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怒涛の春  作者: 十 一
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第八章  呪術戦

 穂那実が折り鶴に乗せて返した邪霊は主を襲った。戯娃(ぎわ)は油断していた自分を恥じた。

 ()()を捜しに来たというのに、虱潰しに捜しても彼女がいた痕跡すら砂粒程も掴めない。そのままで猫御前の前に復命することが出来る訳もないから、点数を稼ごうと穂那実のクラスメイトに手持ちの邪霊を憑かせたのだ。

 とんだ醜態だった。人気のない場所に邪霊を誘導しどうにか滅したものの、強力な手持ちの駒を失った上に自分まで怪我をしてしまった。

 呪詛返ししたのは誰だ。憑かせたクラスメイトでは有得ない。夏秋のガキかそれとも片桐姉弟か、中学に他に能力者がいて見落としていたのか。

 なんにせよ頭に巻いた包帯が取れるまでは帰るに帰れない。足取重く戻ったビジネスホテルのホールに芙児(ふこ)の姿を認めて戯娃は身が縮んだ。正統派の美人で、美しい以外に大した能力はないが猫御前のお気に入りだった。

「芙児…どうして?」

 答えず芙児はホテルの隣にあるカフェに誘った。

「姉弟には直接手を出すなというご命令だったでしょう?余計なことをせず有赤の行方を捜せって」

 戯娃の失態がバレていた。

「有赤の行方は?手掛かり位は掴んだんでしょうね?」

「全く何も。秩父に足を一歩も踏み入れてないかのようだわ。式を放っても何も掴んで来ない」

「やっぱりね。それでこのままでは帰れないって姉に手を出そうとしたのね」

「直接ではない。同級生に憑けようとしただけよ」

「そしていとも簡単に返された、と?」

 サラサラの髪を掻き上げる仕草が様になっている。

 グッと苦い物と一緒に戯娃は言葉を呑んだ。

「猫御前はお怒りになってはおられないわ」

「は?」

 だから何だというのだ。あの冷酷な方は怒っていなくても楽しく部下を処罰するというのに。

「姉の方、穂那実ね。結果として彼女の潜在能力が計れたのだから、今度の失態は許して下さるそうよ」

「猫御前の寛大さに感謝します」

「その上で失態を償うチャンスも頂けるって」

「何をすればいい?」

 残虐な処罰を受けたくはない。

「ここ秩父では何かと動き難いでしょう?週末に姉弟は父親に連れられて厚木に遊びに行くことになってるわ。ツリークロスアドベンチャーですって、お誂え向きの山の中だわ。夜は近くの温泉宿に泊る予定よ」

「神奈川か私達が動き易い場所にわざわざ向こうから出向いてくれる訳だ」

 猫御前の本拠は神奈川にある。

「数名付けるから、穂那実を山で行方不明になったように見せかけて、御前の元に連れて来て」

「了解。お安い御用だわ。けどいいの?白猪様の命に真っ向から歯向かうことになるんじゃない?」

「我々下々が気にすることじゃないわ。私達はだた命じられたことを完璧に成し遂げるだけよ。御前には妙羅も付いてる。もう一度背けば…解かってるわね?」

「ええ」

 猫御前も妙羅も冷酷で残酷を楽しむサディストだ。どんな処罰が下されるかと思っただけで背筋が凍った。

 白猪様のお子達の直下に選ばれるのは名誉なことだったが、猫御前の直下だけは別格だ。傘下の家門も露骨に嫌がるようになって直下は減っている。

 すると猫御前は家門からではなく、妙羅に札付きを集めさせるようになった。それによって猫御前の悪名は上がる一方になったが気にも留めていない。元々良家の英才達のキレイごとや諌止を五月蠅く感じていたからだ。

 暇を頂きたいが報復が怖くて切出せないし、猫御前に仕えていたら帰っても白眼視される。結局猫御前のやり方に染まるしかなかった。

「それとね。任務とは全く関係がないんだけど、近々御前のお孫様がお披露目されるそうよ」

「お孫様?」

 それは猫御前の鬼門でもあった。彼女も当たり前に一族の優秀な男性と結婚していて、子供も一人ならず産まれたはずなのだが何年たってもお披露目がなかった。つまり生まれた子達に一族を名乗らせるだけの才能がなかったということだ。

「それは目出度い。お幾つになられるの?」

「十五歳だそうよ」

「十五……遅いお披露目になるんだ」

 才能があれば十になる前にはお披露目され、世話役が付けられるのが普通だった。

「遅咲きの才能か、それとも悪行を自覚してて報復を撃退出来るようになるまで待ってたか」

「芙児、それは言ってはダメ」

「…昨日、お孫様のご両親を始末するのに立ち会わされたわ」

 戯娃の背筋が凍った。

「お孫様には?」

「会ってない。これから祖母の下でどんな風に育つのか考えただけでも恐ろしくない?」

「……芙児…」

 それは考えてはいけないことだ。私達に戻る場所はないのだし。

「じゃあね。これはツリークロスアドベンチャーの資料」

 そうして戯娃をカフェに残して去った。



 母が戻って来ない。露骨なやり方に反感もあるが、悠斗の中に重い物が溜まって行く。理由や経緯はどうあれ母を追い出したのは自分なのだ。

 それを軽くしたのは穂那実だった。

「結果としてはお母さんにはハッピーじゃない」

「え?」

「だってお母さんにはいい言い訳になったでしょ?子供達に虐められて邪魔者にされて、追い詰められた私は恋人の胸に飛び込んだ。そしたら恋人と結婚することになった。転生物の悪役令嬢の追放劇みたいな逆転じゃん」

 悠斗は目から鱗が落ちた。

「帰れないのは酷い子供達の所為。結婚して子供を放っておいても、それも子供達の所為。後で私を追い出したことを悔やんでも遅いのよ、って。お母さんの自己正当化の上手さは知ってるでしょ?」

「うん」

「だから気にしない方がいいよ。今年はお母さん絶好調な年なんだから。経緯はどうあれ金持ちになって恋人が出来て結婚するんだもん」

 再び鱗が落ちた。

 考えてみれば母に悪いことなど何もない。母を苦しめるのは母で、けれどそれが母を幸せに押しやった。

「姉ちゃん」

「うん?」

「お母さん幸せになればいいね」

「そうだね」

 だが週末は父と泊りでお出掛けだ。八弥斗達をどうしよう。宿泊予定の旅館には犬は連れていけないはずだ。発想の転換のなった悠斗に穂那実がもう一つ朗報をもたらした。

「秋葉さん来てくれるって」

「ええ!何年振り?」

 母と仲の悪い叔母は滅多に姉宅に寄り付かない。それがその日の内に秋葉は茜に伴われて訪れた。背が高くてスレンダーで美しいのは全く変わらない。祖母と叔母は時間を停めてしまったかのようで、天女のような気品ある美しさが共通していた。

「久し振り~、三年振りやっけ?二人共大きいなったねぇ」

「秋葉さんどうしたの?東京来てたんだ」

 駆け付けるにしては埼玉と大阪には距離がある。

「うん、横浜と都内でイベントがあって、お母さんとこ泊めてもらっててん。イベントは昨夜済んだから丁度良かったわ」

「何日か居てもらえるの?」

 期待を込めて穂那実は訊いた。

「居れるけどあんたらのお母さん帰って来たら速攻バイバイやで、あの人とは三時間も一緒に居れん」

 白い毛玉が二つ秋葉に抱きついて舐めまわした。

「やん、可愛いやん。これが八弥斗と小雪なん?」

「でしょ~。お父さんとお出掛けしたいけどこの子達のことも心配で」

「任しとき。気持ち良う遊んどいで」

「平日にイベントがあるんだ」

 悠斗が訊いた。

「たまにはね」そう言って「ふふ~ん、ふふ~ん」と家を見回し、意味有り気に仔犬や家政婦の黒谷に眼差しを送った。

「人外魔境、ってか、ここ人外聖境?聖地になりつつあんね」

「嘘!何それ?」

 子供らが興奮する。血縁でもその手の話題には茜は混ざれない。それでも長居したいが仕事があった。

「私にはさっぱり解からないわ。じゃあこれで帰るけど後をお願いよ」

 道案内だけのトンボ返りだ。待たせていたタクシーに乗って行ってしまうのを皆でお見送りする。

「お祖母ちゃん忙しいんだ」

「経営者になると交際も大事になんのよ。土日にもそういう意味での仕事が入ってまうんよね」

「へぇー。秋葉さん本当は何日いる気だったの?」

「え?まあ懐具合が良うなったから、東京見物しようかなとは思っとったよ。顔出せば連れ出されるイベントもあるし。美術館や博物館も周りたいし。ええ機会やから三峯神社も行こかな、て」

「私も一緒に行きたい。いつまでだって泊ってって」

「千夏さんが帰らへんかったらね」

 姪っ子が歓迎してくれるのは嬉しいが、姉とは顔を合わせたくない。

「千夏さん、なんだ?実の姉なのに」

 誰もが母から距離を取る。それが悠斗には悲しかった。その理由が分かってしまうだけに。

「それはしゃあないの。姉妹いうたかて色んな関係があるやん。距離置いてた方がええ関係もあんねん」

「それはもう私も解かって来たよ。やっぱりお母さんとは上手くやってけない」

 母と言葉を交わす度その事実が重く圧し掛かっり苦しかった。

「辛いやろけど、早い内にそういう家族もあるって割り切った方がええよ。親やから子やから姉弟やからって、無理するだけ空回りして不幸になってまうねん」

「そう言ってもらえると心が軽くなる気がするよ」

「そうそう、距離を置くだけで親子の縁切る訳やないんやし。千夏さんが放さへんかったらうちへお出で、物理的な距離取るのもええよ。けど千夏さんどこぞの男性とラブラブなんやろ?いい方に行きそうなん?」

 姉弟は目を合わせた。

「悪い方には行ってない?かな…?結婚することになったし。お相手の男性って夏秋さんっつって」

「お祖父ちゃんの親戚やろ?」

「知ってた?」

 姉弟の声が揃う。

「うちにも接触あってんやで。お父さんのことがあるからって回りくどいやん?余程喉に詰まった骨やねんな」

「お祖父ちゃんのこと知りたい!」

「まだあかん。知っただけで危険度が上がる」

 すげなく言われてしまった。

「え~~」

「その内嫌でも知れるから急がんでええよ。それで悪い方に行ってないって、奥歯に何挟んでんねんな」

「向こうの息子で眞宙とは上手くいってる。叔父さんの恒平さんには色々教えてもらってていい人だよ。けど本人はあんまり…心許せるかどうか…」

 夕食の後、ゆっくり姉弟はこれまでの経緯を話した。

「あ~、回りくどいことすると余計事態がややこくなるんよね。これやから後ろ暗い連中は。二人共、後ろ暗い事はくれぐれもするんやないで、簡単なことでも嘘つかなあかんなるからな」

「は~い」

 姉弟でハモる。

「しっかし相手も相手やな。流石千夏さんを気に入るだけあるわ。きっと豪華な結婚式上げるて言うてくるで、賭けてもええ」

「え?でもお母さん吝嗇だよ。どっちも再婚だしさ」

「せやけど結婚式やで。そこは理論武装してくるて、ホンマは自己顕示欲の強い女やからな。素敵な式場やウェディングドレス見たらやりたなるて。自分にはお金かけたい性格やねんし」

 後にこの予言は大当たりすることになる。


 気になっていた雨予報もなく、週末は梅雨の晴れ間となった。朝早いにも関わらず悠斗も起こされるまでもなく起きた。

 迎えに来た修吾は十数年振りに会った義妹の美しさに心底驚いていた。記憶にあるのは美しいが臆病で目立つのを嫌い、一歩引いてオドオドした陰キャだったのに、どう殻を割ったのか自信に満ち溢れて輝いているではないか。

「お義母さんも貴女も時を忘れているようだ」

「そんな訳あらしませんやん。長谷川さんも相変わらずお口が上手やわぁ。男振りも上がらはって、道理で子供らが自慢するはずやわ」

 目を逸らさずはきはき喋る。ハッとする程の美女なのに気取りがないのが好ましい。

「ほんなら子供らとゆっくりして来て下さい。留守はうちが守ってますんで」

「千夏さんは?…いえ、伺ってよろしければ」

「彼氏の所に泊ってますねん」

 それ言っちゃいますかと悠斗は焦った。

「彼氏の所に。それは良いお話ですね」

 てっきり修吾と顔を会わせるのが嫌で家に籠っているのかと思ったのだ。奇特な男がいたものだと思うが朗報だった。

 車中では子供達が父の様子を伺った。

「ぶっちゃけ、お父さんってもうお母さんに未練ないよね」

 あんまりなぶっちゃけようにハンドルを損ねてしまいそうになる。

「姉ちゃん、だからぶっちゃけ過ぎだろ!オブラートって知ってっか?」

「正しくはお薬が飲めないお子ちゃまが使う物でしょうが。使ったことないけど知ってるに決まってるじゃない」

「そうだな。正しくはそうだ。この場合は…お父さん使って欲しかったな」

 このスパッとしているところが千夏と相容れない部分なのだろう。

「うん、未練はないぞ、全く、これっぽっちも」

「良かった。お母さんったらもう年下の彼氏にぞっこんで、ウザいLINE大量に送ってくんのよ」

「ウザいのか」

「そうやって子供の心揺すぶってるつもりなんだろうけど、こっちはとっくに母離れしちゃってるし、ウザいだけなんだよね」

「成る程」

 それも朗報だった。

「千夏さんのお相手にはもう会ったのか?」

「うん、ほら、前に話した設計士さん。向こうも子供が二人いて、偶然クラスが一緒なの。悠斗もだよ」

「それは…凄い偶然だな」

「相手の人柄は置いといて、お母さんの結婚には反対じゃないから仲良くするようにしてる。もうお相手のことパパって呼ぶ練習もしてるんだ」

「ダメだ!止めろ!」

 思わず強い調子が口を吐いた。穂那実だけでなく悠斗も驚く。

「お父さん?お相手をお父さんって呼ばないよ。パパって何処かのお店のマスターみたいに呼ぶだけだよ」

「それでもダメだ!お前達に父と呼ばれていいのは俺だけだ。父ちゃんだろうがダディだろうが父上、お父様、パピー、父、オトン、どれにしたって俺にしか使うな」

 そう言ってくれてありがとうお父さん。と悠斗は心の中で父に感謝した。夏秋を父の呼称で呼ぶのは口で言う程生易しくはなかった。

 ぷっと噴き出してくすぐったそうに穂那実は笑う。

「もう、お父さんったら。分かった呼ばない」

「そうしてくれ」

 少し恥ずかしくて結構嬉しそうな父の横顔だった。気を揉んでいた悠斗も安心する。

「結婚することは決まったのか?」

「一昨日ね。その前の日に私達と喧嘩してお母さんが出て行っちゃったの」

 悠斗と喧嘩した、と言わないのが姉の思い遣りだった。その事実は複雑で重い物を少年の胸に落していた。

「この頃進学や家のことで喧嘩が増えてて…」

 どちらも退かずに、同じ言葉、同じ問答が繰り返されてうんざりだった。

「私もね、何だかお母さんに対しては冷静でいられない部分があるから…、後でもう少し上手くやれたでしょ、とは反省するんだけど…」

「そうか」

「お父さんはそんなことなかった?」

「お父さんは男ばっかりの六人兄弟の真ん中だったから、親は旅館の経営で忙しくて子供に掛りきりになる時間も取れなくてな。いい具合に放っておいてもらえたと思うぞ」

 娘が一人位欲しいと頑張った結果の六人兄弟だった。

「大学は東京で下宿したいと話しても、よっしゃ頑張れって言って貰えてな。他の兄弟が地元からそんなに遠くに出なかったのもあるんだろうな」

「いいなぁそういうの。私ね、秋葉さんが自分のことお母さんに知られたくないって言うんだけど、気持ちが分かるようになったよ」

「姉ちゃん…」

「口先だけで自分が思いたいようにしか私を見ないの。何にでも文句つけてくるし、傷付けられたくないから誤解されたままでいいって思っちゃうんだな…」

「穂那実…」

「姉ちゃん…」

「ああ、ごめんごめん、折角のお出掛けなのにのっけから嫌な話になっちゃった。私はそうやって対処出来るから大丈夫だよ。お祖母ちゃんも秋葉さんも味方になってくれるし、ね」

 何か言ってやるべきだとは思ったが、修吾にしても今口を開けば千夏の罵倒になりそうで何も言えなかった。

「それとは関係なしに、私将来の為に東京の高校に行きたいんだ。お父さん一緒に住んでもいいって言ってくれたよね?」

「勿論だ。勿論いつからだっていいぞ」

「でもお母さんが譲らないから家庭裁判所で共同親権の申し立てしてるんでしょ?」

「ああ、弁護士同士の話し合いが平行線なんだ」

「今度聴取があるけど私お父さんと住みたいって言うからね。長谷川穂那実っていいよね」

「凄くいいな!」

「俺もいい?父さん」

「当然だ」

「お母さんは可哀想だけど、辛いんだ」

 大人になる為とはいえ、一番の身近な手本である母を否定しなければならないのは辛いに違いないのだ。

「お父さんのお母さん、お前達にとってお祖母ちゃんだが、良い人だぞ。愚痴を言わずお祖父ちゃんと二人で支え合って旅館を経営してた。パワフルな人なんだ。お父さんはそんなお祖母ちゃんといるのが辛くて離れて暮らしてるんじゃない。自分の人生があるから自然と離れる結果になったんだ。穂那実も悠斗も父さんの所に来ても数年もすれば成人してそれぞれの道を行くだろ?それからだって長いこと一緒に住むかもしれないし、大学を卒業して出て行くかもしれない。そういうもんなんだ。多少早くなったからって気にするな」

 これで慰めになるかどうか分からないが、子供達の心が軽くなってくれればと祈った。

「うん」

「今日は日頃の鬱憤を吐き出すには丁度いい所だぞ」

「アスレチックなんだよね」

 一泊二日の予定だったが、服は多めに指示されていた。汚れていい動き易い服と着替えだ。

「お父さん行ったことあるの?」

「何度も!こう言っちゃあなんだが、前の奥さんと一緒にな。ジップラインが爽快で、お前達が気に入ったら他のとこのにも連れてってやるよ」

「そんなに?」

「サラリーマンだってストレスが多いんだぞ。だから多少遠かろうと何度も行ってるんだ」

 思う存分楽しむつもりで「1DAYフリーパス」を購入していた。


 アスレチックは看板のある狭い階段を登った先がトイレで入場口だった。

 広大な敷地は必要最低限だけ整備されていて、アスファルトやコンクリートに慣れた現代っ子には自然が肌近くまで迫る別世界だ。命綱があるとはいえとても頼りなく、文明が入り込んでいない分安全は遠ざかり自分で身を守ることを迫られる。

 揺れて登り難い縄梯子を指示されるままに必死に登り切ると、下を覗いて眩暈がしそうな高さに驚いた。その高さで命綱を掛け替えながらアクティビティを乗り越え、ターザンロープと言われるジップラインに初挑戦する。ウッドチップに迎えられてコース1は終了だ。

「楽しい!」

 ウッドチップまみれになりながら穂那実は歓声を上げた。先に飛んだ悠斗も「滅茶苦茶楽しいよな」と姉弟ではしゃいだ。

「どうだった?」

 最後に飛んだ修吾が子供らの反応を伺うと、笑顔に輝いた子供らの顔を見れば一目瞭然だった。

「楽しい、次のコースはもっと上手くやれる!」

「早く次のコース行こう」

「よし、次だ」

 フリーパスだからコースを一周しても再挑戦出来る。サッカーをしていた悠斗はまだしも穂那実は体力が続くかと案じていたが、先頭に立ってもう一度挑戦しようという。

「癖になりそうだねお父さん」

「だろう?身体は辛くないか?無理するな」

「登るのは辛いけど、コース5と6はもう一度やりたい!」

「俺はボルダリングにもう一度挑戦したいな」

「ごめん悠斗、それやったら私、他のが出来なくなっちゃう」

 十五メートルのボルダリングは初心者には辛い。しかし登り切れば達成感は格別だ。

 修吾がボルタリングは最後にしようと提案する。

「私下で見てるから」

「了解」

 もう一周フルで回れる体力があったから悠斗は姉に譲った。内心穂那実が子供のようにはしゃいでるのが嬉しかった。世話焼きで知らぬ間に悠斗に色々と譲ってくれていた姉が、父の下では子供のようにはしゃいで甘えられている。久し振りの屈託ない笑顔だった。

 最長のジップラインの二度目の挑戦では、穂那実は手を離して飛んだ。

「きゃあぁー」

 爽快な声を上げてみるみる小さくなる。

「よし、次は悠斗だな」

 ところが修吾が手を離す直前、前触れもなくジップラインから下がったロープが切れた。命綱と修吾が回していた手で助かったが、糸が切れるようにロープが切れたのには二人共肝が冷えた。

「インストラクター!ロープが切れた」

 要所要所にいるインストラクターに修吾が叫ぶ。

 慌てて登って来たインストラクターも信じられない思いでロープを見詰めた。まるで鋭利な刃物でスパッと切られた様にしか見えなかったからだ。命を預けるのだ、簡単に切れるロープではないし確認は欠かしていない。

「こんな切れ方、信じられない!開園前にはチェックしてるんですよ」

「俺も息子に付けた時には傷一つなく見えたんだ。だが手を離そうとした寸前ぷっつり切れた」

 途轍もなく嫌な気がした悠斗は、インストラクターの止めるかという問いに、

「姉に追い付きたいんでやります⁉」

 と答えた。

「怖くないか?無理するな」

 怖いは怖い。しかし悠斗には姉の安全を確かめる方が先だった。不安は的中した、悠斗が着いた時穂那実の姿は何所にもなかった。

「お父さん姉ちゃんがいない」

 殿の修吾が着くなり訴える。

「この辺りにもインストラクターがいるはずだ」

 ところがやって来たインストラクターに訊くと、さっきまでこの場にいたインストラクターが怪我をして交代したばかりだという。

「足を怪我してかなり出血してたんで、急いで車で医者に向かってるんです。だからすいません、しばらくここに誰もいませんでした」

「お父さん」

 呆然と父を見詰めた。

「訳が分からないですよ。本人もここいらで見守ってたら、急に血が噴き出したって。そんな怪我する様な物見当たらないでしょ?でも怪我してほらあそこ、土を被せてあるんですけど血が垂れた跡があって」

 指差した辺りで土が浅く削られた跡と、薄く積もった場所がある。

「そうですか、その方の怪我が酷くなければいいですが」

 尋常なことではなく恐怖に駆られたが修吾はそう言うしかなかった。

「娘さんを一緒に捜しましょうか?」

「いえ、次はボルダリングに行く予定だったので、私達が遅くてそちらにブラブラ先に行ったのかもしれません。確認してからで」

「了解しました。そこに居られるといいですね。居られなかったらすぐ連絡を下さい、スタッフも捜しますから」

 しかしコース3の周辺にも穂那実の姿はなかった。



 話は昨夜の深夜に遡る。恒平が就寝前の瞑想に耽っているとスマホが鳴った。画面には「詩織」とある。夏賀詩織だ。

『恒平?』

「どうした?」

『猫に動きがあった。そっちで有赤を捜してた戯娃が秩父を離れたわ』

「それで?」

『猫の小屋じゃなく厚木に向かったのよ。明日片桐姉弟も厚木にあるツリークロスアドベンチャーっていうのに行くのよね。旅館も予約してあるのを確認したわ。俊平にも報告したけど、今は手が離せないって』

「だろうな。分かった俺が行く」

 我が子を放って愛しい女性と愛を深めているのだ。千夏に言えない外出は出来ないだろう。

『お願いね』

 そうして密かに親子を追い、途中車がコンビニで止まった時、さり気なくそれぞれに式神を放っておいた。

 それが今や穂那実の頼みの綱になっていた。


 穂那実がジップラインから降りた頃、怪我をしたインストラクターが運ばれるのが見えた。血が垂れているのを目にして大したことありませんようにと祈った。

 命綱を外して次に来るはずの弟を待っていると、

「姉ちゃん!姉ちゃんこっちだ。助けて!」

 切羽詰まった声で悠斗が助けを呼んでいた。

「悠斗!」

 声の方に向かおうとしてハタッと止まる。

(ジップラインを使わねば谷を越えられない)

 悠斗は自分のすぐ後ろにいた。谷を迂回するには時間が短過ぎる。しかも声は迂回路ではなく谷の方からしていた。

「姉ちゃん早く助けて!俺連中に捕まったんだ」

 何となく、こういう時弟は助けてではなく「逃げて」と叫ぶ気がしていた。

 考えるより身体が動いた。教えられた通りに大きく息を吸い、気を落ち着けてゆっくり長く吐いていると、「チッ」と舌打ちが聞こえた。

 細い木々の向こうから現れたのは赤い帽子の驚く程背の高い女だった。

(八尺様、裕太に悪さした女?まだ間がある)

 反対方向に逃げようとするといきなり白い小鳥が目の前に現れて正面衝突した。と思うとスッと穂那実の身体をすり抜けてしまった。

「あ、師匠の式」

『ダメです。そっちは誘導です』

 パタパタと谷に向かって飛ぶ。

「そっちの方が危なくない?」

『結界の方が怖いです。(あるじ)が来るまで奴の結界に取り込まれてはいけません。一歩でも踏み込んだら主にも助けられないです』

「分かった」

 素直に従って慣れない斜面を降った。

「師匠は近くにいるの?」

『敷地内にはいます。こちらに向かってます。ひゃーっ』

 風が奔って小鳥が墜ちる。咄嗟に手を伸ばすと、指をすり抜けたりせず小鳥は捕まえられた。どういう構造なのだろう。赤い帽子が木の幹に突き立ち次の瞬間には消える。

『ありがとうございます。止まって、右に』

 反射神経はいいと思う。考える間に小鳥の指示に従って右に進路を変える。

「ぽぽぽ」と人間だか機械だか判別し難い奇妙な声を発しながら、変えたコースを背の高い女が走っていく。

『次また右です』

 道のない細い木々が生える暗い山肌を右に曲がる。

『引き返して』

「ええ!」

 だが素直に引き返す。

 周辺を「ぽぽぽ」という声に囲まれる。視界にチラチラと赤い帽子の背の高い女が複数認められた。

『左ですぅ、ああ、右に』

「ちょっ、これって本当に安全な方に進んでるの?」

 アスレチックで相当体力を使い果たしているし、慣れない山道に息が上がる。足も縺れ気味だった。

『安全かどうかは…右です。結界に踏み込まないように逃げてるだけです。一歩右、一歩左、続けて』

「何それぇ」

「ぽぽぽ」

 声が間近に聞こえて急いで指示通りにする。だが斜面をそんな風に進んでいるものだから体勢を崩してしまった。

(やば!)

 斜面を転げ落ち、打ち身に擦り傷と痛いなんてものではない。

『立たないで!足を地に着けないで!四つん這いもダメ』

 我ながらこの状況でいい反応速度だと思う。二瞬程して次の指示がある。

『立って、足の向いてる方に三歩と右です。主~早く~』

 最後が泣声だが泣きたいのはこっちだ。痛みも身体の状況も無視して指示に従わざるを得ないのだから。

「師匠~早く~」

「ぽぽぽぽぽっ」

 声が嘲笑うようでムカついた。ポケットのタオルハンカチを開いて風を含ませて投げるとその方向にいた女の姿が消えて、「ぽぽぽ」が一瞬止んだ。

『凄いです!一体消えました』

「あと何体いるの?」

『三体です。左!』

 左を向いた途端に『真後ろに』と指示が飛ぶ。


 悠斗と共に修吾は敷地内のあちこちを捜したが愛娘の姿はない。絶望的な気持ちでインストラクターに通報しようとした時、「お父さん、姉ちゃんだ」と悠斗が告げた。

 穂那実は何処かぼうっとしているようでありながら照れ臭そうに笑っている。

「何処に行ってた?捜したんだぞ!」

「ごめんなさい。急にお手洗い行きたくなっちゃって…パーク内にないでしょ?適当なとこ探してたら…ちょっと迷っちゃって」

 ホッとするやら腹が立つやらだが、恥ずかしそうな娘に怒りを修めた。どことなく違和感は覚えるが娘に間違いない。高い木々の間は涼しいが夏なのだ、マメに水分補給をしていたから行きたくもなるだろう。

「もう出るか?旅館はすぐそこだから行って休もうか」

「ううん、悠斗に悪いよ。私ちょっと見えるとこで休んでるから、二人で行って来て」

 パーク内に配置されたベンチを指す。

「しかし…」

 こつんと何かが悠斗の肩に当たった。

「父さん、俺ボルダリングしたい!」

 嘘を吐くのが下手な悠斗は大声で言い捨ててどんどん進んだ。

「待て悠斗、一人で行くな」

 息子と娘に代わる代わる目をやる父に、穂那実は笑って手を振る。

「大丈夫。私ここに居るから」

 それでも娘を気にする父に、悠斗は申し訳ないと思いながらボルタリングを登った。彼女が姉でないことは解かっていた。思った通り頂上には恒平がいた。

「好い登りっぷりだな」

「姉ちゃんはどうしたんだ?大丈夫なのか?」

 下のベンチで見守っている穂那実は恒平の式神だろう。

「猫の配下に襲われてる。何とか逃げ回ってるが早く助けないと保たない」

 口を挟もうとした悠斗の口を手で塞ぐ。

「俺も行くとかいうな、時間がないんだ。お前はお前の役目を果たせ。穂那実が帰って来るまでは絶対ここから出るんじゃない。親父を何とか引き留めてパーク内にいろ。分かったか?」

「う、分かった」

 一言も反論を許されず悔しかったが、彼の聡明さはそれが一番賢明なのだと告げていた。そして二枚の人型を手に押し付けられる。

「もし赤い帽子の背の高い女が現われたら、それに息を吹きかけてから静かに逃げろ。分かったか?」

「はい」

 それ以上は言葉を重ねず、恒平はスルッと高さを物ともせずに降りて行った。


 赤い帽子の女はあと三体、これはいけるのでは?と思ったのも束の間で、逃げ惑う間に女は増えていた。

 何度目か転げ落ちた時、囲まれてもう逃げられないのを悟った。上体は起こしたが足の裏は地面に着けないでいた。

「ぽぽぽ」の包囲網が縮まる。八体に増えた女が文字通り八方からゆっくりと包囲を狭めて歩いて来る。

「頑張ったわね、褒めてあげるわ。そろそろ観念して地に足を着けたらどう?」

 背の高い女の後ろから極標準的な身長の帽子を被っていない女が現われる。頭に包帯をした女を穂那実は知らないが戯娃だった。

(この女が操ってるんだ)

 と同時に自分が強い結界に囚われかけているのを自覚する。

(のり)(すけ)を待っても無駄だよ」

 恒平の相手は配下がしているはずだった。

「のりすけ?」

『主の術師としての名前です』

「そんな物あるんだ」

 悠長に感心してはおれなかったが。

「おばさん誰?何で私にこんなことするの?」

 キッと戯娃を睨み付ける。

「ふふ、大怖い大した肝の太さだこと。別に獲って食いやしないわよ。猫御前様がお前にお会いして下さるそうだから、大人しく付いて来れば何もしやしない」

「これで何もしてないって?会いたいなら招待の仕方間違ってない?まずはお洒落な招待状が先でしょ?」

 恐怖を感じると委縮する、そんなタイプでは穂那実はない。逆に怖いからこそ腹を決めて立ち向かうのが穂那実だ。王様の渾名も尤もなのだ。

「これが我ら流の招待状だ」

「それで?猫御前って人が私に何の用があるって?」

「猫御前様よ。お考えは御前様の内にある。私は従うのみ」

「止めた方がいいって、いい年して善悪の判断他人任せにしてると、自分のしてないことまでおっ被せられちゃうよ」

「御前様にお仕えした瞬間から、我らはそういうものなの」

 誇らしそうなのが穂那実の理解を超える。絶対行きたくない。

 しかし身体を動かそうとすると痛い。動けないのは包囲されたからだけではない。左の足首を捻ってしまっていた。これでは斜面でなくても歩けはしない。

「そっか、おばさんは御前様の奴隷なんだ。常人じゃない能力持ってるのにね、勿体無い」

 恐怖に震え上がって思考を停止しても可笑しくないのに、ここまで切り返して来るなんて驚きだった。

「そういう台詞はこれまでも聞いて来て飽きちゃったわ、おばさん。何か斬新な台詞はないの?」

「裕太を襲ったのもおばさんなの?」

「教えてあげるおばさんは戯娃というのよ」

「ギワ?外人?」

『典佐と同じで術者名ですよ』

 小鳥が囀る。

「それ位見当はついてるわよ」

「この名は猫御前様に頂いたのよ」

「そんなことはどーでもいいの、裕太を襲ったの?」

 細かい詳細は違っているが、背の高い女は同じだ。

(この娘は有赤のことを知らないのか?)

「…だとしたらどうする?」

 静かに引寄せていた葉の付いた枝を、「祓え⁉」と穂那実は投げつける。白樫の枝だ。

「は…?何を?」

 戯娃には届かない、が谷側の赤い帽子の女達が三体消えた。ぽとりと地面に木の人型が落ちる。

「何ですって⁉」

 森の奥からも驚愕の気配が伝わって来る。まだ誰か人間がいるのだ。

「祓え⁉」

 間髪入れずに身体を捻ってもう一本、後ろ側の女達が二体消えた。包囲網が崩れ結界は解かれたが捻じった足では逃げることは不可能だ。所詮は恒平が助けに来るまでの時間稼ぎでしかない。

「小娘が」

 戯娃の頭の傷が疼いた。ウェストポーチから木の人型を取出す。

「消したところで増やせるのよ!きゃあっ」

 その手を飛来したモノが襲い木型を落とさせた。

 隼は態勢を変え主の腕に戻ると五羽に分裂して飛ぶ。そして五角形に穂那実を囲って大地に突き立った。相手の結界を壊して恒平の結界が穂那実を守る。

「典佐なの?」

 気が付けば後ろで控えていたはずの配下も倒れている。信じられなかった。

「お前、力を隠してたね⁉」

 突発的に怒りが湧いた。本当の実力を隠していたのだ。式神を分割し戯娃の結界を押し退けて己の結界を構築出来るなんて、そんな実力があれば本来なら猫御前やご兄弟の直下に召上げられていたはずだ。だから戯娃だって嫌々猫御前の直下になったのに。

「夏賀一門は宗家に刃向かうか!」

「下がれよ戯娃。穂那実は直に姪になる娘だ。元から一族でもある。手を出すな!」

 嫌味のない容貌の青年は右の上腕を上げて大きな隼を止まらせていた。新しい式神だ。

「猫御前様のご命令だぞ!」

「では白猪様のご命令はどうなる?白猪様は片桐親子の件を我ら夏賀一門に任されたはずだ。御前は白猪様に逆らうつもりなのか?」

「我ら手足は与り知らぬ」

「古風な台詞だな。それで通ると思うか?我が夏賀に話も通さず神隠しの如くに連れ去ろうなんぞ、俺達が許す訳がなかろうが」

 理屈はそうなのだが己の意を通そうとするのが猫御前だ。正論で退いたとあればどんなお叱りがあるかもしれない。

「御前様のお召しを拒むというの?」

 古臭い物言いに表れた古臭い感覚が恒平には苦い。

「当然だ、このことは白猪様にも報告させてもらう」

「御前様は白猪様のお子よ?話が通っているとは思わないの?」

「思わんね。これまでの御前のやり方をみてもそうだろう?白猪様に話を通して動いたことがどれ程ある?夏賀が泣き寝入りするなんぞ勘違いするなよ」

 赤い帽子の女達が次々と消え、地に落ちた木型が破裂する。

「な…、こんな…」

 実力差は明確だ。与えられた配下だけでなく戯娃よりも典佐は強い。

「そうなればお前が実力を隠していたことも明らかになるぞ」

 恒平は鼻で嗤った。

「俺は兄貴と違って定職に就かずに修行に重きを置いてただけだ。何ならここまでになるにはどんな修行をしてきたか聞かせてやってもいいぞ」

「それは白猪様の前で弁明する時まで話しを作り上げておくことね」

「残念だな…」

 隼に気を取られていて白い小鳥が結界を狭めていたことに気付かなかった。

「な…」

 小さな小さな白い小鳥が四羽、半畳程の正方形に結界を形成して、いつの間にか戯娃は囚われてしまっていた。

(やられた…)

 結界術が自慢だったのに式神も封じられ完敗だった。

「最後の取引だ。このことを白猪様には黙っているのと引き換えに、片桐家からは手を退くように御前に伝えろ」

「のこのこ帰れる訳がないじゃない。御前様のご気性は知ってるでしょう?」

 風が小鳥の身体を二つに割いた。そうして一足飛びに結界から抜けようとして戯娃は別の道に踏み込んだことを悟る。


 同じ森同じ日、けれど典佐も小娘もいない。典佐に倒された配下の姿もなく、五月蠅かった蝉の声もやんでいる。それ以外の鳥の声も虫の声も何も聞こえない。


 恒平は絶句していた。結界破りは予想していたし捕えておく気もなかった。なのに結界から出た戯娃の姿が消えてしまったのだ。

「な…何?」

「あら?上手くいった…ってか、え?」

 結界の仕組みを理解した穂那実は自分でも結界を作ってみた。何が出来ると思った訳ではない。謂わば予防のつもりだったのだ。だから恒平の結界を抜けて踏み込んだ戯娃がどうなったか分からない。

 それを悟った恒平は本気で穂那実に怒鳴った。

「付け焼刃で結界を張るんじゃねぇ⁉」

 彼女の潜在能力に恒平は総毛立った。教えたのはまだ基本の基本だ。身の守り方から教えて、結界術はその先の自分から仕掛ける技だ。なのに目の前で二人の結界術を見て理解しただけでなく、あまつさえ自分でも作り上げてしまった。

「さっきもお前、戯娃の式神を祓ってたろう!何処で覚えたそんな技?ってか戯娃を戻せ!取引にならんだろ!」

「そ……」

 いつもは捉えどころなく飄々とした恒平が血相を変えていた。

「それが…、作ったけどぅ作っただけでぇ、いや、作れたのも奇跡じゃね?」

「はあ?」

 間抜けな声は恒平じゃない。先に恒平に放たれて倒された配下の女だ。意識が戻って追って来たのだ。まだ若い。二十歳そこそこに見える。

 猫御前の直下には男は少ない。男子というだけで男兄弟がもてはやされた反動であった。

 手持ちの人型を女は結界の辺りに放ったが地に落ちただけだ。

「え…と、もう解いたよ」

「戯娃様は?」

 可愛子ぶって小首を傾げながら穂那実は周囲の大人達の様子を伺う。追って来たのは訊ねた女だけではない。

「付け焼刃で作ってごめんなさい。わかんない。何処かと繋がった感はあって、でも何所に繋がったかとかは全然…」

「繋げたぁ⁉」

 大人達がハモる。そして恒平に視線が集まった。

「結界は個々の世界だ。何処かに繋がるってぇこと自体が生中にあることじゃない。―俺も解からん」

 答えを出すことを諦めてしまった。

「どうしてくれる!戯娃様を何所にやったんすか?解からないで済むことじゃねぇっす」

 それはつまり話しに聴く何処かの次元に追いやられてしまった、という現象で、助けられるかどうかも怪しいということなのだ。

「あ…あんた、もしかして有赤様もこうやったんじゃねぇっすか?」

「ウラ、様?人名?」

「人名だ。秩父に仕事に来て行方不明になったままの猫御前の直下だ」

 意味有り気な口調にピンとくる。

「は~ん。察するに裕太を怖がらせたのはそいつだな。知らないよそんな奴。結界術だって見たのは初めてだもん」

「初めてで大したもん作るんじゃねぇよこの小娘が!」

「はい?自分だって若いじゃない。それとも若作りですかぁ?」

 両者の間に視線の火花が散った。

「止せ!まずは戯娃を捜さないと手遅れになる」

「手遅れ?」

「もしも所謂異界に入ったんだとしたら、自力で脱出するのは不可能に近い」

「でも異界の話って多くない?」

「それは境目辺りの話だ。お前の話からしたら戯娃はもっと深みにいる」

「で自力では戻れないと、ふ~ん」

「時間を掛ければ何とかなるかもしれんが」

 穂那実は横目で戯娃の配下を眺めた。

「そんなに助けたいの?あの人…御前の命令だってってたけど、助かったってまた命令されて私達だけでなくって、他の人達にも危害加えるんじゃないの?」

 裕太は悠斗と間違われたのかそれとも…?

「裕太は悠斗の大事な親友なんだよ。視えることを共有出来るって貴重なんだから。その上性格も良くて、家族ぐるみで仲良くしてくれるし、家選びだってお兄ちゃんに頼んで手伝ってくれた。私にしたって二番目の弟みたいなもんなんだよ。それが…、裕太をどうしようとしてたの?脅かしただけ?すぐに解放してくれた?」

 思いが言葉になって溢れる。

「穂那実、気持ちは解かる。だがな、猫御前を本気で敵に回せば報復は一人二人の問題じゃない」

「そういう奴なんだ」

「そういう奴とはなんだ。御前様に敬意を払えっす!」

「大人の癖に寝言言ってないでよ」

 痛む足で無理矢理立った。

「こんなことする奴にどうやって敬意を払えって?敬意って日本語理解してないんじゃない?」

「何つーガキ!中学生の分際で偉そうに」

 年長の同輩が「(いだき)」と窘めた。

 もう何もかもに腹が立って穂那実は眉根を上げる。

「は?偉そう?誰が?私は怒ってんだよ、解かる?おバカ過ぎて話すのが疲れるんですけど?」

「言わせておけば!。これが初めてなんて嘘っしょ!お前、有赤様も同じようにしたんじゃねぇのかよ!」

「ウラだかオモテだか訳わかんないこと言ってんじゃない!」

 少女からユラユラと立ち昇るモノがあった。それに大人達は圧倒される。

「性悪猫に伝えなさい!御前様とか御大層にしてたら私が恐れ入るとでも?大人達で寄ってたかって襲えば泣いて縮こまって従うとでも思ってる?お生憎様、聡明で可愛い女子中学生だからって舐めてたら痛い目見るわよ!私の家族や、大事な人達に指一本手出ししたら大人しくなんて絶対しててやらないんだから⁉」

「な…ん…」

 面食らう年長者を尻目に抱が叫んだ。

「夏賀が宗家に逆らうっすか⁉」

「知ったこっちゃねぇ⁉」

 怒気が波動となって大人達を襲った。少女の周りに信じられない程の覇気が漲っていた。空気が帯電して肌がピリピリする。少女を守る為に恒平が作った結界は霧消してしまった。

「夏賀だ宗家だ、私の知ったこっちゃねぇんだよ!私は片桐穂那実だ!あるいは長谷川穂那実!それ以外の何者でもねぇ⁉」

 こんな場面で恒平は感心してしまっていた。この少女は闘う者なのだ。

「あんたらホントにおバカなの?逆らうって何?抵抗されるって解かってたから大勢で寄って集るんでしょうがよ!バカ丸出しにしてんじゃない!」

「逆ギレっすか?」

 抱の声が震えている。

「言ってなさいよ。バカにも解るようにもう一度言ってあげる。いい?だからちゃんと猫にも伝えるのよ!」

 御前が猫なら少女は獅子だった。

「私は御大層な二つ名も、YESマンの配下も何にも持たずに生まれ育ったんだよ。あるのは家族と友達だけ。その数少ない私の大事な人達を奪ったり怪我させたりしたら、無謀だろうが何だろうが私の持てる全てを使って対抗してやるからね。それを理解して覚悟しろ、ってぇの、分った?ちゃんと伝えるのよバカ共」

 バカ共と罵られても抱には言葉がなかった。ただただ圧倒されて少女を見詰めることしか出来なかった。

「答えなさい!返事は?」

 穂那実の怒りが大きくなって肌が火傷しそうな程に空気が帯電している。迂闊に動けなかった。


「双方そこまで」


 冷静な声が雪解け水の冷たさで一同に降り懸かった。

 水干姿の人物が穂那実とその他の者達の間に立ち塞がっている。男とも女とも判じ難い涼やかな姿はこの場を一瞬で変えてしまった。

「人じゃない…」

「霊でもないぞ」

 人でも霊でもなく聖でも邪でもない。それが判らない者はこの場に居なかった。

非時(ときじく)…」

 不意を突かれたが我に返って穂那実は食って掛かった。

「人間同士のことなんだから口出ししないで!第一あなた見守り要員でしょうが」

 相手の立場を慮っての発言だったが、足元で八綱が身を摺り寄せてクーンと鳴いた。

「八綱…こんなとこまで出張って来たんだ?」

「貴様、もしや秩父の御眷属か…。御眷属が頼まれもせんのに手を出していいのか」

「御眷属…」

 年長者の言葉に今度は抱が猛然と食って掛かった。

()っこい。狡くないっすか?一方に神様級が味方するってことっすよね。実力差あり過ぎっしょ!」

 非時は冷たい瞳で抱を見据えた。

「狡い?ではこれは正々堂々と対等に挑んだ闘いだとでも言うつもりかな?」

 有得ない。一端以上の術者が多勢で女子中学生を攫おうとしていたのだ。

 抱は背骨を氷柱に貫かれたようなショックを覚えた。

 密かに恒平は穂那実に近寄って背に庇って立った。が、

「恒平さん邪魔!」

 と邪険にされる。

「熱くなるな。冷静になれ」

「大人に任せろなんて言ったら切れるんだからね⁉大人に任せて上手いことしてくれたのはお父さんだけなんだから」

 頼りにしてはいるが、全て預けられるという意味ではない。家の事情で早く大人にされた少女は常に己で考え孤軍奮闘してきた。誰かの後ろに隠れる方が怖い。

 勇ましさに恒平は場違いにくすりと笑ってしまう。

「分かってる王様」

 学校での渾名で呼ばれて穂那実はムッとした。

 その時、非時が静かに告げた。

「穂那実、この場は私に任せてくれないかな?」

「トッキーの立場だってあるでしょ?大丈夫なの?」

「愛し児よ。心配は要らない」

 中空から人体が二つ、現れて地に落ちる。

 窶れ果てた有赤と、さっき消えた戯娃だ。

「戯娃様、ご無事で」

「有赤様もいるぞ」

 有赤は目を固く閉じていたが息はあった。

「御眷属よ。有赤様のことはあなた方の仕業と考えていいのですか?」

 有赤や戯娃を介抱しながら年長者が問う。

「手間を取って帰してやったというのにな。勝手に何とでも考えるがいいよ。それらを連れてさっさと()ね」

「他に犯人がいるということなので?」

 答えはなかった。

「御眷属様、何かお言葉を…これでは秩父の立場が悪くなりませんか?」

 老婆心からの言葉だったが非時は嗤った。

「秩父と事を構えて、危ういのはそなたらが宗家とやらじゃないのかな?我らにも性悪猫の悪名は届いてるよ」

 その一言に猫御前の配下は平伏した。

「我が現われた意味を猫は理解するだろうから、何も預ける言葉はない」

「では、せめてお名前を…」

「トッキーで苦しゅうない」

 意外に気に入っているらしい。

「そんな…」

 言葉を重ねようとしても無情にも涼やかな水干姿はフッと掻き消えてしまった。

 その間に恒平は軽々と穂那実を抱いて飛ぶように走った。八綱も恒平を追う。抱達が気付いた時には追うには無理な距離が開いていた。

「きゃぁ早い、お姫様抱っこだぁ」

 超意外な展開だったがお姫様抱っこは初めてで少女として感動する。

 恒平は足場の悪さを物ともせず、山の斜面を一気に駆け上がり、流石にパークの敷地内に戻った時には息が上がっていた。

「ありがとう。大丈夫?恒平兄さん。それにしてもトッキー置いて来て良かったのかな?」

 八綱を見ると心配ないという風に頷いている。

「あの場を預けておいて問題ないだろう。それより言い訳考えろ。足だって捻じってんだろ?」

「え?野しょんで良くない?」

 その答えに恒平は一気に脱力してしまう。この少女はどうして言い方ってものを考えないだろう?

「え?だって適当なとこ探しててこけたって簡単でいいでしょ?」

「それでそんだけボロボロになるか?しかもその言い訳はお前の代わりをさせた式が使ってる」

「そうなんだ!何から何までお気遣いありがとうございますぅ。分かった、言い訳考えついたよ」

 理解が早過ぎる。説明が省けるのはいいが心のバランスが崩れる。何故この展開に女子中学生が付いていけてるのか。穂那実という娘は奥がしれない。

「良かった。俺は行くからな」

「気を付けて!」

 その背を穂那実と同じ姿をした式神が追う。

(あれが)

 よく見ようと身を乗り出すと足に痛みが奔った。

(いった)あ!」

 不覚にも痛みに足を抱えてしまう。

「穂那実!」

 蒼い顔をした父がすっ飛んで来た。

「お父さん」

 父の顔を見るとやはりホッとした。

「ベンチにいないからどうしたかと思ったぞ!」

「ごめんなさい。鳥の鳴き声が聴いた事ないタイプだったから珍しくって…、上見てたらこけて足挫いちゃったんだ」

 娘は笑うが修吾だけでなく、息を切らしながら父を追って来た悠斗の目にも穂那実の様子はそれだけではない、ただこけただけにしては擦り傷だらけで、服だって擦り切れてボロボロではないか。

「顔も擦り傷があるぞ」

 女の子の顔に疵を残すかもしれないと思うと修吾の血の気が引いた。

「平気平気!」

 父の気を逸らす為に弟に声を掛ける。

「悠斗ったらそんなに走った訳?」

 弟の息の上がり方は尋常ではなかった。姉の無事を確かめるとその場にへたり込む。

「こいつは初めての癖に三回もあの高いボルダリングに挑みやがったんだ。何でそんな無茶をするかね。楽しかったにしても無謀だぞ」

 お陰で妙に大人しい穂那実を気遣おうにも、挑戦する息子に付いていてやるしかなかった。

 きっとその無茶は自分の所為なのだろう。言葉に出来ないありがとうを込めて穂那実は弟に笑いかけ、それは悠斗に伝わった。

「だけどお父さん、俺サッカーよりボルタリングの方が楽しいって思ったよ」

「そうか、そりゃ父さん連れて来た甲斐があったってもんだ」

「お父さん凄いよ。ボルダリング三回目は俺を抜かしただろ?」

「驚いたか?お父さんの筋肉は伊達じゃないぞ。背は抜かされても持続力じゃあまだ負けないからな」

「良かった。悠斗の肩が借りられないんならお父さんの肩借りれるね」

「父を侮るんじゃない。山中だからお姫様抱っこは無理だが、負ぶって駐車場までは余裕だ」

「嘘だ!それは絶対嘘だ!」

「試してみるか?」

 差出された背に穂那実は甘えた。背が広い。親に甘えるのはこんな気分なのか、気恥ずかしくも嬉しくて父の首に回した腕に力を込めた。

「はは、穂那実、お父さんをギブアップさせる為に殺す必要はないからな」

 慌てて力を緩める。


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