第七章 修行
陰陽道の修行場は古民家が改装された、洒落た硝子障子が印象的な貸し教室だった。
古民家は近年改装されてカフェやホテルだけでなく、ギャラリーや各種教室に貸し出されたりしている。秩父でもそういう教室が駅前に何軒もあった。修行といえば山だとの固定観念があったから、穂那実も悠斗も違和感を覚えながら眞宙について行ったのだった。受附にはヨガの個人レッスンとして登録されていた。
硝子障子が美しく開放感を醸し出している小さな部屋は、主に極少人数の為の個人レッスンに使用されていて、初めて訪れた時そこで師匠となる夏秋父の弟で眞宙の叔父恒平は、和歌を認めながら少年達を待っていた。前のクラスが和歌だったのだ。しかし何も思いつかなくて短冊は白紙、筆ペンを持つ手も宙に留まっていた。短冊も筆ペンも和歌クラスのおばちゃんがくれた物だ。
和歌を長考する思案顔は精悍だが程よく陰りがある。眞宙は父より叔父に似ているかもしれない。そこそこ筋肉は付いているが、兄のように盛盛ではなく無駄なものが一切削がれた印象を相手に与えた。
「秘密のはずじゃない!喋ったの?」
「無茶言うなよ。俺だってまだ人に教えられる段階じゃねぇよ」
恒平は和歌を諦めて顔を上げた。
「生半可に教わると怪我をするぞ。眞宙を責めるな眞宙が約束した通り、このことは秘密にしてやる」
恒平は千夏や秋葉とは又従兄弟にあたり、俊平のように押しの強い顔をしていないのは好感が持てる。悪い感じはしないが捉えどころのなさも感じた。
「でもヒロリンのパパは夏秋家の跡取りなんでしょ?甥っ子の企みに乗って秘密なんて持っていいんですか?」
「ヒロリン?」
目で問われた眞宙は、決まりが悪くて口調が強くなる。
「止めろっつっても止めねぇんだよ」
「仲が良くていいじゃないか。俺はヨガのインストラクターが本業なんだ。出張レッスンってことでここを借りたから、以後レッスンは週二回ここで行う。他の曜日は教えたことの復習と身体作りにあてろ」
「え?身体作りは自分でするんですか?」
それも含めて毎日特訓だ、などと意気込んでいたのだが。
「当然だ、親戚割引きでロハなんだ。何をすればいいのかは教えてやるから自分でやれ」
そして恒平は板張りの床にヨガマットを敷いて皆を座らせた。
「マットは持って帰っていいぞ。先ずは呼吸法を教える」
座り方を指示されてヨガの基本的な呼吸法を教わり、話している間はその呼吸法を使うように指示された。そして語り出す。
「夏賀の一族の結束は固いが何でもかんでも長老の考えに従うような、物語のような事はない。兄貴は夏秋家の家長の長男としてそういう考えを持ってるが。そういう教育をされて来たからだ」
「うわ、時代錯誤な」
思わず悠斗は呟いてしまった。叱られるかと思ったが恒平は頷いてくれた。
「俺も同感だ。一族一族と大層だが、夏秋なんて小さな一族でしかない。もっと広い意味で一族で本家の夏賀やらを合わせたところで大したこともない。だが兄貴は大したものだと思ってる。その自負が強いから弟として一族の裏家業を手伝っていても思惑を聞かせちゃくれない。全貌は指揮官が把握し配下は指揮官に黙って従えばいい、そういう思考で兄貴は動いてるんだ。本当に時代錯誤だよな。しかし実力的にも一族のトップだから実力が考えを補強しちまってる。厄介な話だろ?」
そして片桐姉弟をひたと見据えた。
「これがただの裏家業なら俺も文句はないさ。だが君らは本家筋の夏賀家の者だ。なのに何故夏賀が直接君らに接触しようとしないのか、どうして君らに血縁であることも告げずに接触しようとするのか、それが誰の考えなのか訊いても教えちゃくれない。一族のことなのにな。一族が大事なら何故一族の者に謀をする。それが俺には気に食わん。幾つもの夏賀のような一族を傘下に従えているのが通称両奈の頭領、白猪様で。その中での勢力争いなんてそれこそ時代錯誤も甚だしいだろ?」
「だからヒロリンに味方してくれるの?」
「君らにだ。何も知らないままで都合良く操られるなんて真っ平だろ?」
「絶対嫌です」
穂那実と恒平の目が合って繋がった気がした。
軽く手を挙げて悠斗も賛成する。
「俺も。けど総元締め?総本家かな?は何家なんですか?白猪家?」
「通称だ。本姓は明かしてない。何故だと思う?」
「教えて欲しけりゃここまでおいで、っていうか実力をつけて来い、とか?」
漫画の影響である。
「もっと切実な話だ」
「呪いとか悪いことしてて後ろ暗い?」
「近いな、後ろ暗いから仕返しを恐れてる。本名を知られたら呪詛を受け易いからな。住所だって特定される。方々で恨みを買ってるから手を組まれたら一溜りもないし、裏切り者が出るかもしれんから一族にも隠してる」
「でも夏賀とか夏秋とかかなり珍しい名前だよね、お祖父ちゃんの家系って」
「それは総本家が夏賀を恐れてるからだ。他の家系はありふれた苗字を名乗ってるのに、夏賀の血筋は探すのも簡単で印象的な苗字を名乗らされてる」
「ですよね、先祖が何かしたんですか?」
「したというか…、頭領家でいられるということはそれだけ能力が高いってことだな?」
「ああ、そうですよねやっぱり」
「本名を隠して配下の人間をボディーガードにしたところで、才能のある奴に掛ったら髪の毛一本でも呪われる。それらを返せる能力があって生き残れるのが頭領家の最低条件といえるんだ」
「うわ、ホント、ラスボスなんだ」
「そうだ。それに対して夏賀は独立心が強い上に、本家も凌ぐ異能が生まれることがあるんで警戒されてる」
「へぇー。ついこの間まで親戚なんて全然無縁だったのに、何だか凄い親戚が出て来たなぁ。お金持ちになると親戚が増えるって本当だったんだ…」
恒平は苦笑を洩らした。
「耳が痛いことを言う。だが君らのお母さん姉妹の能力は頭領家が確認して能力なしとされて、まあ暗黙のルールだな、捨ておけ、ってやつになってたんだ」
「お母さんはまだしも、秋葉さんは能力があったのに?」
「どんな確認法を取ったのかは知らんが、頭領家の姫に猫御前と呼ばれるのがいて、直下の妙羅って実力者が確かめたんで誰も疑わなかった。この件で妙羅の面目は丸潰れだ」
「本家の姫、段々二十一世紀から過去に逆行してる気がする。なのに猫御前って可愛いですね」
「そうだな。頭領家のことを簡単に話しておくか」
夏賀を傘下にするのは全国的な陰陽師一族なのだが、発祥地であり頭領家のさらに総本家というややこしいのは四国にあった。
代々当主は金狸と号していて、日本を五つに分割し他の四つの地方にも当主を置いていた。本州は関ヶ原で分割され東が白猪、西が銀鹿。北海道は赤熊、九州が青馬と、それぞれ動物の号をあてられている。
他の勢力には総称して金狸とも呼ばれるが、四国の古名、伊予之二名島と本名を明かさず号を使うことから「二名」とも呼ばれていたことで、一族は「両奈」と名乗るようになったのだ。
「俺達は白猪様の配下になるな。その娘の猫御前は姫といっても五十代は過ぎた方だ。直下の妙羅も君らの祖父良平さんと同世代なんだが、歳を取っても丸くなるどころか一族では問題児に扱いになってる」
「問題児?」
「妙羅は昔から冷酷なサディストだったから、呪殺するにもあっさり殺さずになるべく相手が苦痛を味わうように仕組むんだ。肉体的にも精神的にもな。証拠を残してないが、猫御前は兄弟の何人かを殺した疑いもある」
「やな性格…てか兄弟の何人かって…」
女子としては聞き流せない。
「白猪様が幾つ愛の巣を営んでるかなんて訊いてくれるなよ。もっと生れてたところで能力がなければお披露目もされないんだ」
「そこは厳しいんだ」
「鼬ごっこだな。能力がなけりゃ一族も自分自身も守れない、外からも内からも、さらには血族からもだ。だから能力の強い子を果てしなく求めることになる」
「そんなに守るべきもんなの?」
「だからそれだよ。両奈は積もり積もった恨みを外から買ってる。生き残るにはさらに強くなって勢力を拡大しない訳にはいかないって悪循環だ。一族を捨てた途端に恨みつらみで殺される」
「後ろ暗いことを家業にしてたら当然ね」
「だな。話を戻すと。だから白猪様も猫御前には依頼を回さないようになってたんだが、コロナが流行ってから依頼が鰻登りに増えちまって、回さざるを得なくなったって話でもあってな」
「ああ~」
姉弟は同時にやるせない声を上げた。
「両奈に依頼が増えたってことは他家にも増えたってことだ。それで問題が発生すると猫御前が切り込み隊長にもなったから、いよいよ白猪様にもどうにも出来なくなる」
「夏賀…とかは?」
「うん?」
「人を呪殺とかたくさんしたの?」
「依頼は呪殺だけじゃないことは承知してるな?単なるお祓いだって多いんだ。確かに自分で請負えばあるがな。だがな、呪殺ってのは手を怪我させるって程度のものと違って、圧倒的に難しくて技術も才能もいるし人を殺す覚悟もいる。それだけに養成するのが難しいから、本家からは滅多に回されない。才能を高めて欲しくないからだが、しかし本家だけでは追い付かないから本家の人間に忠誠を誓う、能力のある奴らを集める。妙羅だな」
ペットボトルを取って琥珀色の液体を含んでゆっくり喉の奥に流す。
「良平おじさんは本家に実力を恐れられていたそうだ。親父はそう言ってた。しかし本家直下の誘いを断ったんで謎の失踪を遂げた、ってのが夏賀一族の認識だ」
強い力を持つ者を野放しには出来ない。
祖母の沈黙。当事者でありながら、何があったのか辛くて未だに話すことも出来ないでいる。恐ろしい失踪。
重かった。知っているなら教えてもらいたいことはあるが、おいそれと口には出来ない重量が圧し掛かってくる。ここで聞けるとも思ってもみなかったから、聞く覚悟も出来ていない。
「夏賀は、白猪様からの依頼でも理由を訊かずに受けたりしない」
改めて恒平は姉弟を見据えた。
「個人で受ければそりゃ胡散臭いのを請負っても責められたりはしない。だが当主として仕事を回す時は、内容を話さないにしても当主がきちんと納得したものでないと回さないんだ」
一旦間を空ける。
「どうだ、これで夏賀や俺のことを少しは信じてくれるか?」
「そんな…嘘だなんて思ってない。でもどうして子供の私達にそこまで教えてくれるの?」
「君らが圧倒的に不利な状況に置かれてるからだ。子供なのに誰にも守られずにな。さっきも言ったな。海千山千の大人達が君らの無知を好いことに、親族なのにそれを告げもせず誰も味方になってやろうともしない。それは余りにも不公平で卑怯だと思わんか?兄貴は理由を教えてくれないし、お犬様の実力を侮る訳じゃないが、一方にだけ肩入れ出来る存在でもなかろう」
そう語る瞳は真摯で言葉には説得力があった。
漢気というのはこれなのか、穂那実は感動を覚えていた。
「頼ってもいいの?ヒロリンのパパとの間が拗れない?」
「気にするな、俺にも考えがあってのことだ」
眞宙と視線を合わせて頷き合う。
「じゃあ頼っていい?おじさん」
「どうぞ、出来るだけのことはさせてもらう」
「やったあ⁉」
歓声を上げて恒平の首っ玉に抱きついたのは悠斗だった。
「おお…?」
思ってもみなかった行動に恒平は面食らった。
「男の身内が欲しかったんだぁ」
「お父さんがいるじゃん」
穂那実も呆気に取られている。
「お父さんは父じゃん。身内の男性、っていう、なんつーか一歩おいた、でも他人より断然近いって感じじゃないだろ?姉ちゃんは頼もしいけど男じゃないし。うちは俺以外女ばっかだし」
「何おう!美女一族が不満かぁ?」
「そうか、喜んでくれるか」
微かに恒平の口角が上がってポンポンと細い少年の腕を叩く。背は長く伸びても、腕の細さはまだ少年だ。
「柚巴も女っ気のない家で人知れず悩んでるのかな?」
目は泳がせながらも眞宙に向けられた問いであることは理解していたが、答えられる言葉がなかった。お淑やかでゆったりとしているように見せかけて、その実、柚巴はいつだって神経を張り詰めさせている。自分は外でどんなに褒められても父の基準をクリアしていない。父に愛されていても実力が認められているのは眞宙だけで、眞宙は一番身近なライバルで裏切り者だった。だから悩みがあっても兄に相談したりしないし、それとなく気遣っても敏感に気取られて見下してるととられてしまう。
正直眞宙は仲のいい兄弟を見ると羨ましかった。
気の置けない他愛ない言い合いをしているのを見ると、何故うちは…と考えてしまう。目の前で片桐姉弟がじゃれ合うのが心底羨ましかった。
らしくなく眞宙は俯いていた。
「ヒロリン暗いよ」
「止めろお前まで!」
こともあろうに悠斗までがヒロリンと呼び始めたではないか。
「恒平さんはおじさんって呼ぶけど、夏秋さんとお母さんが結婚したとしても、お前は兄ちゃんなんて呼ばないからな」
勿論俊平を父と呼ぶ気だってない。姉のように軽いノリに出来ない。
「嫌、俺はどちらかというとお兄ちゃんと呼ばれたいな。まだ三十になったばかりなんだ」
勢い込んで答えようとして恒平に先んじられて眞宙は出鼻を挫かれた。
「あ、お兄ちゃんもいいなぁ恒平お兄ちゃんか。私だってお兄ちゃんが欲しいって思ってたから嬉しい」
割とポーカーフェイスの恒平が、フフフと笑声を洩らしていた。
そうして姉弟の陰陽道の修行は始まった。
大気を身体中に巡らせ、血液の動きを活発化させ、完全に身体を支配下に置く呼吸法から教わる。以後その個室は座学の教室にもなり、陰陽道の実践の場ともなった。
姉弟はどちらも呑み込みが早かったが、のめり込んだのは悠斗の方だ。穂那実はあくまでも身を守ると同時に戦う方法を学んでいるだけだったが、悠斗は陰陽道そのものに魅了された。
それで親友で視える友である裕太を誘い、共に陰陽道を研究するようになった。
ある日また穂那実が小雪を連れて家出すると子供達の部屋を覗き、千夏は悠斗が隠し忘れていた陰陽道の本やオカルト本を突きつけて詰問した。
「お母さんに相談もなくサッカーを辞めてこんな本を読んでたのね」
「またそれかサッカーのことは相談したけど相談にならなかったんだろ?俺は本当にしたいことがあったんだって」
サッカー部に入らずクラブを辞めたこともバレていたが、サッカーのことはことある毎に持ち出されてうんざりだった。サッカーを悠斗にさせることにどんな重要な意味があったというのか。
「それがこれなの?」
「その一つではあるよ。色んな事を知りたいんだ俺は」
「お話にならないわ」
どうしてそう決めつけてしまうのか、それが悠斗を反発させた。
「じゃあ何ならお話になるんだよ」
「それ位自分で考えなさい」
「本当は自分にビジョンがないんだろ?」
図星である。優しい悠斗は何処に行ったのだろう。この子まで鋭く言葉で母を傷付ける。
「悠斗、お母さんに対して何て口を利くの…」
これは誰の影響なのか、愚かな母やその口車に乗せられた穂那実か、それとも元夫が千夏の悪口を吹き込んだ結果なのか。自分が譲歩する程に子供達が悪くなっていくように千夏には思われて、それが自立や成長であるとは認められなかった。
「お母さんを傷付けたくはないけど、お母さんこそ俺のすることに一々文句つけて否定してくるんじゃないか」
「そんな訳ないでしょ。子供時代は短いのよ。読むならいい物を読んで時間を有意義に使って欲しいだけ」
「だったら課題図書みたいに貼りだしたら?読むかどうかは分かんねぇけど。それとこの際だから言うけど、子供の部屋をこそこそと漁るのは止めてくれよ。俺達にだってプライバシーがあるだろ?母さんが漁ってると思ったら部屋に居ても気が休まらない」
言ってしまってハッとする。母の目に涙が溜まっていた。
「お前まで…」
「お母さん…」
「私は親として子供の為を思ってしてるのよ。あなた達を理解しようとして」
ムカッとした。
「違うだろお母さん。そんな言い方卑怯だし、本当にそう思ってるんなら考え方が間違ってる」
平手打ちが飛んだ。背丈の差があって上手く悠斗の頬には当たりはしなかったが。
「どうして解かってくれないのよ⁉」
悠斗は手をグッと握りしめた。言いたくない、母を傷付ける。けれど言わなければこれからも母は間違ったままで自分達は傷付けられることになる。例え母には届かなくても、言うことで自分も傷付いても。
「それはお母さんが自分勝手な行動を子供の為だって言い訳してるからだよ。騙されたいけどちょっと無理」
もう一度平手打ちが飛んで、母は部屋に駆け込んだ。
泣きたい気分でいると、バッグを掴んだ母が傍らを駆け抜けたと思うと車の発進する音がした。ガコンと何処かにぶつかる音も。怪我をしてないか玄関から覗くと、泣きながら車を切り返して母は行ってしまった。
立ち尽くす悠斗の傍らに黒谷が立った。
「さっきは穂那実さんが家出したんです。小雪がいないでしょう?」
足元には小弥太だけがいて、少年を労わるように身体を擦り付けてくる。柔らかく温かい身体を抱き上げると、むしゃぶりついて舐めてくれる。
「分かってるんだ。自分勝手だって俺達のこと考えてくれてるって」
「はい、間違いなく愛して案じておられますね。ただ、愛していれば何でも許される訳でもありません。それも確かな話で、手遅れにならない内に我が子の口から告げられる、それを乗り越えなければいけませんでした」
ボロボロボロボロ涙が零れて止まらないのを小弥太が慰めるように舐めとる。
「乗り越えてくれるかな?」
「分かりません。が、言うべきことを逃げずに告げるのは辛かったでしょう?偉かったですね悠斗さん」
赤の他人が理解してくれている。
「お母さん傷付けちゃった」
「はい、辛かったですよね」
頬を叩かれるよりも痛かった。今からでも取り消したくて、けれども取り消してはいけなくて、やるせない思いで胸が苦しかった。
「……穂那実さんに帰って来てもらいますか?」
頭を振る。自分でしたことだ自分で乗り越える方法を見付けなければいけない。
(この子達は何と早く大人にされてしまうのだろう)
黒谷の心も痛んだ。健やかな心を持って生まれたのに、無垢なままでいさせては貰えないのだ。
「悠斗さん。折角のお夕飯が余ってしまいます。今夜はちらし寿司を用意していたんですよ」
「ええ!大好きだ!」
けれど成長期とはいえ姉や母の分まで食べられる自信はない。
「どうでしょう?お友達を家に招待しては?裕太さんですか?急ですけれどお呼びしてみたらどうです?」
「い…いいのかな?」
母を傷付けた後で友達を呼ぶなんて、母が知ったらどう思うか。
「いいじゃないですか。賽は投げられた?んだから、目が出るのを悩んで待ってる必要ありませんよ」
魅力的な提案に悠斗は逆らえなかった。
ドキドキしながら連絡すると、裕太は漫画とDVDと着替えを乗せた自転車を走らせて来てくれた。
夏秋家では夕食の支度が進んでいた。
夏は料理が簡単でいい。
慣れた手つきで大葉を細切りにしながら眞宙はそう思った。
そうめんのつけ汁はいつでも食べられるように作り置きしていたから、眞宙はネギに大葉、茗荷といった薬味を刻み、オクラを湯通しして適当に切った。納豆は冷蔵庫に切らしてないからお好みで、彼自身はぶっかけで大量の薬味とツナとキムチで食べるのが好きだった。
「お兄ちゃんまたそうめん?」
柚巴がキッチンを覗く。
「涼しくていいだろ?出汁氷も作ってあっから完璧だ」
後は父が作り置きしている総菜を出せば十分だ。奈良からお取り寄せのそうめんの木箱から取出していると玄関のベルが鳴った。
忙しなく鳴らされてムッとしていると、ドアホンの画面に映ったのは泣き顔の女性でぎょっとした。
「おわっ」
成人した、それも中年の女性が泣きながら正面からインターフォンを覗いているのだ、眞宙が泣かせた訳ではないが人生初の経験に腰が引けた。
「はい?」
どう挨拶していいか分からず、曖昧な「はい」を発してしまう。
そして悪い予感もする。女性はとても美人でどことなく穂那実に似ている気がしないでもない。
『俊平さん。俊平さんはいる?』
すぐに脳裏に浮かんだのは痴情の縺れだ。俊平は自身の恋愛関係を家に持ち込んだことはなかったが、いつかはこういうことが最悪の状態で起こるのではないかと想像していた。
「どうした?」
インターフォンを耳にした俊平が覗きに来る。今日はリモートワークの日だった。
「親父に女性のお客さん」
身体をずらすと画面を目にした俊平は急いで玄関に向かった。
「女性って誰?」
険悪な表情の柚巴も覗いて来たがその前に切った。ファザコンだから女の客と聞けば心穏やかではいられないだろう。
「多分…片桐んちの母だと思う」
たたっと動いて柚巴はリビングの入口から玄関の方を伺う。そこからでは声しか聞こえないが、見える場所は向こうからも見えてしまう。
千夏は俊平に縋りつき、泣きながら訴えた。
「子供達は全然私の気持ちを解かってくれないの。うう…、そ…その癖、く口だけは一人前になって、私のこと…私は、は、母親…なのに、だからあの子達のこと、う…くぅ、う…かん、考えてるだけなのに…酷いこと言って…、きっと長谷川の、あいつの影響なんだわ。だからあんな奴に会わせたくなかったのに⁉」
「落ち着いて千夏さん。泣いた顔も可愛いね」
本気だったのだが千夏は憤慨して、その顔がまた俊平には可愛い。
「ふざけないで⁉わ、わ、わ、私はしん、くっ、真…剣に、言ってるの!」
「ハハハ、ごめんごめん。あんまり可愛かったからつい揶揄いたくなっちゃって、落ち着いて話を聞かせてくれないか?また子供達と喧嘩したのかな?」
会話を聞いて眞宙は父を誑しだと思う。そして女の泣くのにも慣れた感じが、柚巴だけでなく眞宙の胸中も騒がせた。
ハンサムで頭が良くて自信家で、夜に出掛けることも多かったからそういう父なんだろうな、とは察していたが、子供のいない場所限定でお願いしたかった。
「落ち着けない⁉私頑張ってるのに、のにっ、みんな酷いんだから…ううう…」
柚巴がボソッと重い呟きを落した。
「私、泣いて男に縋る女なんて大嫌い」
(ヒイィー)
声に含まれた憎悪に眞宙は腰が海老のように引けた。
不意に玄関の声が止んだ。
「あ、おい!」
止めるのも間に合わず柚巴は玄関を覗き込み、そして固まった。
「柚巴、どうした?」
彼女は真っ白になった、としか表現しようのない物体と化していた。その横を俊平は千夏の肩を抱いて自分の部屋に連れて行く。泣き声は一段低くなっていた。
「眞宙、アイスコーヒー二つ頼む」
「分かった」
夏秋家は家族で珈琲好きだったから、夏は珈琲も作り置きしていた。
客用の細長いグラスに注ぎ、フレッシュとシロップを洒落た小さな器に盛る。
手際よく用意しながら本当は持って行きたくなかった。父の部屋を覗くのはとても嫌だったが、柚巴を正気に戻らせて頼むのはとてもとても拙いと分かっているので、室内の様子を見ないようにドアの内側にそっと置いた。
チュッチュ、チュッチュと生臭い音がして、この後の進展を考えないようにする。そんなに仲良くするなら珈琲なんて息子に頼まないで欲しかった。
俊平にしてみれば息子に見せつける気はさらさらなく、落ち着かせて話を聞こうとしていたが、どうしても千夏への愛おしさが湧き上がって抑え切れなかったのだ。
接近した当初は好きになるつもりはなかった。そしてそれは容易く思えた。千夏という女は美しいが浅はかで、知れば知る程粗ばかりが目立つ女だったからだ。子供を産ませられればそれで良かったというのに、それが蓋を開けてみればこの愚かな女をどうしようもなく愛してしまっている自分がいた。
珈琲を置いた眞宙が、さて柚巴をどうしようかと悩む間もなく、
「絶対無理⁉」
叫び声が上がって、二階に駆け上がる音が聞こえた。
ホッとしてSNSで済ますことも出来たが、それでは自分の気持ちの持って行き場がない。わざわざ庭に出て穂那実にLINE電話をかける。
(出てくれ、出てくれよ…)
祈るような気分で待つ程もなく応答があった。
『どうしたの?』
「どうしたの?も何も、お前の…王様のお母さんがうちに泣きながら来て…」
『やだ!泣きたいのは私なのに⁉』
「俺は今、君の気持が痛い程よく解かる状況で…」
敏い穂那実は眞宙の口調もあって状況を察した。
『やだもう、サヨナラ!』
「待て!サヨナラするな。サヨナラされたら俺はこの気持ちを何処にやればいいんだ」
他に誰もこの気持ちが訴えられる人間はいなかった。友達がいないのではなく、問題が問題なのだ。
『何処にでもやっちゃってよ!そんなことでしかも電話しないでよ』
「今現在親父の部屋で進行してることを考えたら…、嫌、考えたくねぇから俺⁉」
中坊ならばそういうことしか興味がないと思われそうだがそんなことはない。しかも紹介から始まるのではなく、一足飛びに未だ想像の彼方でしかないことが行われているのだ。
『確かによく解かるけど、デリカシーが無さ過ぎない?そういうことって女の私の方が嫌なのに⁉』
「お前なら大丈夫。俺の方が大丈夫じゃない⁉」
『何おう⁉』
何度かの応答の末に一方的に穂那実に切られてしまった。しかし口にして穂那実に訴えられたことで、僅かだが気持ちが整理出来たので、取敢えず何事もなかったかのように日常に戻ることにした。というかそれ以外何をすればいいというのか。赤飯でも焚けというのか柚巴が卒倒する。
TVの音量を大きくし、妹と自分の分のそうめんを湯がいた。呼んだところで柚巴は来ないだろうし、顔を合わせるのも気まずいから分けて冷蔵庫にしまっておく。TVの内容に興味はないがそちらにだけ注意を向けて食べ終えると急いで二階に上がった。
「お前の分のそうめん、冷蔵庫にあるからな」
軽くノックして告げると、鋭い長い爪の式神がドアを突き抜けて襲い掛かって来た。サッと躱して滅する。
「俺に八つ当たりすんなよ」
小さく呟いて部屋に戻った。心頭を滅却して外界の音を遮断するのは無理なので、物理的に音楽をイヤホンで流した。一階の音が筒抜け状態などということはない。余程聞き耳を立てていても大して洩れてきはしないが、そうしないではいられなかったのだ。
そうして翌日、眞宙の顔を見て穂那実が宣わった。
「何その顔。そんなにアクロバティックに激しかった訳?」
「ちげぇわ。センシティブな少年には生理的にしんどかったんだよ」
ホームルーム前の教室にはあらかたのクラスメイトが揃っている。そんな中で眞宙は中指を突き出した。
「朝一で下品なことしないでよ。一晩中お股押さえて悶々としてて気分がささくれてんの?」
周囲の女の子からも手を見て軽い悲鳴が上がる。
「それが女子中学生の台詞かよ」
「向上心が強いと広範囲に色々と知ってしまうものなのです」
「なんだなんだぁ?」
桜子が好奇心一杯に二人の間に割って入って来た。前髪がシースルーで、今日は体育があるからふんわりした大きな三つ編みにしている。
「王様も夏秋も仲良さそうじゃん。何々?急接近ですか?」
近頃二人が接近していてみんな気になっていたから、桜子の問いにグッジョブと内心で拳を握り耳をダンボにしていた。
「仲は悪くないけどそういうんじゃないよ。急接近は親の方だもん」
それを今ここでクラスメイトに公表してしまうのか、どんな表情をしていいか分からず眞宙は焦った。
「おや?」
「親」
桜子が可愛く小首を傾げるのに「ペアレンツ」と告げる。
「家を建てるってお母さんが紹介された建築士がヒロリンのパパでさ」
「へぇー凄い偶然だね。夏秋君のお父さんもシングルなんだ」
「背が高くてマッチョでハンサムなのよ、ヒロリンのパパ。うちのお父さんには敵わないけど」
「ヒ…ヒロリン呼びは止めろ!」
「いいじゃないヒロリン。なんだか距離が近付いた感じしない?」
ニコッと桜子が渾名を受け入れてしまった。
「そうだよ。ヒロリンは雰囲気が怖いんだから、渾名位可愛くないと」
「俺怖いのか?」
「流石東京育ちは雰囲気が違うねーってみんなで話してたよ。垢抜けて取っ付き難い感じするのよね」
大至急鏡を見たい気分に陥る。
「じゃあその内「夏秋穂那実」になっちゃうの?」
「それはない。母さんが夏秋になっても私は片桐のままでいるよ。義兄弟としてヒロリンは使うかもしんないけどね」
「おいこら、何宣言してくれてんだよ」
現在もうそうなってしまっているから、地続きの未来が容易に脳裏に浮かぶ。
「お兄ちゃんが欲しかったんだけどなぁ。月違いで私長女のままなんだよ」
「王様は妹みたいな感じ全然ないもんね。お兄ちゃんって甘えてるの想像出来ない」
桜子に目線で問い掛けられたクラスメイトが頷いた。
王様などと女子にあるまじき渾名を付けられているだけに、穂那実が誰かの下だの、誰かの後ろだのそんな姿は誰もが想像も出来なかった。
「だから一見仲良くしてても私達の仲を疑わないでね。ヒロリン全く私の好みじゃないんで」
「それは俺もだよ。お前と兄弟って恐ろしい未来しか想像出来んわ!」
「え?料理だって上手いし人を動かすのも上手だから、王様に従っとくと楽よ?」
前半は良いが後半はどういう理屈だ。頷いているクラスメイトが複数いるのは何故なんだ。
なんだかんだで女子の会話に男子が介入するのは困難を極める。しかしどうにか誤解を解いておかねばと、掴める手近な話題から入ろうとしたが、眞宙は異様な存在に気付いた。穂那実もだ。
「何だか教室が暗くなった気がする…」
誰だろうか、誰かが呟いた。
答えは眞宙と穂那実の視線の先にいた。頭が重そうな様子で登校して来た弥生だ。それもそのはずで、彼女の頭上には形容し難い醜い化け物が乗っていたのだ。
「弥生」
億劫そうに顔を上げた弥生は「おはよう」と口の中で呟いた。
(拙いぞあれ…)
久保弥生が憑かれ易い体質なのは眞宙も知っている。視る力はないものの、よく浮遊霊などを憑かせて登校して、さり気なく穂那実に祓われていた。しかし今朝のモノは幽霊だの怨霊だのではない。悪い化け物だ。自然と憑いて来る類のモノではない。
(この気配は化け猫一派のものだ)
父の俊平は猫御前と配下を化け猫一派と呼んでいた。
「顔色悪いよ。保健室に行こう。私も付いてくし」
誰の意見も挟ませずに、穂那実は弥生を連れ出した。一階の保健室に通じる階段と反対の、非常階段に向い弥生も逆らわなかった。
「王様、私また何かに憑かれてる?」
「うん、ちょっと拙い感じのが憑いてる」
人目のない階段の途中で弥生の手を離すと彼女はその場にへたり込んだ。
「折り鶴は?」
「ちゃんといつも持ってるよ」
手にしたポーチから折り鶴を取出す。受取ると穂那実はぺしゃんこの鶴の両翼を広げ、弥生に息を吹き込ませる。鶴の胴が膨らんだそれを、
「主の下に帰んなさい」
言って放ると、折り鶴は物理に従わず放物線を描いて飛んでフッと見えなくなった。
身体が軽くなった弥生は大きく深呼吸する。
「軽くなったぁ。いつもお世話になりますぅ」
「今朝のは凄かったよ。祓えるか自信なかった。何処で拾うような真似したの?」
「してない、絶対してない!やんなる、この体質!」
「だね。弥生は何処かで修行した方がいいかも」
「それ前にも電車で乗り合わせたおじさんに言われたぁ。うう、面倒臭いけど前向きに考えるか…」
視線を感じて振仰ぐと踊り場で眞宙が驚愕していた。
「それって誰に習ったんだよ」
東風丸だがここで言うのは拙い。
「さあ?頭に浮かんでくんのよ、何故か」
一瞬おいて眞宙も理解した。御眷属様以外にない。
年齢的にみてもかなり優秀な眞宙だって一戦交えるか静観して様子を見るか迷った。静観した場合、化け物は久保弥生の身体を乗っ取ってしまうだろう。そうして情報を化け物の主に送るカメラになる。
乗っ取りを防いで祓おうとすれば学校で呪術の応酬になる。急がねば放課後には乗っ取りは完成したろう。父か叔父を呼ぶ必要もあった。恐らく父は可哀想だがそのままにしておけと告げただろう。化け猫一派と事を荒立てたくないからだ。
それを穂那実は折り鶴一つで祓いのけてしまった。
呆然とする眞宙を置いて、弥生と穂那実は教室に戻った。
「すっげぇ…」
父が穂那実の母との間に子供を欲しがる理由を理解した瞬間だった。
教室に戻ると同時にチャイムが鳴った。
「はい、みんな席に着こうか」
細身に眼鏡の理知的な担任教師が副担任を従えて入室してくる。声優になれそうな好い声で、穂那実を落ち着かせてくれるこの声は、生徒内でも評判だった。
母が男の下に家出してどんな思いをするかと姉を心配させた悠斗だが、そこは穂那実の弟だ。裕太を家に呼んで楽しく過ごせたし、穂那実は朝早く帰って来て美味しい朝ご飯を作ってくれたしで、割と上機嫌で登校していた。そうでもなければ「やってらんねぇ」的気分もあったが、一つ難問をクリアしたという反動もあった。
それで「同伴登校~」と「同伴出勤」をもじって、裕太とタンゴダンス風に教室に入ったのは若さ故のやり過ぎだろうが。
「お前らやっぱりそういう関係なん?薄々勘付いてたけどよ」
クラスメイトの岸本加奈子が仁王立ちで目を眇める。
「永遠の友、親友だが恋愛感情はない」
悠斗が答える。
「じゃあお前ら何でそんなに盛り上がってんのさ。告り合ってラブラブハッピーなんじゃねぇの?」
「悠斗のおうちにお泊り記念日なんだよ。殺風景な部屋だったな」
「そこで愛を育んだんでなけりゃ何なんだよ」
「ただの中二病のハイテンションだよ。理由も意味もねぇっての」
「妬くな妬くな加奈子。つんけんしてねぇで混ぜて貰えよ」
図星を突かれて、ヤジを飛ばした男子の机を加奈子は蹴った。
その日の陰陽道の修行には初回だけ同行した眞宙も参加していた。彼の寝不足だけでない顔に気付いても悠斗は堅く口を閉ざしていた。
呼吸法で体内に気を巡らしウォーミングアップしながらも外の雨が気になった。週末は父とアウトドアの予定だから降り続かれるのは困る。
家事を押し付けられていたから、スポーツはしていなかった穂那実だが身体能力は高い。片桐姉弟は呑み込みが早くて恒平には教え易い生徒だった。きっと瞬く間に成長して才能を発揮し出すだろうと思っていたが、眞宙からの報せで人知れず才能を発揮していたことを知った。流石良平おじの孫というか、一族の血統といえばいいのか。
「黙っててごめんなさい。教えてくれたのは東風丸なんだけど、彼のこと何だか思い出し難かったんだ」
「俺達に許されない範囲まで教えたってぇからその報いなんだと思う。尋ねられないと意識に昇らせられないんだ」
「成る程、で、許されないってのは何処まで教わったんだ?」
「だから思い出せねぇんだよ。それが必要になった時に思い出せるっていうか」
「誰に教わったか思い出せないけど、どうすればいいかは頭に湧いて来るの。でもこの間はレシピが空から降って来たけど」
「降って来たぁ?」
恒平と眞宙はハモった。
「いや、そんなに二人して驚いてくれなくても。悠斗の友達で私の二番目の弟みたいな裕太がいるんだけどね」
「ああ、山川裕太だろ。二人していっつも神社にいるって聞いた」
「その裕太が何でか異界に連れてかれちゃって、その穢れを祓う必要があったのよ」
「誰に連れて行かれた?」
「八尺様みたいな奴だって。細長いシルクハット被って、暑いのにバックルストラップのトレンチコート着た、背丈のバカ高い女だって。顔は見えなくて、こう…口裂け女みたいに耳の近くまである口だけ見えたっつってた」
指を唇の端に当てて悠斗は延長線をなぞって見せる。
恒平と眞宙は目を合わせた。
「その結界術は十中八九化け猫んとこだな」
眞宙の言葉に「化け猫?」と穂那実が問うた。
「親父が猫御前のこと話す時にそう呼ぶんだ。化け猫んとこは術者が女ばっかりで、八尺様に似せた結界術を使うんだ」
「そうか、有赤が行方不明になったって話しだったが、やはりお前達に手を出してたんだな。有赤を返討ちにしたのか?」
「そんな覚えない。裕太が俺の事呼んでる気がして、ヤバい気がしたから俺からも呼び返したんだ。そしたら裕太が突如として現れてさ。何にもない空間からだぜ。俺だって度肝抜かれたんだ。その後も裕太の心が連れてかれないようにするので精一杯で」
「覚えはないんだな?」
「ないよ」
結界を破れたとしても悠斗もそこまでは無理だろう。何かの拍子に破られた結界術が有赤の身を巻き込んだか。古書を紐解く必要を恒平は感じた。類似の件が無いか過去を調べるのだ。
「で、穢れをどうにかしなきゃって八綱に訊いたら」
「八綱?」
「うちに常駐してくれてるお犬様。そうそう、子供の頃から何度も助けて貰ったんだ。そういうことも忘れてた。で八綱に訊いたら何所からともなく浄めの塩のレシピが降って来た訳」
「秩父に好かれたもんだな」
有赤は三峯の連中にやられたのかもしれない、と考えが浮かんだが瞬時に否定する。彼らは依頼もなくそこまで誰かに肩入れ出来ない。
(しかし…誰かが依頼していれば?)
「私達姉弟愛されキャラなんで」
得意気に胸を張る穂那実が微笑ましくて恒平の思考は中断された。
「成る程、では今日は俺が独自に集めた情報を教えてやる。どうして一族が君らに血族の名乗りもせずに近付くのか」
穂那実も悠斗も姿勢を正して集中する。
「あくまでも断片的な情報で仮定を組立てただけだ、まだまだ情報収集中なのは承知しとけよ。これからする話だけで結論を出したりするんじゃねぇぞ」
「はい」
三人の少年少女は声を揃えた。
「前に猫御前は白猪様に忌避されていたことは話したな?」
「はい」
「干されてた間猫御前も不貞腐れてた訳じゃない。何かは分からんが何らかの目的を持って手下を各地に派遣して、呪術に関する古い文書を探したりしてた。連中は傲慢で乱暴だから根回しだのが疎かでな、各地で軋轢を生んだんだ。どうしてそうするのか助言する奴がいない訳じゃないが、猫も妙羅も聞かないだ」
「若造ならまだしも五十過ぎてそれじゃあ改善の見込みなんてありっこないですね」
スパッと断じたのは穂那実だ。
「だな。話は飛ぶが、君らの祖母茜さんは大変な人物と結婚していたんだ。莫大な遺産を残してくれた平岡篤史氏だ。彼は何百年も続く豪商の末裔で、茜さんと離婚した後に兄が死んで当主になった」
「はい、知ってます」
その篤史も死んで遺産を残してくれたんで母は俄か成金になったのだ。
「平岡家は何代も前から銀取引からは手を引いてるが、その他の事業を手広く広げて成功したから、人はやっかんで平岡家は隠し銀を溜め込んでたんだと噂した。ところがどうもそれは噂だけじゃねぇんじゃねぇか、と猫達は突き止めたらしい。巧妙な方法を取っちゃぁいるが、片桐姉妹に残す遺産を用意してた頃には出所不明の銀が市場に出回った形跡があるからだ」
「ええ?」
「な…、なん、だ…、と…」
「悠斗…」
姉に不審な瞳を向けられて「一度言ってみたかったんだ」ともごもご答える。眞宙がそんな肩を「男なら言いたくなるよな」と叩いた。
「平岡氏は広げまくってた事業を縮小して、関連会社を売却したりしてたから、表向きその金とは思われてるがな。だが猫が目を付けたのは銀じゃねぇ」
「もしかして銀はもう残ってないとか?」
「さあどうだかな、元来猫が探してたのは埋蔵金だののお宝じゃなくて呪物だ」
「何だか漫画っぽい話になってきた気がする…」
「一般には最近流行になっちゃあいるが、俺達からすれば昔っから馴染みの品物なぜ、間違えんな」
流行りとなって呪物という言葉がチープになっていくのに関係者は苛立っていた。
「所謂特級呪物を猫は探してた訳だ?でもそれが私達にどう繋がるの?」
「まあ聞け。平岡家が銀を隠してたのは所謂目晦ましだ。本当に隠したいのは別にあって、それを守る見返りの銀でもある。妙羅は妹を篤史氏の兄智史氏の妾にして昔から接触を図っていたんだが、それでも捗々しく情報は得られなかった。しかし銀が動いたことでそこから糸口を掴んだらしい。それで一族であるなしに関係なく君らに近付くことにしたんだろうが、君らは夏賀の一族だ。猫も勝手は出来ない。一つに良平おじの件が両者の間にしこりとなって横たわってる。傲岸不遜の猫や妙羅も、どうやらそれが無視出来んようでな。そこに気付いた夏賀は深堀されねぇよう、親族とは名乗らずに利用出来るだけ利用したいって腹だ。それが俺が漏れてくる情報から推測した理由だ」
「何それ?」
「もう一つの理由は片桐姉妹の能力を測り損ねたことにある。昔、妙羅自身が出向いて調べたはずなのに、秋葉さんはれっきとした霊能力だった」
「大きな失態な訳ね」
恒平は頷いた。
「一度は外されそうになったが、元々猫が手に入れたネタだからな。娘に泣き付かれて白猪様も渋々了承されたそうだ」
「そこにはどんな呪物があるの?」
「猫は情報漏洩を嫌って手に入れた資料一切は独占しちまうんだ。配下には緘口令を強いて、違反した奴は冷酷で残虐なペナルティが待ってるから、おいそれと情報は漏れて来ない、が、確実視される以前に洩れた情報はある」
「どんな?」
悠斗は瞳を輝かせて身を乗り出した。
「有名な石見銀山には、太古に空から降って来た醜い神が地下深くに眠ってるって伝説があってな。それが銀の採掘中に見付かって二人の巫女が封じたんだかした、そこから先は猫が持ってる」
「巫女って美人だよな絶対!」
意外に悠斗は肉食系なのだ。
「それは本筋に関係ねぇよ。猫が欲しがってるのはその神に関する何かだ」
座禅を解いて穂那実は三角座りになった。
「ん~、壮大な話になってきたなぁ。年明けまでは貧困母子家庭だったのに、それが一生暮らせるだけの遺産を貰って、その次が神話の神様の子孫で、次は宇宙から降って来た神ですか、そこでもう頭打ちのはずよね」
「神話?ああ、確か佐伯一族に対する遠慮じゃないが敬遠かな?もあるな、説明することが多くて忘れてた」
「え?」
「良平さんと茜さんの結婚が喜ばれなかったのは、茜さんが佐伯一族だってこともあるんだ」
「そこも!つーか喜ばれてなかったんだ」
「血統を重んじるってことは昔々(ロングロングアゴー)の、あったかどうかも疑わしい物語も重んじるってことだ。佐伯も表と裏があって茜さんは表の、佐伯の総領家の一員であることは間違いない」
「そんなに?」
「血統だけで言えば圧倒的に茜さんの方がいい血筋なんだ。なんせ広い意味の一族には空海や厳島神社の初代神主がいるからな。厳島の神主家は今でも佐伯家なんだ、知らなかったろ?」
穂那実は気が遠くなりそうだった。高野山はよくTVの番組で紹介されてるから空海が何者であるかは知っているし、広島県の代表的な観光地の一つが厳島神社だ。父の故郷でもあるから調べていたが、神主家のことは零れていた。
「家を捨てた娘に手出しはしないが、動向は逐一報告されてるんじゃないのか?」
「お父さんはそれを知っていると思う?お祖母ちゃんが佐伯一族だって」
「知ってても可笑しくないが、その確率は低いと思うぞ。佐伯は多分に表の一族だから、いかがわしい裏家業に手を出してない。俺達の裏は実は本業の裏家業の裏。佐伯の裏は一族を存続させ守る役割の裏だからな」
「話が大きい。もうついてけないよ俺」
「お犬様が君達を捨ておけないのは、その上に君ら自身にも生来備わった神通力があるからだ。闇落ちさせるのは危険だろ?」
「いえ、私達ちょっと視えるだけの姉弟なんで、下級霊程度なら祓えたりもするけど、それ以上じゃないし」
朝のあれは下級霊ではない。だが眞宙は言うのを止めた。いずれ近い内に解かることだと思ったからだ。
修練が終わって穂那実がスマホを取ると母からの通信が大量に溜まっていた。
「うわぁやだ。ハッピッピな女からの惚気通信が一杯になってる」
母は幸せだろうが、微妙な年頃の娘としては実母からのこの手の通信はウザくてキモい。
「お母さんから?俺には全然ないんだ」
「てかお母さんあんたの番号もメアドも何も知んないでしょうがよ」
「あ、そっか、忘れてた」
「母なのに、息子が別れた夫にスマホを買い与えられたのも気付かないんだもんな」
貧困母子家庭の時は金がないからスマホは穂那実だけだった。遺産が入っても連絡なら穂那実経由で出来るし、中学生にはまだ早いと買ってもらえなかった。父は二度目に会った時にはスマホを用意していてくれた。いつ気付くかと姉弟で様子を見ていたが、その内そのことも忘れてしまっていた。
「お母さん今夜も帰らないって。ヒロリンは今夜も眠れそうにないね」
「ええ!」
慌てて確認すると、眞宙のスマホにも父と柚巴からLINEが入っている。
父のは短く端的で、柚巴のは悲鳴のようだった。
『どうにかして!あの女まだ居座ってるよ!』
学校から帰った時間からだ。
『何でいるのよ、何で家に帰らないの!』
『やだやだ、娘の前でもイチャイチャしてるぅ!やだぁ!デリカシーないんだから、私の前でも平気でキスとかするんだよ!』
『いやあぁぁ~、お父さん達嬉しそうに結婚の話してくるの。耐えらんない⁉』
『銀座でリング選んで来たって!知ったこっちゃないっつーの⁉悪夢じゃない?ダイヤだのピンクゴールドだの勝手にしてよ!』
『何て言ったと思う?すぐにお母さんて呼ばなくていいって!何様のつもりよ、金輪際呼ぶ気なんてないんだから⁉来世でだって呼ばない。来来来、来世もね。頭おかしいわ片桐の母!』
『私あの女の分まで夕食作る気ないからね!』
『一生だよ!』
『洋画じゃないっつーの!やだぁ!舌を絡ませあってるよう』
『何とかしてよ⁉』
どうせよと?何故わざわざラブラブの二人を見る?娘が居てもお構いなしの親達も親達だが、柚巴も見ないで部屋に籠っていればいいのだ。
速攻で送った文面は、『そうめん喰って部屋に籠っとけ』だった。
「お前らの母、どうにかして引き取って貰えねぇ?」
帰って柚巴のヒステリックな訴えに耳を貸すことになるのかと思うと憂鬱だった。
「母の幸せに水をさせって?出来ない相談だわぁ。女手一つで私達を育ててくれた母なんだよ。娘としても応援する気満々ですとも」
孝行娘の仮面を被る。穂那実に送られた文面には、恋人と別れ難く当分帰る気が無いと、子供達への当てつけもありありと窺えた。
「うちの母をママって呼ぶ練習しといてね。お母さんって気持ちでなくていいから、何処かのお店のママって気分で気軽に呼べばいいよ」
「え?お母さん夏秋父と結婚するつもりなのか?」
お行儀良くしていた悠斗は姉のスマホを覗き込んだ。
「おえっ。何これ?砂吐く」
「母の恋をおえっとは何事か。我慢しなさい私もしてんだから、母には幸せになってもらわなきゃでしょ」
「それはそうだけど。姉ちゃんは平気だろうけど…」
「平気でなくたって二人は結婚するんだから、何処かで折り合い付けなきゃダメなんだよ」
思い切りのいい王様らしい台詞だった。眞宙のスマホが鳴った。LINEだ。何度も鳴った。
『当分母の家に行く』
『お父さん引き留めなかった!』
『頭冷やしてよく考えろって!』
『娘より女取った!』
娘を引き留めない父に腹が立った。距離を置いて考えさせるつもりなのは充分理解出来たが、それでも一度は引き留めてやれよと思う。無言で画面を恒平に見せる。
「柚巴も可哀想に。娘の気持ちだって目的の為には相手にする気のない父親だからな」
家に帰りたくない眞宙は増々帰りたくなくなった。
「ヒロリン」
穂那実は真面目な顔で眞宙を見た。
「親達があっつ熱でやってらんなかったらうちにおいでよ。お熱い二人はそのままで、子供達は仲良くしよ?ね」
「ヒロリンを兄ちゃんって呼ばなきゃダメ?」
悠斗は異議を唱えない。
「ヒロリンは拘らないから好きにしたら?」
「俺の代わりに答えるなよ。ヒロリンは止めろ。兄ちゃんでも眞宙さんでもいいから」
「兄ちゃんよりはヒロリンだな。マッヒー?宙ちゃんで譲歩しなよ」
複雑な表情で悠斗は答えた。
子供達は大人で自分達で折り合いをつけている。恒平としては楽だが親に甘えてられない事情が透けて見える。
「じゃあ問題は柚巴だけか、ファザコンだからな」
愛娘の為に俊平が気持ちを変えることはまず有得ない。結局柚巴が受け入れるしかないのだ。それが次代総領である俊平の考え方だった。
姪の気持ちを考えて恒平は胸が痛んだ。