黒猫と見えざる射手 4
食器を回収して厨房に戻ると、既に料理人の姿はなく・・・使用後の調理器具や食材の屑が乱雑に散らかっていた。
エリック様が支払い額を渋ったのか、元々そういう人物なのか・・・
どちらにせよ、この後片付けは私の仕事なんだろう。
でもそんなに悪い事ばかりでもなかった。
量を作り過ぎたのか、各料理が少しずつ残されていた・・・パンも端の2切が転がっている。
あまりお行儀の良い事ではない事ではないけれど・・・捨ててしまうのも勿体ない。
アーステール様がやっていたように料理の残りをパンの上に・・・端の部分だからちょっとバランスが悪い。
この場ですぐに食べてしまえば良いのだけれど、1人で食べてしまうのも抵抗があった。
オーブンの火は消されていたけれど、まだ余熱でパンを温めておく事は出来そうだ。
余計な事に時間を割いた事もあって、後片付けが終わる頃にはすっかり夜も更けてしまっていた。
小さなバスケットに温めておいたパンを収めて、私は『叡智の魚座』の部屋に向かう。
このパンがさっきのお礼になると良いのだけど・・・時間が遅いので、もうお休みなっているかも知れない。
コンコン…
扉をノックすると、内側から無造作に開けられた。
アーステール様は寝間着姿になっており、眠そうに目をこすっていて・・・お休み中だったのかも知れない。
「こんな時間に誰・・・あ、ソアレさん」
「申し訳ありません、起こしてしまいましたか?」
「大丈夫・・・そろそろ寝ようとは思ってたけど・・・なんかいい匂いする」
「厨房で残り物を見つけたので、お夜食に良いかなって思ったんですけど・・・もうお休みなら食べない方が・・・」
「なぜだか急に目が冴えてきたわ、さぁ入って」
睡眠欲に食欲が打ち勝ったらしい。
アーステール様に引っ張られるまま部屋に入り、ベッドに腰掛け・・・
「にゃ?!」
「あ、ごめんなさい」
ベッドの上には小さな先客がいた。
黒猫はびっくりしたように飛び跳ねると、私から距離を取るように離れていく。
「うわ・・・嫌われちゃったかな」
「大丈夫、サフィールの事だから明日には忘れてるよ」
「・・・そうなの?」
「うん、それよりも早く食べよう?」
バスケットの蓋を開けて差し出すと、アーステール様は手早くパンを取り出して噛り付いた。
「おいしい・・・ほら、もう一個あるからソアレさんも」
そう言いながら私の方にバスケットを押し込んできた。
さっきのお礼のつもりなので、2つとも差し上げる気でいたんだけど・・・そんな笑顔を向けられては拒むに拒めない。
「は・・・はい、いただきます」
私がパンを口に入れると、アーステール様ももう一口噛った。
「うん、おいしいね」
「はい」
ゆっくり味わって食べているけど、大きくもないパンはすぐになくなってしまう。
ああ、これが一流の味か・・・参考にと使われた調理器具や材料は覚えているけど、とてもこの味を真似出来る気がしない。
「ふわぁ・・・食べたら眠くなってきちゃった」
可愛らしく欠伸をしながら、アーステール様はベッドに倒れ込んだ。
「アーステール様、食べてすぐ寝るのは良くないです・・・それにちゃんとお布団を被らないと・・・」
「サフィールがいれば暖かいもん・・・あれ・・・サフィール?」
愛猫の姿を探すアーステール様に釣られるように部屋を見回す・・・いない?
ベッドの下を覗き込んでみたけれど、あの黒猫の姿はなく・・・
嫌な予感がして入り口の扉を見ると・・・少し隙間が開いていた。
「まさか・・・部屋の外に?」
そういえば猫は夜行性・・・夜に強いと聞いたことがある。
猫の瞳は暗闇を見通す力があるのだとか。
「探してきます」
「あ、私も探すわ」
猫を探しに廊下へ飛び出す・・・すぐ後ろにアーステール様もついてきた。
この屋敷も深夜ともなれば灯の類はほとんど消えている・・・壁に掛けておいた私のランタンが部屋の入り口のあたりで小さく灯っているだけだ。
たしか各客室に来客用のものがあったはず・・・それに火を灯してアーステール様に手渡した。
「私はあちらを探しますので、アーステール様は反対側を・・・暗いのでお気をつけください」
「わかったわ」
二手に分かれて猫を探す。
しかし、この暗闇の中で黒い色の猫を探すのはなかなか難しい。
猫の姿を見逃さないように、廊下の両端を照らしながら進んでいくと・・・前方に明かりが見えた。
前方に誰かいる・・・今屋敷に使用人は私しかいないので、伯爵家のどなたかだ。
明かりはゆっくりとこちらへ近づいてくる・・・逃げるのは失礼なので私はその場で待つことにした。
エリック様だったら嫌だな・・・腕を掴まれた時は本当に怖かった。
「ソアレ、こんな所にいたのね、ちょうど探していたのよ」
ランタンの明かりに照らし出されたのは、イブニングドレス姿のエリーザ様だった。
整ったボディラインを惜しげもなく見せつけるかのようなデザイン・・・とても私なんかには着こなせそうもない。
ひとまずはエリック様でない事に少し安心したけれど・・・私を探していたという事は、何かあったのだろうか。
「いかがなされましたか?」
「蒼空の間に鍵が掛かっていて開かないのよ」
「蒼空の間に鍵が?」
『蒼空の間』は屋敷の2階にある大広間だ。
長らく使われていない部屋の筆頭格ではあるものの、その名の由来と思われる青空の描かれた天井に加えて、貴重な青い石材がふんだんに使われており、壁に埋め込まれた大きな時計や彫刻なども美術価値が高く・・・とにかく『見栄えの良い部屋』なので・・・
事前に掃除しておくようにと、エリック様から言われていた。もちろん私は鍵など掛けた覚えはない。
もしそこに鍵が掛かっているのならば、それはおそらくエリック様が鍵を掛けたのだろう。
それにしても、いったい何の用があってエリーザ様はこんな時間に・・・いや、余計な詮索をしてはいけない。
私も屋敷内の鍵は一通り所持しているし、お客様の要望に応えない理由もなかった。
「この先階段になります、足元にお気をつけください」
「それくらいの事はわかってるわ、早くなさい」
2階へと続く階段には窓から月の光が差し込んで・・・今夜は満月なのだろうか、ずいぶんと明るく照らされていた。
しかし明るいとはいえ、この階段は段差が大きく、たとえ昼間でも登りにくい、注意が必要だ。
私の後に続いて階段を上るエリーザ様は焦っているのかとても不機嫌そうで・・・私は彼女に急かされるまま慌てて階段をかけ上った。
「はぁ・・・はぁ・・・」
階段を上り終えた私は、息を切らしながらも蒼空の間に辿り着いた。
扉の前まで来ると、中からがたんと物音が聞こえてきた・・・やはりエリック様がいるのだろうか。
一応扉をノックしてみるが、反応らしきものは返ってこない。
でもこの部屋の扉は随分と重く出来ているので、ノックに気付いてもらえていない可能性はあった。
「エリック様! そちらにいらっしゃいますか!」
思い切って声を張り上げてみるが、返事はなかった。
「エリッ・・・」
「無駄よ、さっきも大声で話しかけたけれど、中には聞こえていないみたい」
そうなんだ・・・なら私がこれ以上声を絞り出す必要はないだろう。
これは失礼な事かも知れないけど、私よりもエリーザ様の声の方がだいぶ大きいと思う。
それでも聞こえていないとなると・・・エリック様は余程何かに集中しているのだろうか、何かの物音もしていたし。
「いいから、早く鍵を開けて頂戴」
「あ、はい・・・」
鍵束の中からこの部屋の鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。
カチャリ…鍵を回すと確かな手応えが返ってくる、扉の重さ同様に鍵も結構な硬さだ。
鍵を回し終えた私はドアノブに手を掛け・・・あれ・・・おかしいな。
「・・・どうなさったの?」
ドアノブを握ったまま動かない私に対して、エリーザ様は怪訝な表情を浮かべた。
「申し訳ありません、鍵を間違えたのかも・・・」
「何よ、さっさとなさいな」
・・・今、扉には『鍵が掛かって』いる。
もう一度確認したけれど、鍵はこの部屋の物で間違っていない・・・それにあの手応えは間違いなく・・・
私は同じ鍵を再び差し込み、回した・・・先程と同じく確かな手応え。
ドアノブに手を掛けると、今度こそドアはゆっくりと・・・私の腕力ではゆっくりとしか開けられないのだけど・・・開いていく。
部屋の中には明かりはなく、真っ暗で・・・手に持ったランタン程度ではとてもこの広い部屋を照らす事は・・・
「・・・!」
部屋は完全な真っ暗ではなかった・・・天井にある小さなガラス窓からほんの一筋だけ、月の光が差し込んでいて・・・
差し込んだ光は床に当たって・・・暗黒に包まれた部屋の中で、そこだけが赤い色を・・・赤い・・・色?
この部屋は貴重な青い石材が・・・決して赤い色の何かがあった記憶は・・・
どうしようもない違和感と共に、私の頭の中で何かが警鐘を鳴らしていた・・・おかしい、この部屋で何か良くない事が起きている。
「もう、いつまで突っ立っているの!そこをどきなさい」
呆然と立ち尽くす私を押しのけるようにして、エリーザ様が室内へ入って・・・同じく赤い色が視界に入ってきたのだろう。
しかし彼女はその色に警戒するような事はなく、ごく自然にランタンの光をそちらへと向け・・・向けて・・・
「・・・?!」
ああ・・・見えてしまった。ランタンが照らす光の中にはっきりと。
ゆっくりと広がっていく床の赤色・・・今やその色は黒に近付きつつあり・・・
その赤黒い水溜りの中央に、服を同じ色に染めたエリック様が・・・その灰青の瞳を大きく見開いたまま横たわっていた。
「お・・・にい・・・さま?・・・いやぁあああああああ!!」
目の前でエリーザ様が悲鳴を上げる・・・やはり私より大きな・・・私の悲鳴などかき消される程の声。
壁に埋め込まれた大きな時計、その文字盤も返り血に染まって・・・
赤く色付いた2本の針は重なり合って、1の数字を指し示していた。