トイワホー国における復讐 2章
その後のヤツデとビャクブの二人は1201号室のドアのノブの外側に「部屋を掃除して下さい」と記載されたドア・サインをかけフロントに部屋のキーを預けてからビスマーク・タワーへ向かった。
クリーブランド・ホテルからはクラクフ水族館の方がビスマーク・タワーよりも近い。しかし、ヤツデとビャクブは体力のある内に遠い方の用事をすませてしまおうと前々から計画していたのである。だから、ヤツデとビャクブはチコリーと同行できなかったのである。
ビスマーク・タワーの高さは350メートルもある。これはトイワホー国の中では二番目に高いテレビの電波塔である。だから、ビスマーク・タワーは割と有名なのである。
ヤツデとビャクブの二人はいつものとおり遠慮気味なヤツデの提案により展望台のあるフロアの途中までタワーを階段で上ることにした。最上階や展望台までは行けないが、途中までなら、ビスマーク・タワーは階段で上り下りすることができるようになっている。
しかし、ヤツデはいくらエレベーターやエスカレーターよりも階段の方が好きだからとは言ってもこの夏の真っ盛りに汗っかきなヤツデが階段を延々と登って行くのはあまりにも無謀だった。他に階段を使っている物好きな観光客はほんの少ししかいなかった。
展望台のある階まで上りきった時のヤツデの結末はまるで蒸し風呂から出てきたかのように汗だくになってしまった。それはビャクブとて例外ではなかった。
とはいえ、着替えは用意していたし、自分も合意の上での決断だったので、ビャクブは特にヤツデに対し不平を漏らすこともなく笑って暑さを吹き飛ばした。ただし、ヤツデは幾度となく謝意を表した。ヤツデはビャクブに対して悪いことをしてしまったと後悔している。
ヤツデとビャクブは無論のことながら展望台から眼下に広大なパノラマを見下ろすことができた。その展望台からはエア・ポートや迎賓館や競技場といったものを見渡すことができてまさしく絶景だった。
その後のヤツデとビャクブの二人はクラクフ水族館へ向かった。チコリーと出会うことはなかったものの、ヤツデとビャクブはしっかりと楽しい時間を過ごすことができていた。
ヤツデは魚群を見ては喜びビャクブを見ても喜んでいた。ヤツデは実を言うと高校生の時に修学旅行でプラテーション県という場所にある有名な水族館へ行ったのだが、当時のヤツデには友達がいなかったので、水族館ではずっと一人ぼっちで順路を巡っていたという暗い過去を持っている。
とはいえ、トイワホー国の国民はそれを放っておいた訳ではなく何人ものクラス・メートがヤツデに対して話しかけてくれたが、ヤツデは結果的に馴染めず仕舞いだったという訳である。
ビャクブはそのことを知らない。なぜなら、話す程のことでもないとヤツデは思っているからである。ヤツデはなにやら自分のことを見て喜ばしく思っているみたいなので、やさしい性格をしているビャクブはそれに気づくと自分も快く思った。
お昼になったので、ヤツデとビャクブの二人は館内のレストランで食事を取ることにした。ヤツデはデミグラス・ソースのハンバーグをオーダーした。一方のビャクブはトマト・ケチャップのオムライスをオーダーした。注文した食べ物が到着した。ヤツデとビャクブの二人は満足そうに食事をしていると意外な人物たちと対面することになった。ヤツデは聞き覚えのあるハスキー・ボイスで「ヤッちゃん」と話しかけられそろそろと振り向いた。
「ヤツデのヤッちゃんとビャクブのビャッくん」男は言った。「まさか、自分たちはここでも会えるなんて奇遇ですね」話しかけてきたのは社交的なイチハツである。今日のイチハツは開放感の溢れるアロハ・シャツを着ている。イチハツはいつも明るいので、今日もまたハッスルしている。
「本当に奇遇ですよね。ヤツデさんとビャクブさんとは再会できて私もうれしいです」イチハツの隣にいるエノキは持ち前の低音で言った。ヤツデとビャクブは歓喜の声を上げた。
イチハツは座っていいかどうかをしっかり確認してからエノキと一緒にヤツデとビャクブの隣の席に腰かけることにした。イチハツは社交的でも人の嫌がることはしないのである。
ヤツデとビャクブの二人は喫煙しないので、ここは禁煙である。イチハツとエノキの二人も嫌煙家である。トイワホー国には割と嫌煙家は多い。
「クラクフ水族館はクリーブランド・ホテルから見えるぐらい近いから、私達にとってはいいですよね。どうですか? お二人はクラクフ水族館では楽しくお過ごしですか?」エノキは話を切り出した。
「はい」ビャクブは首肯した。「それはもう楽しんでいます。おれは個人的に水族館に来たのは久しぶりですからね。大きな水槽の中にいたジンベエザメはもう見ましたか?」
「ジンベエザメなら、自分たちはもう見ましたよ。あれは中々荘厳でしたね。自分としては相当に印象に残っています。説明書きによると、ジンベエザメはあんなにも巨大なのにも関わらず、性質は穏やかで小魚やプランクトンを食べて生きているそうですね。自分は決まったけど、エノキはもう何を食べるか、決めたかな?」イチハツは聞いた。イチハツはやはり利己的な性格の持ち主ではない。
「ああ。食べるものはおれも決まったよ」エノキは答えた。イチハツとエノキは優柔不断ではない。ヤツデとビャクブはイチハツとエノキに合わせわざとゆっくり食事をしている。
「それじゃあ、自分たちは注文しようか」イチハツは「すみません」と言ってウエイターを呼んだ。イチハツはエノキと共にそれぞれの注文を行った。それを終えると、イチハツは慎重に聞いた。
「お二人はクリーブランド・ホテルであった殺人事件の話をお聞き及びですか?」
「はい。その話はもちろん聞いています。おれなんかは自分で言うのもなんですが、もの好きなことにも死体発見現場のエレベーターまで見に行ったくらいですからね」ビャクブはおどけた口調で言った。
「ははは」イチハツは愛想笑いした。「そうでしたか。それは自分も行ってみたかったですね。そう言えば、ビャッくんにはお兄さんがいるとおっしゃっていましたよね。ご兄弟は下にもいらっしゃるのですか?」イチハツは聞いた。イチハツはやはりトークの力が巧みである。
「いや」ビャクブはやんわりと否定した。「おれは三人兄弟の末っ子です」ビャクブには日曜大工が得意な長兄と押し花が好きな次兄がいる。ビャクブは二人の兄とは仲がいい。
「そうですか。それなら、ビャッくんは自分と同じです。自分は六人兄弟の末っ子なんです。自分の両親はこうまで子供が多いと苦労したでしょうね。自分はつくづくそう思います。ヤツデさんにはご兄弟はいらっしゃいますか?」イチハツは独特のハスキー・ボイスを響かせながら聞いた。
「はい。ぼくには弟が一人います。エノキさんはどうですか?」ヤツデはイチハツに調子を合わせて聞いた。ヤツデは弟とは仲がよくとてもその弟をかわいがっている。
「私には兄弟はいないんです。残念ながら一人っ子です。それで? ヤツデさんとビャクブさんはその後もバニラさんとお会いしたのですか?」エノキはさらっと聞いた。ヤツデはイチハツがエノキに対し冷やかすような視線を投げかけたのを見逃さなかった。ヤツデは質問に「はい」と答えた。
「食事の約束はキャンセルされてしまったのですが、ぼくは二度もお会いしました。バニラさんは驚いたことにホテルであった殺人事件の被害者と面識があったそうで相当に落ち込んでいましたけどね」ヤツデは事情を話した。それを聞くと、イチハツとエノキは神妙な顔で頷いていた。
「バニラさんは11日までクリーブランド・ホテルに滞在する予定だって言っていましたけど、おれはエノキさんのことをバニラさんに紹介しましょうか?」ビャクブは気を使って聞いた。
「いいえ。それはいいんです。しかし、お気遣いありがとうございます」エノキはちょっとはにかんで否定した。イチハツは無言で親友のエノキを横目で見ると苦笑を禁じ得なかった。
「そうですか」ビャクブは少し残念そうである。ビャクブは実を言うとエノキとバニラの恋のキューピッドになってみたかったのである。ヤツデはなんとなくそれに気づいて残念そうである。
ウエイターがやって来てイチハツとエノキの頼んだ料理を二人の前に給仕した。エノキは早速にカツ・カレーに手をつけている。イチハツはその間に提案した。
「どうですか? この食事を終えたら、ヤッちゃんとビャッくんは自分たちと一緒に水族館を見て回りませんか?」イチハツは聞いた。ビャクブはすぐにそれに対して反応した。
「それは賛成です。ヤツデもそうだよな?」ビャクブは一応の確認をした。
「うん。もちろんだよ。イチハツさんとエノキさんも一緒なら、水族館の見学はもっと楽しくなりそうだもんね」ヤツデはさっぱりとした心持ちで答えた。それを聞くと、イチハツはうれしそうな顔をした。
「それでは決まりですね。私は今から楽しみです」エノキは楽しそうに同意した。
しかし、ヤツデには不安要素もあった。ヤツデは上記のとおり団体行動になるとよく村八分のような状態になってしまい孤立してしまうことが多いからである。ただし、先取りすると、そうはならなかった。ビャクブはいつでもヤツデに気を使ってくれるし、イチハツとエノキはやさしい性格をしているので、ヤツデには何度も話しかけてくれた。これこそはトイワホー国の国民の真骨頂である。ヤツデはそのことに関して目頭が熱くなるほど感無量だった。
「パンフレットによると、この先には大きなマンボーがいるっていうことですから、これはこれで楽しみですね。それにです。ヤツデさんとビャクブさんも一緒なら、自分はより一層にテンションが上がりそうだ。今日はラッキーな日だな。自分は今から楽しみになってきましたよ。うん。このチキン・カツレツもうまい」イチハツは浮き浮きしながら言った。ヤツデとビャクブの二人も当然のことながらうれしそうである。ヤツデたちの4人はこうして水族館の後半を共に過ごすことで話は決着した。その後のヤツデたちの4人は雑談しながら食事をした。そこではイチハツとエノキの過去の話が話題になった。
イチハツはマラソンのやりすぎにより椎間板ヘルニアという病気になったことがあった。一方のエノキには実は高校一年生の時に拒食症になったことがあるという前歴が明かされた。
それを聞くと、ヤツデとビャクブの二人は大いに驚き同時に同情の言葉を述べた。とはいえ、イチハツは暗い話が好きではないので、それからは明るい話ばかりを口にするようになった。
食事が終わると、ヤツデたちの4人は最初に海の生物と触れ合いができるタッチ・プールにやって来た。一番お喋りのイチハツは皆の先頭を歩いている。
とはいえ、イチハツは出すぎた真似をしないよう自分なりに注意している。すでにそのことには気づいているヤツデはそんなイチハツを賞美すべき人だと思っている。
「自分はコックをしているのですが、ヤッちゃんはどんなお仕事をされているのですか?」イチハツは背中に大きなこぶが多数あるコブヒトデを触りながら話を切り出した。
「ぼくは『愛の伝道師』をしています」ヤツデは胸を張ることなく言った。
「そうでしたか。ヤッちゃんは道理でやさしさの滲み出た人柄だった訳ですね」イチハツは納得している。ヤツデは『愛の伝道師』とイメージが合っているなとエノキは内心で思っている。
「いいえ。そんなことはありませんよ。今のエノキさんが手に取っているのはなんていう生き物なんですか?」ヤツデは興味本位から聞いた。ビャクブはエノキの手元を確認している。
「青色をしているから、アオヒトデというヒトデらしいです」エノキはさばさばと答えた。
「へえ」ビャクブは感想を述べた。「おれは青色のヒトデなんて初めて見ました」
「そういうビャッくんの手にしている生き物はなんですか?」イチハツはすぐに聞いた。
「クモガイです。クモガイは食用にもされるっていう風に書かれています」ビャクブは説明書きを見て言った。クモガイという貝は指状の突起が七本あるためクモみたいである。
「そうなんですか。そう言えば、自分は勝手に渾名を作ってしまっていますが、お気を悪くはされていませんか?」イチハツは恐る恐る聞いた。ヤツデはそれに対しやさしく微笑んで言った。
「ぼくは気を悪くするなんてとんでもないですよ。ぼくは全く気分を害してなんかいませんよ。ヤッちゃんっていうニックネームは幼稚園から大学生までずっと呼ばれていたものなんです。ですから、ぼくはイチハツさんにはそのことでも親近感を覚えています。ぼくはイチハツさんみたいな性格の人が好きですよ」ヤツデはいつでもピュアなもの言いをする。ビャクブはそれを聞いて微笑んだ。
「そうですか。ヤッちゃんはやっぱり『愛の伝道師』だけあってやさしいですね」イチハツは心の底からほっとしている。人に対しては喜んで快く馴れ馴れしくしているが、相手の気持ちはちゃんと慮っているので、イチハツはいつもこれでいいのだろうかと心配している。
「おれもそれは同感です。おれの場合はイチハツさんが初めて呼んでくれた愛称だから、おれはとてもうれしく思っています」ビャクブは言った。それを受けると、イチハツはまた笑顔になった。
「私達はやさしいお二人に出会えて幸せ者ですね」エノキは最後の締めとして言った。
エノキはお世辞を言っているのではなく本心からそう思っている。イチハツもそれは同じである。トイワホー国の国民はこれだけでもわかるとおり皆やさしい。
続いてのヤツデたちの4人は熱帯魚のコーナーへ足を運んだ。そこでは小魚を吸い込むようにして捕食するヘラヤガラ・幼魚の形がツバメに似ているツバメウオなどを見ることになった。
ヤツデたちの4人はその後も水族館を進んで行った。ヤツデたちの4人はマンボーを見ると最後にはイルカのショーを見て心行くまで存分に水族館を楽しむことができた。
ヤツデとビャクブは水族館から出るとイチハツとエノキとは別行動を取ることになった。イチハツとエノキは散策する予定だが、ヤツデとビャクブの二人はホテルに帰ることにした。感傷的なイチハツはヤツデとビャクブとの別れを悲しく思ったが、ヤツデとビャクブとはまた会うことを約束しヤツデとビャクブの元を去って行った。口には出さなかったが、エノキはイチハツと同じく別れを惜しんでいた。イチハツは陽気であり、エノキは比較的にクールな性格をしている。
ヤツデとビャクブはイチハツとエノキと次に会える時を楽しみにしている。一緒にいる時間は短くてもヤツデたちの4人はすでに大の仲良しである。
「水族館はやっぱり楽しかったな。そうだ。なにか、ヤツデには印象に残った生き物はいたかい?」ビャクブは噴水を横切りホテルへの帰路を歩きながら水族館の感動が冷めやらぬ様子で話を始めた。
「うん。深海魚のコーナーにいたよ。ぼくはヒトデの仲間で体の中央に口があるキヌガサモヅルとかいうのが印象的だったね。少し怖いなとは思ったけどね。ビャクブはどうかな?」ヤツデは問うた。
「そうだな。おれは深海魚のコーナーにいたヒョウザメが印象に残ったかな。格好よかったからな。まあ、ヒョウザメは小さなエビや小魚を食べるらしいけど」
「そうだったね。深海魚はおかしな魚が多かったものね。それにしても、水族館ではたくさんの珍しい生き物が見られて楽しかったね」ヤツデは言った。ヤツデの口調はまるで幼稚園児みたいである。
「ああ。そうだな。おれはクラクフ水族館に限らずまた水族館に行ってみたいな」
「そうだね。ぼくはビャクブとイチハツさんとエノキさんのおかげもあってまた水族館に行ってみたくなったよ。ねえ。話は変わるけど、ビャクブはクリーブランド・ホテルであった事件の現場を見てみたいとは思わない?」ヤツデは不意に内緒話をするようなひそひそ声で聞いた。
「え? 殺人事件の現場かい? 少し興味はあるけど、シロガラシさんの件に関してはカラタチさんっていう人にホテルに帰ってから会えば、解決するっていう話じゃないのかい?」
「うん。だからね。これはただ単にぼくの野次馬根性なんだよ。実はシロガラシさんの容疑について考えていたら、ぼくは事件のことをもっと深く考えてみたいって思っちゃってね」ヤツデは照れくさそうにしている。ビャクブはそんなヤツデの心中も大らかな気持ちで受け止めて普通に応じた。
「そう言えば、ヤツデは今朝もそれに近いようなことを言っていたもんな。しかしだよ。現場を見ると言ってもどこが現場なんだろう? エレベーターなのかな? やっぱり」
まさか、的確な答えが返ってくるとはビャクブも期待していなかった。それでも、そのことをずっと考えていたヤツデはその問いの答えをちゃんと用意していた。
「仮に死体が最初にエレベーターに乗り込んだのが6階だとしてさらに6階が最上階だとなるとわざわざ犯人が5階以下から遺体を担ぎ上げていない限り、現場は6階のどこかだと考えていいとぼくは思うよ。ただし、エレベーターの中は警察の現場検証で見に行くことはできないだろうね。だから、ぼくはホテルに帰ったら、キーを受け取る時に6階に空き部屋はあるかどうかを聞いてみることにするよ。殺人の現場はもしかするとそこかもしれないからね。まあ、ぼくなんかの考えたことだから、期待はあまりしてないけどね」ヤツデは普段のとおり自虐的である。ビャクブは「そうかい?」と応じた。
「可能性はなきにしもあらずだけど、それにしても、ヤツデは大した野次馬根性を持っているもんだな。結局のところ、おれなんかよりも遥かに野次馬根性はヤツデの方があるんじゃないのかい? まあ、おれも確かに殺人事件の解決には興味を引かれるけど、それはさておきやっぱりあれだな。おれはホテルのゲーム・センターで遊びたいな」どこか、ビャクブはすでに楽しげである。
ヤツデは分不相応なことを言ってしまいそれを恥じているので一旦この話を終了させることにした。ヤツデは夢見がちなので、ビャクブとは違う意味で時々調子に乗りすぎてしまうことがある。
しかし、夢や野望を持つことは恥ずかしいことではないので、ビャクブは時々見せるヤツデの意気込みに好感を持っているし、実は見習いたいとも思っている。
その後のビャクブは歩きながらヤツデの意気込みを見習いUFOキャッチャーで大物をゲットすることを宣言した。それを聞くと、ヤツデはビャクブに対しエールを送った。
ゲーム・センターではメダル・ゲームなら、やったことはあるが、UFOキャッチャーは一度もやったことがないので、ヤツデはそれにチャレンジしようとする人を見るだけで尊敬している。だが、ヤツデみたいに自分を卑下し過ぎることは禁物である。
今のバニラとスミレとシランは観光バスに乗っている。バニラたち一行は三人なので、現在は一番うしろの席を陣取っている。とはいえ、このバスは満席というほど混雑してはいない。
バニラとスミレとシランはトイワホー国の国民らしく非道な事柄とは縁のない存在である。バニラとスミレとシランはとにかく穏やかなのである。強いて言えば、シランはホラー映画が好きである。
強いて言ってもその程度なので、バニラとスミレとシランの三人はやはりやさしい性格をしており果てしなく広い心の持ち主である。だから、バニラとスミレとシランは必然的に大の仲良しである。
今のバニラとスミレとシランはオルゴール館に向かっているのだが、目的地はアト・ランダムに選んだ訳ではない。目的地はスミレが様々な資料を照らし合わせて選んだものである。スミレはそういう細々した作業を苦に思わないといういいところがある。スミレはしっかり者なのである。
「私は異郷にやってくると気分が盛り上がっちゃうみたい。今はすごく楽しい。シランはどう?」バニラはバス・ガイドがビルディグの紹介を話し終えると明るい口調で聞いた。
「ええ」シランは明るく言った。「それは私も同じよ。今日のバニラは特に元気そうね」
「そうよ。今日はお天気もよくて隣には友達もいる。こんなにも幸せなことなんてそうそうないもの」バニラはハキハキと言った。今のバニラは確かにこの上なく上機嫌な様子である。
「バニラはクローブさんっていう人が亡くなったことについてもう立ち直ったの?」シランは聞いた。この件に関しては時たまシランだけではなくスミレもバニラに対し気遣いを見せている。
「ええ。本当はもっと喪に服して悲しんでいた方がいいのかもしれないけど、クローブさんはもう悲しまないでくれって言ってくれそうだもの。たぶん」バニラは慎重な口調で言った。
「バニラから話を聞いた限りでは確かにそうかもね。でも、本当は他にも理由があるんじゃないの?」シランはからかうような口調で聞いた。実はシランには思い当たる節があった。
「え?」バニラはきょとんとした。「私はクローブさんの死を乗り越えた理由に心当たりはないけど」
「隠しても無駄よ。ネタは上がっているんだからね。なにか、バニラは手紙を受け取ったんでしょう? 昨日」シランは問いつめた。シランはその手紙の内容を自分なりに推測している。
「え?ああ。スミレはシランにちくっちゃったの?」バニラは軽い調子で聞いた。
「ええ。ごめんなさい。本当はこういうことって秘密にしておかなくちゃならないよね?」スミレは久しぶりに口を開いた。スミレは弱々しい口調である。スミレにはある心配事がある。
「ううん。それは別にいいのよ。私達の仲じゃない。スミレは気にしなくてもいいのよ。それで? シランは何が言いたいの?」バニラは聞いた。シランは奇想天外なことを言い出した。
「その手紙っていうのはラブ・レターなんでしょう? ヤツデくんか、もしくはビャクブくんからだったりして」シランはおもしろそうに自分の推測を述べた。
「え?違うよ。あれは全く違うのよ。あの手紙はそんなんじゃない。ラブ・レターとは月とすっぽんの差があるのよ」バニラは否定した。しかし、バニラは否定してから肯定してもよかったかなと思った。
「それじゃあ」シランは聞いた。「あれはなんなの?」シランは今も半信半疑である。
「今は秘密よ。なんだったかはその内に教えてあげるから、シランは待っていて」バニラは言った。
「仕方ないみたいね。それよりも、スミレは気分でも悪いの?」シランは心配した。スミレは中々自分たちのガールズ・トークに入ってこないから、シランは心配してくれたのである。いつもなら、バニラとスミレとシランは遠慮することなく三人でぺちゃくちゃ喋るのが普通である。
「ううん」スミレは気丈夫に答えた。「私は大丈夫よ」スミレは以前に三人で行ったことのあるパブを話題に出した。バニラとシランはその話題に乗ったので、それ以上その話は続かなかった。
しかし、スミレには前述のとおり気がかりな点が一つあった。それはバニラに関することである。今のところは大雑把なところのあるシランにはそれに気づいてはいない。
バニラは昨日に手紙を受け取ってから元気になったように見えるが、それはどうも見せかけだけの元気にしか、スミレには見えないでいる。しかし、それはスミレの取り越し苦労の可能性もある。そもそも、スミレはバニラに聞いたところで隠し事を素直に打ち明けてくれる気配はない。
だから、スミレはただバニラが秘密を打ち明けてくれることを待っていることしかできない。それはスミレにとってはとても心配なことだった。
ヤツデはビャクブと一緒にホテルに帰ってきた。ヤツデは再び吟味した結果としてやっぱり分不相応ながらも少し殺人事件に首をつっこむことを決定した。
とはいえ、全くの空振りの可能性は十分にあるので一概に関与するとは言い切れない。ビャクブはそれを認めているというよりはヤツデのことを応援している。
もし、ヤツデがなにかの手柄を立てれば、ビャクブは友人として自分も胸を張れることになるからである。今のビャクブはちっちゃな野望を持っている。
「つかぬことをお伺いしますが、現在の二号館の6階に空き部屋はありますか?」ヤツデはレセプションのマリティアから自室のキーを受け取るとそのマリティアに対して単刀直入に聞いた。
下心は丸出しだが、マリティアにはバニラの部屋のキーを届け出たことによりいい印象を与えているはずだから、ヤツデは狙いすませてマリティアに話しかけることにした。
それでも、ヤツデは緊張してしまいかちんこちんになっている。一応は緊張をほぐせているのか、ヤツデにもよくはわからないが、ビャクブはヤツデの傍にいてくれている。マリティアは確認のため一旦下がって行った。緊張はまだしているし、自分のやっていることについての自信は持てないので、なんだか、ヤツデはマリティアに悪いような気がしてきた。
「現在は二号館の6階には一室だけ空室がございます。2604号室のことです。しかし、5時にはチェック・インのお客様がお見えになられますので、誠に申し訳ありませんが、お客様はご利用にはなられません」ヤツデのところに帰ってきたマリティアはトイワホー国の国民らしく丁寧に答えた。
「そうですか。教えて下さってありがとうございます」ヤツデは丁寧にお辞儀をした。
「二号館の他の部屋の状況もお調べ致しましょうか?」マリティアは親切な質問をした。
仮にここで「いいえ」と言ったら、ヤツデは訝しまれるかもしれないと思ったので、それについては従うことにした。ただし、ヤツデはまた申し訳なく思い罪悪感に苛まれている。
その頃のビャクブはヤツデの後ろに立ちヤツデに対して「がんばれ!」というテレパシーを送っていたが、当然と言うべきか、それは悲しいことにも伝わらず、ヤツデはそわそわしている。
マリティアは戻ってくると「空きはない」と述べた。もっとも、それはヤツデにとってどちらでもよかった。とはいえ、空きはあれば、空きがあったでまた言い訳を考えなくてはならないので、本当は空きがなくてよかったのかもしれない。ヤツデは気を取り直し勇気を出して言った。
「これはちょっと奇妙なお願いに聞こえるかもしれませんが、その2604号室を30分でいいので、お借り願えないでしょうか?時間には遅れません。今は三時半なので、鍵は4時には必ずお返しします」
「はい。それなら、お貸しできると思います」マリティアはそう言いながらも不信そうである。
「6階から見える景色を楽しみながらお部屋で過ごさせてもらいたいんです。ぼくってやっぱり変ですよね? 人からはよくそう言われるんです。ははは」ヤツデは下手くそな理由を述べた。
しかし、さすがは寛容な『愛の国』トイワホー国のホテルである。マリティアは再び奥に下がると30分だけという条件でヤツデに部屋のキーを渡してくれた。ヤツデの懇願は叶えられた。
ヤツデはお礼を言い30分に適当なルーム・チャージを支払った。ビャクブは後ろで密かに喜んでいる。ヤツデは緊張感を持ったままついでにもう一つ聞いてみることにした。
「そう言えば、昨日このホテルの事件で最初にエレベーターに乗り合わせていた人はどの部屋に宿泊している方なのですか? まあ、これは単なる世間話なんですけどね」ヤツデは気楽に言った。
「それはわからないんです。なぜか、名乗り出る方がいらっしゃらないんです」マリティアは答えた。
「そうでしたか。度々どうもすみませんでした。時間は厳守します。ぼくの我がままを聞いて下さってどうもありがとうございました」ヤツデはそう言うと慇懃な態度でお辞儀した。
ヤツデはビャクブと共に踵を返しながら冷や汗を拭った。それでも、ビャクブはヤツデの演技力を褒めてくれた。ヤツデはよくがんばったとビャクブは心から思っている。
しかし、ヤツデにとってみると、あれは醜態をさらしただけなので、ヤツデはビャクブに褒めてもらってもあんまりうれしくはなかった。とはいえ、きちんとした性格のヤツデはビャクブに対しお礼を言うことを忘れはしなかった。なによりも、ヤツデにはビャクブの思いやりの気持ちがよくわかった。諺で言うところの「親しき中にも礼儀あり」というやつである。
ヤツデは悪いことをしているという気持ちを拭えはしなかったが、ヤツデとしもここまで来た以上は捜査に本腰を入れることにした。ビャクブも一旦その部屋へ同行することにした。なぜかというと、ビャクブにはお決まりの野次馬根性というやつがあるからである。
ヤツデとビャクブは殺人現場ではないかとヤツデが推理した空き部屋の2604号室に足を運んで実際にその部屋が殺人現場であるという証拠を見つけるためようやくその部屋の前までやって来た。
ヤツデはマリティアから受け取ったキーを使いビャクブと共に室内に足を踏み入れた。中はエキストラ・ベッドが追加されたフォース・ルームであることが判明した。
ヤツデとビャクブはそこで思いのまましばらくの間は様々なところを調べて回った。ビャクブはベッドの間のナイト・テーブルの上にあるタオルを退けてみたり壁をなんの気なしに注意深く調べてみたりしていたが、何も見つからないことにげんなりして諦めかけた。ビャクブは諦めが早い。ヤツデはビャクブが焦れてきた時にある発見をして声を上げた。
「やったよ」ヤツデは喜んだ。「ゴミ箱の中にこんなものが入っていたよ」
ヤツデは大発見をしたかのような口調だったので、期待したが、現物を見てビャクブはこの上なくがっかりした。ヤツデが発見したものというのは一本のタバコの吸殻だった。
「なんだ。そんなものか。タバコの吸殻がゴミ箱に入っていたからといってもこの部屋には灰皿がないんだし、極々普通のことじゃないか。まあ、何もないよりは役には立つかもしれないけど」
「うーん。これはやっぱりなにかの手がかりにはならないかな?」ヤツデはビャクブの指摘によりやや気を落とした。ビャクブはそこで投げやりな案を提出することにした。
「なあ」ビャクブは言った。「おれはもうゲーム・センターで遊びに行きたいんだけど」
「ああ。そっか。そうだね。それじゃあ、ビャクブはもういいよ。ぼく一人であとは調べるからね。付き合ってくれてどうもありがとう。あとで『親切スタンプ』を押させてもらうよ」ヤツデはやさしく言った。ビャクブは恐縮そうにして部屋を出て行った。少し心細いような気もしたが、ヤツデはビャクブには迷惑をかけないようにするため一人でいることに我慢した。
ヤツデはひょっとしたらくたびれるまでこの捜査を続けるかもしれないなとビャクブは思ったが、それなりの苦労をすれば、いい結果は出るかもしれないので、口出しするのは止めておいた。
ビャクブは口笛を吹いてゲーム・センターへ向かって行った。ビャクブは無駄に切り替えが早い。ビャクブの頭はもはやゲーム・センターのことしか、考えてはいない。
ヤツデはその後も捜索を続けて行った。あくまでも愚考に基づいたものなので、ヤツデは何も見つからなくてもいいと思いながら必死になって作業していた。
しかし、ヤツデの執念深さもたまには役に立つことがある。ヤツデは窓際に置かれたテーブルの下で事件に関係のありそうなあるものを見つけることになった。
ヤツデは2604号室のキーをマリティアに返したあと自分の部屋に戻ろうとしてドアに手をかけたが、ドアはロックされていた。ヤツデはインターホンのチャイムを鳴らしたが、応答はなかった。
すると、ビャクブがそこへばったり姿を現した。ビャクブは小脇にスイカよりも少し大きめなハムスターのぬいぐるみを抱えている。ヤツデはうれしそうな顔をした。ビャクブは宣言のとおりゲーム・センターで大物をゲットすることに成功したという訳である。
ビャクブの方はうれしそうにしているヤツデに対し部屋の鍵を投げてよこした。ルーム・キーはビャクブが持っていたのである。ヤツデはビャクブに対しお礼を言い解錠した。
「悪いことしたな。ごめん。クレーン・ゲームに夢中になっていたら、すっかりと時の経つのを忘れていたよ。ヤツデは部屋に入れないで今までどこへ行っていたんだい? できれば、ヤツデもゲーム・センターまで来てくれたら、よかったんだけどな。まあ、悪いのはおれだけど」ビャクブはすまなそうにしている。しかし、ヤツデは全くそれを気にかけている様子を見せなかった。
「ぼくはどこへ行っていたのかって? ぼくはずっとあの部屋にいたんだよ。だから、ぼくは今になってちょうど帰ってきたところだよ。ビャクブはいいところに帰ってきてくれたね」ヤツデは部屋に入りながら直接照明をつけ疲れたように言った。すでに室内に入って来ていたのだが、ビャクブは驚きのあまり左腕からハムスターのぬいぐるみをベッドに落としてしまった。
「ヤツデはどのくらいあそこにいたんだい? 一体全体」ビャクブは思考した。「いや。おれが大体30分くらいゲームをやっていたんだから、ヤツデは30分もいた訳か。30分の間っていう約束で部屋を借りたからって時間きっちりいるなんてやっぱりヤツデの根気は大したものだな。まあ、おれはやって退けるじゃないかとは思っていたけど」ビャクブはヤツデに対し期待に満ちた眼差しを向けた。「ということはさぞかしすばらしい収穫が得られたんだろうな」ビャクブは皮肉ではなく素直な気持ちで言った。
ビャクブは隈なく部屋を調べるヤツデの姿を想像し改めてヤツデを尊敬したくなってきた。雑務に集中力を発揮し続けることはけっこう難しいことである。
ヤツデはビャクブの元から落ちたハムスターのぬいぐるみを一瞥しそのぬいぐるみを拾い上げた。ヤツデはうれしそうな顔をしてぬいぐるみを眺めた。ヤツデはぬいぐるみが大好きなのである。
「収穫はまあまあってところだね。とはいえ、現時点ではビャクブほどの戦利品を手にすることはできなかったみたいだけどね。この子はかわいいね」ヤツデは聞いた。「男の子かな?」
なんだか、間の抜けたヤツデのセリフを聞くと、ビャクブは気が楽になった。一見すると、ぬいぐるみはオスっぽいので、ビャクブがそう言うと、ヤツデは早速ぬいぐるみの名前を考えることにした。それについてはどうでもよかったので、ビャクブはヤツデに対し命名を一任しておいた。
その後のヤツデとビャクブはお互いに戦歴を教えあった。ビャクブは相当に苦戦してぬいぐるみを入手したのである。ヤツデの見つけた代物の優劣は訳あってまだわからない。
ヤツデとビャクブもなんらかの収穫はあったので、今は満足している。今日はまだ終わっていないが、ヤツデとビャクブは意義の深い経験をしたという訳である。
ヤツデとビャクブの二人は夕食前の時間を使いシロガラシのアリバイを証明するためカラタチが宿泊している2510号室の部屋を訪れるべく階段をひたすら登って行った。
ヤツデは兼ねてから穏やかな性格のカラタチとの再会を待ち詫びていた。訪問の理由がちょうどいい按配にできたので、ヤツデは内心でしめしめと思っている。
ヤツデがやって来てくれるなら、カラタチは用がなくても大歓迎してくれることは間違いない。話した時間は少なくともカラタチはヤツデのことをすごく気に入っている。
「カラタチさんっていう人の部屋はなんでよりにも寄っておれたちの部屋からこんなにも遠くにあるんだろう? まあ、おれは運動することが嫌いじゃないから、我慢はするだけど」ビャクブは午前中にはビスマーク・タワーの階段地獄を味わっているだけに少し辟易してしまっている。
「ビャクブは偉いね。仕方ないから、こういう場合はポジティブに考えないといけないもんね。ビャクブは自分から同意してくれたとはいえ、ぼくはビャクブにも付き合わせちゃってごめんね」ヤツデは取り成した。ヤツデはそう言いながらもビャクブと一緒に一所懸命に階段を上っている。
「いや」ビャクブはやさしい口調で言った。「それは別にいいんだよ。おれはカラタチさんっていう人には会ってみたいし、ヤツデの用事に付き合うことはおれにとって苦にはならないからな」
二号館のエレベーターは警察の現場検証のため使用が中止になってしまっている以上5階まで階段を使うことは仕方ないと言ってしまっても酷にはならないのかもしれない。
「目的地がやっと見えてきたよ。2510号室は奥の左側の部屋みたいだね」ヤツデは呼びかけた。
ヤツデはカラタチの部屋の前へ行くとチャイムを鳴らした。扉はあまり時間を空けることなく開いた。カラタチはこの上なくうれしそうな声で「やあ」とヤツデを迎え入れてくれた。
「誰かと思ったら、ヤツデくんではないですか。遊びに来てくれたんですな?」
「はい。そうです。お邪魔ではありませんか?」ヤツデは低姿勢である。
「とんでもないです。邪魔なんかではありません。大歓迎です。おや? こちらはヤツデくんのお友達ですかな?」カラタチはビャクブのことに気づくとうれしそうな顔をしたまま聞いた。
「はい。ぼくの友人のビャクブです」ヤツデはビャクブを紹介した。ビャクブはカラタチに対しぺこりとお辞儀した。カラタチは想像していたよりも聞きしに勝る巨体だったので、実は内心で圧倒され閉口もしていたのだが、ビャクブは気を取り直し平素の調子で口を開いた。
「はじめまして」ビャクブは言った。「カラタチさんのことはヤツデからいい人だと聞いています」
「そうですかな? まあ、立ち話もなんです。お二人は中へ入ってきて下さい。いや。私は本当にうれしいですな」カラタチはそう言うとヤツデとビャクブを歓迎し自室へ引き入れた。
「ぼくたちは実を言うとカラタチさんにお聞きしたいことがあってこうしてお伺いさせてもらっているんです」ヤツデはベッドに腰かけさせてもらうと穏やかに話を切り出した。
「私に聞きたいことですか? 私に答えられる範囲のことなら、どんなことでも聞いてもらって構いませんよ。あんまりにも難しいことを聞かれるともしかすると戸惑ってしまうかもしれませんがな」
カラタチは笑顔である。とはいえ、おっとりはしているが、カラタチは頭が悪くはない。ヤツデがこの絶好の機会を逃すはずもなかった。
「ありがとうございます。カラタチさんは昨日このホテルで死体が発見された時に現場にいらっしゃいましたよね?」ヤツデはズバリと指摘した。白星か、黒星か、ヤツデは少し緊張した。
「ああ。そうでしたか。あの場にはヤツデくんもいたという訳ですな?」カラタチはいきなり話の核心に迫られ少なからずびっくりしていた。しかし、カラタチはすぐに落ち着きを取り戻した。
「ということはやっぱりカラタチさんは現場に居合わせていたのか。ヤツデはお手柄だぞ」ビャクブは威勢よく言った。ヤツデは当然「ううん」とそれをやんわり否定した。
「それ程でもないよ。それはさておきぼくはあの場には居合わせていませんよ。カラタチさん」ヤツデは説明した。「ぼくは訳があってシロガラシさんというその場に居合わせていた人から話を聞いていたら、そのシロガラシさんはカラタチさんによく似た人を目撃していたんです。カラタチさんはとっても大柄だから、よく目立ちますものね。ですから、ぼくはおそらく間違いないと思ったんです」
「私は確かに人混みの中でも一目で見分けがつくでしょうし、他の人にとっては印象にも強く残るでしょうな」カラタチは少しばかり誇らしげである。カラタチは自分の身長の高さについて誇らしく思っている。ここでのビャクブは聞き役に徹することにしている。
「お聞きしたいことというのはあの時にカラタチさんがエレベーターに乗ってから降りるまでの経緯を教えてもらいたいということなんです」ヤツデはゆっくりとした口調で言った。
「そうでしたか。それは構いませよ。もちろん」カラタチは気持ちよく承諾してくれた。ヤツデがどうしてそんな質問をするのかを聞かないあたりはカラタチのおっとりした性格と人柄のよさのなせる所行である。ヤツデは真剣な顔をしてカラタチの話を聞き逃すまいとしている。
「あの時はこの部屋から出て右側にあるエレベーターに向かって歩いて行ったので、私はこの5階からエレベーターに乗ることになりました。エレベーターは私が行くとすぐにやって来ました。扉は間もなく開きました。その内の一人はあとから遺体だということがわかったのですが、私が中に入ろうとした時は二人の男性が乗り合わせていましたな。エレベーターはそれで三階まで来たところで止まり人が乗ってきましたな」カラタチは考え考えゆっくりと話をしてくれている。ビャクブは「すみません」と口を挟んだ。
「ちょっと待って下さいますか? それはどんな人でしたか? 一体」
「ええと」カラタチは答えた。「その人物は男性でした。元気そうなおじいさんでしたな」
「これはもうシロガラシさんと見てほぼ間違いないとおれは思うな」ビャクブは確信した。
「うん。そうだね。一応はカラタチさんにシロガラシさんのことを確認してもらえたら、あとはもう完璧だね」ヤツデは頷いた。大男を蔑む諺は「ウドの大木」とか「大男は総身に知恵が回りかね」とか「大男の殿」といったようにやたらと存在するが、カラタチはここで鋭い指摘を入れてきた。
「なるほど」カラタチは聞いた。「話を聞く限りではヤツデくんとビャクブくんはそのシロガラシさんというおじいさんが事件とは無関係であるということを証明したかったという訳なんですな?」
「はい。おっしゃるとおりです。説明を省いてしまっていてすみませんでした。もし、よかったら、せっかくですから、カラタチさんはその続きも聞かせてもらえませんか?」ヤツデは聞いた。
「お安いご用です」カラタチは胸を張って誇らしげに首肯した。カラタチは話を続けた。
「そのあとは私の横にいた男の人がトランプを派手に落としてしまいましてね。私もそのトランプを拾う作業を手伝いましたな。彼は何度も私にお礼を言ってくれました」カラタチは言った。
「そうですか。トランプですか」ヤツデは考え深げな表情で呟いた。しかし、ヤツデとビャクブはここで同時に不審な点に気がついた。ヤツデとビャクブも一応は軽薄ではない。
「おかしいな。この間はシロガラシさんから話を聞いていた時にそんな話は出てこなかったよな?」ビャクブは疑問を呈した。ヤツデはそれを軽視する訳にはいかないと思っている。
「うん。異常なことは一階へ降りるまでの間に特に起きなかったって確かにおっしゃっていたけど、シロガラシさんはひょっとして忘れちゃっていたのかな?」ヤツデは少し無理があるかなと思いながらも言った。しかし、カラタチはそういった疑問に対しあっさりと明確な答えを提示した。
「ああ。その問題なら、おそらくは簡単に解決できます。シロガラシさんはもしかすると気づかなかったのかもしれませんな。このホテルにあるエレベーターはなにせ24人乗りで広いですからな。シロガラシさんはその上に前方にいました。一方の私達は後方にいたものですから、シロガラシさんはその事態に気づかなかったとしても不思議ではありません」カラタチは理路整然と述べた。
「なるほど。そういうことでしたか」ビャクブは納得した。これにはヤツデも納得させられた。自分はそんなことで盛り上がってしまったから、カラタチから見た自分の印象は降格してしまったかなとヤツデはいらぬ心配をした。しかし、カラタチはそんなことでは人を卑下しない。これはいわゆるヤツデの取り越し苦労というやつである。ちなみに、ビャクブは何も考えてはいない。
「それで?」ヤツデは一抹の恥ずかしさを抑えながら引き続いてカラタチに対し質問させてもらうことにした。「そのトランプを落としてしまった人というのはどんな人でしたか?」
「ええと、身長は平均よりもやや高めでしたな。体格は中肉中背でした。ああ。それから、彼は黒縁メガネをかけていましたな。こんな私の話は果たして役に立ちますかな?」カラタチは聞いた。
「はい。大いに役立ちます。それにしても、その人物はそんな人でしたか」ヤツデは頷くとしばし黙り込んでしまった。結局のところ、ビャクブも特に何も言わなかったので、この話は以上となった。カラタチはあまり強引にならないよう控えめな口調で提案をすることにした。
「ところで」カラタチは言った。「ヤツデくんとビャクブくんはチェスなどをやりますかな?」
「はい」ヤツデは答えた。「最近はご無沙汰ですが、昔はビャクブとぼくもよくやりました」
「それなら、ちょうどいいですな。今は一人旅の最中ですが、私はこういうこともあろうかといつもポータブルのチェスを持ち歩いているんです。もし、よろしければ、チェスのお手合わせを願えませんか?」カラタチは聞いた。何分にもヤツデほどではないにしてもカラタチには子供っぽいところがある。ヤツデは夕食までの時刻を確認してからそれに応じた。
「もちろんです。カラタチさんは情報を提供して下さったのですから、そのくらいはお安いご用です。ビャクブもそうだよね?」ヤツデは同意を求めた。ヤツデはどんな時でもおもてなしの気持ちを忘れないのである。カラタチは期待に満ちた顔をビャクブに対し向けている。ビャクブは「ああ」と応えた。
「そうだな。おれは高校生の頃にヤツデとチェスをやった時のことを思い出すよ。まあ、おれはものすごくチェスが弱かったんだけど」ビャクブは少し遠慮気味である。
ヤツデとビャクブはこうして夕食までの一時をカラタチとチェスをして過ごすことになった。ビャクブは自分でも言っていたとおりチェスが得意ではないが、それはヤツデも一緒なので、果たして自分はカラタチの相手として務まるかどうかとヤツデは心配した。
しかし、それは杞憂に終わった。実はカラタチの方もこてこてのアマチュアだったのである。最初の頃の三人は特にファイン・プレーが見られることもなく黙々とチェスを楽しんだ。
対局している際は雑談も交えた。例えば、子供の頃からイヌが大好きなので、カラタチは今もイヌを飼っているのだが、その犬は自分と一緒で体が丈夫なので、獣医に見てもらう必要は全くないという話が出た。ビャクブは医者の関連として眠れないから、精神科では睡眠薬を処方してもらったことがあるが、効き目は今一だったという話を披露した。それを聞くと、カラタチはビャクブに対し深く同情してくれた。
一方のヤツデはカラタチのイヌが健康であることを羨ましがった。ヤツデは体の具合が悪くなると心まで弱ってしまいこんな自分のためにお医者さんが時間を割くのはもったいないと思ってしまうのである。
だから「自分は変人なのだ」とヤツデは主張したが、カラタチは「そんなことはない」と言ってくれた。やさしいビャクブもそれに同意した。
世の中には強い人間ばかりではなく色々なことを考える人がいるのだから、ヤツデはそのことを心に病むことはないとカラタチは言ってくれた。それを受けると、ビャクブは大いにその意見に賛同した。それを聞くと、カラタチは格好いい人だなとヤツデは密かに思った。ただし、カラタチは格好いいことを言ったのはいいが、王手までは行っても結局一度もチェスでチェック・メイトに漕ぎ着くことはできなかった。カラタチは三戦全敗である。カラタチとは最初に対決したので、ヤツデはわざと負けてあげるようなことはしなかった。ヤツデは全敗している人をかわいそうだと思い勝負に手を抜いてしまう可能性もあるということを意味している。それが正しいことかどうかはヤツデにも断言することはできない。とはいえ、ヤツデは手を抜かなくてもチェスの成績は一勝一敗だった。
チェスを終えると、ヤツデとビャクブは今夜の夕食をカラタチと一緒に取ることにした。今までの食事はチコリーも一緒に取っていたし、チコリーはまだシロガラシの件を知らない。
今夜の夕食はチコリーも一緒に食事を取ることになるだろうということは容易に想像できたので、ヤツデとビャクブの二人はレストランに向かいながらカラタチに対してチコリーがどんな女の子なのかを少し話しシロガラシはチコリーの祖父であるということも一通り話した。
結果は案の定だった。すでに食事をしていたチコリーはヤツデとビャクブが席に着くのを見届けると祖父のシロガラシと祖母のミツバの許可を貰い小走りでこちらにやって来た。
「この人は誰なの?」チコリーはカラタチを指して質問した。チコリーはとてつもなく大柄なカラタチを見て少し気圧された様子ではあってもあにはからんやすぐに平静を取り戻した。
「こちらはカラタチさんだよ」ヤツデは紹介した。「カラタチさんはビャクブとぼくの知り合いなんだよ。がたいはとても大きい人だけど、怖い人ではないから、チコリーは安心してね。チコリーとはこの子のことですよ。カラタチさん」
「はじめまして」カラタチは挨拶した。「チコリーちゃんはヤツデくんの言うとおりしっかりしていそうですな」カラタチは褒めた。チコリーはその間にも4人掛けのテーブルのイスに腰かけた。
「どうもありがとう」チコリーはお礼を言った。チコリーはなんとなくぎこちない。ヤツデは誰が見てもやさしそうな容姿をしているから、チコリーもヤツデに対しては親しげに話せたが一方のカラタチは人相こそ悪くないが、何分にも迫力があるので、チコリーは高姿勢に出られないでいる。
「チコリーは喜んでいいんだぞ。実は今朝に話していたシロガラシさんの無実を証明できる大柄な人っていうのはこのカラタチさんなんだ」ビャクブは楽しそうである。ビャクブは食事も満足そうにしてエビの天ぷらを食べている。スモーク・サーモンを食べ終わると、チコリーは顔を綻ばせた。
「やった!ヤツデさんとビャクブさんはやっぱりすごいのね。カラタチさんは死体の発見された場所にいたんだね?」チコリーはカラタチに対し質問を投げかけた。
「ええ。そのとおりです。あちらのシロガラシさんは間違いなく死体が発見された時に三階からエレベーターに乗って来ましたな」カラタチは穏やかに答えるとパスタを口にした。
「それでね。ぼくはこれから他にも警察に用があるから、そのことはしっかりと伝えておくよ。チコリーはもう安心してね」ヤツデはいつものとおりのやさしい言葉つきで言った。
事件を捜査している警察官はシロガラシが事件に関与していないことについてとっくに気づいているかもしれないが、ヤツデとビャクブはあまりチコリーを失望させないためにそのことを黙っておくことにした。ヤツデはそれについてもカラタチには話をつけてある。
チコリーはシロガラシの容疑についての話が早々に解決するとシロガラシとミツバのいるテーブルへ戻って行った。カラタチが怖いから、チコリーは逃げた訳では決してない。
それではなぜなのかと言うと、たまには祖父のシロガラシと祖母のミツバの面倒も見てあげないといけないという達観した理由からチコリーは自分のテーブルに戻って行ったのである。
ヤツデとビャクブとカラタチは取り留めのない話をしながら食事を存分に楽しんだ。ヤツデはその際にトルティーヤを初めて食べた。トルティーヤとはすり潰したトウモロコシから作る薄焼きパンのことである。トルティーヤにはオムレツという意味もあるが、実はタコスにも使われる。
大柄なカラタチは鯨飲馬食をするのかなとヤツデは思ったが、そんなことはなかった。小食ではなかったものの、ヤツデとビャクブと同じくらいしか、カラタチは食事をしなかった。ただし、カラタチはグラタンが気に入ったので、グラタンだけは山ほど食べていた。
ヤツデは夕食を終えカラタチと別れ部屋に戻ったあとビャクブには部屋で待っていてもらい用事をすませた。ヤツデとビャクブの二人はヤツデが返ってくると時を移さずしてお祭に行きホテルの外から見られる打上げ花火を見るべくホテルの中をてくてくと歩いていた。
外はひっそりと静かである。日はすでにとっぷりと暮れている。この季節には夏の大三角形を見ることができる。夏の大三角形はベガとアルタイルとデネブから構成されている。
ベガとアルタイルは中でも七夕の伝説における織姫と彦星のことを指している。これは割と重要なことだが、この天地という惑星と地球で見られる星は全く同じである。
ヤツデは道すがらビャクブに対し結果の報告をしていた。ヤツデはここに来る前に遠出し警察官と話をさせてもらっていた。ビャクブは難しい顔をしたまま両手を上に向けた。
「全く以ってお手上げだ。ただでさえ、クローブさんは撲殺されナイフで刺されていたって言うのに、その上毒殺まで企てられていたなんてちんぷんかんぷんなことはこの上ないよ」ビャクブは言った。ヤツデが殺害現場ではないかと推理した2604号室で発見したものは黒く滲んだ染みだった。ヤツデはそれを発見したあと一つの野暮用をすませ『お助けカード』というものを使いホテルにいる警察に対し黒い染みの正体を突き止めてくれるよう頼み込んでいだ。
ようやくここで『お詫びカード』の説明の際に後回しにしておいた説明が必要となる。一度は話に合ったとおり『お詫びカード』は『お助けカード』と表裏一体である。
なにか、トイワホー国において困っていて他の人の助けが必要な時は『お助けカード』を差し出すと渡された人は基本的に渡した人の要求を叶えてあげなければならない。
とはいうものの、法外な要求だったり、自分にとって嫌な要求だったりした場合は拒否してもいい。その後は渡されたカードを自分のカードとし、その一年間は自由に誰かに対して利用してもいい。その場合『親切スタンプ』は適用外である。今回の場合は黒い染みの正体がどうしてもどうしても知りたいので、ヤツデは警察に対して助けを求めたという訳である。些か、強引な嫌いは避けられないし、警察は多忙でもあったが、警察も公務員である以上は拒否できなかった。というよりも、トイワホー国ではやさしい人ばかり見受けられるので、大抵の場合はそういう結果になる。ヤツデはそれを計算していた。
用事は染みの正体の件とシロガラシの嫌疑の件について二つもあったので、先程のヤツデは警察署に赴いた。染みの正体はシアン化・カリウム(青酸カリ)入りのコーヒーだったということが判明した。青酸カリとは即効性を有する毒物である。ビャクブはなおも歩きながら愚痴を零している。
「おれはさっぱりわからないし、事件はまるでごちゃごちゃだよ。被害者のクローブさんっていう人は幾度となく殺されたら、気がすむんだろう? 撲殺と刺殺と毒殺だろう? これじゃあ、事件は三重殺だ。昨日のシロガラシさんが見ていた野球の試合じゃないけど、まさしくトリプル・プレーじゃないか」
ビャクブは相も変わらず混沌としている。ヤツデは口を挟まずビャクブの不謹慎な冗談を聞き流した。ビャクブは一人で話を続行させている。
「三人の人間が同じ時間に同じ人間を違う凶器で殺害しようと企てたっていうのかい? そんなバカなことがあり得るのかい? どう考えてみてもおれはやっぱりこんがらがってきちゃったよ。大体だよ。ヤツデは謎解きの手掛かりを探しに行ったのに、謎がどうして増えているんだい?」
ヤツデはまだビャクブの小言を涼しい顔で辛抱強く聞いている。しかし、ビャクブのことを無視している訳ではない。ヤツデはロビーを抜けて外に出たところでやっと口を開いた。
「ビャクブの意見はけっこう的を射ているのかもしれないね。でも、ぼくは確かに謎を増やしてはいるけど、新たな謎は手掛かりでもあるっていう両面性を兼ね揃えている場合もあるんだよ。例えば、ちょっと飛躍しすぎているかもしれないけど一つ目はまだあの部屋では見つかっていない殺人が行われていたっていう可能性が考えられるよね? もし、そんな事件が本当にあったのなら、同一犯の仕業でない限り、ぼくの発見した毒物の染みとすでに明らかになっている今回の事件とはなんの関係もないことになっちゃうから、ぼくにはそうは思えないけどね。二つ目は警察がなんらかの理由で公表していないだけで実はクローブさんの体内からは毒が検出されているのかもしれないっていう可能性もあるよね?」ヤツデは確認した。ヤツデはずっとそういったことを考えていた。
ビャクブは一理あるなと納得した。ただし、事件の構図はヤツデにしたって全くわからないので、偉そうなことは言えない。ヤツデは言い過ぎたかなと反省した。
事件の構図はわからないが、いくつか、ヤツデにはクローブ殺害事件について心に引っかかっていることはある。とはいえ、あくまでも素人の考えなので、ヤツデはそれが本当に事件の解決の糸口になるのかどうか、今のところは自信も確信も持ってはいない。
例を上げると、ビャクブの言うところの三重殺に関してはどうしてそうなったのか、ヤツデには朧気ながら考えを持ちあわせている。それについての可能性はヤツデも捨てきれないと思っている。
その後は事件についての話を打ち切ると、ヤツデとビャクブの二人は雑談を交わしながらお祭の開かれている場所までやって来た。そこでは実に多くの屋台が並んでいた。
食べ物で言うと、アメリカン・ドッグとか、フランク・フルトとか、チョコ・バナナとか、焼きトウモロコシとか、たこ焼きとか、焼きそばといった屋台が見受けられた。ビャクブはいいにおいに誘われうれしそうである。他にはお面が売っていたり金魚すくいがあったりスーパー・ボールすくいといったものがあった。性格が子供っぽいヤツデはそういったものに対し目をキラキラさせている。
ヤツデとビャクブの二人はいくつかの食べ物を買って食べた。カラタチには少し心配そうな顔をされてしまっていたが、ヤツデとビャクブは夕食を腹八分にしていた。
「ジャガ・バタはホクホクしていておいしいね」ヤツデは自身もほくほく顔で言った。ヤツデはどんな料理に使われているものであってもジャガイモというものが大好きである。
「ビャクブのイチゴ・シロップのかき氷はどうかな? おいしい?」ヤツデは一口のジャガ・バタを頬張ったあと自分の隣でビャクブが食べているものを一瞥し軽い口調で聞いた。
「ああ。ここのかき氷は中々おいしいよ。それにしても、ここはけっこう人が多いな」ビャクブは人混みを見回しながら辟易した様子である。ビャクブはあまり雑踏が好きではない。それはヤツデとて同様である。ただし、ビャクブはヤツデほどの拒否反応は起こさないので、最前のセリフはあくまでも世間話のつもりで言ったのである。ヤツデはそれに対し我が意を得たりという感じで納得した。
「うん。そうだね。人いきれはあんまりいいものではないね。180度くらい話は変わるけど、釣り人の仕掛けとか、糸とか、そういったものが絡まることをなんて言うか、ビャクブは知っている?」
「ええと」ビャクブは適当に思いつきを口にした。「ダブル・ラインかい?」ビャクブはそうしながらも一生懸命にかき氷を食べ続けている。ヤツデは好事家だから、時々突拍子もないことを言うが、ビャクブは言ってしまってからなんとなく違うような気がした。結果は案の定だった。
ヤツデはそれに対しやんわりと否定の言葉を述べた。
「ダブル・ラインは格好は中々いい名前だけど、正解は違うよ。お祭って言うんだよ」
「へえ」ビャクブは感心している。「そうなのか。今はお祭りにやって来ているからな。それにしても、ヤツデはやっぱり相も変わらず頭がいいな。おれはそんなこと全く知らなかったよ」
「ううん。頭はよくないよ。ただ、ぼくは本を読むことが好きなだけだよ。それよりも、ぼくたちはなにかのゲームをやらない?」ヤツデはすぐに頭を切り替えビャクブに対して提案した。
「それはいいけど、おれたちは何をやろうか?」ビャクブはそう言うと周りを見回した。
「ぼくはヨーヨー釣りがやりたい」ヤツデは子供のように無邪気な声で言った。
「よし」ビャクブは勢い込んだ。「そうしよう」
こういう場でよくある射的や輪投げといったものが得意なので、ビャクブは当然のことながら子供の頃からヨーヨー釣りも上手である。ヤツデは結果的にヨーヨーを釣れなかったが、ビャクブは昔取った杵柄を利用し大げさに言うと曲芸を披露した。それでも一つはヤツデもヨーヨーを貰うことができた。
ヤツデとビャクブは最後にわたあめを買うとお祭をあとにした。ヤツデとビャクブは星月夜の下でとても満足することができた。本当はヤツデもお祭りという賑やかな行事があまり好きではないのだが、今宵はビャクブが一緒にいてくれるので、ヤツデは存分にお祭りを楽しむことができた。
ヤツデとビャクブは続いて花火を見るため夜道を歩いて行った。ヤツデとビャクブの二人は間もなく花火の音も花火自体も見える位置にまで達することができた。
少なからず、ヤツデとビャクブの二人の他にも花火を立ち見していたり、ベンチに座って見ていたり、小型のおもちゃ花火で遊んでいたりする家族連れの人たちがいた。ヤツデとビャクブのこれまでに話していた雑談は自然とお仕舞いとなった。「バン! バン! バン!」と花火は続け様に打ち上げられている。
花火は火薬を球状に飛散する典型的な割物や火薬が飛散しないポカ物・土星の輪のように火薬が飛散する型物といったものが打ち上げられている。そのような知識はさすがのヤツデにもないので、今は何も考えずに久しぶりに見た花火に魅せられている。それはビャクブも同様である。
ただし、ビャクブは風流を解する方ではない。花火は見ていて綺麗だから、それ以上の感想は別にいらないだろうとビャクブは思っている。
ヤツデとビャクブの二人の傍には花壇があるのだが、そこのニチニチソウの花は花火の明滅に伴い赤・赤紫・白・ピンクと暗がりの中で色取り取りにその存在を誇示している。
花火に見惚れていると、ヤツデとビャクブの二人は気づかなかったが、実は二人の元には近づいてくる女性が一人いた。その女性とはバニラの女友達の一人であるスミレである。
「こんばんは」浴衣姿のスミレはお辞儀しながらヤツデに対して話しかけた。
「こんばんは」ヤツデは応じた。「綺麗な花火ですね? スミレさん」ヤツデは同意を求めた。
「ええ」スミレは頷いた。「花火は本当に綺麗ですね。そちらの方はヤツデさんのお友達かしら?」
「はい。そうです。ぼくの友人のビャクブです。こちらはバニラさんの女友達のスミレさんだよ」ヤツデはビャクブに対してもスミレを紹介した。ビャクブはスミレを見て好人物という印象を受けた。
「はじめまして」ビャクブはスミレに対し初対面の挨拶をした。
「はじめまして」スミレは応じた。「お二人はお祭も楽しんだみたいですね?」スミレはヤツデとビャクブの二人が持つヨーヨーを見て言った。なんだか、スミレはそれを見ると心が和んだ。ヤツデとビャクブは荒っぽいこととは無縁なので、スミレは半袖の少年を思い浮かべた。
「はい」ヤツデは肯定した。「お祭りは楽しかったです。スミレさんはお祭に行かれましたか?」
「ええ。お祭りには私も行きました。私はリンゴ飴が好きなので、お祭りではリンゴ飴を食べられて個人的にはよかったです」スミレは言った。それを聞くと、ヤツデはやさしく微笑んだ。
「そうでしたか。それはよかったですね。あれ? そう言えば、スミレさんはバニラさんとシランさんとはご一緒ではないんですか?」ヤツデは再び聞いた。ビャクブはシランと聞いてまだバニラにはこのホテルに来ている友達がいるのだなと思った。スミレは「ええ」と少し困ったような顔をした。
「バニラは『花火を見る気分じゃない』って言って部屋に帰ってしまったんです。シランは今まで一緒だったのですが、今はちょうど化粧室に行ってしまっているんです」スミレは言った。
「そうなんですか。シランさんっていう人はやっぱりバニラさんとスミレさんの友達かい?」ビャクブは一応の質問をした。ビャクブは後々齟齬が生じないため確認の作業をした。
「うん。そうだよ。ぼくと同じでシランさんはポンメルン県に住んでいるそうだよ。それにしても、バニラさんは花火を見たい気分じゃないだなんてどうかされたのですか?」ヤツデは聞いた。
「実はわからないんです。思い当たることはあるのですけど、詳しくは話してくれないんです。バニラは部屋に置かれていた手紙を見てからずっと元気がなくなっちゃったみたいなんです」スミレは切実な想いを言葉に乗せ訴えた。ヤツデはそれを敏感に察知した。
「手紙を見てからですか? 立ち入ったことをお聞きしますが、それはいつ頃の話ですか?」ヤツデは聞いた。ヤツデはバニラの悩みにすっかり感じ行ってしまい興味を持っている。
「ええと」スミレは返答した。「昨日の夕食を終えてからだったと思います」
ヤツデは違和感を覚えた。ヤツデはそれに思い当たると少し意外そうに言った。
「昨日ですか? だとすると、少しばかり妙なお話ですね。今日の朝にお会いした時のバニラさんはなんともなさそうではありませんでしたか?」ヤツデは鋭い指摘を入れた。スミレは頷いた。
「ええ。そうなんです。バニラはできるだけ人前で気丈に振舞おうとしているみたいなんです。私にはそれが強がりだってことがわかるので、それはそれで私には逆に心配なんです」スミレは弱音を吐いた。
「それは確かに心配ですね」ヤツデは首肯した。隣のビャクブは同じく心配そうな顔をしている。
こういう時はどうすればいいだろうかと広大無辺な心の持ち主のヤツデは考え始めた。ヤツデは『愛の伝道師』なので、ベストな対応の仕方については知識がない訳ではない。
「私には内容を教えてくれないのですけど、バニラは『お悩みアドバイス』も利用しているみたいなんです」スミレは打ち明けた。ヤツデはやさしそうだから、スミレは全く警戒していない。
「そうなんですか。それはますます心配ですね。なにやら、事態は只事じゃない気配だ」ビャクブは同調した。年齢こそ、まだまだとはいえ、ビャクブにはちゃんと他人の痛みがわかる。
思いやりがあるという点ではヤツデも一緒である。だから『お悩みアドバイス』によってバニラは悩みが解消すればいいのだがと思って何で悩んでいるのかさえもわからないにも関わらず、ヤツデはバニラの気持ちになりなぜか一緒に難しい顔で考え込んでしまっている。
『お悩みアドバイス』とは一年に一回だけ使える手紙での人生相談のことである。『お悩みアドバイス』は今の自分が悩んでいることについて手紙に書くと『愛の伝道師』から助言がもらえるという政策のことである。その時は中々相談をする勇気がない人に対しても徹底的な対処がなされている。相談用の便箋には一緒に次のような文言が記載された手紙が一緒につけられている。
あなたの意見は最大限に尊重します。あなたのことは決して傷つけません。もし、返答の手紙によってあなたを落ち込ませてしまったり、あなたの考えを否定してしまったりする『愛の伝道師』がいるようなら、その職員は即刻に退職させます。あなたの相談についてはそのくらい真剣に問題の解決を計ります。相談の答えは最低でも5人の『愛の伝道師』が目を通し一人でも納得できなければ、部分的か、あるいはその全てを書き直します。私達『愛の伝道師』は皆の幸せを願っています。
今のところはこの制度により馘首された『愛の伝道師』はいない。『愛の伝道師』は皆やさしいので、そのやさしさは相談者にも伝わっている。
ヤツデは相談の答えの手紙を書いたことはないが、他の人の書いた手紙に目を通したことはある。その時のヤツデは珍しく忌憚のない意見を具申させてもらった。
ヤツデは何分にも謙虚すぎるところもあるとはいえ、この問題に関しては記述者の命運と相談者の人生がかかっているので、その時は真面目に考えた末の答えを言わせてもらった。
「実はヤツデも『愛の伝道師』の内の一人なんですよ」ビャクブはスミレに対して教えた。
ビャクブは最も手近な解決の方法を生み出した。これはヤツデに対する信頼感があるからこその提案だし、ヤツデは嫌な顔をしたりはしていない。
「え?」スミレは聞き返した。「そうなんですか?」スミレは虚を突かれた様子である。
「はい」ヤツデはやさしく言った。「ぼくは頼りないから、そうは見えないかもしれませんが、実はそうなんです。ぼくも一応は対策を考えてみますが、何分にも情報が少ないので、もし、また、なにかあるようでしたら、ぼくでよかったら、是非ともご相談なさって下さい。ぼくは喜んでお話を伺います」
ビャクブは話が丸く収まりそうで満足そうにしている。スミレは応じた。
「はい」スミレは言った。「わかりました。ありがとうございます。お二人は本当にやさしいんですね」
「いや」ビャクブは慌てて否定した。「そんなことはありませんよ」
内心は満更でもなかったが、ビャクブは言ってしまってからこれは自分のセリフだったのだろうかと少し後悔した。ビャクブはいつでも公平無私に物事を見つめられる。
スミレは悩み事を相談できるほど自分はヤツデとビャクブとは親しくないということに気づくと喋り過ぎてしまったことについて何度も謝った。スミレは誠実である。
とはいえ、ヤツデとビャクブはそんなことは気にしなかった。悩み事はむしろ皆で解決しようというのがヤツデの方針である。それはビャクブも同じである。
スミレはシランのところへ行くと言い笑顔でヤツデとビャクブの元を去って行った。しかしながら、スミレのシルエットはなんとなくヤツデには寂しげに見えた。
ヤツデは花火が終わり1201号室の部屋に入る時にビャクブを先に部屋に通すと向かいの部屋から撫で肩の女性が慌ただしく何事かを言って出てくるのを目の当たりにした。
ヤツデには「ちゃんと待っていてよ」と言っていたように聞こえたが、ヤツデは童顔の彼女がすたこらと立ち去ってから彼女をどこかで見たことがあるような気がしてならなかった。
しかし、彼女が誰であるのか、ヤツデはもう少しのところで思い出せなかった。思い出せないものはしょうがないとヤツデは諦め部屋へ入って行った。しかし、ヤツデは高率で寝る前に気になってしまうことは疑いない。ヤツデの性格はしょうもないことでも深く考えこんでしまうのが玉に瑕である。
ヤツデは窓際にあるテーブルにハムスターのぬいぐるみを乗っけて自らも傍のイスに腰かけた。ヤツデはそのぬいぐるみをハム次郎と命名してかわいがっている。ヤツデは話を切り出した。
「ぼくはさっき警察の人に黒い染みの正体がなにかを聞いたときに自分で言うのもなんだけど、お手柄のついでにこのホテルで起きた事件の情報をほんの少しだけ教えてもらったんだよ」
「へえ」ビャクブは驚いた。「そうだったのか。少しはおれも興味があるな。それで? その情報とはなんだい?」ビャクブは自分のベッドに腰を下ろしながらテレビのスイッチを入れる手を止めとてもおもしろそうにしている。ただし、ビャクブは殺人事件を軽視しているのではなくヤツデの無駄な行動力を愉快に思っているだけである。とはいえ、ビャクブはヤツデをバカにしている訳ではない。
「まずは毒物が発見された部屋の最後の滞在客についてだよ。滞在客の名前は偽名が使われていたし、住所は架空のものが書かれていたということだよ。それ以前の滞在客か、もしくは全くの第三者が部屋に毒物を持ち込んだ可能性は捨てられないけど、なんだか、偽名が使われていたということは怪しいよね。それから、もう一つは死体発見時刻についてだよ。驚いたことに死体が発見されたのはシロガラシさんがエレベーターに乗っていた時が初めてじゃなかったんだよ。何人かの人は死体だと気づかなかっただけでクローブさんの遺体を発見していたんだよ。最初に発見されたのはおおよそ7時35分頃ごろなんだそうだよ。それでね。エレベーターにはシロガラシさんとカラタチさんが乗り合わせ初めて死体が認識されたのはおおよそ7時40分ごろなんだって」ヤツデは流暢な口調で言った。ヤツデはこれを空で覚えている訳ではない。ヤツデはご丁寧なことにもちゃんとメモ書きを見て喋っている。警察官から話を聞いたら、ヤツデは自分も警察官みたいにすぐにメモを取っておいたのである。
「そうなのか。ヤツデは犯行時刻から死体の運搬まではどのくらいの時間が空いていたと思う?もしもだよ。エレベーターが犯行現場ではなかったとしたら、犯人はそもそもなんで死体を動かしたりしたんだろう?」ビャクブは聞いた。死体を移動した理由は前からビャクブが気になっていたことである。
「犯行時刻から死体の運搬までの時間はそれほど間が空いていたとは思えないね。ただし、犯人が現時点でわかっている状況以上のカムフラージュを施しているとしたら、時間はそれなりに置いていた可能性もなきにしもあらずだね。死体がどうして運搬されたのかについては今のところぼくには全くわからないよ」ヤツデは私見を述べた。ヤツデはここまで理路整然と事件についての状況を鑑みている。
「三重殺についてはヤツデにも意見はあるのかい?」ビャクブは聞いた。「少しはおれも考えてみたんだけど、例えば、クローブさんには毒を飲ませまだ息があるかもしれなから、犯人は念のためクローブさんにナイフを刺したって言うのなら、少し間抜けな話だけど、全く考えられないことではないだろう? だけど、犯人はその上さらにクローブさんを殴りつけているっていうのは問題だよな?」
ビャクブは迷宮に入り込んでしまっている。
「それは確かにそうだね。仮に順番を入れ替えてクローブさんをナイフで刺したり、殴ったりしたあと毒薬を飲ませたというのなら、それはそれでますます意味が不明だものね。ただ、ぼくは思うんだけど、それは犯人でさえも予期していなかったことなんじゃないかな? だから、これは相当突飛だけど、例えば、まずは一人目の犯人が毒を飲ませビャクブの言ったとおり念のため撲殺し、二人目の犯人はクローブさんが眠っているのかと思いナイフで刺したとかいったようにしてね」ヤツデは少し奇妙なことを言った。しかし、ビャクブはヤツデの穿ったこの意見に対し賛辞した。
「なるほど」ビャクブは納得した。「それは盲点だったな。可能性は確かに低いけど、犯人が絶対に二人いるっていうことはあり得ないとは言い切れないものな。まあ、難しい話はこれくらいにしておれたちはそろそろ就寝の準備をしないかい?」ビャクブは難しい話で疲れてしまった。
「そうだね」ヤツデは最後にきっぱりと言った。「この話は日を改めてまた色々と考えてみようか」
ビャクブは別に考えなくてもいいのではないだろうかと思ったが、それは口には出さなかった。ヤツデが真剣に取り組んでいるのだから、ビャクブは茶々を入れることはできない。
なにより、ビャクブは自身も少し事件について考えを巡らせてみてもいいかなと思った。とはいえ、ビャクブは自分が事件を解決しようとは思ってはいない。
ヤツデとビャクブの二人はこうして寝間着に着替えアメニティ・グッズの歯ブラシで歯磨きしたあと安らかに床に就いた。ヤツデはその際にビャクブとハム次郎に対し「おやすみ」を言うのを忘れなかった。ビャクブはともかくとしてもヤツデはハム次郎を生きているペットのように思っている。ヤツデはそれほどハム次郎を気に入っている。
実のところ、ビャクブの寝付きは悪かった。ビャクブはいつものことながら中々この夜も寝付けなかった。それは外泊先の枕で眠りに就こうとしていることも少なからず影響しているのかもしれない。ビャクブは実を言うと昨夜も中々眠りに就くことができなかった。ビャクブはまじりまじりとしヘッドホン・ステレオのオーディオ機器で聞いていた音楽を止め耳からイヤホンを外した。ビャクブはベッドから抜け出してトイレに行ってみることにした。
ビャクブはとても手持ち無沙汰だからである。しかし、ビャクブは再び布団に戻ってみたが、睡魔は襲ってこなかった。ヤツデはもう眠ってしまっている。
ビャクブは気を紛らわせるため眠っているヤツデを起こさないようにして外に出て少しブラブラしてみることにした。その際は一目でパジャマとわかる服装ではなかったので、ビャクブには着替える必要はなかった。もっとも、夜の12時にホテル内をうろついている人間は少ないかもしれない。
ビャクブはなんの気なしに三階に上がってみることにした。ビャクブは大きな窓から外を覗いてみた。クリーブランド・ホテルは田舎ではなく都会にあるので、クリーブランド・ホテルからは建築物から漏れ出るサーチ・ライトや広告照明が少し望めた。クリーブランド・ホテルは高台にあるので、夜景は三階でもよく見える。ビャクブはそんな夜景をぼんやりと眺めていた。
光害とは主に水銀灯によって夜空が明るくなり目が疲れやすくなったり星が見づらくなったりしてしまう公害のことである。このあたりは幸いにも多少は光が抑えられているので、光害の心配はいらなかった。目はいいので、ビャクブは何個かの星も見つけることができた。突然「きゃっ!」という女性の悲鳴が聞こえて来た。悲鳴はビャクブの右にある部屋のあたりから聞こえた。
「ん?」ビャクブは独り言を呟き悲鳴のした方向へ歩いて行った。「なんだろう?」
前の方からゆっくりと一人の男性がビャクブのいる方へ歩いてきた。その彼なら、さっきの悲鳴についてなにかを知っているのかもしれないとビャクブは思った。
「すみません」ビャクブは男の来た方角を指差した。「あちらの方ではなにかありませんでしたか?」
「いや」男性は不審そうにしながら平然と答えた。「特に何もありませんでしたよ」
「そうですか」ビャクブは不審に思いながらも頷いた。ビャクブは念のため自分の目で確認してみることにした。これは先程の男性を信じていないのではなく単なる暇つぶしである。
ビャクブは悲鳴の聞こえた場所まで来てみたが、特に異常は見られず、ホテルの廊下はひっそりとしていた。ビャクブは振り返ってみたが、先程の男性の姿はもう見られなかった。
悲鳴が聞こえたのにも関わらず、その場にいた者は何もなかったと言い現場に行っても異常はないなんて何がなんだか、よくわからず、これは巧妙な悪戯なのかなとビャクブは考えた。
冷静に考えると誰もそんな意味のない悪戯をするとは思えないが、ビャクブはヤツデほど物事を深く考えない性質である。ビャクブはこの問題を考えることを止めてしまった。
ビャクブはその後もしばらくホテルの中を歩き回った。ビャクブは段々うつらうつらしてきたので、部屋に戻ると、今度はビャクブも次の日までぐっすりと眠ることができた。
明くる日の朝である。ヤツデとビャクブはモーニング・コールでほぼ同時に目を覚ました。夜はビャクブが眠れないが、朝はヤツデが眠れないので、ヤツデはすぐに起き上った。
ビャクブは目を覚ましているが、しばらくは布団から出てこなかった。昨夜は就寝時刻が遅かったので、ビャクブはやはりまだ少し眠い。これはいつものとおりである。
ヤツデとビャクブは就寝については少しの疑いもなく正反対の性質を持っていることになる。もっとも、朝はヤツデにしてもいつもあまり元気はない。
「おはよう」ヤツデは朝の挨拶をした。「昨夜はよく眠れた?」ヤツデは寝ぼけ眼をこすりながらビャクブに対して聞いた。ヤツデはそうしながらもハム次郎のことを抱き寄せている。
「うーん」ビャクブは応じた。「眠りに着くまで時間はかかったけど、一度でも眠ったら、ぐっすりと眠れた方だと思うよ」ビャクブの方はあくびを噛み殺している感は否めない。
「そっか。それはよかったね。ぼくたちは今日も元気でいたいものね」ヤツデは満足そうにしている。
ヤツデとビャクブは着替えを始めることにした。ヤツデは早速にVネックのTシャツに袖を通している。一方のビャクブは紺のポロ・シャツを着用している。
「そうだ。昨日の夜はヤツデが眠ったあと寝付けなかったから、おれは外を少しブラブラと歩いてみたんだけど、その時に少し妙なことがあったんだよ」ビャクブは思い出したことを口にした。
「ふーん」ヤツデは興味を持った。「そうなんだ。それで? 妙なことっていうのはどんなことなの?」
「この一号館の三階に上がってみたら、女の人の悲鳴が聞こえたんだよ。突然」ビャクブは言った。
「何があったんだろう? 一体」ヤツデは興味深そうに相槌を打った。
「うんうん」ビャクブは我が意を得たりといった感じである。「ヤツデもそう思うだろう? でもさ。実際に行ってみると特に異常はなかったんだよ」
「なるほどね。それは確かに妙なことだし、ぼくにとってもすこぶる興味を惹かれる事柄ではあるね。ただし、ぼくは念のため聞くけど、その悲鳴はビャクブの空耳だったってことはないのかな?」ヤツデはそう言うと着替えを終え自分のベッドでハム次郎と共に腰をかけた。ビャクブは同じく着替えを終え自分のベッドに腰かけた。ビャクブはヤツデに懐疑心を持たれても不快感は抱いていない。
「それはないと思うよ。悲鳴はあんなにもはっきりと聞こえているのに、空耳だったら、あれはもはや幻聴だよ。まさか、おれに幻聴が聞こえるようになったとは思えないよ」ビャクブは根拠のないことを言った。しかし、やさしさの権化のヤツデはそれに同調した。
「そうかもしれないね。それじゃあ、その場では本当になんにもなかったのかな? 例えば、ビャクブはなにかを見落としていたりはしていない?」ヤツデは聞いた。ビャクブは即座に「いや」と答えた。
「悲鳴がした場所では確かに何もなかったけど、全く何もなかったと言ったら、それは嘘になるな」ビャクブは正直な受け答えをした。ヤツデは的を射ていても表情は変えなかった。
「そっか。それじゃあ、なにかはやっぱりあったんだね?」ヤツデは聞いた。ヤツデは特に身を乗り出したりはしていない。それは冷静だからではなくヤツデはまだ頭が働ていないせいである。
「ああ。おれは悲鳴を聞きつけてそっちに行こうとしたら、その方向からは男の人がゆっくりと歩いて来たんだよ。だから、おれは『向こうでなにかありましか?』って言うようなことを聞いたら、その人は『何もなかったです』っていう風なことを言っていたよ」ビャクブは怪訝そうにしている。
「ふーん」ヤツデは矢継ぎ早に聞いた。「それで? その男の人はどんな人だったの?」
「確か、あの男性は中肉中背だったな。おれと大して変わらなかったから、身長は平均的だな。あと、その男の人は帽子を目深に被っていてサングラスをかけていたから、顔はよく見えなかったけど、声は男の人にしてはやや高めだったな」ビャクブは説明した。例の男性は印象的だったので、ビャクブはよく覚えている。さもなければ、ビャクブはそこまで観察力の鋭い人間ではない。
「そっか。その人はこの事件のキー・パーソンだと考えてほぼ間違いないと思うよ。この事件だなんていうとちょっと大げさかもしれないけどね。さてと、とりあえずはせっかく早起きしたんだし、ぼくたちはお風呂にでも行こうか?」ヤツデは寝巻と腹巻をバッグにしまいながら同意を求めた。
「ああ。そうだな。そうしよう」ビャクブはそう答えると大浴場に行くための準備を始めた。昨日このことは予め予定していた。ヤツデとビャクブは人並みにお風呂が好きである。
ヤツデは入浴のための準備をしながら先程のビャクブの話を再検討していた。仮に『白の推理』によって悲鳴が聞こえたということを信じるのなら、事件があったということは確実である。
その一方で謎の男性は何もなかったと言っている。ここでは『黒の推理』よりその男性の証言を疑うとヤツデの中ではある一つの仮説が生まれてきた。とはいえ、事件の全貌まではわからず、途中までしか、ヤツデも推理することはできなかったので、もし、ヒントがもうちょっと多ければ、謎の答えはわかっていたかもしれないのにとヤツデは残念に思った。
身なりを小奇麗に整えると、ヤツデはビャクブと共に部屋を出て歩を進めて行った。ビャクブの頭からはもはや昨夜に遭遇した奇妙な体験についてこの時には削除されていた。ビャクブはやはりヤツデと違い一々物事を深く考えるような性質ではない。
ヤツデとビャクブの二人は朝シャンを終えさっぱりすると朝食のためレストランへ向かった。話題はこのホテルでの殺人事件・バニラの苦悩・ビャクブの奇妙な体験だけでも盛りだくさんだが、ヤツデはそのいずれの話も持ち出さなかったし、それはビャクブも同様だった。
その理由は別に考えたくない訳ではないが、ヤツデとビャクブは減り張りの利いた性格の持ち主なのである。ヤツデはその代りビャクブに対してコオイムシについての話をした。
ヤツデは手紙によって仕事で子供からコオイムシがどんな昆虫なのかを知りたいと聞かれたことがあった。『愛の伝道師』は察しのとおり実を言うと便利屋のような仕事も請け負っている。
この制度は『不思議クエスチョン』と名づけられている。もし、わからないこと・知りたいことがあったら、トイワホー国の国民は何度でも『愛の伝道師』に対し質問してもいい。
そのため、ヤツデはコオイムシについて調べた。その結果によると、コオイムシは池沼や水田といったところに住んでおりオスが卵を背負って育てるから、コオイムシにはこの名前があるということがわかった。これは単なる雑談にすぎないが、ヤツデとビャクブは完全にオフ状態になっているという訳である。お風呂に入ったばっかりなのにも関わらず、ビャクブはその上あくびばかりしている。今のヤツデとビャクブは精神的にゆったりと寛いでいる。
ヤツデとビャクブは能天気にレストランへ到着した。スミレとシランは入口のところにおいてヤツデとビャクブのことを待ち詫びていた。スミレとシランの待ち時間はおよそ10分くらいである。となると、スミレとシランは当然のことながらヤツデとビャクブに用事があった訳である。
「よかった。ヤツデさんとビャクブさんはもう食事を終えちゃったのかと思い始めていたんですよ」スミレは安堵した様子である。それはシランも同様である。ヤツデはすまなそうにした。
「どうもすみませんでした。もし、スミレさんとシランさんがビャクブとぼくを待っていることを知っていたら、ぼくたちはお風呂に入らないで真っ直ぐレストランに来たんですけどね」
「それは別にいいのよ」シランは否定した。「私達は勝手に待っていただけなんだから」
「私達はもう朝食を終えているのですが、同席させて頂けますか?」スミレは聞いた。
「もちろんです」ビャクブは極々うれしそうである。その後のスミレは再び昨夜の振る舞いをお詫びしたが、ヤツデとビャクブは迷惑だったとは思っていないので、スミレのことは宥めることにした。
ヤツデとビャクブはここでバイキングの料理を取りに行ったので、会話は自然と尻切れトンボになってしまった。その間のスミレとシランは着席しヤツデとビャクブを待つことにした。
ヤツデは相も変わらずたくさんの料理が並んでいることに感激した。今日はこれからテニスをする予定になっているので、ヤツデはたくさんの料理を食べることにした。多少は欲張りすぎな気もしたが、ヤツデはだし巻き卵を4つ食べることにした。
食事を取り終えると、ヤツデとビャクブの二人はスミレとシランの待っているテーブルまで戻って来た。ヤツデとビャクブはできるだけ素早く食べるものを決めたので、スミレとシランはさほど待たされることはなかった。ヤツデとビャクブにしてみたら、当然の気使いである。
「バニラさんは今日もご一緒ではないんですね?」ビャクブは席につきながら聞いた。
「ええ。そうなんです。もし、相談があったら、ヤツデさんは昨日それを聞いて下さるっておっしゃってくれましたよね? 私達はそれで折り入ってヤツデさんとビャクブさんにご相談したいことがあるんです。相談っていうのはバニラのことについてなんですけど」スミレは言った。シランはヤツデが『愛の伝道師』であることをスミレから聞いている。ヤツデは合いの手を入れた。
「バニラさんについてのどんなご相談ですか? バニラさんの心境にまた変化があったのですか?」
「昨夜のお二人は最近のバニラには元気がないっていうお話を聞いて下さいましたよね?」スミレは静かに問いかけた。スミレはどう切り出していいことやら少し迷っていた。ヤツデとビャクブは無言で頷いたので、スミレは再び自信を持って話を続けることにした。
「バニラを不幸にした手紙は昨夜にもまた届いたんです。封はしてあったのですが『バニラさんへ』って書かれていたので、その手紙は例の手紙だと考えてほぼ間違いないと思います」
他人事とはいえ、ビャクブは不幸な手紙ということで酷薄な文面を想像しちょっと嫌だなと思った。これは問題を解決する糸口になるかもしれないので一方のヤツデは興味を引かれた。
「今回はバニラさんから内容を見せてもらえたのですか? もしかして」ヤツデは聞いた。
「いいえ。その手紙は昨夜にスミレが見つけてまだバニラには見せていないの」シランはさして重要でもなさそうな感じで言った。スミレは気後れした様子で「ええ」とあとを継いだ。
「本当は気が引けてどうしようかと迷ったんですけど、私がシランにヤツデさんたちのことを話して相談をしたら、とりあえず、ヤツデさんたちに話を聞いてもらおうっていうことになったんです」
「そうでしたか。ですが、スミレさんがそれを発見したというのなら、その手紙は今も持って来ているんですか?」ビャクブは聞いた。ヤツデは口をもぐもぐさせ話を聞いている。
「ええ。手紙はちゃんと持ってきているのよ」シランはそう言うと一昨日にヤツデが後ろから見たおしゃれなショルダー・バッグの中から一枚の紙を取り出しヤツデにその紙を差し出した。
スミレはバニラの手紙を勝手に見てしまったことについてまだ罪悪感を覚えているが、全てはバニラのためだと自分に言い聞かせヤツデとビャクブの対応に望みをかけている。
ヤツデとビャクブの二人は眉を顰めその手紙を見た。ビャクブは怖いことが書かれているのではないかと危惧しておりいかにもおっかなびっくりという様子である。
とはいえ、性格はビャクブよりも繊細なので、ヤツデはもっと恐る恐るといった感じである。ヤツデは文字を追った。そこには以下のような内容の文章が書かれていた。
おはようございます。私は先刻にお手紙を出させて頂いた者です。今回はお願いがあって筆を取らせて頂いた次第です。余分な前置きは省きます。7月9日の午前11時30分にクリーブランド・ホテルの二号館のロビー裏でお会いしましょう。お待ちしております。寝起きから失礼を致しました。
ヤツデとビャクブの二人は凶悪なことが書かれていなくてほっとした。手紙の内容は全く乱暴な言葉使いではないので、ビャクブは少しだけ意外に思った。
気にかかることがあったので、ヤツデはまだ手紙を手に取ったまま押し黙っていた。ヤツデはこの手紙にはバニラの悩みを解く重要な手掛かりがあるということに気づいた。
とはいえ、今の時点ではさすがにヤツデにも全ての謎を解き明かすことはできなかったが、今のところ、スミレとシランとビャクブの三人に至ってはそれに気づいてすらいない。
「なるほど」ビャクブは頷いた。「これは不可解な手紙ですね。あれ? よく考えてみると、この手紙にはどんな内容の件で話がしたいのかは書かれていませんね」
ビャクブは手紙から視線を逸らすと首を傾げた。スミレは「ええ」と首肯した。
「ですが、バニラにはもう一枚の手紙が来ているので、それを読めば、大体の察しはつくのかもしれません。バニラがあんなにも落ち込んでしまうっていうことはいい話とは思えませんよね?」スミレは真剣な顔で言った。シランは頬杖をついて手紙のことに想いを馳せている。
「筆跡からでは男とも女ともどっちとも取れますね。字はあまり上手とは言いかねますが、これはおそらくわざとでしょうね。ん? ということは本当の筆跡を見れば、バニラさんにはそれが誰だか、わかるというのかな?」ビャクブは難しい顔をして呟いた。スミレはそれに対し口を挟もうとした。しかし、遮る気は別になかったが、今まで黙って考え込んでいたヤツデはその前に口を開いた。
「一つ提案なのですが、ぼくとビャクブはバニラさんの代わりにこの手紙の差出人に会ってみるおいうのはどうでしょうか。これ以上はバニラさんを苦しめることはできませんからね。スミレさんとシランさんはそれでもよろしいですか?」ヤツデは提案した。ビャクブは少しばかり不安そうな顔をしている。
「ええ」スミレは気遣いを見せた。「ですが、バニラは気を落としているのではなく怯えているのだとしたら、どうでしょう? その相手と会うことはひょっとしたら危険なことのかもしれません。となると、私はお二人のことも心配です。とても」スミレはやはりやさしい性格をしている。スミレが心細そうにしているし、無分別でもないので、シランは一緒になって心配してくれている。
「ああ」ヤツデは気楽に言った。「そのことなら、ご心配は別にいりません。こっちには最強のビャクブがいるのですからね」ヤツデはビャクブの方を見た。
ヤツデはどうやってこの問題を克服するつもりだろうと興味を覚えていたのだが、ビャクブは唐突にそんなことを言われずっこけそうになった。ビャクブは「おいおい」と抗議した。
「ヤツデは何を言うのかと思ったら、信頼してくれているのは確かにうれしいけど、そんな絶対的な信頼感はどこから生まれてくるんだい?」ビャクブは必死になって問い正した。シランは無表情だが、スミレはビャクブのおどけたつっこみに対し微笑んでいる。
「まあ、それは冗談だとしても無理はしませんので、ご心配なさらないで下さい。格好はかなり悪いですけど、もし、危ないと思ったら、ぼくたちはすぐに逃げ出しますから」ヤツデはゆっくりとした口調で言った。ヤツデの言葉を聞くと、スミレは真顔に戻り丁寧にお辞儀をして言った。
「わかりました。私はお二人を信用させて頂きます。どうか、この件はお願い致します」
「ヤツデくんとビャクブくんはくれぐれも気をつけてね」シランは気を使った。
心持ち大雑把なところはあるが、シランもトイワホー国の国民としてちゃんとやさしさは持ち合わせている。スミレはそんなシランを見て少しだけ胸を撫で下ろした。ビャクブは意気込んだ。
「任せて下さい。バニラさんの縁の人かどうかは知りませんが、話はちゃんと聞いてきます。まあ、逃げ出さないといけなくなったら、それは無理ですけどね。いずれにしても、努力はします」
「ぼくもそれは右に同じです」ヤツデはそう言うと問題の手紙をスミレに対し返却した。
スミレとシランは何度もお礼を言いこの場をあとにした。バニラへ手紙を送った謎の人物との待ち合わせ時間と場所はビャクブがスマホにメモしておいた。ビャクブは自主的にメモしたのではなく神経質なヤツデに提案されたのだが、何分にも食べるのはヤツデの方が遅いので、ヤツデはビャクブに対しそれを頼んだ。頼りにされると、ビャクブは気が大きくなりガッツを見せたくなるという単純な性格をしているので、内心ではスミレとシランとバニラのため今から大いに張り切っている。
しかし、ヤツデはそういうタイプではない。今のヤツデはちゃんと役目を果たせるかどうかと心配なので、勢いは衰えた状態である。それでも、謎の人物との対面は自分で言い出したことなのだし、今回はビャクブという相棒もいるので、ヤツデは腹を括ることにした。ただし、ヤツデは緊張しながらもちゃんとデザートのクレープを食べることはできた。
ヤツデとビャクブの二人は朝食を終え1201号室で少し休憩を取ると予ねてから予約していたテニス・コート足を運んだ。ヤツデは依然として緊張したままである。
中学生の頃のヤツデは部活動で軟式のテニスをやっていたので、実はこの時を楽しみにしていた。もっとも、レンタルしたラケットとボールは硬式のテニスのものだった。
クリーブランド・ホテルに付属しているテニス・コートはゴムのウレタン・コートである。ヤツデとビャクブはそこで一時間ほどテニスをして楽しむことになった。
その間のビャクブはこれから行われる謎の人物との対面についてはすっかり忘れていた。特に意味はないが、神経質なヤツデはそれをついぞ忘れることはなかった。
ヤツデは学生時代に刻苦勉励をしただけありビャクブよりも少しは様になっていたが、初心者にしてはスポーツ・マンのビャクブも上手にプレーすることができた。
ビャクブはスポーツがうまいので、ヤツデはビャクブのそういうところも尊敬している。一方のヤツデはフォームが綺麗なので、ビャクブはそれを何度も褒めてくれた。
その後のヤツデとビャクブは汗を流すため再び大浴場に入ることにした。お風呂に入るのは今日だけでも二回目だが、ヤツデとビャクブは大浴場の雰囲気をすっかり気に入っている。
ヤツデは謎の人物との対面についてばかり考えているが、脱衣所においてはエノキやイチハツやカラタチといった面々ともまた会えるかなと思い少しだけ現実逃避することにした。
ヤツデは湯に浸かりながら雑学を一つ開陳した。テニス・ラケットのガットはヒツジやブタの腸からできているとヤツデはビャクブに対し話した。ビャクブは「へえ」と感心している。
「そうなのか。それは全く想像していなかったよ。世の中にはまだまだおれの知らないことが一杯あるんだな。話は変わって悪いんだけど、おれたちはそろそろサウナに入ってみないかい?」ビャクブは提案した。ビャクブはサウナというものが大好きである。
「うん」ヤツデは素直に同意した。「そうだね。そうしようか」
ビャクブは同意を得られてうれしそうである。ビャクブはヤツデと共に湯船から上がりサウナに入ることにした。ビャクブは再び口を開いた。
「ヤツデはテニスに関して他にも豆知識を知っているかい?」
サウナの中ではテレビでドラマをやっていたが、ビャクブはそれを少し見ただけで目を反らしヤツデに視線を向けた。ヤツデはビャクブの要望に応えた。テニス・ラケットのガットの張られている強さはテンションと呼ばれているとヤツデはビャクブに雑学を披歴した。
これはヤツデが一生懸命に考えた末に出した知識である。小説を読んで作品に入り込むことも好きなので、大差はあまりないが、どちらかと言うと、ヤツデは読本の中でも参考書のような本より小説の方が頻度としてはよく読むのである。ビャクブは「ふーん」と言い満足そうにしている。
「そうなのか。ヤツデと一緒にいると勉強になるから、おれとしては便利だな」
「まあ、実生活では役に立つかどうかはあんまりわからないけどね」ヤツデは謙虚に言った。
ことなかれ主義者のヤツデはあまり自分から前に出ようとはしない。とはいえ、何分にも性格が個性的なので、ヤツデは否応なしに目立ってしまうこともしばしばのことである。
ヤツデとビャクブの二人はしばらくしてサウナから出ると露天風呂へ向かった。
今はヤツデもビャクブも無言である。ヤツデはつい先程のサウナの中にいる時に謎の人物との接触についてビャクブに対し弱音を吐いてしまったので、今は畏まっている。
ビャクブはどうして無言なのかというとヤツデに対し不満があるからではなく無心でいるからである。ヤツデとビャクブが露天風呂にやって来ると偶然にも半身浴をしている大男と出会った。
大男とはカラタチのことである。カラタチは古木のようにクリーブランド・ホテルの露天風呂においてもでんと構えていた。もっとも、カラタチはヤツデと同じくことなかれ主義を掲げているので、話してみると、態度は謙虚だし、物腰は柔らかい。ヤツデは「こんにちは」と挨拶した。
「湯加減はどうですか?」ヤツデはカラタチに対し穏やかに聞いた。カラタチはヤツデに話しかけられヤツデとビャクブの存在に気づいた。カラタチは明るい口調で「やあ」と言った。
「中々いい湯加減ですよ」頭にタオルを乗っけているカラタチは気持ちよさそうにしている。カラタチはヤツデとビャクブと会えてうれしいので、現在はニコニコしている。
「今日のぼくたちは二度目のお風呂なんですけど、カラタチさんは本当にお風呂がお好きなんですね。カラタチさんは昨日ぼくと初めてお会いした時もお風呂に入ったあとだっておっしゃっていましたものね?」ヤツデは聞いた。ビャクブは先にお湯につかったので、ヤツデはそれに続いた。
「ええ」カラタチは朗らかな口調で言った。「私はお風呂が大好きなんです。お風呂に関しては目がないんですよ。野天風呂は特にいいところだらけです。まずは景色を見ながら入浴できます。外はとても清々しいですし、開放感を味わえて気持もいいです。野天風呂は浴室内に熱がこもるようなことがなくのぼせにくくもあります。お風呂から上がったあとに飲むソフト・ドリンクは得も言われぬほど最高ですな」
お風呂はマニアと言ってもいい程に好きなので、カラタチは露天風呂でなくてものぼせることはなく熱湯に対し耐性ができている。ヤツデは「そうですね」と応じた。
「カラタチさんのおっしゃるとおりです。ここのお湯は温泉らしいから、尚さら気持ちいいですね」ヤツデは頷いた。カラタチはうれしそうに首肯してから思い出したように言った。
「そうでした。ヤツデくんとビャクブくんとここでお会いできたのは運がいいですな。実はちょうど部屋の番号をヤツデくんから教えてもらっていたので、お風呂から上がったら、私はお二人に会いに行こうと思っていたところなのです。これはお風呂に入っていたご利益ですかな? これは冗談ですが」
「わかりませんよ。神様はお風呂にもいるのかもしれません。それで? どんなご用ですか?」ビャクブは聞いた。カラタチが厄介事を持ち込んで来るとは思えないので、ヤツデは興味津々である。
「このホテルでは今日の午後5時からちょっとした音楽会が開かれるので、よかったら、お二人とご一緒できないかなと思ったのです。ヤツデくんは特にオカリナの演奏が上手なので、興味がおありではありませんかな?」カラタチは提案した。カラタチはそう言いながらもじっくりとあたりの景色を眺めている。
「はい」ヤツデは心の底からうれしそうである。「興味はあります。ぼくたちはカラタチさんと是非ともご一緒させて下さい」ヤツデはぺこりと頭を垂れた。
カラタチの包容力はヤツデの父に似ているので、ヤツデはカラタチのことを気に入っている。カラタチは体が大きいだけではなく度量も大きい。ビャクブは「ああ」と同意した。
「そうさせてもらおうか。今から楽しみだな」ビャクブはワクワクしている。カラタチは言った。
「それでは決まりですな。音楽会が開かれる場所は二号館の三階ですから、我々はまた5時前にでも改めてお会いしましょう。時間があれば、私はお二人のことを迎えに行かせてもらいます」
「わかりました」ヤツデは感謝した。「お気使いありがとうございます」
「話は変わりますが、カラタチさんはどんなお仕事をされているのですか? プロレスラーですか? ボディー・ガードですか?」ビャクブは予想を交え聞いた。
「ははは」カラタチは笑顔になった。「ビャクブくんからはそう見えますかな?」カラタチは訊ねた。カラタチは愉快そうにしている。ただし、ヤツデは真剣な顔で「ねえ」と言った。
「ビャクブはもしかしてカラタチさんの体格を見てものを言っていない? 人を見かけで判断したらいけないんだよ。まあ、このケースは悪い意味でないから、別にいいんだけどね。それで? 本当は何をされているのですか?」ヤツデはカラタチの方を見た。
「私はプロレスラーです」カラタチは無表情で言った。それを聞くと、ビャクブは自分で言っておきながら驚いた。ヤツデは同じく予想外の答えにびっくりして思わず聞き返してしまった。
「え? そうなんですか? まあ、カラタチさんは確かにすごいプレーヤーかもしれませんけど」
「いや」カラタチは言った。「すみません。冗談です。私は地方公務員をしています」
「そうでしたか。カラタチさんは警察官ですか? よしんば、カラタチさんが警察官なら、大柄で強そうだから、こそ泥や痴漢は慌てて逃げ出しそうですよね?」ヤツデはリズミカルな口調で言った。
「おいおい」ビャクブは突っ込みを入れた。「ヤツデも見かけで判断しているじゃないか」
「あれ? わかりづらかったかな? ぼくはカラタチさんみたいに冗談を言ったんだよ。ぼくは勝手なことを申し上げてしまいごめんなさい」ヤツデは謝った。ヤツデは確かに見かけで判断したのではなく自分の父も警察官なので、実はカラタチもそうなのではないかと短絡的に考えていた。
「いいえ」カラタチは大らかな口調で言った。「別に構いませんよ。冗談は私も大好きです。それでは一つ私の知っているお話をしましょうか。あるところには人体浮遊のできるという男性がいました。彼は確かに紐で吊られている訳でもなく足も一メートルは地面から離れています。そういう訳ですから、その彼に対しては取材が殺到しました。果てはテレビの出演までも果たしてしまいました。しかし、彼の言うことは支離滅裂です。それもそのはずです。彼は痴呆症だったのです。ですから、彼は自分が亡霊だということを忘れていたのですな」カラタチは意外と話術に長けている。
「それはおもしろいお話ですね。おれも一つくらいはそういう話を持っていたいです。話を戻しますけど、本当は何をされているのですか?」ビャクブは先程のヤツデと同じ質問をした。
「私は市役所で働いています。トイワホー国の国民はやさしいですから、こんなことは言いませんが、住民票を取りに来た人はきっと私を見て似合わないなと思っているでしょうな」カラタチは笑っている。
「そんなことはありませんよ。カラタチさんは人柄も見かけも誠実そうですものね。それじゃあ、ぼくはどんな仕事をしていると思いますか?」ヤツデは聞いた。カラタチは「うーむ」と少し悩んだ。
「これは難しい問題ですな。ヤツデくんもひょっとして公務員ですかな?」
「鋭いですね。ヤツデは『愛の伝道師』なんですよ」ビャクブは教えてあげた。
「ほほう」カラタチは褒めた。「ヤツデくんはやさしい性格の持ち主ですから『愛の伝道師』はぴったりのお仕事ですな」カラタチは子煩悩とは行かないまでもヤツデとビャクブのことをかわいく思っている。カラタチはヤツデとビャクブより二つ年上である。ヤツデは律義にお礼を言った。
「ありがとうございます。とはいえ『愛の伝道師』を始めてからまだ二年目なので、お尻は青いんですけどね。そう言えば、ぼくはポンメルン県に住んでいるのですが、カラタチさんはどちらからいらっしゃっているのですか?」ヤツデは思い出したように話題を転換させた。
「私はペトロフスク県から来ています。ビャクブくんはどちらからいらっしゃっているのですかな?」
「おれはピッツバーグ県から来ています。おれの住んでいるところは中でも鋳物が名産です」ビャクブは答えた。ビャクブはケオス市のウィスカ町というところに住んでいる。
「なるほど」カラタチは愉快そうにして言った。「そうでしたか。ピッツバーグ県はこことは違いサウス大陸でしたな。私達は三人とも別々のところからやって来ているという訳ですな」
この時間の大浴場は人がまばらである。混雑はしていないので、ヤツデとビャクブとカラタチの三人は話をしていても特に他人に対し迷惑をかけるようなことにはならなかった。
話に夢中になっていると、ヤツデは茹でタコ状態の一歩手前まで来てしまったので、ビャクブとカラタチはヤツデを連れ慌ててお風呂をあとにすることにした。ヤツデはくらくらしている。
ビャクブとカラタチは心配そうにしたが、ヤツデは命からがら助かった。着替えを終えると、ヤツデとビャクブとカラタチの三人は気分よくソフト・ドリンクの味を存分に味わった。
午前11時30分が近づいてくると、ヤツデとビャクブはスミレとシランから見せてもらった手紙の指示のとおり二号館のロビー裏へ足を運んだ。待ち合わせ場所で知らない男たちがいたのでは怪しまれる可能性があるので、ヤツデはビャクブに対し一つの提案をした。
ヤツデとビャクブの二人はヤツデの提案により待ち合わせ時間よりもあえて5分ほど遅れて目的地に行くことにした。しかし、待ち合わせ場所に人の姿は認められなかった。
ヤツデとビャクブはその後も物陰に隠れ約15分ほど待ってみたが、結局はそれらしき人が姿を現すことはなかった。ビャクブは場所と時間を間違えたのではないだろうかと考えた。
しかし、そんなことはありえない。ヤツデとビャクブが揃って同じ間違いをするとは思えないし、手紙を見たら、ビャクブはすぐにスマホにメモをしたからである。
「想像してはいたけど、手紙の差出人はやっぱりバニラさん以外の人が手紙を受け取ったことについて気づいているのかもしれないね。それなら、手紙の差出人が警戒してやってこないっていうことにも頷けるものね」ヤツデは待ちぼうけをくらいながらも難しい顔をして冷静に状況を分析している。
「想像はしていたって言うけど、ヤツデはなんでそう思うんだい?」ビャクブは不思議そうである。
「それはあとで話すよ。とりあえずはスミレさんとシランさんにまた会ってみようよ。一昨日ぼくはキーを拾ったから、バニラさんたちの部屋の番号はわかっていることだしね。それじゃあ、ぼくたちは行ってみようか。早速」ヤツデはそう言うとホテルの中へ足を向けた。ビャクブは煙に巻かれたままそのあとに続いた。バニラの悩み・謎の人物といったようにただでさえも不明瞭なことばかりなのに、その上さらにバニラに手紙を送ったその主は指定の場所にやって来ない。
となると、ますます訳がわからなくなってしまったなとビャクブは呆れ返った。とはいえ、ヤツデは最後の問題についてなんらかの見識を持っているので、それだけは救いである。
しかし、ビャクブはそれを聞かなかった。なぜなら、ヤツデはどうせ話したがらないだろうと思ったからである。それは事実だった。ヤツデは歩きながらスミレとシランに会ったら、その説明はビャクブにもしてあげるつもりであると話して聞かせた。謎の答えを知りたいという気持ちは確かに際限がないが、ビャクブはそれを我慢できない程のせっかちではないので、ビャクブにも異存はなかった。
ヤツデとビャクブは1301号室まで足を運んだ。ヤツデとビャクブの二人の来訪については少し驚いたが、スミレはバニラが落としたキーをヤツデが拾っていたという事実を思い出すとすぐに合点した。スミレとシランはヤツデとビャクブを歓迎してくれた。スミレはバニラに用事があるからと言い残してシランと共に部屋を出ることにした。
何分にも今は自分のことで一杯一杯なので、バニラは特に深く追求することをしなかった。ただし、バニラはヤツデとビャクブの存在に気づくと合コンでも開くつもりなのかなと思った。
そういう方面についてはとんとダメな男であるヤツデはそんな催しに参加するはずはない。どちらかと言うと、ヤツデは緊張で苦しくなって逃げ出すタイプである。
ヤツデとビャクブとスミレとシランの4人は一号館一階のロビーに場所を移した。この場の雰囲気はバニラの予想と違いこの上なく重苦しいものである。
仮にヤツデたち一行が皆で喪服を着ていれば、ここは斎場かと見間違う程である。しかし、実際の服装について言うと、スミレは彩り豊かなタータン・チェックのスカートと半袖のブラウスを着ているし、シランは白色のカーディガンに紺色のプリーツ・スカートを履いている。
「それで?」シランはイスに腰かけながら話を切り出した。「手紙の人物と接触はできたの?」
「いいえ」ビャクブは答えた。「しばらく待ってみたんですが、結果的にそれらしき人は現れませんでした」表情には出していないが、ビャクブは内心で忸怩たる想いを秘めている。
「そうでしたか」スミレは残念そうにしている。ヤツデは唐突に口を開いた。
「昨夜のことですが、手紙を見つけた時のスミレさんはひょっとして悲鳴を上げたりはしませんでしたか?」ヤツデは重要なことをさらりと言ってのけた。ヤツデはこのことを何度も再考していたので、言葉はすらすらと出てきた。スミレは心の底から驚いたよう「ええ」と言った。
「先程は言いそびれちゃったんですけど、昨日はベッドに入るのが遅かったので、私はちょうど手紙がドアの下に置かれるところを見たんです。その時にまたバニラを悩ませている手紙が来たんだなってすぐにピンと来ました。ですから、私はどんな人が手紙を置いたのかを見てみようと思って勇気を出してすぐにドアを開けてみたんです。そうしたら、そこには帽子を被ってサングラスをかけていて見るからに怪しそうな人がそこに立っていたので、私は思わず声を出してしまったんです。ただ、その時は夜中でしたので、他の人たちの迷惑にならないようすぐに口を閉じました。その人は声をかける前に急ぎ足でどこかへ行ってしまったんです。私は怖くなってしまったので、すぐにドアを閉じてしまいました。ヤツデさんはどうして私が悲鳴を上げたかなんてことがわかったのですか?」
スミレは怪訝そうである。ビャクブはヤツデが口を挟む前に発言した。
「そうか。そうだったのか。昨夜のおれが聞いた悲鳴はスミレさんのものだったのか。今になって考えてみると、おれはどうして今まで気づかなかったんだろう? 昨日悲鳴が聞こえたあたりにあったのは確かにスミレさんたちの部屋だったんだ」ビャクブは自分の膝を叩いた。ヤツデは言った。
「スミレさんとシランさんはもうおわかりですよね? ビャクブは昨日スミレさんと同じようにあの場所にいたんです。だから、その二つの事実を結び付けて考えれば、ぼくにでもスミレさんが悲鳴を上げていたということがわかったんです」ヤツデは論理的に説明して見せた。
「ビャクブくんはその手紙を置きにきた人物には会ったの?」シランは口を挟んだ。
「はい」ビャクブは肯定した。「会いました。その人の印象は今さっきスミレさんが言ったのとほとんど変わりませんでした。となると、手紙を置きにきた人物は男だっていうことはわかりましたね?」
「もっとも」ヤツデは冷静な指摘をした。「スミレさんには最初からわかっていたんだけどね」
「ああ」ビャクブは「そうか」と納得した。スミレはそれを見てすまなそうにした。
「言おうとは思っていたんですが、うっかりしていて言い忘れていました。ごめんなさい」
「いいえ」ヤツデは微笑んだ。「別にいいんですよ。というか、ぼくはスミレさんがなにかをおっしゃろうとしている時に先に喋っちゃったんですよね。申し訳ありませんでした。事実はこれではっきりとしましたね。問題はそれでも解決した訳ではありません。なにしろ、例の手紙を送りつけた男性の正体とその目的がわかりませんからね。スミレさんとシランさんはできるだけバニラさんに気を使ってあげてどうしたのかを聞きだしてみて下さいませんか?」ヤツデはやさしい口調でお願いした。
「はい」スミレは素直に「わかりました」と頷いた。シランは同じく同意した。
「場合によっては直球勝負でバニラに吐かせてやるから、ヤツデくんは安心していなさい。私達は元々隠し事をするような間柄じゃないのよ。それにしても、ヤツデくんは本物の『愛の伝道師』みたいね」シランは言った。スミレはシランの厚顔無恥かつ生意気なものの言い方にむっとしている。一つ目の指摘はともかくとしても「ヤツデは本物の『愛の伝道師』なんですけど」とビャクブは思ったが、スミレはその前にそれを指摘してくれた。スミレはシランの非礼を詫びシランと共に去って行った。去り際にシランも一応は謝ってくれた。しかし、自分は『愛の伝道師』に向いていないのだろうかとヤツデは不安になってしまった。ヤツデはそんなことでもショックを受けるほどネガティブなのである。
しかし、物事には裏もあれば、表もあるのが世の常である。例えば、この場合は裏を見ると、ヤツデは『愛の伝道師』ではないみたいに聞こえるが、表を見てみると、本物の『愛の伝道師』として立派に適応しているということになる。ようは考え方一つで気持ちに大きく差が出るということもある。
難しいことだが、できるだけポジティブ・シンキングで生活していければ、ヤツデはもっと楽になれる。いずれはヤツデも気づくことである。
その後のヤツデとビャクブは1201号室に帰って来た。ヤツデとビャクブの二人は窓際にあるテーブルのイスに腰かけた。ヤツデは債務の不履行をしてしまったかのように頭を抱えている。ヤツデは未だにバニラの役に立っていないからである。
ヤツデは『愛の伝道師』みたいというシランの発言も尾を引いている。しかし、ヤツデはそれをすぐに忘れることにした。シランは謝ってくれたし、悪気があった訳でもないからである。その頃のビャクブはそんなことは小さな悩みだと言わんばかりにそれとは正反対のことに思い当っていた。それはとんでもない想像である。ビャクブはそれを話すべく先手を取った。
「なあ」ビャクブは問いかけた。「バニラさんはどうしてたった一枚の手紙であんなに頭を悩ませているのか一つだけその理由を考えてみたんだけど、ヤツデは聞きたいかい?」
「うん」ヤツデは頷いた。「ぼくは聞きたい。ビャクブは教えてくれる?」ヤツデはハム次郎を自らの膝の上に乗っけながら聞いた。外面は取り繕っているが、ヤツデは実を言うとパニック状態である。
「びっくりしないでくれよ。手紙の内容はもしかすると脅迫状なんじゃないかとおれは思ったんだよ」ビャクブは冷静沈着になって話を続けた。しかし、ビャクブはあまり自信がなさそうである。
「脅迫状って何に対しての?」ヤツデは聞き返した。現在はバニラのことを守ろうとしているヤツデにとっては寝耳に水の話である。バニラが脅迫状を受け取るということはバニラが悪いことをしでかしたということだからである。ビャクブはヤツデとは打って変わりあっけらかんと言った。
「殺人とかのだよ」ビャクブは真面目である。ヤツデは底意がひっくり返る程にびっくりした。
「殺人と言ったら、このホテルであったクローブさん殺害事件のことだよね? 当然」
「ああ」ビャクブは言った。「そうだよ。時期的にはぴったりじゃないか。でも、バニラさんはその犯行の現場を誰かに見られていたんじゃないかな? 目撃者が男だということはわかっているけど」
「うーん」ヤツデは腕組みした。「証拠もないのに、疑うのは失礼かもしれないけど、クローブさん殺害の動機はなんだと思うの? バニラさんとクローブさんの間には確かに接点はあるけど、クローブさんはバニラさんにとっての恩人なんだよ」ヤツデはビャクブの意見を認めつつ問い質した。
「動機はよくわからないけど」ビャクブは言い淀んだ。ヤツデはさらに反論した。
「それにだよ。万が一犯人がバニラさんだったとしても女性一人で2604号室からエレベーターまで死体を担ぎこむのは難しいと思うよ。まあ、2604号室が殺害現場とは限らないけど」
「それだったら、バニラさんには死体を運搬するための共犯がいたのだとしたら、どうだい?」
「なるほどね。その可能性は考えられるね」ヤツデは納得させられた。今ではヤツデも冷静な判断力を取り戻している。ヤツデはビャクブの案の採否を検討している。
「あるいは今のヤツデが指摘したとおり、バニラさんはクローブさんをエレベーターの中で殺害したとも考えられるだろう? だとすれば、女性のバニラさんにも、犯行は可能ということにはならないかい?」ビャクブはいい線は行っているつもりで問うた。ヤツデは素直に「うん」と言った。
「そうだね。ただし、その場合ぼくが発見した毒物入りのコーヒーの染みはこの事件とは無関係になっちゃう可能性もあるけどね。ただ、バニラさんにアリバイはあるのかな?」
「さあ? どうだろう? でも、それもそうだな。仮にエレベーターが殺害現場だとしたら、話が段々と難しくなってくるな。となると、バニラさんには共犯者がいたと考えるのが妥当じゃないのかい?」
「そうだね」ヤツデは言った。「けど、バニラさんが犯人だと仮定した場合もう一つの大きなネックがあるよ。バニラさんはおそらくこの事件に関連したなんらかのことで『お悩みアドバイス』を利用しているんだよ。『殺人を目撃されて脅迫状で悩んでいるんです』なんてことは相談できっこないよ」
「バニラさんは自分が殺人をやったっていうことを隠していたり事件の後始末についてなにかの相談をしていたりしているのかもしれないよ。いや。でも、これはやっぱり自分で言っていても単なる机上の空論にすぎないっていうことはわかっているよ。まあ、単なる思いつきだから、ヤツデは忘れてくれて構わないよ」ビャクブは自分の推理を簡単に放棄した。ヤツデは「ううん」と柔軟な対応をした。
「ビャクブの意見は事件について考える際のヒントとしてぼくもちゃんと覚えておくよ。今回ここで起きた事件が難しく感じられるのは殺害方法が三つも用意されていたことだけじゃなくて2604号室が本当の殺害現場なら、犯人はどうしてわざわざ骨を折ってまでクローブさんの遺体をエレベーターに移動したのかっていう謎があるからだよね。実を言うと、いくつか、ぼくには気にかかっていることがあるんだよ」ヤツデは期せずして優等生みたいなことを言った。ビャクブは聞き返した。
「ヤツデの気にかかっていることか。それはなんだい? ヤツデが言うからにはさぞかし有力な手掛かりなんだろうな」ビャクブは期待に満ちた眼差しをヤツデに向けた。
「そうとは限らないよ。しょせんは素人の考えだもの。気になっていることはカラタチさんから聞いたエレベーターでのトラブル・ある人の証言・テレビのニュースの内容の三つだよ」
「うーん」ビャクブは唸った。「漠然とした話だけど、それらが、どうかしたのかい?」
「時期がきたら、そのことは必ず話すよ。それより、ぼくたちはまだこの事件で関係者から話を聞いていないよね?」ヤツデは質問を発した。ヤツデはもはやこの事件に深入りしたがっている。
「関係者と言うと、テレビでは被害者のクローブさんっていう人は奥さんと一緒に友人と会うためにこのクリーブランド・ホテルに来ていたって言っていたな。けど、話を聞くと一口に言ってもヤツデにはいい手はあるのかい? おれたちは警察じゃないんだから、事件の関係者と会ってみたからって見ず知らずのおれたちに話をべらべらと喋ってくれるとはとても思えないよ。まあ、トイワホー国の国民なら、怒られはしないだろうけど」ビャクブはヤツデに翻弄されている。
「方法はきちんとあるよ。だって」ヤツデは確認した。「ビャクブの誕生日は今月でしょう?」
「ああ」ビャクブはやはりヤツデに翻弄されっぱなしである。「それはそうだけど、おれの誕生日がどうかしたかい? おれの誕生日と事件は特に繋がりがあるとは思えないけど」
「繋がりはあるよ。事件の関係者には『幸せギフト』を贈るんだよ」ヤツデはハム次郎を差し出しながら突拍子のないことを言った。ヤツデはすでに頭をフル回転させている。
「え?」ビャクブはびっくりして聞き返した。「まさか『幸せギフト』をそんなことに使うのかい?」
ここで『幸せギフト』の説明が必要となる。『幸せギフト』とは誕生日にトイワホー国からプレゼントされる贈り物のことである。プレゼントは二つ贈られる。
一つは自分の物とし、もう一つは誰か別の人に幸せとしてわけ与える。プレゼントをあげる相手は知り合いでも見ず知らずの人でもいい。『幸せギフト』はトイワホー国の独自の政策の一つである。
「だけど、それはできない相談だよ。だって『幸せギフト』はクローブさんの奥さんに上げるにしろ、友人に上げるにしろ、喪中に幸せもへったくれもないじゃないか」ビャクブは肝心要なことに気がついた。普段はのほほんとしていても考える時にはビャクブはきちんと考える葦である。
「うん」ヤツデは平然とした顔で言って退けた。「それなら、ビャクブはその事実を全く知らないで渡しちゃったことにすればいいんだよ」ヤツデはやはり生粋の変わり者である。
「ははは」ビャクブは苦笑した。「それは最高にいい手だ。普通の人にはちょっと考えられない。それは冗談かい?」ビャクブは聞いた。聞いてはいるが、ビャクブは返答を薄々と予測している。
「うん」ヤツデは首肯した。「9割は冗談だよ。他に手がなければ、ビャクブにはそうさせてもらうかもしれないけど」ヤツデはどさくさに紛れてとんでもないことを考えている。
「まったく」ビャクブは呆れている。「ヤツデは時々無茶を言うよな」ビャクブは言った。しかし、内心ではビャクブも試してみる価値はあると踏んでいた。ビャッブはヤツデのアウト・サイダーっぷりにすっかりと慣れている。ビャクブはヤツデの相棒だからである。
「ああ」ヤツデは危惧した。「ぼくは肝心なことを忘れていたよ。ビャクブはプレゼントを家に置いてきちゃった? それとも、プレゼントはまだ届いてないのかな?」
ビャクブはヤツデの危惧を一掃した。ビャクブは穏やかな口調で「いや」と切り返した。
「それなら、問題はないよ。おれはどこかで誰かに渡そうと思って出かける時にプレゼントを持って来ることにしていたんだよ。だから、プレゼントは今も持って来ているよ。プレゼントはちゃんとバッグに入っているはずだよ」ビャクブは言った。ヤツデは安堵した。
「そっか」ヤツデは言った。「それはよかった。ビャクブがよく気のつく人で助かったよ」
「ちなみに『愛の伝道師』だから、ヤツデは知っているかもしれないけど、今はコンビニやショッピング・センターで使える500パンダの商品券が『幸せギフト』の贈り物だよ」ビャクブは言った。
「うん」ヤツデは頷いた。「そうらしいね」ヤツデはやはり先駆けてそれを知っていた。
500パンダの「パンダ」とは動物のことではなくトイワホー国の通貨単位のことである。トイワホー国では貝殻・獣皮・農産物といったものを貨幣商品としていた時代もあったが、それは遥か昔のことである。今のトイワホー国ではパンダという紙幣と硬貨が流通している。パンダという通貨はトイワホー国の他にも10カ国に共通している。これらは皆が愛惜連合(UHL)に加盟している国々である。UHLとは愛(LOVE)と希望(HOPE)の連合(UNION)という意味でありトイワホー国が発起した組織体である。UHLにはリグーン国やルーブ国といった大国も加盟している。さらにUHLは外交や司法といった面で政治統合を進めており、形式的には安全保障を図るという名目もある。
「ぼくたちは昼食がすんだら、ビャクブは早速に商品券を渡しに行こうね。ビャクブはそれでもいいよね?」ヤツデは確認した。ビャクブは快くその提案を受け入れた。
「ああ。それは別にいいけど、ヤツデはどうやってクローブさんっていう人の奥さんと友人を見わけるつもりなんだい?」一旦は肯いてからビャクブは当然の疑問を呈した。
「うーん。まあ、それはなんとかして考えておくよ」ヤツデはそう言うとこの話を打ち切りにした。
ヤツデにしては無計画だが、口には出さないだけでなにかの腹積もりはあるのかもしれないなとビャクブは思った。しかし、当のヤツデには本当にこの問題の解決策は白紙のままである。
とはいえ、ヤツデは『幸せギフト』を使うといったように相当に奇抜なアイディアを出すことがあるので、正論に対しては真っ向から反対してしまうこともありうる。
できれば、そうはしたくないので、ヤツデは何も思い浮かばなければ、ずば抜けて性格はやさしいので、右顧左眄してしまう可能性は上述したもの以上にありうる。