまいかとミズキは躊躇した。ミズキは意を決したように「ええ」と口を開いた。

「おっしゃるとおりですが、それが、なにか?」ミズキは質問した。ヤツデは答えた。

「テンダイさんとはたまたまプールでお会いして知り合いになったのですが、ぼくはテンダイさんに折り入ってお話したいことがあるので、できれば、テンダイさんとお部屋でお会いできないかなと思いましてね。失礼を承知でお願いしますが、テンダイさんにかけ合って下さいませんか?」

「ええ」ミズキは少しすると力強い口調で言った。「わかりました。あたしはテンダイのフィアンセのミズキです」しかし、心配性な性格のミズキはここでも躊躇している。

「ぼくはヤツデです。こっちはビャクブです。それではお願いできますか?」ヤツデは聞いた。

「ええ」ミズキは「わかりました」と言うと半信半疑といった体で自室の中へ入って行った。

ミズキは間もなく部屋から出て来た。テンダイから許可を貰えたので、ミズキはヤツデとビャクブの二人を自室へ引き入れた。ヤツデとビャクブとテンダイとミズキの4人は和室のテーブルの前に腰を落ち着けた。ミズキは今も不安そうである。テンダイはやがて最初に口を開いた。

「こんにちは」テンダイは挨拶した。「ヤツデくんとビャクブくんはなにやらぼくに話があるということらしいけど、それはどんなお話かな?」テンダイはミズキと違いとても落ち着いている。

正直なところ、テンダイになんの話があるのか、よくわからなかったので、ビャクブは興味深そうにしてヤツデを見据えた。ただし、ビャクブはヤツデが言うからには大事な話なのだろうとは思っている。ヤツデは質素な調度品を眺めテンダイに目を添え直した。

「テンダイさんにはせっかく貴重なお時間を割いてもらっているので、単刀直入に申し上げますが、このホテルで死体が発見された時に最初にエレベーターに乗っていた男性というのはテンダイさんのことですよね?」ヤツデは徐に話を切り出した。ビャクブはヤツデの突飛な考えにびっくりしている。

「なんの話かと思えば、なにか、それには証拠でもあるんですか?」ミズキはすぐさま反応した。

「はい」ヤツデは首肯した。「証拠はあります。ぼくらとプールでお会いした時にテンダイさんは『エレベーターが上階から下降して一旦止まってから二号館の一階で死体が発見されたそうですね』とおっしゃっていました。ところが、このセリフはよく考えてみるとおかしな点が一つあります。テンダイさんはどうしてエレベーターが一旦止まったことをご存じだったのでしょうか? その答えはテンダイさんがあの時にあの場所にいたからに他なりません」ヤツデは一息ついた。ミズキは反論をした。

「それはテンダイがあの時にエレベーターに乗っていた他の人から話を聞いていたからです。テンダイは決してその場にいたから、知っていた訳ではありません。ヤツデさんの言うことは単なる想像です」

ヤツデはどう対抗するのか、ビャクブは心配げにヤツデに視線を投げかけた。ヤツデは自分のペースを崩されることなくビャクブの視線をひしひしと感じながら「なるほど」と話を続けた。

「そういうことも確かにありえますね。ですが、ぼくが思う証拠は他にもあります。カラタチさんという大きな体をした人から聞いた話では死体が発見されたあの時にはエレベーターの中で男性がトランプを落としてしまうというトラブルがあったらしいんです。その方の身長はやや高めで中肉中背でした。特徴はさらにもう一つありました。彼は黒縁メガネをかけていたそうです。それは大体においてテンダイさんの風貌と一致します。それだけではなくニュースで聞いた話では被害者のクローブさんの所持品の中には一枚のトランプが紛れ込んでいました。その一枚のトランプについている指紋をテンダイさんの指紋と警察に照合してもらえれば、ほぼ間違いなくその二つの指紋は一致するはずです。自分の分の『お助けカード』はすでにもう使ってしまいましたが、ぼくはチコリーという少女から『お詫びカード』という形でもう一枚『お助けカード』を貰っているので、ぼくには警察にお願いして調べてもらうこともできるんですよ。どうですか? 以上が死体の発見時にテンダイさんが最初にエレベーターに乗り合わせていたという証拠です」ヤツデは理路整然とした口調で推理を展開した。

ミズキは絶対にその事実を認めようとはせず反論の言葉を考え込んでいる。しかし、ミズキの口から言葉は出てこなかったので、テンダイはミズキには頼ることをせずに発言した。

「ぼくは正直に申し出るべきだと思っていたのですがね。何も悪いことをしていないというのに、こそこそと隠れる意味はないし、フェアでもないですからね。ぼくも確かに面倒なことに煩わされるのはごめんだとは思いましたが、ミズキに断固として言うのはダメだと制止されていたのです。仮にそれを言えば、ぼくは警察に監禁され、最悪の場合は殺人犯にされてしまうと言ってね。そんなことはあり得ないと思いつつもヤツデくんのおっしゃるとおり、結局は事件が発覚したエレベーターから降りたあとミズキに説得され、ぼくはミズキの言うとおりにしてしまったのです」テンダイは肩をすくめている。

 テンダイはそこまで話し終えるとため息をつき「やれやれ」と首を振りミズキをちらっと見やった。ミズキは厳しい視線をヤツデに向け少し荒い口調になって言った。

「ヤツデさんはテンダイが殺人犯だと思っているんですか? ヤツデさんは警察に連絡するつもりなんですか?それとも、ヤツデさんはもう連絡したのですか?」ミズキは次々と棘のある物言いをした。ミズキの剣幕には少し圧倒されたが、ヤツデはそれでも諭すように「いいえ」と言った。

「ぼくはこれから『お助けカード』を使えると言ったようにまだ警察にはなんの報告もしてはいません。どちらにしても、ぼくはこれから報告する気もありません。それに、ぼくは現時点ではテンダイさんが犯人だなんて微塵も思ってはいませんよ。ですから、どうか、ミズキさんはご安心なさって下さい」

「え?」ビャクブは驚いて聞いた。「テンダイさんは犯人じゃないのかい? それなら、ヤツデはなんでわざわざ死体の発見された時にテンダイさんがその場所にいたことを本人に明かしたりしたんだい?」

ビャクブはいつでもヤツデの味方なので、叱責するようなことは絶対にしないが、形勢が悪くなって来たので、心配し始めた。ミズキはきょとんした様子である。

「そうですよ。それなら、ヤツデさんはどういうつもりなんですか? 他言するのでなければ、ヤツデさんはどうしてテンダイを問い詰めるようなことをしたんですか?」ミズキは聞いた。ビャクブとミズキの二人によって問い詰められてまたも気圧されたが、ヤツデは次のように発言した。

「その理由は単純に事実を明白にしたかったからです。それに、ぼくも『愛の伝道師』という公務員である以上テンダイさんには同じ公務員である警察官にも事情を話してもらいたかったからです」

「わかりました」テンダイは決意したように頷いた。「ぼくは正直に申し出ましょう。ヤツデくんのおっしゃるとおり、ぼくは死体の発見時にエレベーターに最初に乗っていたということも被害者のポケットに入っていたのは実際のところぼくのトランプであり、事件とは無関係であるということも申し上げます」

「でも、そんなことしたら」ミズキは口を挟もうとした。テンダイはそれを制止した。

「今頃になって名乗り出たのでは警察からの風当たりは確かに強いかもしない。でも、ヤツデくんのおっしゃるとおり、真実はありのままに白日の下にさらすのが一番いいのかもしれない」

「わかりました。ヤツデさんとビャクブさんには失礼を致しました。どうもすみませんでした。最初にエレベーターに乗って最後にエレベーターを出た姿は見られているし、テンダイはまた外出しているなんてことがあったら、あたしはテンダイが本当に殺人者にされてしまうんじゃないかと思って怖かったんです」ミズキは言った。テンダイはヤツデの持っていた帽子をそっと取り上げ人差指でくるくると回し始めた。テンダイは何分にもミズキと違いあまり動揺していない。いずれはこうなるということを覚悟していたので、テンダイはいつどこでなにが起きても動じないのである。

「ここはトイワホー国だから、怖いことはきっと何もないよ。ぼくはむしろミズキに殺人犯だと疑われているんじゃないかと思ってそっちの方が怖かったよ」テンダイは正直に言った。

「そんなこと」ミズキは言った。「あたしは少しも疑ったりはしなかった。テンダイが殺人なんて犯すはずないじゃない。それでも、状況は嘘をついたことでどんどんと悪くなってきているようであたしがテンダイになるべく外出をしないように言ったことがバレたら、テンダイはもっと怪しまれるんじゃないかと思ってあたしは気が気じゃなかったのよ」ミズキは悲しげである。ミズキには被害妄想に囚われてしまうという悪癖がある。ヤツデはミズキに向き直り微笑みかけた。

「ぼくはミズキさんを咎めるつもりは毛頭ありませんよ。時に人を信用していいのかどうかを判断することはとても怖いことですからね。ですが、勇気を持って秘密を打ち明けるとこの広い世界では必ず誰かにわかってもらえるんですよ」ヤツデは『愛の伝道師』としてやさしく言った。

ミズキは少し瞳を潤ませながら無言で頷いた。これはヤツデをよく知るビャクブに言わせると至当なことだが、ヤツデは実を言うとテンダイの腹積もりを責めに来たのではなくテンダイの窮状を救いに来たのである。ミズキはようやくその意味を理解することができた。

「あれ? ちょっと待てよ。テンダイさんが手品を披露された時のテンダイさんとミズキさんは2602号室に部屋を借りていましたよね? それなのに、今はどうしておれたちの部屋の向かいにあるこの1207号室に場所を移したんですか? これはちょっと不可解ですよね?」ビャクブは一人で不思議そうにしている。「一人で不思議そう」ということはヤツデには不思議ではないという意味である。

「これは自分でも情けないような話だと思いますが、その理由はミズキの提案によりできるだけ死体のあった現場から離れようとしたからです。ホテル・マンに伝える時はそのようなことは噯にも出さずに一号館からの夜景も見てみたいからと言いましたけどね」テンダイはすらすらと答えた。

「なるほど」ビャクブは納得した。「ん? しかしですよ。それなら、テンダイさんとミズキさんはこのクリーブランド・ホテルから離れれば、話はそれですむのではありませんか?」ビャクブは素朴な質問をした。ビャクブは五里霧中の状態である。ビャクブは決して愚鈍ではないが、推理力はヤツデほど長けていない。ヤツデはテンダイとミズキよりも早く答えた。

「これは単なるぼくの当てずっぽうですので、この憶測はもしかしたら外れているかもしれませんが、その理由はおそらくクリーブランド・ホテルにある結婚式場がテンダイさんとミズキさんの挙式場だからではありませんか?」ヤツデは真剣な顔をしている。テンダイは頬を緩めた。

「すばらしい。ヤツデくんのおっしゃるとおりです。いやはや。手品師でもあるさすがのぼくもヤツデくんには驚かされっぱなしでしたよ」テンダイはそう言うとヤツデの手に帽子を返し拍手した。

一通りの話はすんだので、ヤツデとビャクブは立ち上がってテンダイとミズキに別れを告げこの場を辞去することにした。ミズキはその際にヤツデとビャクブに謝意を表した。

テンダイは最後に必ず警察署へ行って自分の知っている真実を包み隠さず話すことを固く約束した。ヤツデとビャクブの二人は陰ながらそれを応援することにした。

 ミズキはヤツデに対し無茶なしっぺ返しをしてしまったことを恥じてテンダイと一緒に心の重荷を下ろすことにした。ミズキは今も不安感を拭えないでいるが一方のテンダイは自白する訳ではないということを何度も自分に言い聞かせることにしている。


その後のヤツデとビャクブの二人は1201号室に戻ってきた。1201号室にはもう住み慣れてきたので、この部屋はヤツデにとって今ではゆっくりと寛げる空間となっている。ヤツデは警察がテンダイのことを責め苛むようなことはありえないと確信をしていたので、先程の一件については後悔していない。自閉症になったことのあるヤツデがそう思うのだから、それは間違いない。それこそがトイワホー国という国である。それよりも、ビャクブの方には気になる問題が一つ発生してしまっていた。ビャクブはこれまでの話を引き続き行うことにした。ビャクブは慎重な口調になって聞いた。

「一番これは重要なことだと思うんだけど、ヤツデはテンダイさんが本当に犯人じゃないっていうことを断言できるのかい? 仮にこの事実が覆るようなことになれば、さっきの話は茶番になっちゃうだろう?」ビャクブはさすがにテンダイの前ではこの疑問をヤツデにぶつけられなかった。

「ぼくにはテンダイさんが犯人じゃないなんてことは断言できないよ」ヤツデはベッドの上でハム次郎の持っているチーズを食べさせるような真似をしながら即答した。

「え?」ビャクブは拍子抜けして聞いた。「断言はできないのかい? それなら、テンダイさんは口では警察に申し出ると言いながらその実はそんな気はさらさらないんじゃないのかい?」

「その時はその時だね」ヤツデは言った。「だけど、仮にテンダイさんが警察に申し出てくれれば、テンダイさんの無実はその行動自体が証明をすることになるよね? ぼくはそれを願っているんだよ」

「それは確かにそうだけど、仮に犯人がテンダイさんでテンダイさんが警察に申し出なかったとしたら、まさかとは思うけど、テンダイさんは真相に近づいたおれたちの口を塞ぎに来るかもしれないだろう?」ビャクブは不安そうにしている。ビャクブは刑事ドラマの見過ぎの感は拭えない。

「まあ」ヤツデは大様に言った。「その時もその時だね。こっちにはビャクブがいるから、心配はしていないけど」ヤツデは余裕綽々である。一方のビャクブは慌てて「おいおい」と言った。

「ヤツデはおれをあんまり頼りすぎないでくれよ。いざとなったら、おれは頼りない自信があるんだからな」ビャクブはそんなことで胸を張っている。その声に続いて部屋のチャイムが鳴った。

「ん? 誰だろう? 一体」ビャクブは疑問を呈した。ヤツデは次のように答えた。

「カラタチさんが音楽会に行くのにぼくたちを迎えにきてくれたんじゃないかな? ぼくはきっとそうだと思うよ」ヤツデは気楽である。それにはきちんとした根拠もある。

 まさか、テンダイはもう自分たちの口を塞ぎに来たのではないだろうなとビャクブは思いながらびくびくしてドアの方へ向かった。そんなに怖いのなら、ビャクブはヤツデにドアを開けてもらえば、よさそうなものだが、これは万人に見られる怖いもの見たさというやつである。

 ヤツデはそれを察し微笑している。ビャクブはドアを開けた。そこには果たしてのっぽで大柄なカラタチの姿が認められた。カラタチはこの上なく幸福そうに「やあ」と言った。

「音楽会まではあと15分ぐらいですから、ビャクブくんは一緒に会場に行きませんか? 私はずっと楽しみにしていたんですよ。部屋にはヤツデくんもいますよね?」カラタチは聞いた。

「はい」ビャクブは頷いた。「室内にはヤツデもいます。すぐに仕度をすませますから、カラタチさんは少しだけ待っていてくれますか?」ビャクブは聞いた。ビャクブは内心では訪問者がテンダイではなく安堵している。カラタチはそんなビャクブの心中を知る訳もなく笑顔で「ええ」と応じた。

「もちろんです。私は気長にお待ちしております。仕度はごゆっくりどうぞ」

 一人で勝手に四面楚歌に陥っていたビャクブは改めて安堵の吐息をついた。ミズキについてはすでにそうだと述べたが、ビャクブは同じく被害妄想が強いのかもしれない。

ビャクブは気持ちを切り替え飲み物を買うかもしれないので、外出の際にはサイフの入ったウエスト・ポーチを持って行くことにした。ちなみに、ビャクブはコーラが好物である。

 今のヤツデはハム次郎とお別れの挨拶をしている。カラタチは外で鼻歌を歌いヤツデとビャクブのことを待っている。状況はビャクブの思っているほど切羽つまってはいない。


ヤツデとビャクブは準備をすませた。ヤツデとビャクブにカラタチを含めた三人は音楽会が開かれる二号館の三階へ歩を進めて行った。ヤツデはすでに浮き浮きしている。

幸福心に満ちたカラタチはその途中でヤツデとビャクブに出会えたことについて何度も喜びの言葉を口にした。ヤツデとビャクブはひねくれ者ではないので、その言葉を社交辞令だとは受け取らず素直な気持ちでその言葉を受け止めることにした。ヤツデとビャクブの二人はカラタチに会えたということを最高の幸せと感じていることは言うまでもないのかもしれない。トイワホー国の国民というのは等しく出会いを大切にする。他人とは自分を助けてくれたり喜ばせてくれたりする大切な存在だからである。

音楽会が開かれる会場はクーラーの効いた部屋だったので、ヤツデは白いシャツの上に紫色のジャケットを羽織ることにした。ヤツデとビャクブとカラタチの三人はそれぞれ壁際に沿ってイスに腰かけた。

間もなく幕は上がった。100人ほどいる観客は皆が演奏に耳を傾けた。演奏は緩やかなテンポから心地よい響きと共に徐々にアップ・テンポへと変わって行った。別世界への誘いにすっかりと魅了されている会場の衆は演奏者の見事な奏法に惚れ惚れとしている。

カラタチはそんな中「次第に早く」というアッチェレランドのテンポのあたりで席を立ちそそくさとビャクブとヤツデの前を通り過ぎて会場をあとにした。ビャクブはそれに気づかなかった。

ヤツデの耳にはその後「次第に弱く」というデクレッシェンドに曲が移行したあたりで「きゃー!」というようなヒステリックな悲鳴が聞こえてきた。ビャクブはこれにも気づかなかった。

暫時はこの悲鳴を空耳だと決めつけていたが、我に帰ってみると不思議だなとヤツデは思いカラタチと同じようにして席を立ち会場を急ぎ足で飛び出して行った。

会場を出て少しだけ歩くとヤツデは悲鳴の理由を目にすることができた。カラタチはシランが尻餅をついて倒れ込んでいる前で仁王立ちしながら頭を掻いていた。カラタチはすっかりと恐縮しているので、現在はまるで弱卒のようになってしまっている。

「どうしたのですか? カラタチさん」ヤツデは一応の質問をした。とはいえ、大体の事情はヤツデにもわかっている。カラタチから帰ってきた答えはヤツデの予測していた通りのものだった。

「実はトイレへ行こうと思って小走りで進んでいたら、私はうっかりしていて彼女にぶつかってしまったんですよ」カラタチは尚も頭を掻きながら言った。カラタチはまだ小さくなっている。

「そうでしたか。シランさんは大丈夫ですか?」ヤツデは聞いた。「おケガはありませんか?」

「ええ」シランは埃を払い立ち上がりながら答えた。「大丈夫よ。少し驚いたけど」

「それはよかったです。本当によかったです。私はどえらいことをしてしまったと思って死ぬかと思いましたよ。まあ『死ぬかと思った』は私のセリフではありませんな。それではシランさんには『お詫びカード』をお渡しさせて下さい」カラタチは安堵した表情を浮かべて言った。

シランは馴れ馴れしくカラタチにより名指しされても特に何も思わなかった。シランは小さくなっているカラタチから『お詫びカード』を受け取った。シランは意外そうに言った。

「ヤツデくんはこちらの人と知り合いだったの? だとしたら、ものすごい偶然ね」

「はい」ヤツデは尤もだと頷いた。「そうですね。彼はカラタチさんと言って気のやさしい方なんですよ。ですから、カラタチさんは本当にうっかりしていてぶつかってしまっただけだと思います。ですが、シランさんはカラタチさんの大きな体に激突しておケガしなかったのは本当に不幸中の幸いでしたね」

 ヤツデはそう言うとシランに対し微笑みかけた。シランは無表情だったので、ヤツデは少し恥ずかしくなった。シランは融通が利かないのではなく滅多に笑わないだけである。シランは怒っている訳でもなけいし、気分が悪い訳でもない。カラタチは思い出したように言った。

「いつだったか、こちらのシランさんは朝食前にレストランに顔を出しているのをヤツデくんと一緒に目撃しましたな。目撃なんて言うと大げさですが、私はそれで・・・・」

シランはカラタチの言葉を最後まで聞くことなくヤツデとカラタチの二人に対しすっと背を向けた。カラタチはシランの気を害してしまったのかなと思い心配した。だが、実際はそうではなかった。シランはただ単にもう帰りたくなってしまっただけである。

「それじゃあ」シランは振り返りながらそっけなく「さようなら」と言った。

「はい」ヤツデはきちんと「さようなら」と挨拶を返した。先程は少しだけシランにより邪険にされてしまったが、ヤツデはいつもと変わらずシランに対して友好的である。

ヤツデは全ての人間と仲良くなりたいという願望を持っているので、シランとてそれは例外ではない。しばしば、ヤツデは勇気がなくてそれを口に出せないこともある。

「本当にどうもすみませんでした」カラタチは最後の最後にも詫びを入れた。

少しすると、ビャクブはワン・テンポほど遅れてヤツデとカラタチの様子を見にきたが、事態が収拾していることを聞いて落胆したようにヤツデと共に音楽会の会場へ引き返して行った。

観客はカラタチがトイレから帰ってくる頃にはフォルテからフォルテッシモの激しい曲調の合奏に聞き惚れていた。今度はカラタチも落ち着いて演奏を楽しむことができた。

演奏が終わると、ヤツデとビャクブはお風呂に入るというカラタチと別れた。カラタチはその際に自分に付き合ってくれたことについてヤツデとビャクブに再三のお礼を言った。

ヤツデとビャクブの二人はしばしの余韻に浸るためまだ残ってイスに腰かけたままでいた。先程の演奏については大きな感銘を受けたので、ヤツデは一くさりビャクブに素人なりの賛美の言葉を並べ立てた。ヤツデはビャクブに話を聞いてもらえてうれしそうである。

実を言うと、ビャクブは演奏のクオーターを過ぎる頃から居眠りを始めていたので、ヤツデには申し訳なく思いながらも上の空で生返事を繰り返しているだけだった。

それ故に、ビャクブはヤツデとカラタチが会場からいなくなったことにしばらく気づかなかったのである。聴衆は段々と少なくなってきた。ヤツデとビャクブの二人はそろそろ立ち上がって帰ろうとしたところでネズの姿を発見した。ネズはヤツデと同じく演奏の余韻に浸っていた。

「こんばんは」ヤツデはネズに話しかけた。「演奏は素晴らしいものでしたね。音楽はネズさんもお好きなんですか?」ヤツデはそう言いながらもビャクブと共にネズのところへ近づいて行った。

ネズは呼びかけられやや虚を突かれた様子だった。すぐにヤツデとビャクブの二人に気づくと、ネズは微笑を浮かべた。ネズは前述したようにヤツデとビャクブの二人には好印象を持っている。ビャクブは少しばかり手持ち無沙汰にしている。ネズは「ええ」と応じた。

「おっしゃるとおりです。演奏は素晴らしいものでしたわ。私は音楽が大好きなんです」

「そうでしたか。音楽はミュージック・セラピーとも言って心の治療にも役立ちますよね?」ヤツデは聞いた。ヤツデは夫のクローブを亡くしたネズを思いやっている。

「ええ」ネズは肯定した。「ヤツデさんのおっしゃるとおりですわ。気持ちが沈んでいる時に音楽を聴くと醜悪なことを忘れられて立ち直れたり、時にはやる気が起きたりもしますわ。逆に音楽鑑賞は不快になってしまう時もありえますが、いずれにしても」ネズは流暢に言った。「私は音楽が人に及ぼす影響は大きいものだと思いますわ」ネズは微笑んだ。

 ヤツデはネズの口調からなんとなく会話の糸口を見つけた気がした。

「今回のネズさんの場合は前者だった訳ですね?」

 ビャクブは機転を利かせた。ネズは少し恥ずかしそうに「ええ」と言った。

「これはもう何十年も昔の話ですが、学生時代の私はこう見えて吹奏楽をやっていたので、音楽には少しうるさい方なんですのよ」学生時代のネズは楽譜が読めるようになるため遮二無二音楽の勉強したこともあるので、現在のネズはその甲斐あってピアノで作曲をすることもできる。ヤツデはオカリナを演奏できるとはいえ、しょせんはネズとはレベル違いである。今のところのヤツデは作曲まではできない。

ネズは社会人になっても音楽に携わっている。例えば、ネズは器楽のCDを購入するだけではなくコンサートに足しげく通ったり実際に楽器を演奏したりもしている。

レコードやカセット・テープの時代はトイワホー国にもあったが、今はCDが主流なので、現在ではラジ・カセを持っている人は稀である。これは蛇足だが、CDとはコンパクト・ディスクの略称でありCDのケースに挿入されている解説文はライナー・ノートと呼ばれる。

「そうでしたか。よろしければ、なにか、音楽に関しての豆知識を教えて下さいませんか? ぼくは豆知識を知ることが大好きなんです」ヤツデは提案した。ネズは感心した様子である。

「そうなんですの? ヤツデさんは好奇心が旺盛な方なのですのね。それこそが主人の事件でマツブサくんの無実を証明なさろうと思った原動力になっているのかもしれませんわね。あら、申し訳ありません。話が脱線してしまいましたわね。ええと、音楽の豆知識についてでしたわね」ネズは一旦そこで言葉を切ると少し考え込んだ。ネズはトイワホー国の国民らしくヤツデとビャクブのため真面目に対応してくれている。相手の気持ちを尊重することはトイワホーの国の習俗である。

「それでは」ネズは聞いた。「ヤツデさんとビャクブさんはサクソフォンをご存じかしら?」

「サクソフォンって名前なら、聞いたことはありますが、どんなのだったかな? ヤツデはわかるかい?」ビャクブは問いかけた。ヤツデは残念そうに首を左右に振って答えた。

「音楽に関してはオカリナのことしか、ほとんどぼくは知らないんだよ。ぼくにもサクソフォンについてはわからないよ。すみません」ヤツデは頼み込んだ。「できれば、ネズさんは教えて頂けますか?」

「ええ」ネズは「もちろんですわ」と言うと丁寧に説明してくれた。

サクソフォンというのはクラリネットのようなリードが取りつけられた木管楽器のことである。そのサクソフォンの指使いは小学校で習ったソプラノのリコーダーとほぼ一緒なので、実は割と簡単に演奏できるとネズは滑らかな弁舌で流暢に語った。クラリネットというのはサクソフォンと同じく木管楽器である。サクソフォンの指使いのことはフィンガリングと呼ばれる。

「へえ」ビャクブは「そうなんですか」と相槌を打った。サクソフォンの演奏は簡単である。楽器の用語は聞きなれない語彙だったので、ビャクブは心の中で復唱した。ネズは話を続行している。

チェンバロというのはグランド・ピアノとよく似た鍵盤楽器なのだが、そのチェンバロは暗譜していたら、自由な即興性は生まれなくなってしまうという理由から奏者は暗譜していても楽譜を置いて弾くのが正式なスタイルなのだとネズは話を結んだ。ヤツデは大いに関心している。

「そうなんですか。勉強になります。ネズさんは物知りなんですね。今さらですが、こんな時期に不躾なお願いをしてしまってごめんなさい」ヤツデは慇懃に頭を下げた。ネズは「いいえ」と否定した。

「私は好きなことをお話できて少し気晴らしになりましたわ。主人は音楽にとんと興味がなかったので、私はヤツデさんとビャクブさんに聞き手になって頂いてとてもうれしく思いましたわ。本当はもっとお話ししていたいくらいですが、これ以上はヤツデさんとビャクブさんのご迷惑になりますので、私はこの辺で失礼させて頂きます」ネズは確認した。「よろしいでしょうか?」ネズは本当にヤツデとビャクブに気を遣っている。ヤツデはネズの気持ちを蹂躙しないよう「はい」と応じた。

「もちろんです。貴重なお話を聞かせてくれてありがとうございました。ぼくたちもできる限りのことは行いますが、クローブさんを殺害した犯人ができるだけ早く見つかるといいですね」

「ええ」ネズは頷いた。「そのとおりですわ。それでは」ネズは「さようなら」と言うと丁寧にお辞儀した。ビャクブは「さようなら」と挨拶を返した。ヤツデは頭を下げネズを見送った。

 ヤツデは粛然とした気持ちになった。ヤツデは心強いビャクブという味方がいたこともあり、とりあえずはネズとコミュニケーションを取ることができたからである。

上手にできたかどうかの判断はできなかったが、ヤツデは前々から殺人事件の被害者遺族と話がしたかったのである。ネズと一度目に会った時は事件についての話しかしなかったので、ヤツデは先程の面会によりネズの心をほんの少しでも楽にしてあげたいと思っていた。

 ヤツデはカウンセラーではないので、下手な対応をしてしまう可能性もあるが、トイワホー国は広しと言えどヤツデの相手を思いやる気持ちの右に出る者は中々いない。


その後のヤツデとビャクブは共に自室の1201号室に向かって歩き出した。いくらか、ホテルの自動販売機の飲み物は高価ではあったが、守銭奴ではないので、ビャクブはコーラのペットボトルを購入した。ビャクブはそうしながらも珍しく考え事をしている。今のビャクブは熟考中である。ビャクブはカラタチついて考えている。ビャクブはカラタチの異常な行動について考えを巡らせている。

一方のヤツデはそんなことには気づかずに邪念に捕らわれている。意味は特にないし、これはむしろノー・サンキューなことだが、ヤツデは過去にしでかした失敗を頭の中で反芻している。

時々は役に立つことも考えているが、大抵は暇があると、ヤツデはよくないことや取るに足らない下らないことを考え込んでいる。これはヤツデの悪癖である。

「なあ」ビャクブは意を決して聞いた。「おれはずっと気になっていたんだけど、カラタチさんは音楽会の会場を出てどこへ行くつもりだったんだろう? ヤツデは不思議じゃないかい?」

「カラタチさんはトイレに行くつもりだったんだよ」ヤツデは即答した。

「けど、トイレはカラタチさんが歩いて行った方向にはなかったはずだよ。あの方向にはマツブサさんの部屋があったよな。まさかとは思うけど、カラタチさんはマツブサさんに用事があったということはないかな? つまり、マツブサさんとカラタチさんにはなんらかの繋がりがあるんじゃないかい?」

「さあ」ヤツデは首を傾げた。「それはどうかな? いずれにしろ、そのことはまた明日にカラタチさん本人から聞いてみることにしようよ。ぼくはなんとなくカラタチさんがどこへ行こうとしたのか、想像はつくけど」ヤツデは中立的な立場を越えて言った。それは推理と言う程に大げさなものではない。

「その秘密めかした口振りだと答えは教えてくれないんだな」ビャクブは言った。

「秘密にしておく必要は別にないんだけど、仮にこの推測が間違っていたら、カラタチさんには失礼になるし、ぼくも真相はカラタチさんの口から聞きたいからね」ヤツデは余裕綽々である。

それを受けると、ビャクブは簡単に納得した。目的地が本当にトイレでないのだとしたら、カラタチはどこへ行こうとしていたのか、気になることだったが、ビャクブにとってはどうしても知りたいという程のことでもなかった。それよりも、現在のビャクブにはもっと重要なことがあった。

ヤツデとビャクブはマツブサに話を聞きにいったり、散歩のあとはテンダイから話を聞いたり、最後にはカラタチと音楽会へと行ったりしたので、ビャクブは需要と供給の関係上お腹が空いてしまった。目下のビャクブはこんな時でも夕食を待ち詫びている。

 それはヤツデも同じなので、今のヤツデはバニラの悩みやマツブサとネズのための無実の証明といったことを忘れビャクブと同様に食事のことだけを考えている。


「空腹は最上のソース」と言うよう「すきっ腹にまずいものはなし」である。今宵のビャクブはたんと夕食を食べた。ビャクブは特にカニのチーズ・ソース焼きとタラのムニエルが気に入った。

ホテルに住んでいるマツブサは毎日こんな料理を食べているのだなとビャクブは思った。それについてはヤツデも羨ましく思いマツブサの俊才ぶりに感心している。

バニラとスミレとシランの三人はヤツデとビャクブが夕食を終えた頃にちょうど食事を開始するところだった。ヤツデとビャクブは部屋に戻ろうとして歩きながらそれに気づいた。

「こんばんは」ヤツデはバニラとスミレとシランの三人に挨拶した。

「こんばんは」スミレはヤツデとビャクブに対し逸早く挨拶を返した。バニラとスミレとシランの三人が座っている席はガラス越しに外の景観を眺めることができるようになっている。ここからは暗くて見づらいが、現在の外では硝煙のような小雨が降り出している。ヤツデは気を利かせた。

「ぼくは先程もシランさんとはお会いをしましたが、お体は今も特に痛んだりはしませんか?」

「ええ」シランは受け答えした。「私は本当にもう大丈夫よ。ヤツデくんはお気使いありがとう」

シランは先程よりも物腰が柔らかくなっている。先程はヤツデとカラタチに少し冷たくしてしまったなとシランはシランなりに反省していた。バニラは提案した。

「少しお話させて頂きたいので、よかったら、ヤツデさんとビャクブさんもお座りになって下さい」今のバニラは上がTシャツで下はバミューダ・ショーツといった出で立ちである。ビャクブはちらっとヤツデの方を窺った。ヤツデはちょっと逡巡してから応じた。

「ありがとうございます」ヤツデはそう言うとビャクブと共に6人掛けのテーブルの空いているイスに腰をかけた。ヤツデは恐縮にしているが、スミレは愛想笑いしている。

ビャクブはもしかしたらバニラの悩みについて疑問を氷解させるいいチャンスになるのではないだろうかと密かに期待しているし、内心では同時にヤツデの活躍にも期待している。

「ねえ」バニラは先程の話題に戻った。「シランは体を痛めることなんて何があったの? 一体」

「カラタチさんって言ったかしら? 私はそういう名前の体の大きな男性と衝突しちゃっただけよ。でも」シランは無表情で言った。「幸いにも今さっき言ったようにケガはなかったの」

「そうだったんだ」スミレは安心したようである。「シランが無事でよかった」

シランはバニラとスミレに対して無用な心配をかけたくなかったから、そのことは今まで口に出さなかった。シランは人並みに人情を欠いていないという証拠である。

「私が部屋の鍵を失くしてしまってヤツデさんが鍵を届け出て下さった時にお礼におもしろいお話をさせてもらいたいって言った話を覚えているかしら?」バニラは問うた。

「はい」ヤツデは答えた。「そのお話なら、よく覚えています。バニラさんは義理堅い方だなとぼくはその時に思いました」ヤツデは慎重に言葉を選びながらバニラに接している。

「それなら、私の気持ちはだいぶ落ち着いたことだし、ぜひ、ヤツデさんとビャクブさんはお話を聞いて下さらないかしら?」バニラは聞いた。スミレはそのセリフについて怪訝そうにしている。

「バニラさんはそれでいいのですか? はい」ビャクブは頷いた。「それではお聞かせて下さい」

ビャクブはスミレと同様に本心から納得した訳ではない。ビャクブはヤツデと一緒にスミレとシランから話を聞いていたので、バニラの強がりである可能性は大だからである。バニラを取り巻く情実は普通ではないので、ビャクブは警戒してバニラのことを見てみたが、バニラは会話を楽しんでいるように見えた。バニラは大した女優だなとビャクブは思った。

「これは少し昔のお話なんですけどね。一人のおじいさんが未開地に住む人たちの暮らし振りを調査するために訪れたんです。そしたら、そのおじいさんは不本意にもそこに住む未開人に囲まれてしい有り金と身ぐるみを全て寄越せと言われてしまったんです」

 バニラは一旦ここで少し間を置いた。ヤツデとビャクブはバニラが話し出してしまった以上は興味深そうにじっとバニラの話に耳を傾けている。初めはバニラに話してもらうのを辞退しようかと迷ったのだが、そんなことをすれば、バニラのやさしさを踏みにじることになるのではないかとヤツデは気が引けてしまい今に至っている。ヤツデは止むなく情勢に身を任せることにしている。

「絶体絶命のおじいさんはどうしたと思いますか? そのおじいさんはなんと自分の入れ歯を取り出して未開人に見せつけたんです。おじいさんは十分に入れ歯を未開人に見せつけたところでまた元のように入れ歯を口の中に収めたんです。未開人たちの反応はどうだったと思いますか? 未開の地の人々はまるで神々しいものを見せつけられたかのように恐縮しながらすごすごと引き下がっていったんです」バニラは話を締め括った。バニラはそう言いながらヤツデとビャクブの反応を窺っている。

「それはおもしろいですね。未開人にとってはテレビの中で人が動いているのを見るのと同じように歯が取れるっていうのもある種の神秘なんですね」ビャクブはおもしろそうに感想を述べた。

「本当だね。それに、正念場におけるおじいさんの行動もすごく滑稽だね」ヤツデは楽しそうにして相槌を打った。ヤツデは哨兵のような警戒心を緩め一旦は寛いでいる。トイワホー国のある天地という惑星に未開人はもういない。全ての発展途上国は随分と昔に先進国となっているからである。一応は付け足しておくと、トイワホー国はその中でもかなり早くに先進国になっていた。

「せっかくですから」バニラは訊ねた。「私はもう一つくらいお話させて頂いてもいいかしら?」

「はい」ヤツデはやさしい口調で答えた。「よろしければ、是非ともお聞かせ下さい」

「わかりました。ある一人の男性はコンビニに強盗に押し入ったのですが、彼は覆面の代わりとして髭剃りに使うクリームを顔につけて現れたんです。凶器で脅されてしまった店員は渋々と抵抗せずにお金を用意し始めました。そうしたら、事態に異変が見らました。髭剃りの男はどうなったと思いますか? 顔に着けていたクリームは時間が経つにつれて落ちてきちゃってコンビニの店員に強盗の男は名指しまでされてしまったんです」バニラはゆっくりとした口調で話を終えた。

「なるほど」ビャクブは頷いた。「その男性は店員と顔なじみだった訳ですね」

「それはまた面白い話ですね」ヤツデは言った。「シェービング・クリームで顔を隠すという発想は中々常人には思いつかないですものね。そんな格好で街を歩いていたら、その人は完全な変質者ですよね」

「そうですね」バニラはやさしく微笑んだ。「ヤツデさんとビャクブさんは喜んで下さったみたいでよかったです」バニラはテレビを見たり本を読んだりして笑話を収集するのが好きである。

 バニラの今の話はその収集の賜物である。先程の話は聞いたことがあったが、聞き役としては常連のスミレとシランも普段からバニラの話を楽しみにしている。

 話は少し途切れた。シランは無言で食事を続けながらいつバニラの悩みについて触れられるのだろうかと気にしている。シランは自分よりしっかりしているスミレとヤツデとビャクブの三人にそのことを任せることにしている。ようは下駄を預けている。

 スミレは勝手にバニラの手紙を盗み見てしまったことに罪悪感を持っているので、タイミングは完全に計り損ねている。一方のビャクブはバニラの話について内心で呑気に称揚している。ヤツデはスミレと同様に少しは話の切り出し方を考えている。

「ほうれん草とベーコンのサラダがおいしい」スミレはしばらくすると不意に口を開いた。

「それは同感です。ほうれん草はスミレさんもお好きなんですか?」ヤツデはすかさず聞いた。ヤツデはバニラの悩みについて情報を得るためにもまだこの場を離れる訳にはいかない。

「ええ」スミレは短く答えた。「ほうれん草は好きです」

 ヤツデは片言隻語でもスミレから言葉を得られてうれしくなった。スミレはヤツデのために話の糸口を作ってくれた。ヤツデは「そうですよね」と同調した。

「ほうれん草はバター炒めもおいしいですもんね。デザートでは杏仁豆腐とコーヒー・ゼリーがおいしかったですよ」ヤツデは発言してから「しまった」と思った。

ヤツデは関係ない話をしてしまい重要な話から遠ざかってしまったような気がしているからである。それでも、スミレはちゃんと話が再開し密かにほっとしている。

「おれはメロンとパイナップルがおいしいと思いますよ」ビャクブは提案した。

「私達は三人でヤツデさんとビャクブさんのおっしゃってくれた料理を頂くことにします。クリーブランド・ホテルの料理には本当においしい食べ物がたくさんありますものね」スミレは言った。

いつまでも躊躇していては先に進まないので、ヤツデは二つある重要な話の片方を切り出すことにした。上記のとおり一応はヤツデもタイミングを窺っていた。

「ところで」ヤツデは言った。「バニラさんはこのホテルで亡くなられたクローブさんとはどの程度のお知り合いだったのですか?」ヤツデは謝った。「急に変なことを聞いてしまってすみません」

「いいえ」バニラは否定した。「それくらいのことは別にいいですよ。クローブさんとはアイさんと兄の事件がある前から知り合いになっていたんです。クローブさんは検査入院で病院にいらしゃって病室が兄と同じでベッドも隣り合っていたんです。ですから、私は兄のお見舞いに行っていた時からクローブさんとは言葉を交わすようになっていました。事件後はすでにお話したようにクローブさんは私になにかと気を使って下さったんです」バニラはスムーズに話してくれた。バニラはもっと苦しそうに話をするのかと思っていたのだが、外見は平気そうなので、ヤツデは安心した。ヤツデは新たな質問をした。

「バニラさんからご覧になられてクローブさんを憎んでいた人に心当たりはありませんか?」

「はい」バニラは確認するように頷いた。「私から見た限りでは心当たりはありません。私の印象ではクローブさんはとても親切な方でしたので、クローブさんが殺されるほど恨みを抱かれていたとは思えないんです」バニラは俯いてしまった。この時のビャクブはマツブサの言っていたセリフを思い出していた。マツブサはクローブについて気性の激しい性格だと言っていたので、この話は少し食い違いがあるなとビャクブは思った。ヤツデはビャクブと同じことに思い至っている。ヤツデは質問を続けた。

「重ねて妙なことをお聞きしますが、ルーさんはどのような体格の方でしたか?」

「どちらかと言うと、兄は男性の中では小柄な方だったと思います」バニラは答えた。

 スミレは戸惑った。ヤツデはバニラの悩みについて触れないのだろうかとスミレは思ったのである。

「なんだか、ヤツデさんは警察の人や探偵さんみたいですね。『愛の伝道師』っていうのはひょっとして嘘で本当は警察の人だったりするんですか?」スミレは話を合わせ聞いた。

 シランは興味がなさそうにしている。ヤツデは「いいえ」と応じた。

「ぼくは警察でも探偵でもありません。正真正銘の『愛の伝道師』です」

「あら」バニラは意外そうにしている。「ヤツデさんは『愛の伝道師』だったのですか?」バニラは聞き返した。この話は初耳だったので、バニラは驚いたように聞き返した。

スミレはヤツデがバニラの悩みについての話がしやすいようアシストした。ヤツデはそれに気づくとスミレに密かに「天晴れ」と言いたくなった。ビャクブはヤツデの代わりに「はい」と答えた。

「実はそうなんですよ」ビャクブは他人事ながらいつもこのことを自慢したがる。ビャクブはそれだけヤツデのやさしさに惚れ込んでいる。ヤツデは居住まいを正した。

「先程は『気持ちはだいぶ落ち着いてきた』とおっしゃっていましたが、バニラさんは本当にそうなんですか? 本当はまだ悩み事があって苦しんでいるのではありませんか?」 

バニラは不意を突かれ意外そうにして黙り込んでしまった。まさか、バニラは自分の心をそこまで読まれているとは思いもしなかった。それを見ると、シランは種を明かすことにした。

「私達は悪気があってしたことじゃないから、バニラは怒らないで欲しいんだけど、実は昨夜もまたバニラを悩ませている手紙が届いたのをスミレが発見したのよ。今まで黙っていてごめんなさい」

「私とシランはその手紙をどうしようかって迷っていたんだけど、結局はヤツデさんとビャクブさんに相談することにしたの。そうしたら、ヤツデさんとビャクブさんは手紙に書いてあったとおりの待ち合わせ場所に行って下さるとおっしゃってくれたのよ」スミレは言葉を区切った。バニラはその話を聞くと心の底からびっくりした。バニラは怒るような真似はしなかった。

「それで?」バニラは聞いた。「その手紙の送り主とヤツデさんたちはどんなお話をされたんですか?」

「話はしていません」ヤツデは慎重に答えた。「実は待ち合わせ場所には誰も来なかったんです」

 バニラは緊張した口調で「来なかった?」と聞き返した。ヤツデは詳細を話し始めた。

「手紙の送り主はおそらくバニラさんではなくスミレさんに手紙が発見されてしまったことについて気がついたからだと思います。バニラさんはどうか一人で悩まないで下さい。バニラさんには手を差し伸べてくれる味方がいるのですからね。その味方はスミレさんやシランさんだけではなく頼りないかもしれませんが、ぼくとビャクブも同じです」ヤツデはいつものとおりのやさしい口調で言った。ビャクブはバニラがその言葉の意味を理解している間に畳みかけるように同調した。

「そうですよ。おれたちにもひょっとしたらバニラさんを助けられるなにかはできるかもしれません」

「バニラさんはそれを忘れないで下さい。ぼくたちの部屋は1201号室です。今は無理でも悩んでいる内容を打ち明ける決心がついたら、是非とも1201号室に足を運んで下さい」ヤツデは話を締め括った。バニラは何も言わずただ顔を伏せていたが、思いが伝わることを信じ、用事はすんだので、ヤツデとビャクブはバニラとスミレとシランの三人に別れの挨拶をして席を立った。

 スミレとシランはその際にヤツデとビャクブに感謝の気持ちを表した。スミレは特にバニラのことをずっと心配していたので、なにかしらはこれで変わるかもしれないと喜んでいる。

バニラとてヤツデとビャクブの二人のことを無視していた訳ではなくちゃんとお別れの言葉は口にした。今のバニラは何を思っているか、ヤツデとビャクブにはわからなかった。ただし、バニラはしょげている訳ではないということはヤツデとビャクブにもわかった。

それは少しでもバニラが希望を持っているということでありとても大切なことでもある。


全ては所信に基づいたのだから、バニラは秘密を明かしてくれなくても悔いはないとビャクブは思っている。相談に乗る側としては打ち明けてくれた方がいいが、そうでなければ、ビャクブはバニラの気持ちを尊重したい。バニラはせめてスミレとシランにはなんで悩んでいるのかを打ち明けてくれるのではないだろうかとビャクブは期待を持っている。意見は色々あるだろうから、ビャクブはそのことについて歩きながらも早速にヤツデの意見も聞いてみようと思った。

なぜか、ヤツデはその前にレストランを出たところで足を止めた。ビャクブはそれに気づくと自分も足を止めた。ヤツデは親愛の情を持ってビャクブのことを見た。この行動はなにかしらビャクブに対してヤツデが自分勝手なことを言う時のサインである。

「ん?」ビャクブは不審そうにしている。「どうしたんだい? 忘れ物でもしたのかい?」

 ヤツデは肩から下げる小物入れを持っおり、その中には文庫本やスマホが入っている。格好よくバニラとスミレとシランの三人とお別れをしたのにも関わらず、もし、自分たちは今からまた同じところに戻るのなら、恥ずかしいような気がするなとビャクブは思った。

「ぼくは一つだけ気にかかることがあってスミレさんだけに用があるのを今になって思い出したんだよ」ヤツデはビャクブの心事を察すると安心させるように穏やかな口調で言った。

「まさかとは思うけど、ヤツデは急にスミレさんに愛の告白をしたいなんて言いだすんじゃないだろうな?」ビャクブは冷やかした。ビャクブは冗談を言っている。

「ううん」ヤツデは飄々としている。「違うよ。ビャクブにはその気があるのかな?」

「そんなタイムリーな話がある訳ないじゃないか。それで? ヤツデはスミレさんにどんな用事があるんだい?」ビャクブは軽い調子で聞いた。ヤツデは曖昧模糊な返答をした。

「それはスミレさんが来たら、その時にきちんと話すよ。ビャクブはもう部屋に戻りたい?」

「いや」ビャクブは否定した。「おれも一緒に待っているよ。ヤツデの要件はおれも気になるからな。話は変わるけど、スミレさんとの話がすんだら、イチハツさんとエノキさんのところに遊びに行かないかい?」ビャクブは浮き浮きしている。ヤツデは「うん」と首肯した。

「それはいい考えだね」ヤツデは単純明快に答えた。「ぼくもそうしたい」

ヤツデとビャクブの二人はスミレの食事が終わるのを待つことにした。その間のヤツデは暇つぶしとしてビャクブに対しスタンガンというものについて話をすることにした。

スタンガンという単語は初めて聞いたので、ビャクブは興味深くその話に耳を傾けた。平和なトイワホー国では銃の所持は禁止されている。そればかりか、トイワホー国では護身のための武器が全く必要ないので、スタンガンという代物は製造が一切なされていない。

しばらくすると、バニラとスミレとシランの三人はレストランから出て来た。バニラは笑顔を見せている。バニラの心情は思ったよりも安らかだったので、ビャクブは安心することができた。

「すみません。用件はすぐにすみますが、ちょっとお話したいことがあるので、スミレさんはお話を聞いて下さいませんか?」ヤツデはそう言ってこちらに歩いて来たスミレを呼び止めた。

「え?」スミレは意外そうにしている。「ヤツデさんとビャクブさんはまだこちらにいらっしゃったんですか? それで? その用事っていうのはバニラとシランは抜きで私だけになんですか?」

「はい」ヤツデは乱暴とは無縁な澄んだ口調で言った。「おっしゃるとおりです。これにはちょっと事情があるものですからね。ですが、お忙しいようでしたなら、お話は後回しでも結構ですよ」

「いいえ」スミレは了承した。「大丈夫です。バニラとシランは先に部屋に戻っていてくれる?」

「OK」シランは「わかったわ」と言うと片手を挙げ肯定の意を示した。

バニラはスミレとヤツデとビャクブの三人に対し手を振っている。話の内容はビャクブのように愛の告白だとは思っていないが、バニラとシランの二人はちゃんと気を使ってくれた。スミレはバニラとシランの二人が行ってしまうとヤツデとビャクブに向き直った。

「それで?」スミレは質問した。「私にお話があるというのはなんのことでしょうか?」スミレは小首を傾げ深層心理を見抜くかのようにヤツデに目を添えた。ビャクブは興味深そうにしている。

「実は折り入ってスミレさんにお願いがあるんです。バニラさんには気持ちの整理ができるまでお願いできなかったものですからね」ヤツデは静かに話を切り出した。

「ということはシランにはお願いできない頼みなんですか?」スミレは不思議そうにしている。

「はい」ヤツデは首肯した。「そうなんです。お願いというのはシランさんに関することなんです。嫌だとしたら、スミレさんは遠慮なく拒否して下さって構いません。ですが、ぼくの予想が正しければ、シランさんの身にはよくないことが起こっているはずなんです。ただし、ぼくの杞憂にすぎない可能性もあります。ですから、これは微妙な話なんです」ヤツデは先程から遠回しなもの言いをしている。

 スミレは痺れを切らしいよいよ用件を問い正した。

「シランにはできなくて私にはできるというそのお願いというのはなんなのですか?」

「物は特定できないのですが、スミレさんにはシランさんの持ち物の中からビニール袋に入ったなにかを見つけ出して頂きたいのです。もし、よろしければ、その現物をぼくに見せて頂きたいんです」ヤツデは答えた。ヤツデがなんの話をしているのか、ビャクブはわかっていない。

「ビニール袋に入ったなにかですか?」スミレは聞いた。「随分と漠然としているんですね」

「はい」ヤツデは再び肯定した。「おっしゃるとおりです。ですから、無理を承知でお願いしています」ヤツデは真剣な顔をしている。ビャクブはスミレにヤツデの想いが届くことを祈っている。

「私達はヤツデさんとビャクブさんにご親切にして頂いたので、できれば、ご希望に添いたいのですが、ヤツデさんはどうしてシランの持ち物であるビニール袋に入ったなにかを私に見つけてほしいと思われるのですか?」スミレは聞いた。スミレはヤツデのことを不審に思っている訳ではない。

「シランさんの言動には不審な点があったからというのでは答えになっていませんか?」

「いいえ」スミレは微笑んだ。「わかりました。ヤツデさんとビャクブさんからのお願いで尚且つシランにとって好ましくない影響が現にあるのでしたら、私はヤツデさんの希望に従います。それに、ヤツデさんとビャクブさんはシランのためを思ってそうおっしゃって下さっているのですから」

「どうもありがとうございます。恩に着ります。スミレさんはやさしい方ですね。ああ。スミレさんの『親切スタンプ』は押させて下さいね」ヤツデはそう言うと丁寧にお辞儀した。

ヤツデはスミレのカードに『親切スタンプ』を押させてもらうと重ねて礼を言いビャクブと共にスミレと別れた。スミレは少し気を引き締めていた様子である。

 スミレはこの一件によりバニラに続いて再びシランの秘密も持ってしまうことになるが、スミレには一切の迷いもなかった。バニラの手紙をこっそりと預かっていたことは善意からだし、スミレはヤツデの要望に応えることについても間違いなくいいことであると信じている。

バニラの問題はもう解決するかもしれないが、仮にシランの身にも危険が迫っているというのなら、スミレは自分も身辺に気を付けようと人知れず決心した。


 マツブサは自宅であるクリーブランド・ホテルの2301号室で机に向かって数独ナンバー・プレースを解いていた。マツブサは割と集中力のある男性である。

マツブサはふと思い出すことがあり老眼鏡の上から壁にかけてあるカレンダーに目をやった。今のマツブサは54歳だが、二年前から老眼鏡が必要になった。

明後日は健康診断であることを確認すると、自分はどこも悪いところがなければいいがとマツブサは思った。健診は「転ばぬ先の杖」となってくれるので、マツブサはいつも欠かさず受診している。

生活習慣病は自覚症状が出た時にはかなり進行しているということを聞いているので、マツブサはいつも健診の際には神経質になってしまうのである。マツブサが一人で考え事をし少しの不安に囚われそうになって来たちょうどその時に部屋のドアからノックの音が聞こえて来た。

マツブサは顔をドアの方に向けるとそちらまで声が聞こえる程度の音量で「どうぞ」と答えた。チャイムを鳴らさずにマツブサの部屋のドアをノックするのはクローブとネズの二人だけであり、クローブはもういないので、簡単な消去法をすれば、入ってきたのはやはりネズだった。

「こんばんは」ネズは挨拶をした。「迷惑じゃなかったかしら?」ネズは慎み深げに聞いた。ネズは机を挟んでクローブに正対した。今のネズはスリーブレスの上に毛糸の上着を羽織っている。

「ああ」マツブサはゆっくりと答えた。「迷惑などではないよ。無論」マツブサは持っていた鉛筆を机に置き話を聞く体勢になった。それを確認すると、ネズは控えめな口調で言った。

「私はさっきヤツデさんとビャクブさんと音楽会の終わりに会ったの。ヤツデさんとビャクブさんは改めて私達のために尽力してくれるっておっしゃっていたわ。それに、お二人は私に気を使ってお喋りもさせて下さったわ」ネズは言った。マツブサは親しげに「そうか」と応じた。

「ヤツデさんとビャクブさんは好青年といったイメージだったからな。話は変わるが、ネズも少しは気持ちが落ち着いたのかな?」マツブサは心配そうに聞いた。ネズは「ええ」と言った。

「今はだいぶ落ち着いたわ。でも、クローブは誰が殺害をしたのかしら? 私には全く見当もつかないわ」ネズは鳥肌が立つ想いで呟いた。「まさかとは思うけど、犯人は私達が住んでいるプスタ県からつけて来たのかしら?」ネズは話を聞いてもらうことにより気持ちをさらに落ち着かせている。

「それは私にもわからんな。ヤツデさんとビャクブさんにも言ったとおり、犯人がこのホテルで凶行に及んだ理由が不可解なこと極まりない。まさかとは思うが、マークしていたのは元々私の方だったのだろうか? いや」マツブサは独り言のように呟いた。「仮にそうだとしても辻褄が合わないよな」

「それにしても」ネズは沈んだ口調で言った。「こんなことになるなんて旅行をする前は微塵も考えていなかったわ」ネズは心から夫であるクローブの死を悼んでいる。

「それは確かにそうだろうな。普段なら、ここは殺人とは無縁なトイワホー国だ。ネズには深く同情するよ。ネズはクローブのことを心から愛していたものな。それは私だって同じだがね。しかし、私を訪ねるためにここに来てこんなことになってしまってすまないな」

「それは気にしなくていいのよ」ネズはゆるゆると首を左右に振った。「マツブサくんは関係ないんですもの。私は事件があった時にマツブサくんと一緒にいたんだから、マツブサくんのアリバイは完璧よ。なんだか、私達は傷の舐め合いをしているみたいね」

「それは仕方のないことだよ。私達には一刻も早く事件が解決してくれることを祈ることしかできないのだからね。クローブの霊はそれで成仏することができるのかどうかはわからないけどな」

「そうね」ネズは少し間を開けてから痛ましくも言った。「過ぎ去った時間は戻らないもの」

 やさしさについて言えば、真善美に近い人間が多く住むこの国だが、人の悩みは中々消えてくれない。人の世というのは複雑にできているからである。

やさしい性格をしているネズはトイワホー国の国民として自分のことだけではなく他の人にもこんな苦しみを味わってもらいたくないと思っている。

いつの日にか、ネズは殺人という暴挙がなくなればいいのにと思っている。他国に比べると、トイワホー国は確かにその理想に最も近い立場にいるはずである。


テンダイとミズキの二人はクリーブランド・ホテルの1207号室に帰って来た。テンダイとミズキの二人は今までこのホテルからバスで約50分のところにあるクラクフ警察署へ行っていた。

テンダイの用件というのはこのホテルで起きた殺人事件における死体発見時の状況とクローブのポケットに入っていたトランプの説明をするためである。テンダイはヤツデの助言に素直に従ったので、ヤツデは時の趨勢を見守ることにして正解だった。

 テンダイは警察署には一人で行くと言ったのだが、心配性なミズキは自分もついて行くと言って聞かなかった。ミズキには無駄な心労をしょい込んでほしくはなかったが、その気持ちはうれしかったので、テンダイは結果的にミズキを同伴して警察署へ向かった。

 今のテンダイは掛け時計を眺め窓際のイスに腰かけている。本来は使う必要のなかった時間を警察署で使ってしまったのだが、テンダイは決して無駄な時間ではなかったと思っている。考えようによってはむしろ貴重な体験をしたことにもなる。ものは考えようである。

「やることをやったら、気が楽になったみたい。悪意のある隠し事はやっぱりいけないことなのね。いつかはバレてしまうことでそれが悪いことなら、早く言ってしまった方が楽になるっていうことなのかもね」ミズキはテンダイの向かいにあるイスに腰かけながらゆっくりと口を開いた。

「そうだね。ぼくはヤツデくんとビャクブくんには大きな恩ができた」テンダイは瑞光を見つけたような明るい口調である。ミズキはそれに対し考え深げな顔をして「本当ね」と言った。

「あたしとしてはヤツデさんとビャクブさんも挙式に呼びたいくらいよ。最初はおせっかいな人たちだなって思っていたけど、ヤツデさんとビャクブさんはテンダイのことを思って勇気を出してあたしとテンダイに忠告をしてくれたのね。今なら、ヤツデさんとビャクブさんがどんなに思いやりのある人たちかっていうことがあたしにもよくわかる」現在のミズキは遠い目をしている。

「ミズキは人として成長したということだね。まあ、ヤツデくんとビャクブくんの二人を結婚式に呼ぶっていうのは少し無作法な気もするけど、ぼくもその気持ちは同じだよ。ヤツデくんとビャクブくんはそれくらいぼくとミズキにとっては大きな存在だ」テンダイは話の核心を突いた。

「考えてみれば、後ろめたい気持ちで式に臨んでいたら、本当の幸せは享受できそうにないものね」ミズキは軽い調子で同意を求めた。テンダイはそれに首肯した。

「それは言えているよ。ヤツデくんはおそらくそれにも気づいていたんだ。敷かれたレールの上を歩んできたとは言わないけど、ぼくとミズキは今まで少し順調に行き過ぎていたのかもしれない。結婚の前にこうして一緒に壁を乗り越えられたっていうことはある意味では恵まれているのかもしれない」

「あたしは正直に言ってもうこれ以上の厄介事はごめんだけどね。それは贅沢かしら?」

「そんなことはないよ。トイワホー国では特にそれを実現しやすい環境が整っている。そう言えば、ぼくにも一つだけ贅沢を言わせてもらえるのなら、ミズキは些かぼくに対して過保護じゃないか? ぼくは確かにクローブさんの死体を最初に発見していたと思っていたけど、第一発見者がそのまま犯人という考えは単純すぎる。トイワホー国の警察だって無能じゃないんだから、ぼくはやっぱり最初から名乗り出るべきだったよ。とはいえ、このことに関してはもう終わったことだから、ぼくは後学のために言っているんだけど」テンダイは宥めるように言った。ミズキも文句は言わなかった。

「それに関してはあたしも反省しているのよ。でも、ヤツデさんはあたしのことを責めないって言ってくれていたじゃない? 自分で言うのもなんだけど、誰でも失敗はするものよ」

「それはそうだよ。もちろん」テンダイは譲歩した。「それに、ヤツデくんはやさしい人間なんだよ。ヤツデくんは他人の失敗を受け入れてあげることができるんだからね。それは狭量な人には決してできない芸当だよ。ヤツデくんとビャクブくんは度量が大きいっていうことだね」テンダイはそう言うとミズキの顔を見て微笑んでから窓の外に目を転じた。人のいいところを見つけられるということはとても重要なことである。トイワホー国の国民は息をするのと同じくらい誰でも簡単にそれをやってのけることができる。とはいえ、人柄がいいから、テンダイは人の長所を見付けることができるのである。

 テンダイとミズキの挙式は明日に執り行われることになっている。ジューン・ブライドという言葉はこの天地という惑星にもあるが、今は8月なので、ミズキは特にこだわらなかった。ミズキはいつでもマイ・ペースに事を運ぶのが好きなのである。それはテンダイも同意見である。

 手品は趣味としてやっているだけであり、テンダイの本職はポンメルン県で駅員をやっている。今のところはクリーニング屋でパート・タイマーをやっているが、ミズキは結婚を機に退職するつもりである。ミズキはすぐさま専業主婦になる予定である。ミズキは昔から母親の手伝いをよくやっていたので、炊事・洗濯・掃除といった家事はうまくこなす自信がある。

 テンダイとミズキの結婚式はテンダイとミズキの肉親・テンダイの同僚と上司・ミズキの友達だけを呼んでいるだけでさほど盛大に執り行う予定ではなく披露宴も予定はしていない。

 ミズキはテレビ電話で母親と会話をし始めている。テンダイはそれを見て微笑ましく思った。テンダイは同時にミズキを幸せにしてあげなければならないと改めて決意した。

テンダイはイスに座り二人分の緑茶を入れる準備をしながら悩みがなくなったことによってすでに晴れやかなウェディング・マーチが聞こえてくるような気がしていた。


ヤツデとビャクブの二人はスミレとの会話が首尾よく円転滑脱にすむと2103号室へ向かって歩いていた。2103号室というのはイチハツとエノキがいるはずの部屋である。

ヤツデはシランの持ち物についてスミレに対し信任したことは間違っていないと確信しているし、スミレとシランの仲がこれによって悪くなることもないだろうと考えている。

しかし、問題はある。それは個人的なものである。控えめで謙虚な性格のヤツデは少し自分は出しゃばり過ぎではないだろうかと思った。ビャクブは「それで?」と先に話を始めた。

「ヤツデはなんだってシランさんの持ち物なんかに目をつけたんだい? ヤツデは本当に探してもらう物のおおよその見当もついていないのかい?」ビャクブは不思議そうである。ヤツデは答えた。

「目をつけた理由はさっきも言ったようにシランさんの行動に不可解な点があったからだよ。シランさんの持ち物からは何が出てくるのか、それははまだぼくにもわからないよ。ぼくとしては何も出てこないか、あるいは単なるぼくの勘違いでなんでもないものしか、出てこない方がいいんだけどね」

「自信がないから、訳を話せないのかい? だったら、おれにだけでもその理由を話してくれよ。おれはヤツデがどんな理由でシランさんの持ち物に興味を持ったとしてもとやかく言わないよ」ビャクブは親しみを込めて言った。ヤツデはビャクブの説得に折れ言うとおりにした。

「ビャクブの気持ちはよくわかったよ。それじゃあ、ぼくは話をさせてもらうけど、実はカラタチさんと初めて会った時にシランさんがレストランでなにかを持ち去っていくのを見たんだよ」

「ヤツデがスミレさんに探してもらいたい物っていうのはそれのことなんだな?」

「うん」ヤツデは肯定した。「そうだよ。それでね。カラタチさんは今日の音楽会の最中に会場を抜け出してシランさんと会った時にぼくと一緒にレストランでシランさんのことを見たっていう話をしたんだよ。そしたら、シランさんはその時にぼくの目には明らかにその話に触れてもらいたくなさそうに映ったんだよ。となると、シランさんはよくない事情を隠しているんじゃないかってぼくは思ったんだよ。でも、どうかな? 理由はあまりにも薄弱すぎるでしょう?」

 ヤツデは不安そうである。ビャクブは「うーん」と少し考えてから言った。

「ヤツデが不自然だと思ったのなら、おれはそれを信じることにするよ」

「ありがとう」ヤツデはとてもうれしそうである。「ビャクブはやさしいね」

「いや」ビャクブはヤツデを励ますように言った。「そんなことはないよ。親友としての最低限の礼儀はどんな時でもその親友を信じてあげることだとおれは思っているだけだからな」

先程までは如上のとおりに自分の行動についてやりすぎてしまったと思っていたのだが、ヤツデはビャクブのおかげで少し自信を持つことができた。ヤツデをカバーするビャクブとビャクブをやさしいと評するヤツデの二人は他人に対し図抜けた思いやりの気持ちを持っている。

ビャクブはイチハツとエノキのいる部屋の前まで来るとチャイムを鳴らした。ヤツデとビャクブは遊びについて壮挙があってやってきた訳ではないので、イチハツとエノキは自分たちを歓迎してくれるかなとヤツデは少し不安になった。ヤツデはいつもどんな時でも心配性である。ビャクブの考えはそれとは打って変わって造次顛沛であっても話ができればいいというものである。

イチハツは間もなくドアを開けて顔を出した。イチハツは留守ではなかったので、ビャクブは一安心した。イチハツはヤツデの不安を余所にパッと顔を明るくした。

「ビャッくんとヤッちゃんはもしかして遊びに来てくれたんですか?」イチハツは確認した。

「はい」ヤツデは問うた。「ぼくたちはお邪魔ではありませんか?」

「ヤッちゃんとビャッくんは邪魔なんかではありませんよ」イチハツは首を横に振った。「今はなんの気なしにスマホでクリーブランド・ホテルの公式サイトを見ていたところだったのですが、そんなことは別に明日にでもできることです。今はあいにく大浴場に行っていてエノキはいませんが、ヤッちゃんとビャッくんは自分と卓球しに行きませんか? エノキが大浴場から上がったら、エノキと一緒に卓球することになっていたので、エノキには書き置きを残しておけば、差し支えはないでしょうからね」イチハツはお馴染みのハスキー・ボイスを響かせながら陽気な口調で聞いた。イチハツは本当にうれしそうである。

「それはいいですね。そうさせてもらいましょう」ビャクブは同意した。ヤツデは当然の如く諸手を上げてそれに賛成した。イチハツは行動の人なので、エノキへのメッセージはすぐに書き終えた。

ヤツデとビャクブとイチハツの三人は一号館の三階にある卓球台のある場所へ移動した。ヤツデたち一行は卓球のラケットを借りると、まずはヤツデとビャクブがペアを組みイチハツとプレーすることにした。今のイチハツは上機嫌である。イチハツには一匹狼な面があるとはいえ、結局は社交的なので、イチハツという男は人と相対することが大好きなのである。

その相手がましてヤツデとビャクブであるということも気分をよくしている。イチハツはすでにヤツデとビャクブの二人のことを知己のエノキと同じように優遇している。

「ヤッちゃんとビャッくんは知っていますか? 卓球のラケットのラバーは赤か、もしくは黒の二種類だけと決まりがあるのですよ」イチハツはピンポン球をレシーブしながら話を切り出した。相手にとってはラケットの両方が同じ色だとわかりづらいので、それは卑怯な行為ビヘイビアとされてしまうのである。卓球のラケットの表はスマッシュに適している。一方の裏はドライブやカットに適している。

「そうなんですか。ぼくは知りませんでした」ヤツデはそう言うと球をトップ・スピンで打ち返した。ヤツデはテニスをやっていたことがあるので、多少は卓球テーブル・テニスの心得もある。ヤツデは両利きなのだが、今はサウスポーでプレーしている。

「おれもそんなことは知りませんでした。全くの初耳です。それにしても」ビャクブはバック・ハンドで球を打ち返して感心しながら言った。「イチハツさんはよくご存じですね?」

「自分は中学生の頃に卓球をやっていたものですからね。まあ、しょせんは生かじりの知識に過ぎませんけど」イチハツはサーブを打ちプレーを続けながらやや消極的な反応を見せた。学生時代のイチハツは卓球をやっていたとは言ってもそれほど腕に自信がある訳ではないので、今のイチハツは消極的なのである。しかし、物事は一知半解であっても経験して損なことはない。

「ヤッちゃんとビャッくんはどのようにしてラケットを握っていますか?」イチハツは聞いた。

「ぼくは人差し指以外の指でラケットを握っています」ヤツデはすぐさま答えた。

「それはシェイク・ハンドという握り方です。その握り方は自分もしています」イチハツは言った。

「おれは違う握り方ですよ。おれは親指と人差し指でラケットの真ん中を挟んで持っています」ビャクブは主張した。自分の握りは正規のものではないのかなとビャクブは思った。しかし、そんなことはなかった。ビャクブはペン・ホルダーという握り方をしているのだとイチハツは得意げに説明した。

「へえ」ビャクブは素直に感心している。「そうなんですか。ラケットは団扇の代わりにもなりますよね?」ビャクブはそう言うとラケットを団扇のようにして扇いでいる。

 ヤツデはそれを横目に見ながらあることを思い出した。ヤツデはそのことを聞いた。

「ぼくとビャクブが初めてイチハツさんとエノキさんにお会いした時にエノキさんは『団扇をなくしてしまった』っておっしゃっていましたが、あれはもう見つかったのですか?」

「ええ」エノキは首肯した。「エノキの団扇はどうやら見つかったようです。エノキが団扇を失くした日は確か一時間くらい7時頃からエノキと別行動を取っていたので、エノキにはどんな心当たりがあったのかは知りませんが一人で探しに行って団扇を見つけ出していたみたいです。それにしても」イチハツは謝った。「団扇の心配までしてもらってしまってすみません」イチハツは卓球を続けている。エノキは迷うことなくちゃんと団扇を見つけられたと聞いているので、それは運がいいだけではなくエノキの記憶力はそうそうたるものだなとイチハツは感心している。ヤツデは「いえ」とやんわり否定した。

「ですが、そうでしたか。それはよかったですね。話は変わりますが、イチハツさんとエノキさんはクリーブランド・ホテルに何を利用していらっしゃっているのですか?」ヤツデはまた聞いた。

「自分は電車とバスを使って来ています。エノキの方はバスの車内で話が出たとおりポンメルン県のキエフ市に住んでいるので、エノキはバイクで来ています。ヤッちゃんとビャッくんは何でいらっしゃっているのですか?」イチハツは独特なハスキー・ボイスで問いかけた。ヤツデは答えた。

「ぼくはエノキさんと同じくクリーブランド・ホテルの近くのティラナ市に住んでいるので、バイクではありませんが、足はバスを使って来ています。それでも、ここまでは30分もかかりますけど」

「おれはイチハツさんと全く同じです。おれは電車とバスを使って来ています」ビャクブは軽く球を打ち返しながら言った。イチハツは即時に抑え気味のスマッシュを放った。

 これは余談だが、バイクとオートバイは少し違っている。バイクは原動機付自転車・普通の自転車も含めた二輪車の全般を指し一方のオートバイは原付より大きな自動二輪車を指すのである。

 付け加えておくと、スクーターとはエンジンやモーターを抱えるオートバイのことであり側車サイド・カーの付いていないオートバイのことは単車と言うのである。

イチハツの書き置きを見たエノキはヤツデとビャクブとイチハツの三人が雑談を交わしながら卓球をしているとしばらくして姿を現したので、ヤツデとビャクブとイチハツとエノキの4人は時間一杯まで卓球をして楽しんだ。ペアは色々と変えてプレーをやっていたものの、勝敗にはこだわる者はいなかったので、ゲームは最初から最後まで和やかな雰囲気で行われた。ヤツデとビャクブとイチハツとエノキの4人は時間が来て卓球のラケットとピンポン球を返すとそれぞれ自分たちの部屋に戻るため歩き出した。卓球は順調に楽しめたので、普段は万事に粗忽なところのあるヤツデも大満足である。

「自分とエノキは明日の早朝にチェック・アウトする予定ですから、ヤッちゃんとビャッくんに会うのはこれで最後になるかもしれませんね」イチハツはとても名残惜しそうにしている。

「ぼくはイチハツさんとエノキさんとお会いできて本当にうれしく思いますよ」ヤツデはやさしく言葉をかけた。イチハツは感動している。イチハツはそのようにストレートにものを言える人物が大好きである。ビャクブは隣で微笑みを浮かべている。エノキは控えめな口調で言った。

「それは私達も同じ思いです。ですが、ヤツデさんは住んでいる場所が私と近いので、ヤツデさんとはまた会える時があるかもしれませんね。私と町で顔を合わせることがあったら、その時はよろしくお願いします」エノキは紳士的な物腰である。この場には他に人はいない。

「そうですね」ヤツデは「こちらこそ」と切り替えした。ビャクブは真剣な顔で「いえいえ」と言った。

「おれはヤツデとエノキさんだけではなくまたどこかできっとイチハツさんとエノキさんとはお会いしたい思いですよ。まあ、可能性は低いかもしれませんけどね。でも、おれたちが出会って親しくなったという事実は変わりませんものね」ビャクブは真っ直ぐな姿勢で言葉を連ねた。

「そうですね。巡り合わせがよければ、自分たちはまた会えるかもしれません。ヤッちゃんとビャッくんと過ごした時間は短かったですけど、この思い出は自分も決して忘れません」イチハツは考え深げに言った。ヤツデたち一行はヤツデとビャクブの部屋がある二階までやって来た。

お別れの時はついにやって来たという訳である。ヤツデはその前にイチハツとエノキの住所を聞いておくことにした。ヤツデはイチハツとエノキの二人にクリスマス・カードや年賀状を書きたいと思ったからである。それについてはビャクブも賛同したので、ヤツデとビャクブとイチハツとエノキの4人は住所を教え合うことにした。イチハツとエノキとはまた繋がりが生まれた瞬間だった。

ビャクブは最後にしっかりとイチハツとエノキと握手した。ヤツデはイチハツとエノキにお辞儀した。

ヤツデとビャクブはイチハツとエノキとお別れした。

その時のイチハツは涙目になっていたので、ヤツデはそれを見ると少しだけ貰い泣きした。

大の大人にも関わらず、ヤツデとイチハツは随分と女々しいことをしているが、ビャクブとエノキはそれを決して笑ったりはしなかった。人と人の関係をそれほど大切にできるということは素晴らしいことだからである。例え、空間的な阻隔はあったとしても一緒にいた時間は短かったとしてもヤツデとビャクブとイチハツとエノキの4人の友情に阻害できるものは何もない。それに気づくと、ビャクブはとてもうれしくなった。ヤツデとビャクブはイチハツとエノキと本当に別れた。

部屋に帰ったあとのヤツデはいつものとおり読書し一方のビャクブはテレビでバラエティ番組を観賞してから床に就いた。この夜は珍しくビャクブもすぐに安眠することができた。


翌日である。ヤツデとビャクブの二人は部屋のチャイムの音で目を覚ました。時刻は6時30分である。一度は話に合ったとおり、旅行中は眠りが浅いので、ヤツデはすぐに目を覚ました。

ヤツデには誰が来たのかを考える余裕は少しだけあったが、候補はバニラ・スミレ・テンダイ・ミズキといったように多かったので、訪問者は誰なのか、当てることはヤツデにも難しかった。

玄関にはビャクブの方が近いので、ビャクブは自分から率先して客人に応対することにした。当然と言うべきか、ヤツデはビャクブに対し「ありがとう」とお礼の言葉を述べた。

「ぼくもすぐに行くから、ビャクブはちょっと待っていてね。まあ、その必要はないかもしれないけど」ヤツデはそう言いながら目覚まし時計を止めベッドを出ることにした。

「ああ。わかったよ。それにしても、こんなにも朝の早くから誰だろうな」ビャクブは独り言を呟きながらベッドから抜け出すと髪に寝ぐせのついたままロックを外しドアを開けた。

ベッドに入ったままのヤツデは当てずっぽうにより悩みを打ち明けるためバニラが来たのだろうと即断したが、それは間違っていた。ビャクブの前にはスミレの姿が認められた。

とはいえ、今は確かに寝ぼけているから、多少は思考が遅々としている部分もあるが、ヤツデはスミレに対し自分が希望をしたことを忘れていた訳ではなかった。

「おはようございます。朝の早くからどうもすみません」スミレはビャクブに謝った。

「いいえ」ビャクブは返事を返した。「おれは構いませんよ」

 スミレの声を聞くと、ヤツデはベッドから跳ね起きた。ヤツデは髪を少し手で梳くと早歩きでビャクブとスミレのいる玄関にやって来た。こういう時のヤツデは動きが早い。

「おはようございます」ヤツデはスミレに聞いた。「お願いした件はどうでしたか?」

「ええ」スミレは戸惑っている。「そのことなんですけど、なんと言いますか、シランの持ち物から不思議なものが出てきたんです」スミレは歯切れの悪い口調で言った。ビャクブは興味を魅かれた。

「不思議なものですか? 現物は持ってきて下さっていますか? もし、持って来て下さっているのなら、それをお見せ願えませんか?」ヤツデは申し出た。スミレは「はい」と従順に頷いた。

「シランからは無断で持ち出したのですが、私は借りて持ってきています。こちらなんですけど」

ヤツデはスミレからあるものを受け取った。スミレはまだシランが寝ている隙にヤツデの願いを聞いてくれていた。ヤツデはしばし黙考した。ビャクブは横から問題のものを見ると不思議そうにしている。

スミレの持ってきたものは見ただけではなんなのか、わからないようなものなのである。

ビャクブはそれをまじまじと観察している。ヤツデはようやく口を開いた。

「ぼくはこれを少しの間だけお預かりしてもよろしいですか?」ヤツデは低姿勢である。

「ですが」スミレは不安そうである。「シランはなくなっていることに気づいてしまうかもしれません」

「その時は全てを正直に話してしまいましょう。スミレさんは何も悪いことはしていません。全ての責任はこのぼくが負います。それに、スミレさんのやさしい気持ちを知れば、シランさんは怒らないとぼくは思います」ヤツデは『愛の伝道師』らしく飛び切りのやさしい口調で説得した。

「わかりました。それではヤツデさんにお預けします」スミレは決断を下した。

「本当にどうもありがとうございました」ヤツデはスミレに丁寧にお辞儀した。

スミレは会釈して取り成しの言葉を述べると来た道を引き返して行った。今ではすっかりとヤツデとビャクブの二人のことを信頼しているので、謎の物体については不安だが、ヤツデとビャクブの二人なら、この問題にも光明を見出してくれるだろうとスミレは信じてくれている。

「今日はもしかしたら慌ただしい一日になるかもしれないね。ぼくは朝食を食べる前に警察署に用事があるから、とりあえずはそれをすませておくよ。ビャクブとは別行動を取ることにしようね。ビャクブはその間にカラタチさんのところに行ってカラタチさんから昨夜はどこへ行こうとしていたのかを聞いておいてくれる?」ヤツデはベッドのある部屋まで帰って来るとゆっくりと聞いた。

「ああ。おれは別に構わないよ。合点承知だよ」ビャクブは意気込んだ。普段のヤツデは頼りなさそうにしているのにも関わらず、今日は絶好調みたいなので、ビャクブはそれがとてもうれしい。

「ビャクブにはもう一つカラタチさんから聞いておいてほしいことがあるんだよ」ヤツデは言った。

「なんだい? カラタチさんはやさしい人だから、おれは遠慮なくなんでも聞いておくよ」

「ありがとう。そうだね。カラタチさんなら、このくらいのことは確かに答えてくれると思うよ。昨日のシランさんはカラタチさんとぶつかった時にどこから現れたのかを聞いておいてほしいんだよ」

「わかった。おれはそのことも忘れずに聞いておくよ。任せておいてくれ」ビャクブは胸を叩いた。

ヤツデの意図は今一わからなかったが、ビャクブは伝言としてそのままカラタチに伝えることにした。ヤツデは自分の領域テリトリーを持っているので、万事はそれに任せておこうとビャクブは思った。ビャクブは心からヤツデを信頼している。

「よろしくね」ヤツデは素直に謝った。「ビャクブには厄介事を頼んじゃってごめんね」

「いや」ビャクブは取り成した。「おれは別にいいよ。今の状況の成り行きはおれもすこぶる気になっている。それで? ヤツデはスミレさんが持って来てくれた例のものについて確認を取るために警察署に行くのかい?」ビャクブは確認した。ヤツデは案の定「うん」と応えた。

「そうだよ」ヤツデは言った。「時間はどのくらいかかるか、わからないけどね」

「そうだな」ビャクブは弱々しく言った。「問題のものはなんでもないといいな」

「うん」ヤツデは穏やかな顔つきで言った。「それは確かにそう願いたいものだね」

ビャクブは自分で言っておきながら自分のセリフに自信が持てなかった。ビャクブはスミレの持ってきたシランの持ち物は大なり小なり嵐を呼ぶことになりそうだと悪い予感を抱いてしまっている。ビャクブのその予想は決して外れてはいない。

ヤツデは警察署へ向けて部屋を出た。一方のビャクブはカラタチの部屋へ歩を進めることになった。ヤツデは毒薬の件でも警察にお世話になったが、今回は自分から警察署に出向くことにした。警察は今回もヤツデの要件を無視することができなくなる。予想はしていなかった訳ではないのにも関わらず、その結果は少なからずヤツデも驚く羽目になる。


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