表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/4

トイワホー国における復讐 1章

無差別の愛は世界を変える。『愛の国』トイワホー国はそのような標語を掲げて独自の政策を進め万人の幸福を提唱しそれを実現するための人員である『愛の伝道師』を確保した。

幸せの定義は人によりそれぞれ違うものである。それでも、衣食住・身体の安泰・心のわだかまりの除去は皆に共通した至福のための基本である。だから、トイワホー国はそれを忘れることなく政策を促進して来た。それはもちろん目的を忘れないようにするためである。

孤独死・いじめによる自殺・戦死・ひもじさによる自殺は何が足りなくてどんなことに起因しているのか、トイワホー国の人民が導き出した答えは愛の欠如である。

それ故に、トイワホー国では学校教育にも実践的な他者への愛を育むための授業が取り入れられたり、あるいはワーク・シェアリングの徹底が図られるようになったりしている。

それだけに留まらず、トイワホー国という国は世界中の涙を笑顔に変えるため他国とも愛ある連合を結成した。それについてはあとで詳しく触れる機会がある。

考えてみると、それは当然なのかもしれない。人は誰も彼もが訳もわからずに生まれてきて必ず逝去する。その需要と供給の繰り返しの意味になんらかの答えを見出せる者はいただろうか?

トイワホー国では永劫回帰に基づいた考え方が根づいている。永劫回帰とは一見すると目的も意味もないような人間の生を絶対的に肯定しようとするものである。

永劫回帰によれば、生あるものは全て価値あるものであり尊重されなくていい人間などというものは存在しなくなる。全ての人に価値があるというのは重要なことである。

 永劫回帰の考え方の中において特に重要視されるべきものは人権を侵害する犯罪を始めとした悪行である。それを考える際には大切な真理がある。つまり、犯罪が起こってからそれに対処するのではなく誰もが他者に思いやりを持てば、犯罪は起こらないはずなのである。

やさしくしてくれた人間に対してなら、例えば、虚構の世界であっても普通はその人を傷つけようとは思わないからである。トイワホー国ではそうも結論づけた。

 トイワホー国はその甲斐あって雄大な国土とあまたの人口を誇りながらも昨年に殺人事件で命を落とした人は二人だけだった。それは他国と比べても圧倒的な数字である。

とはいえ、トイワホー国における心やさしい国民の感覚としてみるなら「二人しか」ではなく「二人も」亡くなってしまっているという感覚である。

イントロは以上である。とにもかくにも、トイワホー国は何事にも新天地とするに最適な『愛の国』という訳である。これはそのトイワホー国における物語である。


季節は夏である。ここはポンメルン県のクリーブランド市に存在するクラフク町という場所である。トイワホー国は大陸によって区分されることもあるが、行政機関によっても区分はされる。

つまり、トイワホー国では国家に全てを委ねるのではなく領域内で地方自治を行って法令で定められた自治権を行使することができる機関が存在するという訳である。簡単に言うと地方自治体である。トイワホー国における地方自治体は県と州→市と村→町の順で大きいのである。

現在の時刻は太陽の日差しが燦々と照り輝く快晴の午前8時である。ヤツデは繁華街のいくつかの店が並んだ大通りの歩道においてガード・レールにそって歩いている。

現在は夏休みシーズンだが、この繁華街は歩行者天国のようにごった返している訳ではない。それでも、ここらは繁華街だけあって割かし多くの人たちで賑わっている。

ここには百貨店や飲食店などの商業施設も多く立ち並んでいる。しかし、強烈な呼びこみは行われていない。それは商売っ気がないからではなくやはりトイワホー国では気のやさしい人たちの集まりなので、強引なことはあまりしないのである。それこそはこの国の人々の独立独歩である。

現在のヤツデは腕の中ほどまで届く赤シャツを着ている。ヤツデは暑がりのくせに秋の次に夏という季節シーズンをこよなく好いている。ヤツデは男性にしてはやや長髪の方である。

ヤツデは黒髪をしているのだが、実は前髪に混じっている6本の白髪をトレード・マークにしている。これは染めたのではなく自然に生えてきたものである。

もっとも、これはヤツデが自身で勝手にトレード・マークとして認定しているだけである。どちらかと言えば、そんな些細なことには気づかない人の方が多いというおまけつきである。

ここではヤツデの面貌を少し描写しておくことにする。目つきは少しだけ鋭いが、全体としてはこの上なく穏やかであり、ヤツデはやさしさの権化のようなオーラをまとっている。

現在のヤツデが歩いている前方ではショルダー・バッグを肩にかけゆったりとしたブロンドの女性がタバコを落とした。ヤツデはそれを見て少し歩いて行くとその吸い殻を拾い上げた。

ヤツデはしばらくその後も歩いて行った。ヤツデはやがてゴミ箱を見けると先程の吸殻をゴミ箱に放り投げた。ヤツデは道路に背を向けて近くにあったベンチに腰をかけた。

ヤツデはふと何気なく視線を落とした。そこにはスケルトンの石が置かれていた。その石の形は細長い直方体である。その石にはよく見るとキーが金属で結びついている。ヤツデはなんの気なしにそれを手に取ってみた。それには『クリーブランド・ホテル・1301』と彫られているのが確認できた。

これだけの情報だと、ヤツデは町の美観維持に奉仕する清掃員かなにかに思われるかもしれないが、実はヤツデもまた先の説明にあった無差別の愛を広める『愛の伝道師』なのである。

しばしの間はベンチに座ったままヤツデは本を読むことにした。ヤツデは読書家だが、読書が好きになったのはそれほど昔の話ではない。ヤツデが読書を好きになったのは大学一年生の時である。

ヤツデはラブーク国とラブート国における戦争のノン・フィクション作品を父から読んでみるよう勧められた。ヤツデが本を好きなったきっかけはまさしくそれである。

本は知らなかったことを教えてくれ、その知識の吸収はおもしろいものだと感じるようになったのである。それ以来のヤツデはどんな本でも乱読するようになった博覧強記の男なのである。

この世界における国家間の戦争は上記したものだけである。戦争が行われそうな気配はこれからも全くない。それは世界中のどの国を見渡して見ても核兵器や戦闘機を保持しているところが見当たらないというのもその根拠の一つになるかもしれない。そのため、自衛隊というものはトイワホー国だけではなく世界中のどの国にも存在していない。

そうはいっても、各国は殺戮兵器を造れない訳ではない。つまり、作れるだけの科学力は持っているにも関わらず、兵器はあえてどこの国も作らないのである。だから、この事実は同様にして全ての国が厭戦志向であることを裏づけるものである。ヤツデはそんな世界をうれしく思っている。

戦争とは環境によって人に人を殺させるということである意味では完全犯罪である。しかし、それはどのような言葉で表現しようとも単なる悪のマインド・コントロールにすぎない。各国はそういう点で意見の一致を見ている。トイワホー国では特に思想の弾圧をする必要すらないのである。

世界史上において残虐な戦争という唯一の汚点を残してしまったラブーク国とラブート国は紆余曲折を経て現在は合併してラブルエーテ国に名を変えている。昨今のラブルエーテ国はトイワホー国と同様に世界でも指折りの平和な国家として有名である。危難はそれによって去ったということである。

閑話休題である。一人の男はヤツデが本を三ページも読み終わらない内にヤツデの傍に徒歩でやって来た。やって来たのはビャクブという男である。ビャクブはヤツデの無二の友人である。ビャクブはヤツデと同じく黒髪である。ビャクブはスポーツ刈りとまでは行かないが、ヤツデよりは短髪である。

ヤツデとビャクブは別にこの場所で待ち合わせをしていたのではなくやや優柔不断なところのあるビャクブが買おうか買うまいかと迷っていた品物を駅前の店から離れてから買う決心をつけたので、ビャクブはヤツデには先に歩いていてもらい一度は来た道を引き返していたのである。

ビャクブはヤツデと同じようにカジュアルな服装を好んでいる。そのため、今のビャクブは水色のシャツを着ている。それはビャクブが近所のアウトレット・ストアで購入したものである。

なんにしても、今のビャクブは話に出たお土産のおまんじゅうが入った袋を手にぶら下げている。欲しいものが手に入ったビャクブは大層に機嫌がよさそうである。

ヤツデはかつて鬱病になり苦しんでいた時にビャクブによって励まされ長く暗いトンネルをやっと通り抜けたことがある。ヤツデはそんなこともあっていつでもビャクブを恩人として慕い感謝の気持ちを持ち続けている。ヤツデは天の邪鬼なところもあるが、受けた恩は返す男なのである。ビャクブはビャクブでヤツデに対してちゃんと友人としての敬意を持っている。

ヤツデはやがて読んでいた本に栞を挟むとベンチから腰を上げた。ヤツデはビャクブと共にガード・レールに沿ってアスファルトの上を歩き出しながら話を切り出した。

「ビャクブはおまんじゅうを買えてよかったね。それにしても、ビャクブとは本当に久しぶりだね」

「そうだな。音信不通ではなかったけど、会うのは彼これ半年ぶりくらいじゃないかい?」ビャクブは聞いた。ヤツデとビャクブは旧知の仲だが、今は離れた場所に住んでいる。

「うん。ビャクブがこの近くまで来てくれるっていう話を聞いた時は本当にうれしく思ったよ」

「ああ。おれは久し振りにヤツデの顔を見たくなって連絡させてもらったよ。ヤツデは迷惑じゃなかったかい?」ビャクブは確認をした。ビャクブはきちんと気配りのできる男なのである。

「ぼくは全く迷惑じゃなかったよ。むしろ、大歓迎だったよ。ビャクブは数少ない貴重な友人だから、ぼくはビャクブのことを大切にしないといけないもんね。だけど、ビャクブにとってはどうなのかな?」ヤツデは思わせぶりにして聞いた。ビャクブは当たり前のように応じた。

「ヤツデは大切な友達だよ。おれはヤツデのそういう恥ずかしいセリフを平気で口にするところも気に入っているんだ。それはさておいて元気にしていたかい? それは心の病気も含めてだけど」

「うん。ぼくは風邪をひいたりしないで元気にしていたよ。些細なことで憂鬱な気持ちになっちゃうことはしょっちゅうだけど、お医者さんに診てもらわないといけないようなひどい心の病に悩まされることはなかったよ。病気にならないっていうことは幸せなことだね。ビャクブの方はどうだった?」

「おれも元気だったよ。ヤツデも知ってのとおり、数えるくらいしか、おれは風邪をひいたことはないし、ケガでさえも然りだもんな。まあ、バカは風邪をひかないって言うから、そうなのかもしれないけど」

「いや。そんなことはないよ。ビャクブはバカじゃないよ。ビャクブは昔から変わらないね」

「そうかい? それは褒め言葉かい? まあ、ヤツデの口から『進歩がない』なんてセリフが飛び出してくるとは思えないけどな。ヤツデは以前『自分はいつも他の人よりも劣った存在だと思っている』って言っていたもんな。そんな気持ちで日々の生活を送っていたら、おれはみじめな気持ちになりそうだと思うけど」ビャクブは遠慮気味に言った。とはいえ、ビャクブは別にヤツデを非難している訳ではない。ヤツデはそんなビャクブの胸中をしっかりと忖度している。

「うん。そうだよ。ぼくは実際にみじめな気持ちになる時もあるよ。だけどね。ぼくはこういう性格だから、それはしょうがないんだよ。でも、傲慢な性格よりはいいと思っているんだよ。トイワホー国の国民は皆が他人を敬う気持ちを大切にしているから、ぼくの性格はその進化形だと思っているんだよ。ちょっと強引だけど、例えね。どんなことにしても、物事はプラスに考えないといけないものね。だから、ビャクブが変わらないって言ったのは褒め言葉だよ。芯がとおっているってことはすばらしいことだものね。ぼくはビャクブのそういうところも尊敬しているんだよ」ヤツデは言った。

「そうかい? ありがとう。それにしても、これはいつも思うことだけど、おれはヤツデと話していると心が洗われて行くような錯覚に陥るよ。いや。これは錯覚じゃないのかもしれないけど」ビャクブは真剣な顔をして言った。ヤツデはそれを受けると照れることもなく「さあ?」と軽く受け流した。

「それはどうなのかな? ぼくにはそんなことはないように思えるけどね。話は変わるけど、ビャクブの住むピッツバーグ県では4月に大きい地震があったっていうけど、ビャクブは大丈夫だったの?」

「ああ。ピッツバーグ県と一口に言っても広いからな。おれの住むオークランド市は大したことはなかったよ。でも、多少の余震はたまにあるんだけどな」ビャクブは言った。ビャクブは誰もがそうであるようにいつでも平穏無事を切願している。トイワホー国は島国である。

「そうなんだ。地震はもう4ヶ月くらい前なのにね。なんにしても、自然災害は怖いから、ないに越したことはないよね。とはいえ、世の中はそんなにうまくは行かないものだよね」ヤツデは少し落胆している。ビャクブはそんなヤツデに対し努めて明るい口調で「だけどさ」と励ました。

「トイワホー国は他国に自慢できるほど助け合いの精神が強いから、その点は問題がなさそうだけどな。話は変わるけど、なにか、ヤツデの方には変わったことはなかったのかい?」

「うーん。そうだな。強いて言うなら、おもしろいファンタジー小説を読んだことくらいかな。トイワホー国では平穏が乱れるのは稀だからね」ヤツデは最もなことを言った。ヤツデの今の隻語は確かにいつも平和で愛もあるトイワホー国の実態をよく表している。ビャクブは首肯した。

「それもそうだな。それで? その読んだファンタジー小説っていうのはどんな内容なんだい?」

「色々なモンスターが出てくる物語だよ。普通はモンスターって言うと怖そうなイメージを持つかもしれないけど、登場するのは皆がかわいいモンスターなんだよ。主人公と相棒のモンスターは病床に就いている主人公のお母さんを助けるために伝説の薬草を求めて繰り広げるドタバタの冒険劇だよ」

「なるほどな。それは確かにおもしろそうだ。それで? 無差別の愛を広める仕事の方はどうだい? そっちは順調かい?」ビャクブは聞いた。もちろん『愛の伝道師』に関する話題である。

「うん。仕事は順調だよ。今度の新たな政策としては『仲良しトラベル』っていうのがあるんだよ。これは近隣の地域ごとに不特定少数の人を任意で集めて皆が懇意になれるような一日の旅行をしたあとで最後にそれぞれのいいところを紙に書き合って交換しあうっていうものなんだよ」ヤツデは説明した。

「そうなのかい? だけど、人のいいところなんてたったの一日で見つけられるものかい?」

「うん。そうだよね。だけど、その点は適宜の対応で解決法を見つけて行くつもりなんだよ。それにしても、問題は皆がおいそれと集まってくれるかどうか、それも疑問だし、そういう意味ではまだ問題は山積みだね。クリーブランド・ホテル行きのバスはここみたいだよ。ああ。バスはちょうどもうそこまで来ているね」ヤツデはちょっとした幸運に巡り合い少しうれしそうである。ヤツデは神経質なのである。

 ヤツデの特徴は言葉遣い・物腰・見た目といったようにとにかくやさしいことなのだが、時にヤツデはやさしすぎてしまうが故に気を回しすぎてしょんぼりしてしまうことがある。

 そんな時にいつもヤツデを助けてくれるのはビャクブである。ビャクブは基本的に気分の浮き沈みが小さいので、ヤツデのことはどんな時でも慰めてくれる。だから、ビャクブはヤツデにとって最高の友人なのである。しかし、ヤツデはビャクブにやさしくすることを決して忘れることはしない。

今は別に火急の用事がある訳でもないので、ヤツデとビャクブは一つ分の停留所の乗車料金を浮かせるため駅前のターミナルがあるロータリーでバスに乗車せずわざわざここまで歩いてきたのである。

ヤツデとビャクブの二人はさして待つこともなく自分たちの宿泊先であるクリーブランド・ホテルに向け停留所でバスに乗り込むことができた。


バスの中はヤツデの前の席にピアスをして囲碁の書籍を読み耽っている黒髪の女性が座っていただけで乗客は少なかったが、しばらくバスが走り、何度か、バス停に泊まると乗客は増えてきた。

すると、ヤツデの前にいた件の女性は鼻血を出したらしく真横の席の特徴的なハスキー・ボイスの男が親切にも女性にタオルを差し出した。この男性はイチハツという名である。

自分もそれを見ていたヤツデは鼻血を出してしまった女性に対し自分のポケット・ティッシュを差し出した。これなら、ありがた迷惑にはならないだろうとヤツデは考えたのである。

女性はそんなヤツデとイチハツの二人に対しスタンプを押させてくれるよう申し出た。実はトイワホー国の政策の一つとして『親切スタンプ』というのものが実在する。

トイワホー国の人民はいつでもスタンプとスタンプを押すためのカードを持っており誰かに親切にされたと思ったら、親切にしてくれた人のカードにスタンプを押すのである。

そのスタンプが10個ほど溜まるとトイワホー国からそのシーズンに見合った景品が貰えるという訳である。とはいえ、目的はそれで世間体を取りつくろうことではなく少し妙な例え方になってしまうが、犬は三日飼えば、三年は恩を忘れないという心持ちこそが最も大切なのである。

例の女性はヤツデとイチハツに対し厚くお礼を言うと次のバス停で降りて行ってしまった。少しはいいことをしたと思ったので、ヤツデは誇らしい気持ちになれた。

社交的な性格のハスキー・ボイスの男であるイチハツは一つ席を後ろに移動し自己紹介して接客をするような丁寧な語調によりヤツデに対し感謝の気持ちを表した。

「ありがとうございます。助け船を出してくれて本当に助かりました」イチハツは言った。タオルしか、イチハツは持っていなかったので、女性にはタオルを差し出したが、女性はそれに血を付着させてしまうことに抵抗があったので、ヤツデがティッシュを差し出したことは正解だったのである。

「いいえ」ヤツデは謙虚である。「ですが、お役に立てたのなら、うれしく思います」

「そうだ。この際だから、紹介をさせてもらいますが、こっちは自分の友人のエノキです」イチハツは連れの男を紹介した。イチハツは誰とでもすぐに打ち解けることができる性格なのである。

「はじめまして」男性は言った。「エノキです」エノキはイチハツとは対照的な低音でそう言うと礼儀正しく慇懃に頭を下げた。エノキはタンク・トップに短パンというラフな格好である。

「ぼくはヤツデです。こっちは友人のビャクブです」ヤツデは名乗りビャクブを紹介した。

「お二人はこれからどちらへ行かれるんですか?」イチハツは質問した。ビャクブは答えた。

「おれたちはクリーブランド・ホテルに行くんです。クリーブランド・ホテルという場所はヤツデからも兄貴からもいいところだと聞いています」ビャクブは会話を楽しんでいる。

「本当ですか? それは奇遇ですね。実は自分たちもクリーブランド・ホテルへ向かっているんですよ。となると、お二人とは向こうでも会いできるといいですね。自分たちは観光でここへ来ているのですが、お二人もそうですか?」イチハツはうれしそうにして驚きながらも話を先に進めている。

「はい」ヤツデは答えた。「ビジネスではありません。ぼくたちは観光できています」

「イチハツさんとエノキさんはどちらからいらっしゃっているのですか?」ビャクブは新しく話を切り出した。イチハツは相も変わらず接待のような心がけを忘れずに逸早く答えた。

「自分はポートマスト州から来ているんです。自分は生まれも育ちもポートマスト州です。ポートマスト州はいいところですよ。ここからは少し距離がありますが、いらっしゃったことはありますか?」

「ポートマスト州ですか? 確か、ぼくは中学生の頃に一度だけポートマスト州を修学旅行で訪ねたことがあります」ヤツデは記憶の糸を辿って言った。イチハツはうれしそうな顔をしている。

「ポートマスト州には有名な観光地がいくつもありますからね。評判はおれも聞いたことがあります。残念ながら、おれは訪ねてみたことはありませんね」ビャクブは打ち明けた。

「そうですか。ポートマスト州はとてもいいところですから、機会があれば、ビャクブのビャッくんも自分の故郷にきてみて下さい」イチハツは独特な抑揚のあるハスキー・ボイスで言った。イチハツはやはり社交的な性格なので、早くも打ち解け、ビャクブのことは渾名で呼んでくれた。

「はい。機会があれば、是非とも足を運んでみようと思います。エノキさんはどちらからいらっしゃっているのですか?」ビャクブは話を振った。イチハツほどではないが、おしゃべりはビャクブも好きな方である。だから、ビャクブは旅先での思わぬ出会いに嬉々としている。

「私はこのポンメルン県内に住んでいます」エノキは自分の前にある缶コーヒーを取るため前傾姿勢になりながら答えた。エノキは特にブラック・コーヒーがお気に入りなのである。

「本当ですか? ポンメルンのどちらですか? ぼくも実はポンメルン県に住んでいるんです」ヤツデは心の底からうれしそうにしている。エノキは紳士的に丁重な言葉づかいで応えた。

「そうでしたか。私はポンメルン県のキエフ市の出身です。ヤツデさんはどちらにお住まいですか?」

「ぼくはキエフ市の隣にあるティラナ市に住んでいます」ヤツデは言った。エノキはそんなヤツデの答えに対して頷いた。聞き上手でもあるイチハツは興味深そうにしてその話を聞いている。

ヤツデの住むティラナ市は紆余曲折を経ていくつかの市が合体したという経歴を持っている。そのため、人口は50万人を超えているので、ティラナ市は政令指定都市として認定されている。トイワホー国にはティラナ市を入れて20の都市が政令指定都市に認定されている。

「ヤツデさんはオルレアン公民館をご存じですか?」エノキは言った。「私はその隣に住んでいるんです」

「はい。知っています。キエフ市のオルレアン町にある公民館なら、ぼくは前を何度も通りかかったことがあります」ヤツデは答えた。ビャクブは少し間が空くと新たな話題を出すことにした。

「時に」ビャクブは言った。「イチハツさんはお土産としてもうポンメルン県の名物の人形焼きを買いましたか?」ビャクブは老婆心ながらイチハツに対して心配りを見せた。

「人形焼きですか? いいえ。まだです」イチハツは興味深そうにしながら答えた。

「ポンメルンの人形焼きはおいしいですし、お土産の定番ですから、是非ともご購入されるといいですよ」ヤツデはそう言いながらも自分は売り込みのようだなと思った。

「了解しました。それにしても、つい一週間ほど前までは冷夏だったのに、今日は特に暑いですね。エノキは自分にうちわを貸してくれないか?」イチハツは軽い口調で聞いた。

「団扇か? そう言えば、いつの間にかう、団扇がなくなっているな。確かにさっきまではあったんだけど、おれはどうやらバスに乗る前にどこかで団扇を落としてきたらしい。全くしょうがないな」エノキは自分に対して呆れている。やさしい性格をしたヤツデとビャクブはエノキのことを気の毒に思っている。イチハツはこの件に関して過敏な反応を見せた。

「そうなのか? それなら、自分たちは引き返そうか? 自分は人形焼きを改めて探してみたいし」イチハツは提案した。イチハツはいつでもエノキのことを思いやることができるのである。

「いや。その申し出はありがたいけど、それはいいよ。おれたちはまた明日も近くを通るから、うちわはその時に探してみよう」エノキは決心した。イチハツはそれに納得した。

「その時に見つかるといいですね。大体の場所の見当はつくんですか?」ヤツデは合いの手を入れた。その間のビャクブとイチハツは黙って話を聞いていた。エノキは「いいえ」と言った。

「ですが、私は今日に行った場所を適当に当たってみます。話は変わりますが、ヤツデさんとビャクブさんはどのくらいの間をクリーブランド・ホテルで滞在される予定なんですか?」

「おれたちの滞在する予定は4日間になっています」ビャクブは答えた。

「そうでしたか。自分とエノキはもう一泊しているのですが、帰る日は自分たちと同じですね」イチハツはうれしそうにしている。ビャクブは同様にうれしそうな顔をした。

ヤツデたちの4人はこうしてとりとめもない話をしていたが、ヤツデはやがて読書に没頭するようになり、エノキはなにやら調べ物を始めたので、ビャクブとイチハツの二人はお互いにクリーブランド・ホテルに滞在することを喜んだり観光場所について話し合ったりして楽しんだ。

ヤツデとビャクブの二人はイチハツとエノキと知り合いになれ喜んでいる。自分でも言っていたとおり、友達の少ないヤツデは特に内心で大喜びしている。

麗らかな空はトイワホー国の国民の心を映し出しているかのようである。トイワホー国の国民はヤツデたちの4人に限らず皆と仲良くなりたいというとても友好的な人ばかりなのである。


カラタチは魁偉な容貌の持ち主である。なにしろ、とてつもなく大柄な男なのである。そのため、カラタチの身長は二メートルを遥かに超えている。

しかし、カラタチの両親は特に大きいという訳ではないので、カラタチの体が大きいのは祖父からの隔世遺伝ではないかと自身では推測している。つまり、カラタチの祖父は身長が高いのである。

カラタチには二人の弟がいるのだが、その二人とは身長が40センチも違うので、身長に関しては雲泥の差である。当然だが、カラタチの方が大きいのである。

今のカラタチは静かな屋内を歩いているのだが、それ故一歩でも歩を進めると廊下に敷かれた赤色の絨毯は驚嘆の声を上げているようである。カラタチの履いているスニーカーは特注品である。

とはいっても、カラタチの緑色の瞳はやさしい印象を持たせないこともない。カラタチは大柄だから、見た目は強くて怖そうにも見えるが、実際のところはおっとりした性格の持ち主である。

カラタチは例によって例の如くのっしのっしと巨体を揺らして廊下を右に折れた。カラタチはちょうどエレベーターが到着しているのを見て満足そうな表情を顔に浮かべ頭を屈めてエレベーターの中へと入ることにした。カラタチは先程も話に出たとおり縦だけではなく横にも巨大なので、人一倍か、人の二倍はいつも場所を取ることになってしまうのである。

傍にいた老人はカラタチがエレベーターに乗ると「開く」のボタンを押していてくれた。カラタチは気分がよくなりその老人に対して少し笑顔を向けて会釈した。

エレベーターの扉はしばらくすると目的地の一階まで来て開いた。まず一人がエレベーターの外に出て行った。実はこのエレベーターの中にはカラタチと先程の老人の他にも二人が乗っていた。カラタチは自分もエレベーターを出るべく歩を進めた。その時だった。別に袖と袖がぶつかったり、体が接触したりした訳でもないのにも関わらず、カラタチの後ろの方で突然に誰かが前のめりになったかと思うとそのまま倒れて行ってしまった。そのため、カラタチの耳には「ドサッ!」というなにかの倒れる音が聞こえてきた。一瞬は呆然としていたが、カラタチは我に返ってエレベーターの奥を見てみると思わず目を見開いた。先程に倒れたのはやはり人間だった。その人物は中年の男性だった。

しかし、カラタチが目を見開いたのはそういった理由からではない。その中年の男性の背中からはなんと心臓に渡ってナイフが突き刺ささって血が噴き出していたのである。

そのことに気づいた人たちは戦慄の相を見せ始めた。クリーブランド・ホテル二号館の一階ではこうして次第に乱離骨灰の大騒ぎへとなって行った。説明は遅れたが、以上の話はヤツデとビャクブが先程にバスに乗った時から約一時間を遡及した事件の開闢の話である。


時計の針は元に戻しさらに少し進める。ここはところ変わってクリーブランド・ホテル一号館の一階にあるフロントである。ここはとても清楚な雰囲気な場所である。

ヤツデはチェック・インの手続きをすませるとビャクブとイチハツとエノキの三人にロビーのテーブル席のイスで待っていてもらったまま受付で用事をすませることにした。

ヤツデは先程にベンチで拾った部屋の鍵をマリティアという受付嬢に届け出たのである。すると、鍵を紛失して困っている女性がいたので、ヤツデはマリティアから非常に感謝された。

これはここだけの話だが、このマリティアという女性はこのあとヤツデの助けになってくれることになる。しかし、この時点ではヤツデもそんなことになるとは少しも考えてはいなかった。

ヤツデはビャクブたちの三人のいる席に戻ってくると一旦は腰をかけて他の三人とこれからの予定を一通り話し合うことにした。ヤツデたちはトイワホー国の国民らしく譲り合いの精神を大切にしているので、4人は意見の相違で衝突するようなことには決してならない。ヤツデたちの一行はまして船頭が多くして船が山に上るということもない。それはトイワホー国の常識である。これこそはトイワホー国で古くから伝えられてきた古きよき伝統である。

その後のビャクブは早速に売店で特産のお土産を見に行った。その間のヤツデは先程に拾った1301号室のキーについてイチハツとエノキに話して聞かせた。それが終わると、イチハツとエノキは四方山話で時間を潰し、ヤツデは一人で静かに一息をつき再び本を読むことにした。

すると、一人の女性がヤツデとイチハツとエノキの三人の近くで立ち止まってしばしあたりを見渡し始めた。バニラという名の彼女はスレンダーな体形と落ち着いた趣を持ち合わせている。

現在のバニラはワン・ピースを着こなしている。バニラはヤツデの方に目を止めると少しうれしそうにしてヤツデの方へ近づいて来てヤツデに「すみません」と話しかけた。

「あなたはもしかしてバス停のベンチで鍵を拾って下さいませんでしたか?」

バニラに話しかけられたので、ヤツデは顔を上げてみた。ヤツデはそこで天井からオレンジ色の灯りに照らされた茶髪が綺麗なショート・カットの女性であるバニラを認めた。

「はい。ぼくは鍵を拾いました。それではあなたがあの部屋のキーの滞在客の方だったのですね?」ヤツデはゆっくりとした口調で聞いた。イチハツとエノキはちらっとバニラの方を見た。

「ええ。そのとおりです。私は本当に困っていてどうしたらいいだろうって思っていたのですけど、ご親切に届け出て下さってありがとうございます」バニラはハキハキと快活に言った。

「いいえ。ぼくはどうせこのホテルに滞在する予定でしたし、ぼくだってうっかりと落し物をしてしまうことはあります。ですから、人は誰もが持ちつ持たれつですよ」ヤツデはやさしい言葉つきで言った。ヤツデは老婆心ながら口にしようかと迷っていたことがあったが、バニラはそれを先に指摘した。

「これはフロントの方に言われたのですが、これからはキーをホテルに預けてから外出しようと思っています。そうそう。もちろん『親切スタンプ』は押させて下さいね」バニラはそう言うと判を取り出してヤツデのカードにスタンプを押した。その間のヤツデはバニラのか細い手をぼんやりと見つめていた。作業を終えると、バニラはトイワホー国での解決策だけではなく専断を実行することにした。

「これだけではなくその他にもなにかのお礼をさせてもらいたいのですが」バニラは言った。

「いいえ」ヤツデはバニラの申し出を辞退した。「それには及びませんよ」

「ですが、それでは私の気がすみません。そうだ。もし、よろしければ、今日の夕食をご一緒させて頂けませんか? 自分で言うのもなんですけど、私はおもしろい話をするのがとても得意なんです」

「そうですか。それでは喜んでご一緒させていただきます」ヤツデは平常と特に変わりなくやさしい言葉つきで言った。ヤツデは同時にバニラの経歴について思いを巡らせた。とはいえ、ヤツデはバニラとは会ったばかりなのだから、大したことは考えられなかった。しかし、ヤツデは余計なことを色々と考えてしまうのが癖なのである。それはヤツデの神経質な側面がそうさせている。

ビャクブはここでヤツデの傍まで帰って来た。袖振り合うも多生の縁と言うが、自分はどうやら知り合いが増えることになりそうだと、ビャクブは前途洋々とした面持ちである。

「こちらの方はあなたのお友達かしら?」バニラはすかさずに聞いて来た。

「はい。そうです。そう言えば、ぼくはまだ名前をお伝えしていませんでしたね。ぼくはヤツデです。こっちはぼくの友人のビャクブです。よろしくお願いします」ヤツデは頭を下げた。

「失礼しました。私はバニラです。よろしくお願いします。こちらこそ」バニラはお辞儀した。

「ぼくはビャクブと落ち合う前にさっきホテルの鍵を拾っていたんだけど、実はその落とし主がバニラさんだったんだよ」ヤツデは簡単に紹介した。紹介されるとそれだけでどんな人にでも親近感を持つようになるのはビャクブだけではなくトイワホー国の国民のほとんどがそうである。

「私はそのお詫びとしてヤツデさんと夕食をご一緒しておもしろい話をお聞き下さらないかしらって申し出たんです。少し差し出がましいですけどね」バニラは謙虚である。

「そうでしたか。それでは図々しいお願いかもしれませんが、よかったら、おれもヤツデと一緒にお話を聞かせてもらえませんか?」ビャクブは試しにお願いしてみた。バニラは「ええ」と快諾した。

「ヤツデさんのご友人なら、喜んで歓迎します。ヤツデさんとビャクブさんは今夜の夕食には何時頃にいらっしゃるご予定かしら?」バニラは大事な確認を忘れなかった。

「夕食は何時にしようか? 今日は7時頃でどうかな? ビャクブ」ヤツデは聞いた。

「ああ。おれはそれで構わないよ。それじゃあ、夕食の時間はそうしよう」ビャクブは鷹揚に答えた。

「わかりました。それではまた今夜の7時にお会いしましょう」バニラはそう言うと婉然たる笑みを見せた。バニラは挨拶もそこそこにヤツデとビャクブの元から離れ一号館の階上へと歩いて行ってしまった。バニラとの出会いはその後のヤツデとビャクブの運命に大きな作用を与えることになる。しかしながら、今はそんなことを知らないので、ヤツデとビャクブはのんびりとしている。

「そう言えば、イチハツさんとエノキさんのお部屋はどちらなのですか?」ヤツデは質問した。

「自分とエノキの部屋は2103号室です」イチハツは粛然と答えてくれた。

「そうでしたか。それなら、それでは部屋が二号館なのにも関わらず、イチハツさんとエノキさんはわざわざぼくたちに付き合って一号館にいらっしゃって下さっていたんですね。どうもありがとうございます」ヤツデは手厚くお礼を述べた。隣にいるビャクブはぺこりと頭を垂れることにした。

「いやいや。これくらいはなんでもありませんよ。ところでさ。エノキはひょっとしてヤッちゃんとビャッくんがさっきまで話をしていた女性に一目惚れしたんじゃないだろうね?」イチハツは独特のハスキー・ボイスを響かせながら横溢な興味を持って聞いた。ビャクブは不思議そうにしている。

実はヤツデも気づいていたが、エノキはヤツデとバニラの会見中はバニラのことをずっと見つめていたのである。イチハツはそれを見咎めていて冷やかし半分で早くそれを指摘したかったのである。

「いや。そんなことはないよ」エノキは否定した。しかし、エノキは完全に動揺している。ビャクブはそんなエノキのしどろもどろな様子を微笑ましく見守っている。恋愛の大御所のようには振るまえないヤツデは遠慮がちである。とりあえず、ヤツデは話を擦りかえることにした。

「それでは一旦お別れです。イチハツさんとエノキさんのお部屋は2103号室なんですよね?もしもですけど、機会があれば、ぼくとビャクブは遊びに行ってもよろしいですか?」ヤツデは聞いた。

「ええ」イチハツは大様に答えた。「もちろんですが、それは構いません」イチハツはそうしながらも雄々しくエノキの肩を叩いている。一方のエノキは女々しく恥ずかしがっている。

ビャクブはイチハツとエノキをいいコンビだなと思いうれしい気持ちになった。ただし、ビャクブは岡目八目という言葉もあるとおりそのやりとりを滑稽だとは思わなかった。

ヤツデとビャクブの二人はエノキとイチハツにも別れを告げ自室である1201号室の部屋へと向かうべく歩を進めた。ビャクブはその途中でヤツデに大盤振る舞いすることを約した。

ビャクブはヤツデのおかげでイチハツ・エノキ・バニラという三人の人間と知り合いになれたから、本当は心の底からうれしかったのである。ビャクブは人付き合いが好きな方である。

とはいえ、ビャクブは何を振る舞ってくれるのかと思えば、持っていたガムである。ビャクブはけちん坊というよりも愉快な人間なのである。文句を言うのもおこがましいと思ったヤツデは喜んでその優待を受けることにした。ヤツデは神経質なだけではなく謙虚で謹厳実直な人間なのである。


ヤツデとビャクブの泊まる1201号室の部屋はツイン・ルームである。室内は楚々としており清潔である。窓は一カ所に大きいものが二つだけなので、多少は小暗いが、ヤツデとビャクブは一目見てこの部屋を気に入った。なによりも、ヤツデはホテルの部屋というものの雰囲気が大好きなのである。

ヤツデはおっとり刀にならないようにするため食事と風呂場の使用時間はしっかりと確認しておいた。ビャクブは尊大に構えているが、神経質なヤツデは確認を億劫に思わない。

1201号室の部屋の中では早速ここに来る途中で小耳に挟んだこのホテルでの殺人事件が話題になっていた。その話を聞いた時は当然のことながらヤツデとビャクブも大いに驚いた。

ビャクブはさっき中年の夫婦が殺人事件について話している時にどういうことなのかと話に入れてもらったのである。とはいえ、ここはトイワホー国だから、ビャクブは煙たがれることもなく少しの情報をくれたので、その夫婦に対してはビャクブも最後に『親切スタンプ』を押させてもらった。存外『親切スタンプ』はこういう時にも役に立ってくる。

「それじゃあ」ビャクブは重ねて聞いた。「ヤツデは本当に死体の発見現場に行かないのかい?」

今のヤツデは部屋に来る途中に自動販売機で買ったペットボトルを備え付けの冷蔵庫に入れている。その冷蔵庫の中は空の状態である。蛇足にはなるが、ヤツデの買ったペットボトルの中身はメロン・ソーダである。炭酸の中ではメロン・ソーダがヤツデの一番の好物なのである。

「うん」ヤツデはベッドに腰かけながら言った。「ぼくには行く気はないよ」

「ようするに」ビャクブは皮肉めいた口調で言った。「ヤツデには好奇心っていうものがないんだな」

「とんでもない。普通は人が身近で亡くなって興味を持たないなんてほとんどありえないよ。事件に対する興味は人並みにぼくだってあるし、知らない人とはいえ、ぼくも人が亡くなったことについては心を痛めているんだよ。だけど、ぼくはエサに釣られてやって来た小魚よろしく自分から進んで野次馬になるのはちょっと気が引けるからね」ヤツデはそう言うと顔を上げてわかってもらいたそうにしてビャクブを見つめた。察しはつくかもしれないが、ヤツデは押し問答というものが大嫌いなのである。

そもそも、ヤツデは争い事の全てが嫌いである。だが、ビャクブは揉め事を好む性格だという訳でもない。ビャクブは呆れたような調子で首を左右に振った。

「おれは野次馬も悪くはないと思うよ。野次馬は自分の身にいつ起こるかも知れない危険に対して対策の意味で見学をするっていう立派な大義名分があるんだからな。まあ、トイワホー国では一概にそうとは言えないかもしれないけど」ビャクブは途中から少し自信がなさそうになった。

「野次馬はそういう動物的な本能によるものなのかな? ビャクブはとにかく帰ってきたら、ぼくにもお話を聞かせてよ。ぼくも社会勉強はしたいからね。首を長くして楽しみに待っているよ」

「ああ。わかったよ。それじゃあ、ヤツデはおれの帰還を楽しみにしていてくれよ。トイワホー国では殺人事件なんて滅多に起こらないからな。でも、結局はヤツデも気になるなら、おれと一緒にくればいいのに」ビャクブはぶつくさ言いながらクリーブランド・ホテルの二号館の一階へ向けて部屋を出て行った。そうはいっても、ビャクブは気を悪くした訳ではなく少しヤツデをからかってみたくなっただけである。だから、ビャクブがヤツデとケンカをしたという捉え方は思い過ごしである。

ヤツデはよく我がままを言うが、それは基本的にビャクブにだけである。ビャクブはそれに慣れっこになっているので、その程度のことはビャクブも快く受け入れているし、なによりも、言いたいことはビャクブの方もヤツデに対しては言えるから、それはお互いさまである。ヤツデとビャクブの二人の結束力はそれ程に強いということである。ヤツデとビャクブは名コンビである。

 一人で部屋に残ったヤツデは少し寂しい気もしたが、とりあえずはもうすぐで読み終わる本を読むことにした。ヤツデは用意周到なことにちゃんと次に読む本も持参してきている。


ヤツデは部屋の中で窓際のイスに腰かけている。ヤツデは小説のプロローグを読み終えると本から顔を上げて静かに外を眺めた。今はビャクブがこの部屋を出て行ってから15分が経っている。

ヤツデはその内におもしろそうにして外で行われている子供たちのバドミントンを見ることにした。とはいえ、ヤツデは別に本を読むモチベーションを失った訳ではない。

ヤツデはなんとなく無邪気に遊んでいる子供たちを羨ましく思ったのである。ヤツデは人と仲良くしていたいから、アット・ホームな雰囲気は大好きなのである。

ヤツデは殺人事件についてビャクブがどんな情報を仕入れてくるのだろうとぼんやりと考えていた。すると、部屋の扉はやおら開いた。ヤツデは顔をそちらへと向けた。

「今日の夕食の予定はキャンセルされたよ」ビャクブは部屋に入ってくると前置きなしで言った。一瞬は戸惑った様子だったが、意味は間もなくわかったので、ヤツデはがっかりしてしまった。

「ぼくは今日の夕食を楽しみにしていたのに、それは残念だね。でも、どうしてなの?」ヤツデは聞いた。「バニラさんになにかあったのかな?」ヤツデはすでに悪い予感を感じ始めている。

「ああ。それは当たらずと言えども遠からずだな。バニラさんとは偶然にも殺人現場の近くで会ったんだけど、被害者のクローブさんっていう人とバニラさんは驚いたことにも知り合いだったみたいなんだ。だから、今回の事件はバニラさんにとって相当にショッキングな事件だったっていう訳だよ」ビャクブは理路整然と話した。ビャクブはそうしながらも悲しそうである。

「なるほどね。それじゃあ、バニラさんは確かにぼくたちに面白い話を聞かせている場合ではないね」ヤツデは得心がいった様子である。ビャクブは話の続きを語った。

「そうなんだよ。それとだよ。ヤツデは驚かないでくれよ。おれと同じ野次馬の仲間から聞いた話ではそのクローブさんっていう人の遺体はなんとエレベーターの中から飛び出してきたっていう話なんだ」

「驚かないでくれと言われたけど、それは驚きだね。状況はどうしてそうなったのかな?」

「いや。そこまでの詳しいことはおれも聞いていないよ。でも、この話には尾ひれをつけられている可能性はあると思うんだけどな」ビャクブは慎重なところを見せた。ヤツデは「うん」とそれに同意した。

「その可能性は十分にあるね。ビャクブには他にもわかったことはあるのかな?」

「ああ。わかったことはまだいくつかあるよ。その時にエレベーターの中にいた人たちの話を総合すると、クローブさんの遺体はどうやら6階からずっと乗り合わせていて一階に来てようやく遺体が遺体であるということを認識されたらしいんだよ。さらに驚くべきことにその遺体の心臓にはナイフが突き刺さっていたのにも関わらず、死因はなにかで殴られたことだったみたいなんだ」ビャクブは言った。

「つまり、犯人は撲殺をしたあとでまだ怒りが治まらずにナイフを遺体に突き刺したっていうことなのかな? それとも、その奇行はただ単に捜査を攪乱させるためなのかな?」ヤツデは考え深げにして難しい顔をしている。しかし、ビャクブはきっぱりと話題を切り替えることにした。

「まあ、殺人事件の話はこれくらいにしておかないかい? 聞いた話ではこのホテルの二号館の6階では手品をやっているって言うんだよ。もし、よかったら、ヤツデもおれと一緒に見に行かないかい?」

「いいね」ヤツデは少し微笑んで言った。「ぼくも今度は一緒に行かせてもらうよ」

「それはよかったよ。でも、ヤツデはあんなに群がることを嫌っていたのに、今回は野次馬になり下がってもいいのかい?」ビャクブはからかいの意を込めて少し意地悪そうに聞いた。

「うん」ヤツデはおかしそうにしている。「そうだね。でも、手品の場合は正確には野次馬じゃなくて観客だよ」ヤツデの口調はまるで子供みたいに無邪気である。

実は手品を間近で見たことがないので、ヤツデは楽しみでしょうがないのである。それはビャクブとて同じことである。ビャクブはまるで決戦の地に行くかのような気の入りようである。どうせなら、ビャクブは手品の種明かしをしようと思って張り切っている。

 ヤツデの方はまるで鬼婆に会いに行くかのように自信がなさそうにしている。手品は確かに楽しみだが、ヤツデは人込みが苦手なのである。とはいえ、当然のことではあるが、鮨づめにされるようなことはあり得ないので、ヤツデはいつものとおり気にしなくていいことを気にしている。

ヤツデとビャクブは手品を見に行くという程度のことでも各々に気持ちを奮い立たせ一応は部屋に鍵をかけておくことにした。それが終わると、ヤツデはビャクブと共に自室を後にした。


ホテルの部屋で勝手に催し物を開催するというのは少々突飛に思えるかもしないが、このクリーブランド・ホテルはご多分に漏れずトイワホー国の制度の下で皆が寛容なのである。

そのため、多少のチップを払えば、部屋でも大抵のことはさせてもらえる。2602号室のドアは開け放されており傍には一人の女性が綺麗な身なりで立っていた。

ヤツデとビャクブはそんな2602号室にやって来た。ささやかなショーはすでに終りの方だった。テンダイという名の手品師はコップを使ったコイン・マジックを終えたところだった。

少人数の観客と向かい合って演じる手品はクロース・アップ・マジック(テーブル・マジック)というが、今のテンダイが演じていたのはまさしくそれである。テンダイは部屋の中心に移動されたテーブルの前に立っている。その周りを6人のギャラリーが取り囲んでいる。

ヤツデとビャクブの二人は口々に「すみません」と言いテンダイの周りを囲んでいた人たちに隙間を作ってもらい前にいる人たちの頭の隙間からテンダイを見てみることにした。現在のテンダイは黒縁メガネをかけておりシルク・ハットを被っている。胸元には蝶ネクタイを締め、全身は黒ずくめの服装をしているので、テンダイはいかにも魔術師マジシャンらしい格好をしている。

ほとんどこの部屋はヤツデとビャクブの部屋と寸分の違いもないツイン・ルームである。しかし、この室内には雰囲気を醸し出すために少しばかりの装飾も施されている。例えば、カーテンは黒いものに取り換えられているし、テーブルの上には真っ白なテーブル・クロスが引かれている。そのテーブルの上には瑠璃色のカクテルとカーネーションを生けた花瓶が両脇に置かれている。

テンダイはそんな丸テーブルの周りを取り囲むようにして座っていたり立っていたりする観客たちから一心に注意を払われている。すでにテンダイの手品を見ていた何人かの人たちはそんなテンダイに羨望の眼差しを送っている。ビャクブは手品のお披露目に間にあいほっとしている。

「さて」テンダイは言った。「よろしければ、そちらのマドモアゼルはこちらのトランプから一枚をお選びになって下さいますか?」テンダイは物々しくそう言うと軽やかな手つきで52枚のトランプをテーブルの上で扇形に広げて見せた。つまり、今度はカード・マジックを始めようというのである。

「おっと、失礼しました。うっかりしていました。その前にそちらのムッシューは念のためシャッフルをお願いできますか?」テンダイは傍にいたチコリーという名の少女に対しお詫びのためにお辞儀をすると同じく傍にいた恰幅のいい紳士に対してカードを渡した。渡された男性は訝しげな目つきでカードを切り始めた。テンダイは返却されたカードを丁寧に整えてから大げさな口調で言った。

「マドモアゼルは私にカードが見えないよう一枚のカードをお取りになり数字と絵柄をよく覚えていて下さい。そのカードはその他の皆さまも覚えていて下さい」テンダイは懇願した。

青色の瞳をしたチコリーはテンダイに言われたとおり一枚のカードを抜き出し確認をすると他の皆にもそれを見せた。ビャクブは食い入るようにしてチコリーの見せてくれたカードをしっかりと確認した。チコリーの引いたカードは「ダイヤの二」だった。

 テンダイは「それでは私にお返し下さい」と言うとカードの下に手をすべり込ませ丁寧な手つきでチコリーからカードを受け取った。不正は確かに見られなかったが、ビャクブはその時にまるでテンダイが透視したかのようにテンダイのメガネが輝くのを見て思わずたじろいだ。

一方のヤツデは懐中のスマート・フォンがあるのを確認しており全くそんなことには気づいていなかった。ヤツデは能天気なのである。ヤツデのジーパンのポケットには電車の自動改札機やバスで使うプリペイド・カードが入っているのだが、ヤツデは時々それもちゃんと入っているかどうかを確認しないと不安になってしまうのである。ヤツデは変なところが能天気ではない。

「実を言うと、私はマドモアゼルのお選びになるカードを始めから知っていて予知しておりました」テンダイはヤツデの能天気さなんてお構いなく落ち着き払った顔をして微笑を浮かべている。ビャクブはそれを受けると思わず息をのんでしまった。テンダイは落ち着いた口調で「それでは皆さま」と話を続けた。

「そちらの花瓶をよくご覧になって下さい」テンダイはテーブルの上の花瓶を指さした。観客の皆はテンダイの指さす方を向いた。ヤツデとビャクブはそれに倣ったが、そこには確かになにかしらがあった。花瓶の花にはカードが挟まっていたのである。

テンダイはチコリーの選んだカードをひっくり返し確かめるというよりも当たり前だといった表情で予言の的中に満足そうな笑みを漏らした。ヤツデはポーカー・フェイスである。

「マドモアゼルはそのカードをお取りになって下さい。そのカードはあなたがお選びになったカードではありませんか?」テンダイはゆっくりと問いかけた。チコリーはそのカードを手に取った。

チコリーはすると「あ!」という感嘆の声を漏らし大きく目を見開いた。そのカードは「ダイヤの二」のカードだった。皆にもそのことがわかると「おー!」とか「ブラボー!」といった感嘆の声が漏らされることになった。ヤツデとビャクブは無言で拍手を送っている。この場のざわめきは「あんたが一番」という酔っ払いのおどけた声を最後にして薄れて行った。

「私はここまでこの時を共有させて下さった皆さまが楽しんで頂けたことを切に願っております。どうもありがとうございました。それではご機嫌よう」テンダイはそう言うと突然に色々な色のテープを手から放って立ち上がり右手をお腹の方へ動かし慇懃にお辞儀をした。

ビャクブは粋な演出だなという冷静な感想を抱いた。ギャラリーは傍にあった入れ物に小銭やお札を入れ「がやがや」と次第に帰って行った。小銭を入れる際のヤツデは小銭をテーブル・クロスの中に転がしてしまった。ヤツデはそれを取りに行くためにしゃがんだ。

「お銭は私がお取りしましょう」テンダイは親切に申し出た。「よくあることです」

しかし、すでにしゃがんでいたヤツデはそれを丁重に辞退した。それを見ていたビャクブは傍にやって来てテンダイに対し賛美の言葉を並べることにした。テンダイはうれしそうにしている。

ヤツデはビャクブがそうしている間にうっかり頭を机にぶつけるという三枚目を演じていたが、それは幸いにも誰にも見られていなかった。ヤツデはけっこうドジなところがあるという訳である。それはともかくヤツデも小銭をちゃんと器に入れることに成功した。

「どうもすみません。お騒がせしました。ぼくはとてもおもしろいものを見せてもらいました。ありがとうございます」ヤツデはビャクブとテンダイの会話に介入しテンダイに対してお礼を言った。

「こちらこそ」テンダイは言った。「この度はご覧になって頂いてありがとうございました」テンダイは懇ろなお礼を述べた。ビャクブはテンダイに対しお別れの言葉を述べた。ビャクブは先程に見せてもらったテンダイの手品によってすっかりテンダイのことを尊敬の眼差しで見ている。

 テンダイは鉤の手に曲がったテーブルの角に手を置いていたが、ヤツデはそれを見て顔見せをできないかのように恥ずかしそうにした。ビャクブはそれを不思議そうにして見ている。

ヤツデはテンダイに対しお別れの言葉を述べると一旦はビャクブと一緒に自室へと下がって行った。今のところのヤツデにとってはこのホテルで殺人事件があっても対岸の火事のままである。


ヤツデとビャクブは手品を見終わると自室でゆっくりした。隔意なくビャクブがゴロ寝していると、ヤツデは角刈りで鉤鼻のおじさんの話をしたがったので、ビャクブはそれを聞いてあげることにした。そんな話がどこから出てくるのかというと、それはヤツデの読んだ本の話である。ヤツデはたまにビャクブに対し自分の読んだ小説の話をしビャクブもそれを聞きたがる。

ヤツデとビャクブは昼食の席に向かうため廊下を歩くことにした。クリーブランド・ホテルの昼食はバイキングである。四六時中とまでは行かないが、実を言うと、ヤツデはこの時を楽しみにしていた。各種の料理を客が好みによって自由に取り分けて食べる形式のことはバイキングやビュッフェと言うが、バイキングとビュッフェの二つはどちらも食べ放題という同じ意味を持っている。

立食形式はスタンディング・ビュッフェと言い、イスに座って食べる形式をシッティング・ビュッフェと言うが、前者は立食パーティなので、クリーブランド・ホテルの形式は後者である。

食事に行く途中のヤツデとビャクブはしばらく会話をしていなかった。とはいえ、辛気くさい雰囲気とは程遠い空気である。ビャクブは楽しそうにして口を開いた。

「そう言えば、手品はやっぱり面白かったな。でも、トリックは全くわからなかったよ」

「そうかな?」ヤツデは小さな声でくすくす笑ってから楽しそうにして言った。

「ん?」ビャクブは訝しげにしている。「ヤツデはまるでトリックがわかったような言い方だな」

「うん。たぶんだけど、わかったと思うよ。手品師さんはそれを差し引いても見事な腕前だったね」

「ヤツデにはトリックがわかったのかい? わかったのなら、手品師はどうやって女の子の選んだカードを当てて見せたのかを教えてくれないかい?」ビャクブは懇願した。しかし、ヤツデは言い淀んだ。

「うーん。ぼくは知らない方がいいと思うけどね。第一ぼくの答えであっているかどうかもわからないしね」ヤツデは少し自信がなさそうである。しかし、これはヤツデにとってはいつものことである。

「いや」ビャクブは秘密の開示を願った。「それでも、おれは知りたいよ」

「それなら、ぼくは教えるけどね。方法自体は極めて簡単だよ。カードは予め全てあの部屋のどこかに隠されていたんだよ」ヤツデは少し間をおいてからゆったりとした口調で言った。

「え? いや。そんなことはありえないよ。それは52枚のカードをあの部屋のどこかに隠していたっていう訳だろう? それなら、普通は誰かしら気づくんじゃないのかい?」ビャクブは反論した。ビャクブはしばし驚いて立ち止っていたのだが、とりあえずはすぐにヤツデに追いついた。

「ううん。そんな必要はないよ。カードは5種類くらいしかなかったんだからね」ヤツデはハッキリと言い切った。しかし、ビャクブは信じられないといった様子である。

「いや。でも、あの手品はヤツデだってずっと見ていただろう? カードはあんなにもたくさんあったじゃないか」ビャクブは再び反論を試みた。しかし、ヤツデは動じなかった。ヤツデは少し得意げである。

「うん。カードは確かにたくさんあったね。でも、種類はそれほどなかったんだよ。つまり、あのカードの中には同じカードがたくさんあったに過ぎないんだよ。ぼくはそれを確かめるために小銭を落としてテーブルの裏を確かめてみたら、カードは思ったとおりテーブルの裏に張りつけてあったよ」

「それじゃあ、あの時のヤツデはわざと小銭を落としたのかい?」ビャクブは聞いた。

ヤツデは話をしながらもビャクブと共に食事の席についた。ヤツデとビャクブの二人はその際に手品師のテンダイの相手をしていたチコリーという名の少女と彼女の祖父母である老夫婦の横を通り過ぎて行った。チコリーはヤツデとビャクブの方を気にかけている様子である。

「うん。そうだよ。まあ、カードがなかったら、その時はなかったでよかったんだけどね。ぼくにも好奇心はある証拠だよ」ヤツデは少しはにかんだ様子で言った。テンダイとお別れをする時のヤツデはテンダイに自分のしたことがバレたのではないかと思って恥ずかしそうにしていたのである。

「カードはテーブルの裏か。隠し場所としては少し変なところのような気もするけどな」ビャクブは不信感たらたらである。ビャクブは中々納得してくれないが、ヤツデは諦めずに続けて説明をするつもりである。ヤツデはバイキングの食事を取りに行きながらビャクブと話すことにした。

「確かに手品師と観客のいる近くからカードを現出させた方が驚きは大きいからね。だから、カードの枚数は驚きの大きい場所に置いてあるカードほど多くしておいただけの話だよ。極言をすれば、手品師の彼が広げて見せたカード以外はもしかしたら全部『ダイヤの二』だったということも考えられるしね。ぼくはその確率の方が高いと思うよ」ヤツデはもったいぶらずに話を続けている。

「それはわかったけど、手品師はどうやって女の子の選んだカードを当てたんだろう? 枚数は少なくかったからってまだそれは問題だろう?」ビャクブは聞いた。ビャクブとヤツデはそうしながらもようやく席に着いた。ヤツデは数日間の絶食の経験があるので、食事前の合掌は忘れずにすませてからフォークでステーキに手をつけることにした。料理にありつけたヤツデとビャクブはうれしそうである。ビャクブはヤツデが口をもぐもぐさせているのを見てもどかしそうにしている。

「その答えはきっと鏡だよ」ヤツデは悠長に牛乳を飲んだあとで再び口を開いた。

「鏡だって?」ビャクブはなんのことやらまるでわからないと言った様子で聞き返した。

「それになると、ぼくも少し自信がないんだけどね。彼の手さばきが際立っているから、彼は誰にも気づかれないように掌にものすごく小さな鏡を忍ばせてそれでそっとカードを盗み見ていたんだとぼくは思うよ」ヤツデはそこで言葉を切った。ビャクブには思い当たる節があった。

テンダイはチコリーからカードを受け取る時にテンダイの超人的な能力が働いていたから、テンダイのメガネが光ったのだと単純な性格をしているビャクブは素直に信じていたのだが、実はただ単に鏡を通してメガネが天井の電気を反射しただけだったというのが事実だったのである。

「それにしても」ビャクブは感慨深げである。「ヤツデはよく手品の種がわかったな」

「物事には考え方があるんだよ。ぼくの場合は『白と黒の推理』を使ったんだよ」ヤツデは言った。

ビャクブは意表を突かれたように「白と黒の推理って?」とオウム返しをした。

「ぼくが考えだした謎を解く上で足がかりにするための推理方法だよ。普通は推理をする時ってこう考えるよね。例えば、この人は犯人だろうか? つまり、この人は黒だろうかって考えるでしょう? けど、それだけだと、いつかは息づまる時が来るから、今度は逆にこの人は犯人じゃないんだ。つまり、この人は白だって決めつけるんだよ。なんでもかんでも信じるのはよくないから『黒の推理』は必ず必要になるんだけどね。一旦はあえて物事を信じることによって今度は不都合がないだろうか? 他の事実と矛盾はないだろうかといった新しい疑問が浮かぶことになるんだよ。例えば、さっきの手品で『白の推理』を言うなら、手品師はカードを見たのかじゃなくて見たっていう風に信じるんだよ。そうしたら、そのチャンスはいつあったかっていう次の疑問が出てくるからね。そのチャンスはカードを手品師に返す時だけだってわかったんだよ」ヤツデはビャクブに話を聞いてもらえるのがうれしそうである。ビャクブは使っていたフォークを一旦テーブルに置いた。ビャクブは口にものが入っていて喋れないので、今は隔靴掻痒としている。しかし、この際なので、ビャクブは忙しげにしてフキンでテーブルを拭きナプキンで口を拭いた。それを終えると、ビャクブは「なるほど」と大きく頷いた。

「そういう考え方もあるのか。おれは戦勝のお祝いとして注がせてもらうよ」ビャクブはそう言うとヤツデの空のコップを持って有無を言わせずに牛乳を注ぎに行った。

ビャクブはヤツデのことを尊敬のまなざしで見ていたが、ヤツデにとってはしょせんは過大評価にすぎない。それでも、ビャクブはヤツデの活躍がうれしくてたまらないのである。

ヤツデはいつも腰が低くてあまり自分から進んで前に出ようとはしないので、さっきまでの話については珍しくその例外に位置づけされていたのである。

ヤツデは手品の種がわかったからだけではなく心機一転してますます機嫌がよくなっている。ヤツデはビャクブが喜ぶと自身も喜びたくなるからである。


ヤツデとビャクブの二人は昼食を終え少し1201号室で休憩を取ってからホテルにある25メートルのプールに足を運んだ。ヤツデとビャクブの二人は水着に着替え終えてからシャワーを浴びると少しプールで歩いて思い思いに泳いで楽しむことにした。

実は小学生の頃に習い事としてスイミング・スクールに通っていたことがあるので、ヤツデは久方ぶりのプールを存分に楽しんでいる。ヤツデは背泳ぎをするのが好きなのである。

運動神経がいいので一方のビャクブはバタフライを得意としている。ヤツデのように習い事をしていた訳ではないのにも関わらず、ビャクブのドルフィン・キックは様になっている。

プールにはよく冬の誰も泳がないような季節でも水が溜まっていることがあるが、それは単に水を抜くのが面倒くさいからではない。その水は消火活動に使うために溜まっているのである。その他にも地震とかの災害時に濾過して飲料水にしたり、生活用水に使ったりするためでもある。

「それにしても」ヤツデはビャクブと共にプールの端で立ち止まるとゴーグルを外して愉快そうにしながら言った。「ギラギラの太陽とは対照的でプールの水は冷たくて気持ちがいいね?」

「そうだな」ビャクブは上機嫌である。「これなら、おれは何時間でもいられそうだよ」

「ぼくは何時間もいられると言うと小学生の時に何時間も居残り水泳をさせられたことを思い出しちゃうよ。ぼくは習い事をしていたくせに運動神経が悪かったらかね。それは今も同じだけど」

「え? 本当かい? ちょっと見ていたけど、ヤツデはちゃんと泳げていたじゃないか」

「ごめんね。ぼくは冗談を言ったんだよ。ぼくの冗談はわかりにくいよね。ビャクブは本気にしちゃった?」ヤツデは恐縮そうにしている。ヤツデはどこまでも人がいい。

「ちょっと真に受けちゃったよ。なんだ。冗談だったのか。そういう冗談はどんどん言っちゃってくれて構わないよ。ヤツデは真面目すぎる嫌いがあるからな」ビャクブは言った。

「そうかな? ありがとう。まあ、運動神経が悪いっていうのは本当の話だけどね。ぼくは現にビャクブとは違って少し泳いだだけでも息が上がっちゃうものね。それは運動不足なだけなのかもしれないけど」

「そうかい? でも、ヤツデは冗談を抜きで水泳がうまいんじゃないのかい?」ビャクブは聞いた。

「ううん。水泳は全くうまくないよ。ぼくは元々体が弱かったから、水泳は両親から勧められてやっていただけで本腰を入れていた訳じゃないからね。なにより、ぼくは才能がある訳でもないし」

「なんとなく謙遜の匂いがしないでもないな。あれ? スイミング・キャップがなくなってる。ヤツデはどこかでおれのスイミング・キャップらしきものを見なかったかい?」ビャクブは問いかけた。

「ううん。ぼくは見なかったよ。だけど、今さっきなくなったのなら、ビャクブのスイミング・キャップはまだこのあたりにあるんじゃないかな?」ヤツデはそう言うと周囲を見回した。ビャクブは同様にあたりをきょろきょろと見回している。ヤツデとビャクブの後ろの方からはすると声がした。

「落とされたキャップとはこれのことではありませんか?こちらの水中に落ちていましたよ」

ヤツデとビャクブの二人は振り向いた。すると、午前中に手品を披露していたテンダイという名の男性が白色のキャップを持っていた。テンダイはヤツデとビャクブの隣のレーンで泳いでいたのである。

「ああ。それのことです。どうもすみません。ありがとうございます」ビャクブはそう言うとテンダイの方へとプールの中を移動してコース・ロープ越しにスイミング・キャップを受け取った。

「午前中の手品はとってもおもしろかったですよ。覚えていらっしゃいませんか? ぼくが手品のあとでテーブルの下に小銭を落としたら、あなたは小銭を拾ってくれるとおっしゃって下さいましたよね?」ヤツデは人懐っこく言った。テンダイはすぐにそのことをリメンバーすることができた。

「ああ。あの時の方ですね。覚えています。手品を楽しんで下さってなによりです。ぼくはテンダイと言います」テンダイは礼儀正しく名乗った。テンダイの口調は好意的である。

ヤツデとビャクブはそれぞれ自己紹介することにした。ヤツデとビャクブはもちろんだが、テンダイもトイワホー国の国民として知人が増えてうれしそうである。

「そうだ。ヤツデは手品の種明かしについてテンダイさんに・・・・」ビャクブは言いかけた。

「ううん。そのことはいいんだよ。ビャクブ」ヤツデはビャクブには最後まで言わせずテンダイに気を使い言った。テンダイにとっては手品の種がわかってしまったというのはショックになるかもしれないとヤツデは思ったからである。とはいえ、テンダイは鋭いので、事情はそれを聞いただけでも察することができた。しかし、闊達な性格をしているテンダイはスルーしてくれた。

「それよりも、テンダイさんはもうこのホテルであった殺人事件についてはお聞き及びですか?」ヤツデは新しい話題を口にした。せっかくなので、ヤツデは少し話をさせてもらうことにしたのである。

「ええ。その話は聞いていますよ。なんだか、信じられなくて実感はまだありませんが、ぼくたちの身近で随分と物騒な案件があったものですね」テンダイは淀みなく答えた。

「死体は皆が使うエレベーターの中で発見されるなんてちょっとミステリアスな話ですよね」ビャクブは問いかけた。テンダイは窮することなく頷いた。

「ええ。ビャクブくんのおっしゃるとおりです。エレベーターは上階から下降して一旦止まってから二号館の一階で遺体は発見されたそうですね。ぼくも少しは情報を持っていますが、事件の情報を知った時はすごく驚きました」テンダイは身振り手振りを加えて驚きを表現している。

「はい。そうですよね。ぼくもそうでした」ヤツデは丁寧に答えた。しかし、ヤツデはここでテンダイを引き止めてしまっていることに気がついた。そのため、ヤツデは申し訳なさそうにした。

「ごめんなさい。テンダイさんはせっかく遊泳中だったというのに、ぼくはとんだお邪魔をしてしまいましたね。申し訳ありません」ヤツデは素直に謝った。ビャクブはなんとなくばつが悪そうにしている。しかし、そんな感じはなかったので、テンダイはやさしく否定した。

「そんなことはありませんよ。ぼくの手品を見て下さったヤツデくんとビャクブくんのお二人とお近づきになれてうれしかったです」テンダイはそう言うとヤツデとビャクブに対し手を挙げて別れを示してから威勢よくクロールでプールの向こう端まで泳いで行った。

しかし、当然と言えば、当然だが、ヤツデとビャクブの二人には現在のテンダイが窮命に陥っているということに気づくことはできなかった。しかし、それはのちに判明することである。

何もなければ、能天気なヤツデは気持ちよく泳ぐことにしてこの時ばかりはクリーブランド・ホテルでの殺人事件も頭の中から抜けてしまっていた。

もし、なにかの事件があっても基本的には平然としていられるので、ビャクブは殺人事件について気にかけながらも平常心のまま水泳を楽しむことになった。


時はその後も少し進んだ。ヤツデとビャクブの夕食の席においてはささやかなトラブルが発生してしまった。昼前に手品師のテンダイの相手を務めていた少女のチコリーが蹴躓いてしまってちょうど傍にいたヤツデの服に持っていたコップの中のオレンジ・ジュースを零してしまったのである。

とはいえ、チコリーは別にコップに並々と入っていたジュースを派手にぶちまけた訳ではなくちょびっと溢れたジュースがヤツデの服に付着しただけである。その点については不幸中の幸いである。

ヤツデの後ろを歩いていたので、ビャクブはその一部始終を見ていた。チコリーは急にふらっとしたので、ビャクブはチコリーが発作かなにかなのかと思ったが、実際はそうではなかった。

「実は悩み事があってついよそ見をしちゃったの。ごめんなさい」小学校6年生のチコリーは恐縮している。チコリーはそうしながらもヤツデとビャクブの顔色をちらちらと窺っている。

「ううん」ヤツデは持ち前の寛容なところを見せた。「気にしないでいいよ」

ヤツデはチコリーが自分の服のジュースをタオルで拭き取ろうとするのを制止した。ヤツデはやさしい心とデリケートな心の持ち主なので、なにかのミスをしてしまった人のことは許してしまうし、その人がそれを申し訳なく思って反省しているのなら、大抵は尚さら許してしまう性分なのである。

それは完璧な人間ではないのだとヤツデがいつも自覚しているからである。チコリーはそんなヤツデの気持ちをなんとなく察し弁償するのを諦めることにした。

「ジュースを零しちゃったのに、許してくれるなんてお兄さんが親切な人でよかった。それじゃあ、私は『お詫びカード』をあげるね」チコリーはそう言うと『お詫びカード』なるものを差し出した。『お詫びカード』とは相手に粗相してしまった時に渡すカードであり、別名は『お助けカード』とも言う代物である。『お助けカード』の説明はあとに回すことにする。

ティッシュは今朝にバスの中で女性に上げてしまったので、ヤツデはハンカチを取り出し服を拭いている。今のヤツデとビャクブは自分たちの席についている。チコリーはその傍に立っている。

「ところで」ビャクブは言った。「君はその年で何をそんなに悩んでいるんだい?」ビャクブは服に染みが残らないようと奮闘しているヤツデを横目に見ながらチコリーに対して聞いた。

「実は今日あった殺人事件で私のおじいちゃんが疑われているの。おじいちゃんは死体が発見されたエレベーターに乗り合わせていたのよ」チコリーは内緒話をするような小声で言った。

「え?」ビャクブは心の底から驚いたような口調で聞き返した。「それは本当かい?」

「ジュースを零してこんなことまで言うのはなんだけど、あなたなら、この問題を解決してくれないかしら?」チコリーはヤツデをちらっと見ると悪戯っ子のような目をして含蓄のある物言いをした。

「ぼくなら、問題を解決できると思うのはどうしてなの?」今度はヤツデが少し驚いた様子で聞いた。

「それはね。私は今日の昼食の席で手品の種明かしをしているのを聞いたからなの。聞く気はなかったけど、自然と聞こえちゃったの。聞いたのは途中からだったけど、お兄さんの種明かしはとってもすばらしかったよ」チコリーは無邪気に褒めた。チコリーは子供の特権をフル活用している。

「そうだったんだ。褒めてくれてありがとう。でも、手品の種明かしと本物の殺人事件の捜査とではまるで別物だよ。それこそ、黒白の差はあるよ。ぼくにできるとは思えないね」ヤツデは困りきってしまっている。ヤツデは話に合ったとおり自分を卑下するのが得意なので、今回のチコリーの依頼に関して言えば、自分は使い物にならないのだと信じ切ってしまっている。

「いいえ。別に捜査をしてくれなくてもいいのよ。お兄さんはただおじいちゃんの疑いを晴らしてくれるだけでいいの。ダメかしら?」チコリーはそう言うと純真無垢な瞳でヤツデを見た。

「そっか。まあ、時間なら、少しはあるから、引き受けてもいいけど、期待はあまりしないでおいてね。君はもしかしてそれが言いたくてぼくにジュースを零したっていうことはないよね?」ヤツデは聞いた。図星だったチコリーはもじもじした。このような場合では指摘されたら、大人しく観念するところはトイワホー国の国民らしいし、それはチコリーの素直さも物語っている。

「うん。よくわかったね。お兄さんはもしかしてそれも推理したの?」チコリーは怖々と聞いた。しかし、ヤツデは拍子抜けするほど能天気な返答をチコリーに返した。

「ううん」ヤツデは全く不機嫌ではない。「それは違うよ。ただ、そんな気がしただけだよ」

「ごめんなさい。お兄さんはやさしそうな人だから、許してもらえるんじゃないかなって思っちゃったの。私はチコリーよ。よろしくね」チコリーは簡単に開き直ると自己紹介した。

今までは目をパチクリさせながらじっとヤツデとビャクブの二人のことを見つめていたのだが、チコリーの祖母であるミツバは席を立ちこちらに向かってやって来た。

チコリーは祖母のミツバと祖父のシロガラシと一緒にこのクリーブランド・ホテルまで旅行に来ているのである。ミツバはお淑やかで物静かな白髪のおばあさんである。

「おやまあ」ミツバはヤツデの濡れた服を見ると徐に言った。「うちのチコリーが服を濡らしてしまって本当にどうもすみません」ミツバは完全に平身低頭してしまっている。

「いいえ」ヤツデは宥めた。「いいんですよ。大したことではありません」

「あのね。あれ? 名前はなんていうの?」チコリーは聞いた。

「おれはビャクブだ。こっちはヤツデだよ」ビャクブは親切に申し出た。

「ヤツデさんとビャクブさんはおじいちゃんの疑いを晴らしてくれるのよ」チコリーは話を続けた。ヤツデはいよいよ正式にミッションが発表されて少し恥ずかしそうである。

「あらあら、そうなんですか? チコリーが無理を言ってしまったのではありませんか?」ミツバは聞いた。チコリーはお転婆な女の子なので、トラブルはしょっちゅう起こしているのである。

「いいえ」ヤツデはやさしく否定した。「そんなことはありませんよ」

「そうだ。ヤツデさんとビャクブさんはあとでおじいちゃんからお話を聞かせてもらうといいと思っているんだけど、私達のお部屋の番号は何番だったかしら? おばあちゃん」チコリーは言った。

「私達のお部屋は2309号室よ。チコリー」ミツバは答えた。ビャクブはそれを心の中で復唱した。

「それじゃあ、ヤツデさんとビャクブさんはあとで2309号室に来てもらってもいい?」チコリーは確認をした。チコリーは自分の思った通りに話が進んで嬉々としている。

「うん。それでいいよ。それじゃあ、ぼくたちはまたあとで会おうね」ヤツデはマイルドに言った。自分にできることなら、どんなことでも相手の願意を叶えてあげたいと考えるのはヤツデのスタイルである。一方のビャクブについてもそれは言える。ただし、ビャクブの場合は少しヤツデよりもルーズなので、ビャクブは自分にできないことまでも安請け合いしてしまうこともある。ビャクブは眼識がないと言ってしまうと酷だが、ようはとびきりのやさしさを持ち合わせているということである。

ちょうどここで食事が終了したので、ヤツデはチコリーとミツバを残しビャクブと共に昼食の席を辞した。その際のミツバはチコリーの粗相について恐縮して再びヤツデにお詫びした。

その後のチコリーはミツバに向かって歓笑した。チコリーのお茶目っぷりは重々承知しているし、ミツバは人生経験も豊富でトイワホー国の国民がどれほどやさしいかも知っている。

ミツバはそれでも「今後は人に頼みごとをする時に飲み物を人に零さないように」とチコリーにやさしく注意しておいた。チコリーはそれを忘れないよう胸に誓った。


 外は片雲がちりばめられているので、現在は少し暗いが、クリーブランド・ホテルのロビーはそれと対照的にシャンデリアの明かりがとても綺麗である。クリーブランド・ホテルにやって来る人にとってはこれだけでも十分な歓待になりうる。クリーブランド・ホテルのラウンジには間断なく誰かしら人がいるが、このラウンジはそれほど過ごしやすくて快適な場所だということである。

現在のバニラは黄色の上着を着こなしている。それはバニラの内に秘めた活発さとは対照的なイエロー・ベースの肌とよく似合って映えている。肌着のTシャツは黒だが、黄色はバニラの好きな色なのである。今のバニラはイスに座りながら小さなタオルを肌身離さず握りしめている。

偶然にもロビーでバニラと出会ったので、食事に誘ったのに、断ってしまった理由をイスに座り、ヤツデとビャクブはバニラから聞かせてもらうことにしていた。

「8年前です。私が18歳だった時にルーという兄がいたんです」バニラは暗い口調である。

「バニラさんは今『兄がいた』とおっしゃったね。つまり、バニラさんのお兄さまはすでに亡くなられているのですか?」ヤツデは合いの手を入れた。ビャクブは沈黙を貫いている。

「ええ。兄は死んでしまったので、今はもういません。当時の兄は22歳でした」バニラは話を再開している。ヤツデとビャクブは黙って耳を傾けていたが、バニラは不意に憤りを見せた。

「私の兄は殺人者なんです。兄はある時に階段から転んで骨折した時がありました。兄は入院したプスタ県の病院でアイさんという看護師を殺しました。嘘みたいですけど、本当なんです」

ビャクブはいきなりの思いがけない発言に対し息を飲んだ。一方のヤツデはどう反応していいのやら戸惑っている。こんな話を聞くのはヤツデもビャクブも初めての経験である。バニラは決して癇癪持ちではないが、この話をする時はつい興奮してしまうのである。

「その病院では兄とアイさんとのトラブルは有名だったんです。アイさんから冷たくされたから、殺人の動機はたったそれだけのことだったんです。兄はたったそれだけのことでアイさんを病院の屋上から突き落として殺害したんです」バニラは少しここで間をおいた。その件の病院は西棟と東棟にわかれている。西棟はヘリ・ポートとして利用されているが、東棟は立ち入りが自由になっているのである。

「兄はその数日後に自殺しました。どういうつもりなのか、兄はアイさんを突き落とした同じ病院の屋上から身を投げて死んだんです。兄が入院中に病院で使っていたノート・パソコンには「殺人の責任を取って自殺する』という遺書があったから、自殺でほぼ間違いないと断定されました」バニラは言い終えた。

「それはお気の毒です。どうか、バニラさんはお気を悪くなさらないでもらいたいのですが、バニラさんのお兄さんはひょっとして心神耗弱者か、心神喪失者だったのですか?」ヤツデは聞いた。

「いいえ。兄は私達とどこも変わらない普通の人でした。それなのにも関わらず、私は訳がわかりませんでした。あんなに心のやさしかったお兄ちゃんにどうして殺人なんて大それた真似ができたのか、今でもわからないんです」バニラは悲哀にも言った。今のバニラは頭を垂れてしまっている。

「バニラさんはその時にこのホテルで殺害されたクローブさんという方と知り合ったんですね?」ヤツデは問うた。しばしの間は沈黙を守っていたが、ヤツデはやがて話の本筋に水を向けることにした。

「ええ。そのとおりです。クローブさんは私がどうしようもなく落ち込んでいた時に親切にもやさしい言葉をかけてくれたり面倒を見てくれたりしました。そんなクローブさんが亡くなったと聞いたら、ショックで・・・・」バニラは言葉を濁した。しかし、バニラは瞳を潤ませながらも微笑した。

「今朝は面白いお話をするなんて言っていたのに、こんなお話を聞かせてしまってごめんなさい。こんな話は聞きたくなかったですよね」バニラは述べた。

「いいえ。バニラさんはつらいお話をよく聞かせて下さいましたね。ぼくたちとはお食事がご一緒できなかっただけなのに、ありのままをお話になってくれてありがとうございます。バニラさんのお気持ちはよく理解できましたし、その気持ちはとてもうれしく思います」ヤツデはいつものやさしい口調で応えた。ヤツデは心の底からバニラに言葉を投げかけている。

「ありがとうございます。あの、ヤツデさんとビャクブさんはいつ頃までクリーブランド・ホテルに滞在なさるおつもりなのですか?」バニラは恐る恐るといった口調で聞いた。ヤツデは答えた。

「滞在は今日も含めて4日間する予定ですので、ぼくたちは10日までここにいます」

「私は11日まで滞在する予定ですので、もし、私の気分がそれまでに落ち着いたら、ヤツデさんには改めてお礼させてもらえますか?」バニラは義理堅く提案した。ヤツデはやさしく微笑んだ。

「バニラさんはそうおっしゃって下さるのなら、そうさせて頂きます。ですが、くれぐれも無理はなさらないで下さいね。心が沈んでいる時は何をやるのも大変ですからね」ヤツデは言った。

 ヤツデは自分が鬱病だった時のことを思い出しているのだなとビャクブは思った。自分ではそんなつもりはないが、バニラの今の気持ちはヤツデが鬱病だった時にヤツデにとっての心の寄りどころの役割を果たしたことのあるビャクブにも簡単に察してあげることはできる。

「今は悲しいと思いますが、立ち直れる日はきっと来ると思います。大したことは言えませんが、おれたちはそれに時間がかかっても全部を受け入れるつもりなので、バニラさんは安心して下さい」ビャクブは励ました。元来のビャクブは少しルーズだと言ってもやさしさはきちんと持ち合わせているのである。ヤツデは隣にいるビャクブのことをやさしいまなざしで見つめた。

「わかりました」バニラは少しだけ落ち着きを取り戻した。バニラは内心で感無量である。ヤツデとビャクブと話をして心の内を明かせただけでも少し気持ちが楽になったからである。いつの間にか、バニラの瞳を濡らしていたものは悔し涙から感涙に変わっていた。

ヤツデとビャクブはバニラと辞去した。ヤツデは歩きながら考え深げな顔をしていた。ヤツデが無言なので、ビャクブは同様にして特に何も言わなかった。ヤツデはおそらくバニラに対し同情しているので、悲しい気持ちになっているのだろうなとビャクブは思った。

ヤツデはドラマや映画を見ていてもよく感情移入してしまって自分までも悲しい気持ちになってしまうことが多いのは確かに事実である。ヤツデはセンチメンタルなのである。

しかし、今のヤツデが考えていることはバニラの境遇に関するものではなかった。気重なのは事実だが、ヤツデはクローブが殺害されたことについてある一つの可能性に思い至っていた。


ヤツデとビャクブと別れると、バニラは自室である1301号室の前まで戻って来た。1301号室はトリプル・ルームである。バニラは他に二人の女友達とホテルに宿泊している。

バニラは入室する前に怪訝そうな顔つきでドアの下に挟まっている封筒を拾い上げた。差出人は不明だが、その封筒には大きな文字で「バニラさんへ」と書かれていた。

バニラは封筒について不思議に思いながらも靴脱ぎできちんとスリッパに履き替えた。クリーブランド・ホテルの部屋は土足が厳禁なのである。バニラは入室しながら封を開け手紙を取り出し文章を読んだ。バニラはその途端に歩みを止めた。バニラは文面を読んで恐怖の念にかられたのである。スミレは元々1301号室にいたので、物音には敏感に気づいた。ところが、自分のところへは誰も姿を現さないので、スミレは不思議そうにした。スミレはバニラと同室に部屋を借りている友人の一人である。

「誰か、帰ってきたんでしょう? どうしたの? バニラなの? シランなの?」スミレは部屋の奥から声をかけた。シランとはバニラとスミレのもう一人の女友達のことである。

しかし、バニラからの返事はない。スミレはそれを不審に思いバニラの見える位置までおもぶるに歩いて行った。すると、そこには瞠若し青ざめた様子のバニラが立ち尽くしていた。

スミレはそれを認めると心配そうにしたが、バニラは手紙をポケットに入れるとすぐに明るい顔を取り戻した。バニラはヤツデとビャクブという二人の新しい友達についてスミレに対しすぐに話し出した。そのため、スミレは不審そうな顔ではなくなった。

しかし、その後のバニラとスミレとシランにとっては少なからず今のバニラに届いた信書は影響を及ぼし、そればかりか、これからは様々な波紋を呼び寄せることになる。


今のヤツデとビャクブはエレベーターを使わず階段の方へと歩を進めている。もっとも、クリーブランド・ホテルの二号館のエレベーターは警察の現場検証のため立ち入り禁止になっているので、上階へと行く道はそれしかないので、当然と言えば、当然の話である。

とはいえ、五体が満足で健康体の時はいつでも些かの時間はかかろうともヤツデはエレベーターやエスカレーターを使わず彳亍することを好んでいる。ビャクブはどっちでもいい派だが、ヤツデのことは理解しているので、ヤツデに合わせてくれることはよくある。

ただし、屍が遺棄されていたエレベーターに好んで乗り込む者は少ないかもしれない。もし、そんな稀有な人がいたとしてもそのエレベーターは現場だということを知らない者くらいということもありえる。トイワホー国の国民にはヤツデと同じように特に神経質という国民性もあるからである。クリーブランド・ホテルの二号館ではエレベーターが使えないため、大抵はこの頃ではヤツデとビャクブも利用した階段に人が途絶えることはほとんどない。

チコリーからは昼食の席で現場に居合わせたチコリーの祖父であるシロガラシに実際に話を聞かせてもらうといいと伝えられていたので、現在のヤツデとビャクブはシロガラシの元へと行ってみることにしたのである。ヤツデはようやく2309号室の前に到着すると部屋のチャイムを鳴らした。

「どうぞ」チコリーは言った。「二人ともわざわざ来てくれてありがとう。中へ入って」チコリーはうれしそうにしてヤツデとビャクブの二人のことを出迎えてくれた。

ヤツデとビャクブの二人は2309号室の部屋の中へと足を踏み入れた。ミツバは部屋の奥の方にあるイスに腰かけている。一方のシロガラシは部屋に備えつけられたテレビを見ていた。

しかし、相当に珍しいことだが、シロガラシの贔屓にしているプロ野球の球団はちょうど三重殺トリプル・プレーをされてしまったところだった。シロガラシには気の毒なことである。

「そんなことってあるのかいな」シロガラシはそんなことを大声で叫んでいる。しかし、シロガラシはヤツデとビャクブを見つけるとニコニコしながら妙に元気な口調で陽気に二人を向かい入れてくれた。

「ようぞ」シロガラシは言った。「わしはシロガラシです。チコリーの言っていた名探偵とはあなた方じゃな?」シロガラシは当然のことながらチコリーから話を聞いていた。ヤツデは丁寧に会釈した。ヤツデはいつでも紳士的である。しかし一方のビャクブは不服そうである。

「おいおい。おれたちは名探偵に祭り上げられているじゃないか。チコリー」

「そうかな?」チコリーは「ごめんなさい」と一応の反省をした。しかし、チコリーはお転婆なので、内心では舌を出している。ヤツデはそれを見抜き微笑ましく思った。

「正直に申し上げてぼくらは名探偵ではありませんので、ご期待に添えるかどうかはわかりませんが、まずはシロガラシさんがエレベーターに乗り合わせた時の状況をお聞かせ下さいませんか?」ヤツデはお願いした。ビャクブは気を取り直し聞き手としての役割を果たすことにした。

シロガラシは待っていましたと言わんばかりの熱弁を振るい立て板に水でぺらぺらとお喋りを始めた。シロガラシは基本的に人付き合いが好きな方である。

「わかりました。わしはこの2309号室の部屋がある二号館の三階から問題のエレベーターに乗り合わせたのじゃが、確か、その時は遺体も含めてすでに三人が乗っておりました。エレベーターはそのままわしを乗せて他の人と同じように止まることなく一階まで下がって行ったんじゃが、その間は別に異常はありませんでした。それでも、その場にいたわしらにとっては一階にエレベーターが到着して死体が転がった時の衝撃はとんでもないものじゃった。あれはまさしくおもちゃ箱をひっくり返したようじゃったのう。エレベーターにはそこにきてバカに体のでっかい男も乗り合わせていたもんで、あれは異様な光景でした」一旦はシロガラシの話が途切れた。ヤツデはその隙を逃すまいと口を挟んだ。

「ぼくはここまでお話を聞かせて頂きましたが、エレベーターにはシロガラシさんが乗る前にも三人の方が乗り合わせていたということになりますよね? つまり、犯行はエレベーターの中で行われたのではなければ、遺体をエレベーターまで運んだ人間はその内の三人か、あるいはその三人よりも前に遺体を運んだだけでエレベーターをあとにした人間がいるという可能性もありますよね? それなら、シロガラシさんの疑いはそれほど強いものではないと言えそうですよね?」ヤツデは理路整然と事実を述べた。

「ええ。もちろんです。わしはそれほど疑われているとは思っておりません。わしは殺された男性と面識もありませんでしたからのう。しかし、チコリーはわしが警察に質問されているのを見て邪推したという訳じゃよ」シロガラシは言った。それを受けると、ビャクブは目に見えて拍子抜けしてしまっている。

「そういうことでしたか。それでも、せっかくですから、シロガラシさんの疑いを晴らすための尽力はしてみます」ヤツデは温和な口調で言った。それを受けると、チコリーはうれしそうにしている。

「ありがとうございます。ですが、そんなに根をつめてしてくれなくてもいいですよ」シロガラシはお礼を言うと当然のようにヤツデとビャクブに対し気遣いを見せた。

「了解しました」ヤツデは素直に頷いた。ビャクブは腕組みをしてもっともらしくしていたが、本心は上の空でシロガラシの話を聞いていた。そのため、ビャクブはようやく話が終わったことに気づくとヤツデにならい愛想よくシロガラシに対してお礼を言った。それを受けると、シロガラシは笑顔になった。

「ねえ。ヤツデさんとビャクブさんは明日の朝もご飯を一緒に食べてまたお話をできないかな?」チコリーは最後に聞いた。チコリーは捜査の進捗状況が知りたいのである。

「それはできるよ。ね? ビャクブ」ヤツデは意見を求めた。ビャクブはそれに同意した。

「ああ。もちろんだよ。それじゃあ、明日のチコリーは何時頃に朝食を始める予定だい?」

「朝食は何時頃がいいかな? 明日の朝ご飯は何時にする?おじいちゃん」チコリーは言った。

「朝餉は8時頃がちょうどいいんじゃないかのう」シロガラシはテレビから目を離さずに答えた。

「うん。わかった。それじゃあ、私達はまた明日の午前8時に会える?」チコリーは確認した。

「うん。会えるよ」ヤツデは再び素直に頷いた。ビャクブにも異論はなかった。

「ああ。またか。これはもはや阿漕じゃのう。しかし、わしは珍しい試合を見たものじゃのう」シロガラシはここでも絶望的な声を上げた。今度はシロガラシの応援しているチームがダブル・プレーをやられたのである。このチームはここ数年でも最下位に低迷している弱小球団なのである。

それでも、ファンは首位のチームに負けず劣らず、というか、このシロガラシの贔屓にしている弱小球団にはむしろ首位のチームよりもファンがたくさんいる。これはやさしい心の持ち主が多いトイワホー国らしい傾向である。ヤツデとビャクブはあまり野球の観戦をしない。

「おじいちゃんとチコリーは騒がしくてごめんなさいね。ご足労して下さってどうもありがとうございました」ミツバは去り際のヤツデとビャクブにやさしい言葉をかけた。

ヤツデとビャクブはやんわりとそれを否定した。ヤツデとビャクブは2309号室にやって来たことに関し別に面倒くさいことだとは露ほども思っていない。

その後のシロガラシとチコリーはミツバと同じようにヤツデとビャクブにちゃんとお礼を言った。ヤツデとビャクブの二人は少しすねているシロガラシを尻目に踵を返した。

その際のビャクブは何も考えていなかったが、ヤツデは難題を前にしどうすればいいだろうかと早速に考えを巡らせていた。ヤツデは夏休みの宿題を先にやり、ビャクブは後回しにするタイプである。気質はどちらもやさしいが、そういうところは正反対なのである。


翌日の朝である。ヤツデとビャクブはルーム・クーラーのおかげでなんとかして蒸し暑い夜を過ごさずにすんだ。とはいえ、昨夜は寒すぎることもなく快適な夜だった。

ヤツデはかなり早くに目を覚ました。早起きは三文の徳と言うが、ヤツデはそれほど早起きが得意ではないが、旅行中だけはなんとなく落ち着かないせいで毎度のことながら例外なのである。

そのため、朝食までにはまだかなりの時間があった。ヤツデはそこでベッドから抜け出ると素早く寝間着を着替えて清々しい外気を吸いながら外でオカリナの演奏をしようと思い立った。ヤツデは準備を終えてしまうとビャクブを起こさないよう部屋をそっと出て行った。


バニラは二人の女友達を連れラウンジにやって来ていた。一度は話に出ているが、バニラの友達の名はスミレとシランと言う女性である。スミレとシランはどちらもバニラにとっての大事な親友である。スミレは名前と同じすみれ色の瞳をしている。スミレはこの上なく綺麗なストレートの茶髪を垂らしており他の二人の友人と比較すると身長がやや低い。しかし、それ故にスミレはチャーミングな女性である。

もう一人のバニラの友達であるシランの方は肩までかかる程の金髪をウェーブさせ目つきが鋭くつんとすました目鼻立ちである。シランは実際に勝ち気な性格である。

バニラとスミレとシランの三人の髪はネオン・ランプに照らされいずれもとても綺麗に輝いている。バニラの今日のコーディネートは半袖のブラウスにフレアー・スカートである。

ヤツデはちょうどバニラとスミレとシランの三人がラウンジにいる時にそのラウンジにやって来た。とりあえず、ヤツデはバニラと通りがかりで会釈してやり過ごそうとした。

しかし、バニラはヤツデを呼び止め友達を紹介したいと申し出て来たので、ヤツデは否応なく立ち話させられることになった。ただし、ヤツデは面倒くさそうな素振りを微塵も見せなかった。実際のところはどんなに気忙しくしていてもヤツデは人に話しかけられるとうれしいのである。

バニラはスミレとシランに対し早速にヤツデのことを紹介した。ここにはいないが、バニラはビャクブのこともシランに対して紹介した。これも一度は話に出ているが、バニラはスミレに対しヤツデとビャクブのことを話していたので、スミレはシランとは違いヤツデとビャクブの名前だけは聞いていた。それが終ると、今度のバニラは友人の二人をヤツデに対して紹介した。

「シランはポンメルン県に住んでいてこの旅行を発案してくれたんです。変わったところは確かにありますけど、芯の通った子なんですよ。こっちのスミレは思いやりがあってとってもやさしい女の子なんです」バニラは言った。シランはバニラの紹介の仕方に対し抗議した。一方のスミレは否定していたので、バニラとスミレとシランの三人は少し騒いでいた。そのため、ヤツデは呆然としていたが、スミレはヤツデに気を使ってくれた。スミレはやはりこの中で一番に気が利くのである。

「ああ。ヤツデさんを除け者にしちゃってごめんなさい。昨日このホテルで殺害された男性はバニラの子供の頃の知り合いだっていうので、バニラは恥ずかしいくらい取り乱していたんですよ」スミレは言った。ヤツデは無言で応じた。バニラは「ええ」と話を引き継いだ。

「クローブさんは私がつらい境遇にあった時に親切な言葉をかけてくれた人なの。私はヤツデさんに昨日そうお伝えしたのよ。当然だけど、それはビャクブさんにもお話ししたけどね。昨日はお礼を言いそびれれてしまいましたけど、私はヤツデさんとビャクブさんからやさしい言葉をかけてもらえてすごくうれしかったです」バニラは喜色満面である。ヤツデはここでようやく口を開くことにした。

「そうでしたか。少しでも役に立ったのなら、それはよかったです。ビャクブもその言葉を聞くと喜ぶと思います。それにしても、クローブさんは本当にお気の毒なことですよね。犯人が一刻も早く見つかることを期待したいです。話は変わりますけど、シランさんはタバコがお好きですよね?」ヤツデはシランを一瞥すると聞いた。ただし、少し恥ずかしいから、ヤツデはあまり気取らないよう注意した。今のシランは別にタバコを吸っていた訳でもないし、今まさにタバコを取り出していた訳でもなかった。それなのにも関わらず、ズバリと言い当てられたので、シランはびっくりした。

「ええ。タバコは吸うわよ。でも、ヤツデくんはなんでわかったの? そんな覚えはないけど、私はどこかでヤツデくんと会ったことがあったかしら? そうでなければ、ヤツデくんは超能力者なの?」シランは聞いた。シランはしれっと突飛な言葉を口にしている。しかし、バニラとスミレは笑わなかった。

一瞬は自らの推理としてとぼけてしまおうかとヤツデは思った。しかし、ヤツデは思い直した。できることなら、嘘はつかないで生きていこうというのがヤツデのポリシーだからである。

「ぼくはシランさんと会ったことがあるかと聞かれたら、答えは『イエス』です。実のところ、ぼくは別にフィクションの名探偵のように推理した訳ではないんです。昨日たまたまシランさんらしき人がタバコのポイ捨てをしているのを見たから、ぼくはそれを言ってみただけなんです。驚かせてしまって申し訳ありません」ヤツデは謝った。ヤツデは同時にシランの出方を窺ってみることにした。

「そう」シランは無表情で言った。「そのくらいのことなら、私は別に気にしないわよ」

実はタバコのポイ捨てについてヤツデにしては珍しく若干の皮肉を込めて種明かしをしたつもりだったに、悲しいことにもシランには通じなかったらしく一蹴されてしまった。

 スミレはその代わりタバコのポイ捨てについてシランに対し注意してくれた。スミレは正義感の強い女性なので、そんなことはもう二度としないようシランに対し約束させた。

バニラはそんなスミレのことを頼もしく思った。バニラとスミレとシランの三人は学生の頃からの友人だが、シランはなにかと問題を起こしていきたが、スミレはそれを解決してあげるというのがパターンになってしまっている。バニラはそんな中にあってスミレの助手のような役割を果たしている。バニラとスミレとシランはお互いを家族のように想っている。

 一つにはシランの起こしたトラブルと言えば、あるいは次のようなエピソードがある。これはバニラとスミレとシランの三人が中学生の時の話である。当時のスミレは家庭科部に在籍していた。

バニラはそれに対し陸上部だった。シランだけはそんな中で帰宅部だったのだが、シランは暇を持て余していたそんなある時に悪戯を思いついた。シランはソフト・ボールのバッティング・マシーンを体育倉庫の入り口に設置し入って来たバニラに対して「大人しく手を上げなさい」と言った。

しょうもない悪戯とはいえ、バニラは大いに驚いた。バニラはすぐにマシンを片づけシランから倉庫の鍵を預かり誰にも怒られないよう事後処理をした。その話を聞くと、スミレは母親のようにシランに対し注意した。だが、スミレは怒っていた訳ではなくシランとバニラがケガしたら、大変だから、悪戯するのなら、次からは自分にも相談してほしいとお願いしたのである。

とはいえ、さすがのシランにしてもひっきりなしに問題を起こす訳ではないので、バニラとスミレはシランに対し愛想を尽かすようなことはない。この逸話はあくまでも中学生の頃の話なので、今のシランは当然のことながら随分と大人しくしている。中学生の頃は帰宅部だったが、今のシランは無趣味ではない。シランという女性は切り絵とイラストの作成がとても上手なのである。

 バニラはヤツデが迷惑なのではないかと思い毅然とした口調で話を聞いてくれたお礼とお別れの言葉を述べた。バニラとの会話は当然のことながら迷惑だとは思っていなかったので、ヤツデはその旨を伝え几帳面に友達を紹介してくれたお礼を言いバニラとスミレとシランとお別れした。


その後のヤツデはフロントを横切り外に出てホテルの裏側に回り大きなガラス窓からレストランが見える壁の下に座った。まず、ヤツデは出入の息を数え心を統一する数息観という修行法を試した。数息観は現在に読んでいる本に書いてあったので、ヤツデはそれをやってみたくなったのである。

数息観は結果として意外にも集中力を要するものだとわかると、今度のヤツデは気持ちよくオカリナ(鳩笛)の演奏を開始した。オカリナは金属製やプラスチック製と材質も様々だが、今のヤツデが手にしているオカリナは素焼きの陶器で作られたものである。

ヤツデは間もなくして人影に覆われ、ヤツデの目前にはとてつもなく巨大な靴が現れた。ヤツデは三白眼になってからすぐに顔ごと前方を見上げてみた。すると、そこには大柄でのっぽな男が立ちはだかっていた。その男性はヤツデに対して恭しく会釈してから話しかけてきた。

「はじめまして」男は言った。「私はカラタチと言います」カラタチはぺこりと頭を下げた。

「はじめまして」ヤツデは応じた。「ぼくはヤツデです」ヤツデは言った。腰を下ろしているヤツデはそうしながらも背の高いカラタチの顔を見ていると首が痛くなるので、今度は視線を下に落としカラタチのへそのあたりに向かって話しかけることにした。カラタチはそれほど図体がでかいのである。

「今日はとっても気持ちのいい朝ですね。ぼくは夏の朝のすがすがしいこの一時がとても好きなんです」ヤツデは例によって例の如くやさしい口調で会話を開始した。

「ええ。それはまさしくヤツデくんの言うとおりですな。私はもう露天風呂に入ってきたのですよ。その後は暑さが最高になる前に夏バテしないようたっぷりと朝ごはんを食べたいですから、私は散歩してお腹を空かせようというところだったのです。すると、私の耳にはヤツデくんの演奏が聞こえたという訳なのです。もし、よろしければ、私にも少し演奏を聞かせてもらえませんか?」カラタチはそう言うとヤツデの返事も聞かずに腰かけてしまった。カラタチが図々しいのではなく見ず知らずの他人であってもトイワホー国では出会った時点で古くからの友達のようにして接することは少なくない。

「カラタチさんのお気に召すかどうかはわかりませんが、とりあえず、演奏はやらせてもらいます」ヤツデは承知した。カラタチは聴く気が満々で気分がるんるんなので、ヤツデは断る訳には行かなかったのである。ヤツデの選曲は相当マイナーだが、ヤツデは緩やかな曲調の「テクシー」という曲の演奏をカラタチのためにオカリナで始めた。ヤツデは演奏しながら喜憂の思いがないまぜになっていた。ヤツデは恥ずかしくとも自分の演奏なんかを聞いてもらっているということが格別にうれしいのである。

とはいえ、カラタチはそれと同時に果たして自分の演奏に納得してくれるだろうかとヤツデはとても心配である。ヤツデはちょっとした演奏が終わると苦しくなった。ヤツデは緊張のしすぎで呼気と吸気が乱れている。ヤツデは小心者なのである。カラタチは陽気に言った。

「ヤツデくんの演奏はとってもすばらしいですな。最前のメロディーはこの風景とすっかりあったぴったりの曲です。私は楽器のことはよくわかりませんが、ヤツデくんの演奏はとても上手でした。いや。私はとてもいいものを聞かせてもらいました。どうもありがとうございます」

「こちらこそ」ヤツデは言った。「ぼくなんかの演奏を聴いて下さってありがとうございます」ヤツデはカラタチの大きな掌から漏れる拍手の音と賛辞の言葉に照れながら謙遜気味な態度を崩すことなくお礼を返した。カラタチは満足してくれたみたいなので、ヤツデは内心でほっとしている。

「とんでもないです。おや?」カラタチは怪訝そうな声を出した。今のカラタチは窓越しに見えるレストランを見ている。ヤツデは振り返った。すると、そこには何者かの姿が認められた。

「女性のようですな。朝食にはまだ少し早い時間ですが、どうしたのですかな?」カラタチは疑問を呈した。カラタチはビャクブと同じく野次馬根性が旺盛な男である。

「そうですね。どんな用事ですかね」ヤツデはカラタチに相槌を打った。実はヤツデには大した興味もなかったのだが、彼女をよく見てみるとヤツデは自分が知った女性であることに気がついた。

「あれはシランさんですね。とはいっても、カラタチさんは呆気に取られちゃうかもしれませんが」ヤツデは得心してカラタチのことを気遣った。カラタチは事態の急変に少し驚いた。

「おやおや? 彼女はヤツデくんのお知り合いでしたか。彼女はもしかしてヤツデくんのご同行者の方ですかな?」カラタチは聞いた。シランはモデルを職にしているとおり人目を惹く女性である。

「いいえ。知り合いではありますが、同行者ではありません。そもそも、シランさんとは本当につい今しがた知り合いになったばかりなんです。ぼくとシランさんはただの顔見知り程度の関係です」

「そうでしたか。シランさんは席からなにかを持って行ったみたいですから、どうやら、昨夜の忘れ物かなにかを取りにきただけなのかもしれませんな。いや。私はてっきりトラブルでもあったのかと思ってしまいました。このホテルでは事件があったばかりですから、私は神経過敏になっているのかもしれませんな。いや。本当にお恥ずかしい話ですな」巨体のカラタチは小さくなって照れている。

「いいえ。恥ずかしくなんてありませんよ。皆きっと同じ気持ちです。ぼくもそうです」

「そうですかな? ヤツデくんはやさしいですな。さてと、そろそろ、部屋に戻りますかな。私は連泊しているので、ここにはまだ滞在するつもりですが、ヤツデくんはどうですか?」

「ぼくもまだ宿泊するつもりです」ヤツデは応えた。カラタチはうれしそうな顔をした。

「そうでしたか。もし、機会があれば、ヤツデくんは私の部屋に顔を見せに来てくれませんか?」カラタチは聞いた。カラタチは人との出会いを大切にする男でもある。

「はい。わかりました。機会があれば、是非ともお伺いさせて頂きます。ぼくには連れがいるので、その同伴者と一緒に遊びに行かせてもらいます。それではカラタチさんの部屋の番号を伺ってもよろしいですか?」ヤツデは懇切丁寧な口調でカラタチに対して質問した。

「もちろんです。私の部屋は2510号室です。私には同行者はいません。そうでした。この際ですから、ヤツデくんの部屋の番号を聞かせてもらえますかな?」カラタチは聞いた。

「ぼくの部屋は1201号室です。ぼくはカラタチさんとお知り合いになれてうれしいです」

「そうですか? ヤツデくんはうれしいことを言ってくれますな。しかし、それは私も同意見です。部屋番号はとにかくわかりました。それでは失礼します。さようなら」カラタチはそう言うとぺこりとお辞儀をして立ち上がり歩き始めた。カラタチは口笛を吹いて先程のヤツデのオカリナの演奏を真似ている。そのため、オカリナの演奏を再開しようとしたが、ヤツデはすぐにカラタチを呼び止めた。

「あれ? 二号館はそちらではありませんよ。こっちです。カラタチさん」ヤツデはそう言うと遠慮気味な態度でカラタチが歩いて行った方とは逆の向きを指さした。

時々は間の抜けたことをしてしまうこともあるが、今回のヤツデは珍しくカラタチの部屋が二号館であることにちゃんと気づいた。カラタチは少し恥ずかしそうに頭をかいた。

「ああ。そうでしたな。ご親切にどうもありがとうございます。それでは改めて失礼致します」

「また、お会いしましょうね。さようなら」ヤツデは思いやりの気持ちを込めて言った。

 その後のヤツデは景色を眺めながらオカリナを演奏した。人に聴かれると恥ずかしいので、ヤツデは人が来たら、止めようと思っていたのだが、結局は終わりまでこの場には誰も来なかった。

そのような些細なことに限って言えば、ヤツデは強運の持ち主である。気がすむと、ヤツデはカラタチとの再会が楽しみだなと思いながら自分の部屋に引き下がって行った。

本人には全くそんな気はないが、ヤツデはクローブという男が殺害されたこのホテルでの事件についてこうしている今も少しずつ着実に関与して行く運命に近づいて行っている。


ヤツデは自分の部屋に帰って来た。ビャクブはすでに目を覚ましていた。ビャクブはヤツデが1201号室に入るとちょうど備えつけのテレビを見ながら着替えを行っていた。

ただし、ビャクブはヤツデがどこへ行っていたかを聞かなかった。それはヤツデに対する放任主義というよりもまだ寝ぼけているので、ビャクブは聞くのが億劫だったのである。洗願と歯磨きはすでに終えているが、本来なら、ビャクブはさほど朝に弱いという訳でもない。

テレビではニュースを報道していた。画面のテロップには「ポンメルン県のホテルでセンセーションが発生」と表示されている。ヤツデはそれに気づくとテレビ画面に注目した。

「ポンメルン県にある観光ホテル『クリーブランド・ホテル』では昨日にセンセーショナルな殺人事件がありました。ホテルのエレベーターで発見され、殺害されていた無職の男性はプスタ県に居住する55歳のクローブ氏です。クローブ氏はホテルに住む友人に会うためクリーブランド・ホテルを妻と一緒に訪問していました。クローブ氏の所持品の中にはなぜか一枚のトランプが含まれていたとのことです。死体発見現場であるエレベーターの中に監視カメラは設置されていませんでした。警察は遺体がエレベーターに放置されていたことや損傷が加えられていたことから被害者に深い恨みを持った関係者によるものとして捜査を進めています。続いてはスポーツ・ニュースです」テレビの画面はアメ・フトの選手を映し出した。ようやく着替えが終わったので、ビャクブはテレビのリモコンを手にしスイッチを切った。ビャクブはヤツデもテレビから目をそらしたことに気づいたのである。

贅沢を言えば、ヤツデはクリーブランド・ホテルの事件についてニュース・キャスターの話も聞いてみたかった。しかし、ヤツデはそんな様子を噯にも出さなかった。

「それじゃあ、行こうか。今朝はチコリーと食事の約束もしていることだしな」ビャクブは少しばかりしゃきっとした気持ちになっている。ビャクブは今日も元気である。

「うん」ヤツデは「そうだね」と言うとビャクブと共に1201号室の部屋をあとにした。

 ヤツデはその途中で改めてこのホテルでの殺人事件を嘆いた。ヤツデはこの事件のため力になりたいと言い出した。自分が役に立つというのなら、ビャクブもそれは同意見である。

相も変わらず、清い心の持ち主だから、ヤツデはそう言うのだろうとビャクブは大して気にも留めずにいたが、今回は驚くべきことにもそうではなかった。

ヤツデは大してプライドを持ち合わせていないので、身分不相応にそんなことを言うということは本気で言っているという場合が多い。とはいえ、この時点ではヤツデも絶対的に気持ちが固まっているという訳ではなかったので、ヤツデにも深遠な考えがあった訳ではなかった。


およそ午前8時の朝食のテーブルの席ではチコリーが祖父のシロガラシと祖母のミツバから許可を貰いヤツデとビャクブと一緒に同席することになった。チコリーはそれを喜んでいる。

普段はできるだけチコリーから目を離さないようにしているが、今のミツバはヤツデとビャクブのことをすっかり気に入っておりすでに二人に信頼感を寄せている。一方のシロガラシは同じくヤツデとビャクブに対し信頼感を寄せている。シロガラシはミツバほどヤツデとビャクブを知っている訳ではないが、その考えは滅多に外れないのがトイワホー国なのである。

「なんといっても」ヤツデは話を切り出した。「シロガラシさんが嫌疑の外に置かれるための有利な点は動機がない点だと思うよ」ヤツデはせっせとパンにジャムを塗っている。

「そうだよね。私とおじいちゃんとおばあちゃんは確かに殺された人のことなんてここに来るまで名前すらも知らなかったもの」チコリーは答えた。ビャクブはそれを聞いてから口を挟んだ。

「それだけじゃないぞ。よく考えてみると、シロガラシさんにはアリバイもある」

「うん。ビャクブの言うとおりだね。もし、殺害現場がエレベーターだったとしてもシロガラシさんは死体が6階のエレベーターに乗っていた時に三階でエレベーターが来るのを待っていたんだから、それを証明することができれば、シロガラシさんの容疑は楽に晴れることになるね。ん?」ヤツデはここでなにかを思い出したような口調になった。ビャクブはそんなヤツデを見て期待を寄せている。

「どうかしたの?」チコリーは聞いた。「いいアイディアが思い浮かんだの?」

「うん。そうかな。よくよく考えてみると、ぼくはもうシロガラシさんの容疑を晴らせる人を知っているんだよ。ということはその人から話を聞けば、問題はそれで解決するっていうことだね。だから、問題はもう解決したも同然だよ」ヤツデはうれしそうである。ビャクブは問いかけた。

「それで? そのシロガラシさんの容疑を晴らせる人っていうのは誰だい? ヤツデの知り合いかい?」ビャクブは興味深そうにしている。それはチコリーとて同じ心境である。

「うん」ヤツデは言った。「今朝は早く起きてからすぐに外に出たんだけどね。ぼくはその時にカラタチさんっていう人と会ったんだよ。その人はすごく大柄な人なんだよ。大柄な人と言えば、昨日のシロガラシさんのお話の中で死体が発見された時にも出てきていたよね? となると、ぼくの会った大柄なカラタチさんとシロガラシさんの言う大柄な人っていうのは同一人物だと思うんだよ。たぶん」

「今朝はおれが起きた時にヤツデは外にいたのか」ビャクブは合点が行ったという様子である。

「うん。そうだよ。そう言えば、今までは話をしていなくてごめんね」ヤツデは素直に謝った。

「いや。それはいいよ。でも、その人とはまたコンタクトを取れるのかい?」ビャクブは聞いた。

「うん」ヤツデは言った。「コンタクトは取れるよ。ぼくはカラタチさんからまた顔を見せにきてくれるよう言われたから、ぼくたちは部屋の番号を教えあったんだよ」

とはいえ、まさか、カラタチとの出会いがこんなところで役に立つとはヤツデも思っていなかった。ようするに棚から牡丹餅という訳である。チコリーはうれしそうに「素敵」と言った。

「それじゃあ、おじいちゃんはもう疑われずにすむのね?」

「ああ。アリバイを成立させれば、そういうことになるな」心なしか、ビャクブはうれしそうである。

「ところで」ヤツデは言った。「今日のチコリーにはどんな予定があるの?」ヤツデは話題を変えた。

「私はおじいちゃんとおばあちゃんと一緒に水族館に行くのよ」チコリーは答えた。

「楽しそうだね。クラクフ水族館のことでしょう? ぼくも一度だけ行ったことがあるよ」ヤツデは言った。今度はそうしながらヤツデはライ麦粉で作られた黒パンを口にしている。

「おれたちは今日そこへ行く予定なんだよ。しかも」ビャクブは血気盛んに言った。

「それなら、ヤツデさんとビャクブさんは私達と一緒に行ける? 行けるなら、その方が水族館の見学は楽しくなりそうだもの」チコリーは盛り上がっている。しかし、ヤツデはチコリーの意にそぐえなかった。

「ううん。とても残念だけど、ぼくたちはその前にビスマーク・タワーにも観光に行かないといけないから、チコリーたちとは一緒には行けないんだよ」ヤツデは断腸の思いである。ヤツデは本当に申し訳なく思っている。チコリーは名残惜しそうに落胆の声を漏らした。

「それは本当に残念だね。でも、ヤツデさんとビャクブさんにこれ以上の迷惑をかけたら、いけないから、きちんと我慢する」チコリーは自粛した。チコリーはお転婆でもちゃんと気を使う時もある。

 しかし、チコリーは言葉とは裏腹に頬を膨らませている。

「チコリーは偉いね。それに、ぼくたちと一緒に行動できないことをチコリーが悔やんでくれるなんてぼくはうれしいよ」ヤツデは楽しげに言った。カラタチと出会えたこともうれしかったので、今日のヤツデの出だしは絶好調である。ビャクブはそんなヤツデを見て機嫌をよくしている。

 その後のチコリーは小学校での社会科見学のことや部活動のことを話した。その際のヤツデとビャクブは専ら聞き役に徹した。チコリーは割とお喋りである。

チコリーは生き生きと話をするし、小学生の話は新鮮に聞こえたので、ヤツデは熱心に話に聞き入った。ビャクブは小学生レベルの会話をするヤツデを見て笑っていた。

 食事が終ると、シロガラシとミツバはチコリーの面倒を見てくれたお礼を言ってくれたので、ヤツデとビャクブはそれに対し丁寧に応じた。今日日この国の若者は礼儀正しいのである。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ