黒猫と鮮血の絵師 9
レミッサ・ソフィエヌス・・・マリエンさんの話をするのなら、彼女を避けては通れませんわね。
マリエンさんの周りを元気に駆け回る子犬・・・それが彼女の第一印象でした。
「へぇ~、2人はこんな場所で絵を描いているんだ」
「ふふ・・・良い所でしょう?」
「うん、凍った湖が鏡みたいで、すごく綺麗」
そこは、私がマリエンさんと出会ったあの湖だった。
薄暗く汚い・・・とても絵を描くような所ではないと思っていたけれど、それは大きな思い違い。
季節が移り変わる毎に、湖は全く異なる姿を私達に見せてくれていた。
今は冬の姿・・・凍った湖が周囲の木々を映し出して、上下対象の世界が現出している。
すっかり葉の落ちた木々の枝振りが独特の存在感を醸し出しており・・・そこへ雪が積もる事で、まるで白い花が咲いているかのようだった。
「これで湖の中心に剣が刺さっていれば、『フラウウェン叙事詩』の世界だよね、よーし・・・」
「よーし、じゃありません! レミッサさん、凍っているとはいえ湖には入らないようにお願いしますわ」
「え-」
湖へと駆け出そうとするレミッサさんの気配を察した私は、彼女が動き出す前にその出鼻を挫いた。
鏡のように湖を覆っているのは薄氷に過ぎない、人の体重が乗ればすぐに割れてしまうだろう。
「・・・そうね、私も湖には近付かない方が良いと思うわ・・・危ないもの」
「マリエンまで・・・ならしょうがないかぁ・・・」
不満そうに口を尖らせていたレミッサさんもマリエンさんの言葉で渋々従った。
この子は私の忠告なんて全然聞かないくせに、マリエンさんの言う事となると態度が変わるのだ。
「そもそも私達は絵を描きに来たのですわよ? 早く支度なさい」
「はーい」
湖の畔にキャンバスを並べて、私達3人は筆を取った。
眼前にあるのは美しくも色素の薄い風景だ・・・こういった風景の場合、白をどう表現するかに実力を問われる。
私はよく目を凝らして風景を焼き付け、完成した絵をイメージした・・・キャンバスの白を活かすべき・・・それが私の判断だった。
積もった雪に冬の陽がきらめく様を描くには純粋な白さこそが必要だ、そこに余計な色を乗せてはいけない・・・影の形は細密に。
隣に目をやると、マリエンさんの絵皿には様々な色の絵具に溢れていた。
この色素のない世界を描くのにはあまりにも多過ぎる色の数々・・・地味な色しかない私のそれとは対照的だ。
いったい彼女はそれらの色でどんな絵を描くというのか・・・今の私には想像もつかない。
更にその隣では、レミッサさんがちらちらとマリエンさんのキャンバスを覗きながら描いていた。
おそらくはマリエンさんの真似でもしているのだろう・・・彼女の絵に憧れる気持ちはよくわかる。
けれど今のレミッサさんには基礎的な画力が全く足りていない。
上手い人の絵から学ぶ・・・それも重要な事だけど、マリエンさんの絵は見よう見真似でどうにかなる物ではないだろうに。
「うぅ・・・マリエンみたいに描けない」
ほら見た事か。
マリエンさんの真似も限界を迎えたらしく、レミッサさんが頭を抱えた。
彼女には、後でみっちり基礎を教えなければ・・・そう心に決めた矢先・・・
「・・・レミッサ、ここはこうやって・・・こうよ」
「!!」
あろうことか、マリエンさんが彼女の手を取って・・・
マリエンさんに動かされるままに、レミッサさんの絵筆がキャンバスに色を加えていく。
「こうやってこう?」
「・・・指先に余計な力が入っているわ、もっと筆に任せて・・・こう」
「こ、こうかな」
「・・・そうよ、今の感覚を覚えて」
「・・・」
・・・すごく気になって自分の絵に集中出来ない。
『こう』だとか『そう』だとか、マリエンさんは何も具体的な事を言ってくれないので、あのキャンバスの上で何が起こっているのか全くわからない。
きっとレミッサさんに足りない基礎的な部分だとは思うのだけど・・・もしもマリエンさんの持つ技術の重要な部分だったりしたら・・・
ああ、気になる・・・気になるけれど・・・この位置からでは見えない。
その後もレミッサさんは度々マリエンさんに話しかけてアドバイスを貰いながら描いていた。
いちいち対応しているマリエンさんも面倒見が良いと言うか・・・少し甘やかしが過ぎる気もする。
マリエンさんは優し過ぎるのだ。
いちいち気を散らされながらも、なんとか私の絵の方も形になってきた・・・そんなタイミングに事件は起こった。
「マリエン、ここどうしたらいいと思う?」
「・・・そこは少し・・・赤みが欲しいわね」
「赤ね、なら・・・」
今度は色について相談をしている・・・この風景で赤? ごく僅かな量を調色に使うのだろう。
そう思ったら突如・・・つんと鼻をつく刺激臭が漂ってきた。
「何ですのこの臭い・・・いったいどこから・・・」
周囲を見回すも・・・これといった変化は見られない。
なにせ湖も凍るような冬の日だ、生物の気配もあろうはずもない。
となると、この臭いの元は必然的に・・・
「・・・まぁ・・・それを持って来ていたのね」
「えへへ・・・マリエンも使って良いよ」
レミッサさんの手の上にある、蓋の空いた小瓶。
臭いの元はそれだった・・・それに気付くと同時に、臭いはよりはっきりと強烈な悪臭となって私の鼻腔を襲った。
「ふぐぅ・・・にゃ、にゃんですのそれわ・・・」
あまりの悪臭に堪えられず、鼻をつまみながら訊ねる私に、レミッサさんは満面の笑顔を浮かべて答えた。
「これ? 私とマリエンに教わって作ったお手製の絵具だよ」
「えにょ・・・ぐ?」
「まだ試作品なんだけどね・・・でもなかなか良い色でしょう?」
確かに、その絵具?・・・の小瓶からは色鮮やかな赤色が透けて見えた。
見た感じではなかなかの発色・・・私が使っている絵具よりは少し劣るものの、彼女が使っている安い絵具では出せる色ではないだろう事は伺えた。
「元はラジリコの花とパプニルの実だから材料費はタダなんだよ?・・・ちょっと独特な臭いかも知れないけど」
「ちょっとって・・・」
レミッサさんは全然平気そうな顔をしていたけれど、私には充分な悪臭だった。
マリエンさんは・・・涼しい顔をしている・・・え・・・ひょっとして私がおかしいの?
「い、いいから蓋を・・・その瓶の蓋をしめてくだしゃいまひ・・・」
「えー、せっかく持ってきたのに」
「え、絵具なら、私の物を使って良いですから!」
半ば押し付けるようにして私の絵具を手渡すと、レミッサさんは残念そうな顔をしながらも悪臭の元をしまってくれた。
しかし、こんな絵具を何に使うつもりだったのか・・・そう思って彼女のキャンバスを見ると、そこに描かれていたのは・・・
「・・・レミッサさん? これは何ですの?」
「えっ、見てわからない?」
あっけらかんとした顔で彼女が答えた。
いや・・・その・・・わかりますけど・・・わかりたくないと言いますか・・・
レミッサさんのキャンバス・・・そこに描かれた湖の中央には、一振りの剣が刺さっていた。
「魔剣フレイムボーダン・・・凍てつく世界にあっても決して消えない炎を放つ魔剣でね・・・」
「・・・神々の戦いで振るわれる神殺しの武器よね、よく描けているわ」
「えへへ」
「えへへ、じゃありません!! マリエンさんもこんな絵を褒めないでください!」
肝心の湖の風景は全く描き切れていない上に、魔剣とやらばかりが妙に描きこまれている・・・これでは子供の落書きも良い所だ。
こんな画力ではすぐに落ちこぼれてしまう・・・いつもマリエンさんと一緒にいるから最低限の画力はあると思っていたけれど、これはとんでもない。
おそらくマリエンさんは人に教えるのに向いてないタイプだ、私が・・・私が何とかしないと・・・
「レミッサは・・・レミッサのペースで自由に描けば良いのではないかしら」
「いいえマリエンさん! レミッサさんは甘やかすと伸びないタイプですわ! 無理にでも描かせないと」
「え・・・」
「良い機会ですから、レミッサさんには私が基礎を叩きこんで差し上げます」
不本意だけれど、付きっきりでレミッサさんの面倒を見た。
興味のないものは全く描こうとしない、それが彼女の弱点だった。
私は心を鬼にして、彼女に描かせた・・・基礎的な技術を根気よく何度も。
そうしているうちに時は流れ・・・その間にも美術学校からは一人、また一人と才能のない生徒が消えていく。
その多くが彼女のような普通の家庭に生まれた者達だ、才能がなくとも実家の財力や人脈に恵まれた者は派閥の中でそれなりにやっていける。
マリエンさんには才能があるから何も心配はいらない・・・事実、その頃には彼女も私と肩を並べる存在として学校内で知れ渡っていた。
問題はレミッサさんだ。
基礎的な事は全て教えることが出来たけれど、それだけで勝負出来る世界ではない事は彼女自身もよくわかっている。
元気に振舞ってはいるものの、いつかその心が折れてしまう日が来るのではないか。
その不安は当たらずとも遠からず・・・次第に彼女の表情に陰りが見えてくるようになった。
「レミッサさん、もうだいぶ基礎が身についてきましたわね」
「・・・そうかな」
「ええ、貴女はよくがんばったと思いますわ・・・この基礎を下地にして、これからは自分の絵を・・・」
「・・・自分の絵って?」
「ええと・・・それは・・・」
「教えてよマルガレーテ、私はどうすれば良いの?!どうすれば2人に追いつけるの?!」
「・・・」
彼女のその問いかけに、私は答える事が出来なかった。
何が『自分の絵』か・・・自分で言っていて白々しい。
私自身そんなものは見出せていないのに・・・私は今も先生に教わった通りに描いているに過ぎないのだ。
教わった事をただ忠実に絵の形にしているだけ・・・それだけなのに、なぜか周りは天才だと持て囃す。
高価な絵具のおかげだろうか。
リッチウェイ商会の抱える職人による技術の結晶とも言うべき、空の青さを写した絵具。
この青色を私の象徴のように語る者もいたけれど・・・いつしか私はこの絵具を使うのを躊躇うようになっていた。
おそらく本当に天才と呼ぶべきはマリエンさんだけだ。
彼女の絵にはそれがあった・・・私の絵にはない純然たる輝き。
なぜそれに張り合えると思ったのか・・・我ながら自惚れも甚だしい。
とうとうレミッサさんは思い詰めて、自室に閉じ籠るようになってしまった。
おかげでマリエンさんと2人きりになる事が多くなったけれど、とてもそれを喜ぶ気分にはなれなかった。
「ねぇマリエンさん・・・どうすれば貴女のように描けるのかしら?」
「・・・貴女らしくもない問いかけね」
「そう? この美術学校で私は足りない何かを得られる・・・私に絵を教えてくれた先生はそう言っていたわ」
「・・・その何かは?」
「さっぱり・・・絵を見ればわかるでしょう?・・・私は何も変わっていない」
「・・・私はそんな事ないと思うけれど」
「そうかしら?」
「・・・未来の古典派の担い手、マルガレーテ・リッチウェイ・・・貴女は確実に成長しているわ」
マリエンさんはいつも優しい言葉をくれる。
私もその言葉に甘えてしまいたかった・・・でもそれは出来ない。
『甘やかすと伸びないタイプ』は他ならぬ私自身の事なのだから。
「・・・今ね、貴女達の絵を描いているの・・・ちゃんとした肖像画よ」
「肖像画?」
「ええ・・・楽しみにしていて」
風景を描く事の多いマリエンさんにしては珍しい。
いったいどんな風に人物を描くのか・・・少し興味がそそられた。
「・・・貴女達2人はいずれこの国を代表するような絵師になるわ」
「買い被り過ぎですわ・・・それに私はともかく、レミッサさんは・・・」
「・・・あの子は、もう大丈夫」
「え・・・」
そう答えたマリエンさんの表情はいつになく自信に溢れていて・・・少し誇らしげに見えた。
そして彼女は悪戯っぽく目を細めて・・・
「・・・貴女も、すぐに追い抜かれてしまうかも」
「そんなまさか」
「ふふ・・・私にはわからないけれど『貴女に足りない何か』は、きっとあの子がもたらすのではないかしら」
「さすがにあり得ませんわ・・・ひょっとしてマリエンさん、私をからかっているのではないかしら?」
「・・・さぁ?どうかしらね」
そう言いながら視線を逸らしたマリエンさんはどこか寂しげな表情を浮かべていた。
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「それが・・・マリエンさんと交わした最後の言葉になりました」
そこまで語って、マルガレーテさんは悲しげに目を伏せた。
その彼女の表情から、私も察することが出来た・・・私達はその先を知っている。
その後、マリエン・ブラッドリーは・・・
「・・・美術学校の広場で、彼女の亡骸を発見したのは、その翌日の事でしたわ」
やっぱり・・・自分の手で胸に刃物を突き刺したマリエンさんの遺体・・・レミッサさんに聞いた話と状況は一致する。
気になるのは、マリエンさんに酷い嫌がらせをしたという古典派の存在だけど・・・彼女の口からは出て来なかった。
「たくさんの衛兵が来て、遺体の周りはすぐに立ち入り禁止となって・・・翌日には何もなかったかのように・・・まるで悪い夢でも見ているような気分でしたわ」
マリエンさんの自殺は世間には知られる事なく、内密に処理されたのだとか。
美術学校側としては醜聞を広めたくなかったのだろうけれど、あんまりいい気はしない。
「あの絵が家に届けられたのは、その翌日の事・・・私に話した時点で、ほぼ完成していたのでしょうね」
壁に掛けられた肖像画はマルガレーテさんの特徴をよく捉えられていた。
とても人物画を描く事がなかったとは思えない程の完成度で・・・彼女は本当に天才だったのだろう。
そう言えばレミッサさんからは、肖像画については何も・・・
少しだけ嫌な予感がした。
「レミッサさんが浪漫派を名乗って頭角を現してきたのはそのすぐ後の事です・・・正直驚きました、何せ・・・」
マリエンさんの死で話を締める事無く、饒舌に語り出したマルガレーテさん。
その瞳に不穏なものを感じて、私は背中が冷たくなるような気分を覚えた。
「レミッサさんはまるで別人のような雰囲気で・・・もちろん彼女が描く絵も様変わりしていて・・・そして私は・・・ああ、気付いてしまったのですわ」
「・・・気付いた?」
「あの時のレミッサさんから漂う強烈な悪臭・・・そしてそれと同じものが、マリエンさんの遺体から漂ってきていた事に」
そう語るマルガレーテさんからは、その情念が滲み出てくるかのようで・・・やはり嘘をついているようには見えない。
間違いなくマルガレーテさんはレミッサさんの事を疑っている・・・そしてレミッサさんもマルガレーテさんを。
2人は過去のこの事件をずっと引き摺っているのだ・・・互いに互いを疑ったまま。
救いを求めるようにアーステール様の方を見ると、アーステール様はすごく嫌そうな顔をしていて。
「・・・面倒な事になったわ」
ただ一言・・・そう呟いたのだった。




