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怒涛の春  作者: 十 一
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第一章  借家捜し、父捜し

 穂那実の身に着ける物は全てお下がりだった。公営団地だから他にも片親の貧困家庭が幾つもあって、そうしてお下がり出来る物は自然と下がって来た。悠斗は背が高かったからお下がりは無理になっていたが、穂那実なんかはお下がりでないのは下着位なもので、少し大きめの冬の制服はいい加減色が褪せて袖の先がほつれ始めていたのに、千夏はまだ着れると新しい制服を買ってくれはしないのだ。

 同級生の少女達はお洒落だ。外見も中身も自分というものを探っていく年頃であれば当然で、穂那実は同級生の手前恥ずかしさを感じていた。

 尤も彼女の渾名は王様で、血色が悪く標準体重もないほっそりした体躯ながら、クラスメイトには常に堂々として見えていたから、彼女のその手の悩みはクラスメイトには伝わらなかった。

 女王ではない王様というジェンダーレスがみそで、穂那実自身はスレンダー過ぎる自分の体形から、色気が全くないからだと気にしていたが、それは余り関係なかったことを後に知る。兎に角彼女は男も女も関係ない「王」という雰囲気をどうにも醸し出していた。

 王様はちょっと小腹が空いていた。皺寄せは彼女が負う。成長期の悠斗になるべくたくさん食べさせたくて自分の分を我慢していたからだ。その腹いせを(あやかし)にして、クラスメイトに憑いて来た小者をピンピンと指で弾き飛ばしたりした。「あ~れ~」だのクラスメイト達には聞こえない声を上げるのが面白かった。霊体はいない。雑多な霊達に勉強を邪魔されるのが嫌いで、何となく一年の教室が並ぶ区画には寄せ付けないようにしていた。

 それでもクラスメイトの久保弥生などは、簡単な結界は抜けてしまうような霊を頻繁に憑けて登校して来るのだが、今朝はそれがなくて残念だった。

 明るい挨拶をする弥生に続いて加藤桜子が登校し、マドレーヌなどを見せながら寄って来るではないか。

「おはよ~。継母が焼いた物だけど食べて~」

 両親が再婚してそこそこの年月が経つというのに、桜子はまだ継母を受入れてなかった。しかし美味しい物は頂くのだ。

 自分が思っているよりクラスメイトに慕われている王様は、朝からフランス産バターたっぷりのお菓子を貢がれた。

「え~、嬉しい!桜子ちゃんのお母さんってお菓子作るの巧いから嬉しい」

 農家や趣味で菜園を作っている家庭も多いから、冬は白菜と大根に困らないのが有難かった。

「で、また家の下見行って来たんでしょ?どうだった?」

「全然ダメ。いっそマンションでも借りてくれればいいのに、庭付き一戸建てに拘るんだもんな」

 早速マドレーヌを頬張る。

「あ~またダメだったんだ」

 弥生も鞄を置くと仲間に加わる。

「マンションじゃあ4Lとか4DKは中々なくない?」

「まあなくはないんだけど、家を建てるまでとかいいながらお母さん庭付きに拘るから、なのに家はこじんまりした方がいいとかって言うしさ。子供達は大変」

「変わってるとは思ってたけど王様のお母さんって変わってるよね」

 おはよう、と大西克美も加わる。

「王様、父さんがお祖母ちゃんとこ様子伺い行って来てひもかわうどん、お裾分け」

 克美の祖母は群馬在住なのだ。

「有難や~有難や~。これで野菜だけの鍋にならずにすむよ~」

「タンパク質は?」

「贅沢は敵じゃ」

 特売で買う鶏肉も昨今じわじわと値段が上がって来ていた。

「その調子じゃ成長期なのに更に痩せそうだね」

 四人の中では一番背が低いだけじゃない、体重を身長で割れば王様が断然低くて、桜子の細腕でも抱き上げられそうだった。

「お父さんやっぱり捜した方がいいんじゃない?」

「それはね、お祖母ちゃんにもう頼んだよ。」

 父の長谷川修吾とは両親が離婚した三歳の頃から音信が途絶えている。母の話では離婚後さっさと再婚して子供が生まれているはずだという。父が幸せならその家庭を壊したくないのだが、

「創意工夫で心豊かに暮らす」

 金持ちになってもそう口にして、過度の節約を強いる母に付合い切れないものを感じていたから、多少なりとも援助してもらえるなら、という気分なのだ。


 放課後も長々と友達と遊んではいられない。冬の日は短いから帰宅した家は暗くて寒かった。千夏は障碍者福祉施設に勤務していて今夜は夜勤だった。仮に日勤や休みだったとしても、仕事で疲れてるから、と自分の部屋に籠ってしまっていたろう。

 灯りを着けるとテーブルの上の書類が目に入った。新しい借家候補の図面だ。一目見て、「広い…」と呟く。

 その一戸建ては庭も広いが家屋自体も広かった。一〇LDKとある。

(母め、切れたな)

 何故か3LDK程度の家が千夏の希望なのだ。それは家族にそれぞれ一部屋づつではなく、自分、客間、姉弟相部屋で三部屋の計算なのである。一時の住処だからそれでいいじゃない、と主張するが、日々背を伸ばす悠斗と相部屋など貧乏でなければ絶対嫌だ。それに互いに思春期に差し掛かっていて、異性の姉弟との相部屋には限界を感じていた。

「中坊の癖に意識するのが早過ぎるわよ」

 と言うのに何度も悠斗と二人で説得した結果がようやく実を結んでいた。

「客間が欲しいなら四部屋以上は絶対いるだろ!」

 普段母に優しい悠斗まで強く出たので、ならばと部屋がたくさんあればいいんでしょ、と母が腐る声さえ聞こえそうだった。他の図面も五部屋以上ある物件ばかりである。

「結局私が譲歩させられるのよね」

 そんな言葉までがハッキリと聞こえてきた。いや、それは現実に言われた言葉だ。



 母と姉が言い争うのは心が痛かったけれど、姉の主張は多分に悠斗の主張でもあって、穂那実が悠斗の為も思って母と闘ってくれているのは十分承知していたから目を背けることは出来なかった。かといって丸々姉の肩を持つことは母の気持ちを考えると出来ない。

 それが最近の悠斗の悩みだった。

「男の子ってそうらしいわね。うちのは全然当てはまらないけど」

 反抗期にかなりグレてた息子を持つ山川母は、歳の離れた末っ子をチラ見しながら言った。前髪のない丸みのあるショートヘアが似合っている。爽やかな母というより友達みたいな人だからとても話し易い。

 息子の友達として千夏は山川家を快く思っていなかったから、夜勤の母にお泊りは告げていない。決してダメだとは言わないが、小説だけでなく漫画やアニメのDVDで一杯の山川家で泊まるとなると必ず千夏は嫌な顔をするし、なんやかんやと良識について説教をして来るに決まっているからだ。誰だって親友やその家族を批判されたくはない。

「分るなぁ。悠斗君お姉さんだからお母さんと衝突すると思うだろ?」

 背が高くでっぷり太った山川父が訊いた。

「はい、そう思います」

「違うぞ、女同士だからだぞ。おじさんの妹も達者な口を利いておじさんの母親と言い争ってた」

 容赦のない言い方だったから、妹の気持ちは解かっても肩を持ってはやれなかった。もう少し我慢したり言葉を選んだりしてくれたらいいのに、と思ったと語ってくれる。

 ああそういうものなんだ、と思うと悠斗の心も軽くなる。

 そうしながらも料理を取分けてくれた。

 体形からして食道楽な山川父の造ってくれるタイ飯は美味しかった。信じられない程辛い物もあったが、それだって何故か旨味が感じられて、山川父がタイ飯にハマった理由が解かる気がした。

「ほら、もう少し頑張ってカオマンガイを食べ切ってくれ」

 皿にカオマンガイが盛り付けられる。頑張らなくても悠斗には軽いが、まだ帰らない裕太の兄達の分が無くならないかと心配した。

 長兄、透真と次兄、瑠珂は山川母の命名である。因みに裕太は山川父の命名だ。瑠珂は仲間内には(りゅう)と呼ばせている。真面目に(?)なった彼らは、現在バイク屋を始める為の資金を蓄える為に日々仕事に汗を流していた。

「気にしなくていいぞ。奴らにはジョロキア・トムヤムクンを用意してあるからな」

 山川父はニンマリと笑う。

「道理で俺達に食べさせないはずだよ。作ってる間、目が沁みてしょうがなかったから食べないのって訊かなかったんだ」

 訪問時、学校では普通だったのに裕太の目が腫れて涙ぐんでいたのはその所為だったのかと悠斗も納得する。確かに悠斗も目に染むものを感じている。

「そうだよ息子。今からもう一度飯を炊いてグリーンカレーの残りにもジョロキアをたんまり入れるつもりだ」

 意味有り気に山川父は物々しい防毒マスクを振って見せた。自分はそれで辛味を防御するのだろう。

「何でなんですか?」

 丁度いい辛さなのに、裕太の兄達はそんなに辛さが好きだったろうか?何度も一緒に食事したがそんな記憶がない。

「何?何もないよ。父の愛があるだけさ」

 歯列をキラリと輝かせる。

「トックン大丈夫、間違いなく愛情だから」

 山川母も朗らかに笑う。息子が裕太で裕君だから悠斗はトックンと呼ばれていた。

「だから食べたらリビングに移って『酸っぱいファミリー』観よう」

 リビング、ダイニングは一続きにもなるが四枚戸で独立させることも出来た。

 悠斗的に年々夫婦の変人度が上がる気がしたが言及は避けた。よく霊を拾って来る山川父は今夜も霊を数体憑けていたが霊の所為ではないとはいえる。

「うちの兄ちゃん達がバイク店を開きたいって頑張ってるの知ってるよな」

「うん」

 一足先に移動してアニメを選びながら裕太が説明してくれた。

 兄達が働いても給料は高くない。それで両親に出資を求めたのだが、その条件が向こう三年両親の作る料理を残さず食べることだった。

「え?それって」

 一も二もなく兄達は受けたが、週に一度以上ああやって常人では食べられない料理が作られるのだという。

「食べ切れない量は作らないけど、食べ切るのが辛いのを作るんだ」

「マジ…?」

 優しいんだか優しくないんだか。

「うん、半分以上は反抗期の頃の仕返しだけど。正直あの頃を憶えてるとさ。更生しました、真面目に働いてバイク店開きます、ってそりゃ願ってもないけど。だから出資してって頼まれても、すぐにハイとは言えねぇのよ。母ちゃんが泣いてるとこ何度も見てっし、俺にしてもあの頃の兄貴達は絶対許せねぇもん」

 反抗期とひとまとめにしてしまえば少年の成長期として微笑ましくもあるだろうが、その程度によっては家族の間に消えない傷跡を残すことになる。当事者達にすれば反抗期だから、では許せない場合もあるのだ。

 愉快な山川家であってもそういうものがあるんだな。

 悠斗が知る山川兄達は気さくな男らしい好い人達で、借家を選んでいる今も、寒いのに夜の下見に付き合ってくれた。

 穂那実は一時のものであろうと家選びに積極的に口を出した。変なものが憑いている家など真っ平だったし、千夏は自分の拘りを優先し過ぎる。

 深夜密かに家を抜け出すのは穂那実は得意だったが悠斗は違う。千夏は夜勤で留守の時もあったがそれだけではカバー出来ない。その場合は裕太のうちに泊らせてもらったりした。

 兄達が荒ぶれていただけに、山川夫妻は息子達が夜遅く出掛けるのには慣れっこになっていたし、最早警察沙汰にならなければよいという境地に至っているようなのだ。

「兄貴達の覚悟とか根性を試すのがもう半分かな。こないだはジビエ料理だっつって、ワニの手の素揚げとか、ニシキヘビのステーキ、ヤモリとネズミの丸焼きって出してた。苦味抜きしない苦瓜料理の時もあったな」

 勿論夫妻と裕太は普通の料理だ。

「――ワニとニシキヘビは食べてみたい気もするな。少しでいいけど」

 悠斗の好奇心が突かれた。

「美味かったらしいぜ。けどネズミはどぶの味だって」

「昆虫食は時間の問題だな」

「ああ、忘れてた。兄貴達に珈琲勧められても飲むなよ」

「何で?」

「世の中にはコオロギ珈琲ってのがあってね悠斗君。今週から兄貴達の珈琲はそれ。無くなったら蚕珈琲になる。後、朝メシのヨーグルトを掛けるのはアメリカミズアブって虫のパフなんよ」

 声にならない悠斗の形相に裕太は頷いた。

「大丈夫俺達のはフルグラだから。食いたきゃ別だけど。けどさ、抓ませて貰ったけどパフはいけたぜ」

「それは…神経が休まる暇がなくない…?」

「あの頃よりは全然ましだと思う」

 ユーモアに昇華させようとしてはいるが、悠斗には少々重い話だった。大量に出さないこと。食べられる物限定との縛りはあるのだけれど。

 アニメを観て風呂を頂いているとダイニングから「うおおおぉぉ」x2が轟いて、何事と思わず腰が浮いてしまった。

「俺は誰の挑戦でも受ける!おおおおお」

「兄貴、俺もだぜえええええ」

 正面から父の愛情(?)を受止めている様子なのが風呂場まで届いてくる。

「親父、口から火が出そうな旨さだな」

「俺は感動で涙が出るぜ」

 その涙は果たして本当に感動の涙なのだろうか?

 風呂上がりにチラ見だけするつもりでダイニングを覗いて、カプサイシンに目をやられた。

「うおあああああ」

 目を押さえて蹲っていると、

「あ、悠斗バカ、今覗いたらダメだ」

 と悠斗の脇に手を入れて、裕太が危険地帯から避難させてくれた。鼻の奥も傷む。心なしか肺も微かに痛む気がした。


 今夜の下見先は荒川を渡った先にあった。バス通りではなくて、自転車を使っても中学には遠い。ギリギリ校区内だ。

 初めて図面を見るまでは、悠斗は一人一部屋貰えるものだとばかり思ってワクワクしていた。しかし千夏は庭が広く間取りが狭い家を好んだ。3LDKでも客間は必ず必要と姉弟同室にしようとする。貧困家庭なら例え親子で一部屋であろうと我慢するが、姉と同室には悠斗の方に色々と問題があった。

「もう、意識し過ぎよ二人共」

 と言う千夏は二人を子供のままでいさせようとしているのだと悠斗には思われた。

 姉弟別室を千夏に覚えさせるのは骨が折れた。姉弟で強く主張すると切れて今度は部屋数の多過ぎる物件を持ち帰った。何と一〇LDKだ。これはないだろうと姉を伺うと、千夏が持ち帰った図面でこれまでの物も含めて、この物件にだけ穂那実は反応した。

 姉弟揃って視えていても能力には違いがある。悠斗は自然と相手を感応しその大きさを推し量るが、穂那実には対処法が分かる。もし何らかの霊を祓うとすれば、その方法が分かるのが穂那実なのだ。遣り方さえ分かれば悠斗の方が祓う力は強い。

 そうして二人は荒川の傍の公営団地で、山を降り川から現れるモノ達に対処して来た。


 十代に達する前、裕太と悠斗は荒川を眺めながら話したことがあった。

 山に人は少ないのに、山を降り川から上がって来るモノが多いことを裕太は不思議がった。一人では何でもかんでも視える訳ではないが、悠斗といると覿面に普段視れない様々なモノまでが視れた。かといって視たかった訳では決してない。視ない方がいいのだと解かるモノも多かったが、悠斗と居れば大丈夫だということも解かっていた。

 その時も川上から流れて川辺の草に引っ掛かり、岸に這いずり上がる不気味なモノを、視たくもないのに視てしまっていた。そして安心することにほとんどは這い上がる途中で霧消してしまうのだ。

「可笑しなこと言うな裕太は。山にいるのは人間だけじゃないだろ。たくさんいるじゃないか」

「な、何が?」

「分かんないけど色んなモノ」

「でもよう、山には三峯さんがいるじゃん」

 清くて平和な地だから社が建ったのだと大人達は話していた。

「それ逆逆、順番が違うんだ」

「え?」

「何の為に日本でも独特な神社が建てられなきゃなんなかったと思う?」

 悠斗自身もきちんとした理由を知っていた訳ではないのに、自然とスラスラと口から言葉が出た。

「え?なんかあんの?」

「なかったら忘れられてくじゃん。そんな神社幾らでもある」

 そうなのか?後に調べて判りはしたがその頃は全く知識になかった。けれど悠斗が言うならそうなのだろう、裕太の判断は今に至るもその頃と変わらない。

「え?で?何があんの?」

「分かんない知らない。でもそうなんだ」

 あんまりにも朗らかに言い切ってしまうものだから、裕太もついつい頷いてしまった。


 穂那実が良しとした物件は老夫婦が売りたくて売れなくて、分割しても買い手がつかず已む無く貸家として出した物件であった。外壁は板壁で年代を経て野暮ったくなっているが、ネットで物件を調べると平成に何度かリフォームされていて内装は現代的だ。

 そこまでしたが跡継ぎが海外移住して日本に戻る気がなく、広い家を老夫婦は持て余した。今は維持が大変な家を出て、医療ケアの付いた有料老人ホームで快適に暮らしていた。

「地図ではここだぜ」

 運転していた透真が振返った。塀もなく草が枯れてガランとした庭に車は停まった。山川家の車は七人乗りで大きいが庭が広くて停め易い。

 途中で拾ってもらった穂那実が降りると悠斗が続く。外に出た途端息が白く可視化される。

 見渡しても雑霊がいない。悪いモノの存在を感じない。先祖代々大事に住んでいた土地は清々しく、土地自体がパワーを感じさせた。

「善いとこだよここ、姉ちゃん」

 穂那実は頷いた。

「ここが良いね」

 裕太にも、もし家を建てるならこんな土地を探そうと思わせる土地だった。

「庭が広いのに余計なもんがねぇな。バイク何台も置けるぜ」

 長兄がすぐ後ろにいて驚いてしまう。

「試しに走らせられっな」

 次兄が同意する。バイク店を開くのが夢の兄弟はバイクで家を推し量った。

 申し訳程度の門から突き出た玄関までは石畳が敷かれれているが、庭木は疎らだし菜園の跡が僅かに認められる程度なのだ。

 玄関はガラス張りの引戸で、覗く玄関も続く廊下も広い。2LDKの公営団地の部屋とは家の概念そのものが違う作りになっている。

「部屋数は正直多いけど足りないよりはいいよね」

「裏玄関って普通の住宅の玄関じゃね?」

 物干し台が残る踏み込まれた東側の庭に裏玄関はあった。その右隣に浴室の窓が、左隣にトイレの窓がある。

 ぐるっと回ると、障子は閉められてはいるが廊下のガラスサッシから広い室内が覗けた。夜間に灯りも人気もない家は怖いが悪い雰囲気は全然ない。

 梅の香りに誘われて目で追うと、ツンと尖った耳の先から尻尾の先まで一点の曇りもなく白い犬が、白梅の下で静かに姉弟を見守っていた。

 八綱?その名が自然に脳裏に上がったことに姉弟は顔を合わせて驚いた。

 それは姉弟が幼い頃から見守ってくれている、常人には視えない御眷属様だった。いつ頃に二人の前から姿を消したのだったか、とても久し振りだと感覚は告げていた。

(八綱がここを推薦してる?)

 姉の目を見ると同じことを考えているのが判る。

「もうここ買ってもりゃやあどうよ?」

 透真の問いに穂那実は即答した。

「駅から遠いし最寄りのバス停も近くないし、山側じゃない?好い家だけどそれはないよ透真兄ちゃん」

「バイク乗れるようになったら融通してやっから、それまでの辛抱だ。あ、中古でいいだろ?電動自転車探しといてやるよ」

「え、ホント?よろしくお願いしますぅ。安くしてね」

「妹割引してやるよ」

 妹の為に何かしてやれるのが楽しいらしく、透真は本当に引っ越した翌日に電動自転車を届けてくれた上に一円も請求したりしなかった。


 部屋数が多い家を選んだのは多分に子供達への嫌味だったから、予想通り千夏は激しい拒絶反応を起こしたが、姉弟も一歩も引かなかった。

「家を建てるまでの短い間なんだろ?だったらいいじゃないか」

 普段は母に弱い悠斗も部屋のことは譲れなかった。

「お母さんにお金が入ったっと思って贅沢ばっかり言って!」

 感心しないと頭を振る。実際には贅沢など全くさせて貰ってはいないのだが。

「だったら家賃の掛からない自分のマンションに住めばいいじゃん」

 遺産には都内のマンションが一棟含まれていて空きがある。そこなら家賃は掛からないし日本最大の都会なのだ何の不便もない。だが都会に住みたくない千夏はそう言われて渋々了承した。

 母が都内に住みたがらないのは、あるいは母の、悠斗にとっては祖母の近くに住みたくないからだろうか?それだけでは秩父くんだりまでは来ないだろうが、この理由も大きい気がする。

 今でこそ美容系の会社を大きくした女実業家である祖母の茜は、娘の千夏が口汚く謗る恋多き女で何度も結婚と離婚を繰り返していた。

「男をとっかえひっかえして金を巻き上げそれで子供を育てた」「夫がいない独身の間はハーレムのように男の取巻きを集めて、ふしだらな女の癖に有閑マダムのように澄ましていた」等々等々と耳に胼胝が出来る程聞かされたが、大阪在住の叔母の話でもだから千夏姉妹は腹を空かせたことが一度もないのだ。

 少女時代の母は着道楽で、茜が娘を着飾らすのが好きで許すものだから、思いっ切り贅沢をさせて貰っていたらしい。それを指摘するとバツが悪そうに撤退するのだが、要するに祖母は後年娘に謗られることになってでも、何不自由させることなく娘二人を育て上げたのではないか。

 千夏に同じようにしろとは口が裂けても言わないし、母は母で祖母の行為に傷付くこともあったのだろうが、そこまで謗られることではないのではないか。現に茜の元夫の一人である平岡篤史は、子供がないまま亡くなって財産の一部を元娘達に残してくれたのだから、悠斗的にいっても最早悪口の「わ」謗りの「そ」も言えないはずだった。

 遺産を貰えると弁護士から報せがあった当初は暮らしが多少でも楽になってくれたらいいな、程度の認識しかなかったが、蓋を開けてみると母は東京都内にマンションとビルを一棟づつ、その他多額の動産を持つにセレブになっていた。実情はどうあれ世間的にはそうだった。

「あんた達にも色々我慢させたけど我慢しなくてよくなったからね」

 という母の台詞は所詮母基準でしかなかったが。

 しかも自分の自由になる大金が転がり込んだことで、どうやら千夏は「たった一度の人生だから自分のしたいようにしてみたい」、という思いが湧いて日夜大きくなって来ているらしい。借家が決まったからにはマイホームの設計に集中し出した千夏から、気になる言動がポロポロと零れていた。

 聡い姉が聞き逃すはずもなく、親子喧嘩の種は常に母の側から提供されて、穂那実を頻繁に家出させた。

「また家出よ。ホントにもう!そういう時期なんだろうけど、引っ越しはもうすぐなのに用意は出来てるのかしら」

 帰宅すると悠斗が荷物も降ろさない内に千夏がぶっちゃけてくる。

「用意なんて時間掛かんねぇよ。そんなに荷物がある訳じゃねぇし」

 いつ千夏が同僚と揉めて仕事を辞めてくるかもしれないし、こずかいだって少ない。その上で姉弟相部屋だから持ち物を増やしたくても増やせはしない。

 親子喧嘩しても食事の用意だけはちゃんとしてくれる姉には感謝していた。その分、悠斗の中で日々母の評価が落ちていくのを止めようもなかった。


 まさかと思うことが現実になる。

 未来を失う感覚、恐怖が穂那実の背を押した。

 膝を抱えて涙ながらに訴える穂那実を、天女のような気品と時に無垢な少女の如き面影を見せる、時を忘れた美貌の祖母は強く抱きしめてくれた。彼女にそうされるととても心が落ち着いた。母からは与えられないものだ。

 父を捜して会うのは母への裏切り行為だという罪悪感を少女は抱えていた。女手一つで育ててくれた母。欠点はあっても人間だからそれはしょうがない。だから父からは多少の金銭的援助が貰えればいいと思っていた。お腹一杯食べられるだけで構わないと。月に一、二万とかなら負担にならないのではないか、たくさんもらえたとしてもそれは裏切りを更に重ねてしまうからしたくない、とまで穂那実は考えていた。

 けれど大金を手にした千夏は、自分の中で理論武装して子供のことを顧みなくなっていた。自分では子供を第一に考えているつもりでいたのだけど。

「心配しないで、有難いことに私学の学費も無料になったんだから、その他は何とかするわ」

 遺産が入るまではそう言ってくれていたではないか。転職を繰り返す母だから心許ない約束だったが、それでも凄く嬉しかった。なのに金銭的には何の心配もなくなってから、千夏は穂那実を裏切ろうとしていた。

 静かに聞いてくれていた祖母は考え深く頷いた。

「あの子の偏屈は良くなるどころか…だわね。心配しなくても私が援助して上げるし、必要な物は私が用意出来るわ。あの子とは私が闘ってあげる。でも、確かに先ずは父なのよね」

 少女の母と言う名の創造主は、彼女の希望を壊し人間としての見本を失わせた。それを補えるのは創造主としての片割れの父だけだ。茜がどんなに金銭面で補おうとそれだけはどうしても補えない。

 父不在の精神的負担を茜は慮ったが、それを穂那実に伝えていたら否定されただろう。穂那実には母と弟の他に親戚が祖母と叔母しかいない。大阪在住の叔母は穂那実達姉弟を可愛がってくれるが、茜以上に千夏と反りが合わないことを明言しているし千夏も妹を悪くしか言わない。その上で自分の所為で茜とまで決定的に決裂するなどあってはならないのだ。

 穂那実と悠斗の父、長谷川修吾を捜すのは簡単だった。転職はしておらず順調に出世して、三年前に二度目の妻と離婚したことも、二人に子供が出来なかったことも造作もなく調べられた。

「お母さんは子供がいるって…」

「そこまでしかあの子に情報がないってことよ。お気の毒に死産で、その後も妊娠流産を繰り返して結局子供は持てなかったんですって」

 それは母になりたい女にとってどんなに辛いことか。茜は心底同情を覚えた。

「それで?」

 調査書から目を上げて皆迄言わず祖母は問うていた。

「向こうが会ってくれるなら会いたい。お母さんに秘密で」

「そうね。千夏が知ったらヒステリー起こして泣き喚くもの」

 らしくなく薄く笑って俯いた孫の頭を突ついて励ます。

「大丈夫、こんなに美人で優しく育った娘を嫌える父はいないわ」

 彼女にとって穂那実も悠斗も何処に出しても恥ずかしくない自慢の孫だったのだから。

 茜が連絡すると修吾は二つ返事で了承してくれた。早い日時を指定されて、洋服ダンスの抽斗を覗いて穂那実は絶望した。

 遺産が入っても千夏は服を買ってくれなかったから、大切にしているが身体に合わないお下がりのお出掛け用があるだけなのだ。

「本当に何て吝嗇なの!我が娘ながら言葉がないわ」

 こんな可愛い娘を着飾らせないなんて、と穂那実に相談された茜は憤慨して、「私に任せなさい」と連れ出した。

 元が人を綺麗にするのが好きで美容業界に乗り出したのだ、美しい孫を着飾らせることに茜はのめり込んだ。ガーリーブランドで中年男性に喜ばれそうな甘めの服を、頭から爪先までそっくり一揃い選んでくれただけでなく、「これも、あれも可愛いわ」とミニファッションショーをさせられて、何着も持たされて両手は紙袋で一杯になってしまったではないか。

「そんなに要らないよ。来年は流行が変わってるんだし」

「大丈夫ですよお嬢さん」

 相談役でついて来てくれた祖母の会社のスタッフが、戸惑う穂那実に微笑んでくれた。

「オーナーはそういうのもちゃんと分かって選んでますから。コーディネートが分からなかったらいつでも聞きに来て下さって結構なんですよ。歓迎しますからね」

「そうよ。ああ、ここだけでなく他のとこでも見たいわね」

 などと宣うので穂那実は大慌てに慌てた。

「もういい、もういいよ。そんなにお出掛けしないしこれで十分」

「お出掛け?私的には普段着より少しいいだけの服よ」

 お金の単位も祖母の感覚も全く違っている。手袋や帽子に目を移す茜を必死に止めた。

「私、極貧女子だったんだから、感覚が付いてかないから、次は夏服で!ね!」

 母にどう言い訳しようかと悩んだが、姉弟相部屋では置く場所そのものがない。ほとんどはひばりヶ丘の祖母宅に残していくことになった。

「学校が変わっていいなら、いっそ私と暮らせばいいんだけど」

「ええ!」

「千夏と暮らしてたら、可愛い時期を可愛くなく潰されちゃうわ。あの子自分が十代の時はお洒落に親の金つぎ込んでたのに、自分の娘には渋いんだから」

 美しく成長する孫を、茜は着飾らせたくてしょうがなかった。自身の事業も軌道に乗ってある程度拡大し、一息ついて「さて」といったところで孫達に目を向ける余裕も経済力も出て来た。高校大学は人生でも重要だ。遺産を貰わなくても、茜が支援する気ではいたのだ。

 穂那実にも逃げ場があるのは救いだった。事業で忙しくても、許されるだけ茜は穂那実姉弟のSOSを受け入れてくれていた。祖母と住みたいのは彼女も山々だったが、そこまでの裏切り行為は穂那実自身が許せないのだ。

 靴もバッグも何もかも新品で、茜の経営する美容室の一つで髪をセットされ、化粧の有無を訊かれて驚いた。スッピンが綺麗だからと茜がそのままでいいと答えてくれた時にはホッとした。

 鏡には自分じゃないみたいな可愛い女子中学生が映っていた。制服以外ではスカートなんて一着も持ってないから、可愛いスカートの自分に慣れてなくて戸惑った。


 親子の再会の場所として茜は庭の美しい高級旅館を選んだ。料亭やレストランよりもゆっくり出来ると言われても、貧困家庭の少女からすると世界が違う。お洒落にしてもらったが場違いに見られないか少女を不安にさせた。

 桜はまだ咲き掛けだが庭を見渡せる部屋で、さながらお見合いのように父と娘は再会した。

「お久し振りです。それにしても片桐さんは若返っていませんか?記憶していた姿より若々しい気がしますよ」

 修吾の笑顔には何処となく幼い感じがあった。緊張しているがウキウキしてもいる。

「あら、修吾さんは口が上手になられたわね。早速時間を作って下さってありがとうございます。いきなり電話したものだからさぞ驚かれたでしょうね」

 大人達は長い年月の後でもスマートに再会した。

「この庭には桃の木もあって香りが良くて気に入ってるの。分かる?」

 そう言われればこれがそうかと、微かに芳しい物が空気に混じっていた。

「梅もありますね。もう時期は過ぎてしまいましたが」

 写真で父を確認していたが、実物の方が断然いいと穂那実は娘バカで思った。背は圧力を感じる程高くはなく、何処か幼さを残した顔が、角度を変えたり眉の動き一つでとても大人な雰囲気に変わる。

「食事の後で庭を歩きましょうよ。庭の景色が大好きなの」

 頷きながら修吾も娘がこんな可愛らしく天使のように育っているとは思ってもみなかった。母や叔母、祖母から見ても美人に育つだろうとは予想していたが、それ以上だった。元妻の母に余り似ていないのも良い。気品が匂う、歳の離れた姉妹か精々が母にしか見えない美しい祖母と並ぶと眼福でしかない。

「初めましてでも可笑しくないな」

 頃合いをみて娘に話し掛ける。

「…初めまして、お父さん」

 はにかみながらお父さんと口にした娘に愛おしさが湧き起こった。何千回何万回でも呼ばれかった。

 宿でゆっくり時間を取った茜の判断は正しかった。穂那実は物怖じしない少女だったが、父には勝手が違うのか硬さが取れるまで時間が掛かった。

 会席料理を口にして、「これどうやって作るんだろ?」「調味料は何を入れてるんだろ?」と茜に相談している様子は、少女が食べる側ではなく作る側であるのを見て取れた。

「この小鉢山菜だよね」

 ほんの少量だけの菜がとても美味しいのだ。

「ね、何気ない口直しの物が凄く美味しいでしょ?調味料は分かるんだけどどう料理したらこう出来るのか不思議よね」

「うん、悠斗にも食べさせてあげたいけど、私じゃ再現するのはちょっと無理」

「お得意様には少量なら分けてくれるから、お願いして上げるわ」

「え?そんなことしてくれるの?」

「お付き合いの会食にも使ったりするから、私はお得意様でね、時々お願いすることもあるの」

 可愛い孫は和食を年寄り臭いと嫌わず、好みを同じにしているのが茜にはこれ以上なく嬉しかった。

「今度は悠斗も連れて三人で来よう」

 修吾が提案する。

「ええ!いいです。悠斗も私も本当は質より量だから、ファミレスで好きな物たくさん注文する方がいいんです。それに悠斗なら肉をガツンと食べたいって言うと思います」

 最後の抹茶のババロアと珈琲が運ばれたところで修吾は切り出した。

「今日は悠斗は来なかったんだな」

 責めているように聞こえないよう気を遣う。食事中は食欲がなくなりそうな話は控えていたのだ。

「悠斗は母に嘘吐けないし、お父さんを捜してたことも話してないから」

「千夏さんも?」

「はい、絶対反対するし大喧嘩になるから」

 孫が言い難いことを茜が語ってくれる。母が茜の元夫から財産を分けられたこと、大金持ちになりながら父を捜そうと決意したこと。

「世間に揉まれて少しは大人になってくれるかと期待したのだけど、それどころか依怙地になっているの。あの子の中では筋が通っているだけに説得は難航するのよ」

 覚えがある気がする、とはまだ口にするまい。では元妻は変わっていないのだ。

「けど変わったところもありますよ。僕が覚えている限りでは千夏さんは都会でないと生きていけない人でした。田舎暮らしをしたがっているなんて想像もしませんでした」

「でしょう?てっきり東京のマンションに喜んで移るものだって私も!」

 それは姉弟も期待した。友達と別れるのは辛いが、都内のマンションでの暮らしは考える程に魅力的なのだ。

「それが、あの子何て言ってると思います?秩父の山奥でね、犬を飼って畑を耕して雨の日は本を読んで慎ましく暮らしたいんですって」

 そうなのだ、新居の場所を何所にするか話していて発覚した事実だった。なるべく人のいない場所で静かに自然と調和した、心豊かな生活をしたいと母は告げたのだ。

「……読書とはいい趣味を見付けましたね」

 そうとでも口にしないと修吾からは別の言葉が迸ってしまいそうになる。

 大人達の様子に穂那実は戸惑った。確かに母が本を読んでいるところはそんなに目にしたことはないが、何が問題なのだろうか。畑の方なら絶対続かないと断言出来るのだが。

 畑を耕して自然と調和したい、何ぞと謂うが、植物を育てる趣味がある訳でもない。多分に観念的だしほんの時折発作的に買って来る植物にしても育て切れたことがないのだ。実のならない植物なんて姉弟どちらにとっても価値がないのだが、放ったらかしが可哀想で結局姉弟が世話をすることになる。一年草なら精々半年も世話すれば終わるが、多年草はいつまで経っても世話が終わらない。それでも自分達で終わらせるのは何となく気が引けたので、植物が好きそうな人がいたら声を掛けて差上げたりしていたが無くなることはなかった。

「市民農園を借りて畑作りをするような情熱があれば納得もしますけど、全く経験がなくて頭の中で理想を描いてるだけなんです。最初だけ…畑づくりの現実が判ったら興味をなくして、私達姉弟に世話を丸投げにする未来がそりゃもうくっきりと脳裏に描けるんですもん」

 それでもまだそれが通学に不便のない「ちょい田舎」程度の場所なら乗らぬでもない。犬は飼ってもらえるのが待ち遠しくしているのだし。ゆくゆくは鶏を、何ぞと現実味のない母の戯言が現実になったとしても、穂那実の希望も聞いてくれるならば、母の望みも尊重出来る。

 しかし千夏は妥協してくれる様子がまるでない。

 母を悪く言いたくないが、事は穂那実の将来が掛かっている。頑張ってお金を稼いで母を楽にしてやりたい想いだってその中にはあったのだ。

 秩父の更に奥で暮らしたりすれば、最寄りの高校位しか選びようがなくなる。私立高校も専門学校位しかない土地だ。では寮のある高校や祖母の下に住まわせてもらうなりして家を離れていいかというと、それは絶対に許さない、家族揃って暮らすべきだというのだ。


「程々の学校でいいじゃない。シャカリキになって頭のいい学校に行ったところで幸せになれるとは限らないわ」

「一番近い高校だって通学に時間が掛かるのにそれ言われてもって話だよお母さん。それに幸せになるならないはどんな学校に行ったって同じじゃない」

「口ばっかり達者になってお母さんの揚げ足をとるんだから。実際に社会に出たらお母さんに感謝することになるわ」

「お母さんは我が儘を通して子供達に恨まれることになる」

「もう!どうしてそんな風にしか考えられないかしら。可哀想だけど母としてだって付き合うのがしんどいわ」

 そっくりそのまま返してやろうかと思ってそうして、親子喧嘩に発展して祖母宅に家出するのがデフォルトになって来たこの頃なのだ。


「自分で言うのもなんだし、田舎の中学だって言われたらそうなんだけど、私頭いいんです。だからたくさん勉強して将来の為に出来ることの幅を広げておきたいんです」

「夢があるんだね」

「国際的な仕事がしたいな、ってだけ。自分でも語学とかをネットの無料教室で勉強してます。母は将来を決めるのはまだ早いって言うけど、その為のカリキュラムのある学校に行きたいって考えるのはいけないことじゃないでしょ?」

 未来を語る時の熱や瞳の輝きに大人達は眩しさを感じた。

「悠斗ももう将来に対して思うことがあるのかな?」

「悠斗はまだです。俺はどうしようかな?何てのんびり言ってます。それは人それぞれですよね。悠斗の親友で裕太君がいるんです。ご家族もいい方達で、彼のちょっと歳の離れたお兄さん達にもお世話になってるんですけど…、あ、今度住む借家が学校から離れてて、少し山の上で坂道が多いからって電動自転車くれたんです。中古だからって金額教えてくれなくて、でもそう古い感じはしないの!彼らは兄弟でバイク店を開くってその資金を稼ぐ為に頑張ってるんです」

「あら、素敵ね」

「でしょ!早くても遅くても遣りたいことが見付かったら頑張ればいいから、悠斗は悠斗のペースでいいと思います。地元の高校だって悪くないんだけど、私が目指す進路には合わないだけなんです」

「修吾さん」

 娘の溌剌とした発言にうっとり耳を傾けていた彼を茜が現実に呼び戻した。

「相談されて最初は私が支援しようと考えていたんです。それだけの経済力がありますから。だから断って下さっても構いませんし、だからって二度と孫達に会うな、とも言いません。どうあれ貴方は穂那実と悠斗の父親なんですから。でも穂那実は私の支援ではなく父を選びました」

「はい」

「父として貴方を必要としているんです。どうかその気持ちを汲み取ってやってやって下さい」

 その場で深々と頭を下げたので穂那実はぎょっとした。

「そんな、どうか頭を上げて下さい片桐さん」

 修吾も慌てて正座し姿勢を正す。

「頭を下げなきゃいけないのは僕の方なんです。至らぬ父の代わりによくも穂那実の思いを受止めて下さいました。父として僕に出来ることは何でもさせて頂きます」

 こういう世界って本当にあるんだ、と展開に戸惑いつつ、穂那実は大人達を見詰めた。

 茜が庭を散策して来ると部屋に二人っきりにされると、父子は窓辺に移動した。庭を散策する人の姿がちらほらと見える。

 変に思われないように注意して修吾は娘を観察する。背が小さいにしてもどうも痩せ過ぎな気がするのだ。出された料理は完食していたから好き嫌いはなさそうだし小食でもない気がするのだが、体質だろうか。

「穂那実は痩せ型なんだな。羨ましがられないか?」

「はは」

 どう誤魔化そうかと思って止めた。

「お祖母ちゃんも説明してくれたよね。お母さんが十分生活費くれなくて、……同情してもらう為に言うんじゃないんだよ。遺産貰っても生活費はほんの少し多くなっただけなんだ。悠斗はサッカーしてお腹空かして帰って来るし、成長期で背丈がぐんぐん伸びてるの。もうお父さんと同じ位あるんじゃないかな?だから最初はほんの少し生活費を援助してもらえれば、って」

 だから娘は痩せているのだ。申し訳なさで修吾の胸は一杯になった。時を戻せないが、せめて妻と別れた三年前に、こちらから探してやっていればと思わないではいられない。

「すまない…。お父さんが悪かった」

 そうして元妻とのことを話した。

「お父さんの別れた奥さんは望って名前でな。彼女とは本当に気の合う夫婦だったんだ」

 前妻の話をして気を悪くしないかと様子を探ったが、穂那実は静かに次の言葉を待っている。

「お前達のことは気になってた。だが望との間には子供が出来なくて、何度も妊娠流産を繰り返して、彼女は本当に子供を欲しがってたから、心身共に辛い結果になったんだ。だから俺だけ子供を気に掛けることが出来なくてな」

 望が許してくれたとしても彼女への裏切りに思われてしまう。

「望さんはどうしたの?」

「千葉の方で多角経営農業を起業してる。誰かだけに負担の掛かるのじゃなくて、シフト制で無理のない休暇も有給休暇も充分とれる農業だ。俺も出資したんだ。今では友達として仲良くしてるよ」

 父の言葉に嘘は感じられなかった。



 引っ越しの日は悠斗の小学校の卒業式の翌日だった。朝の気温は0℃を下回ったが、陽が高くなるにつれ陽射しが照って気温は鰻登りに昇った。

 荷物は祖母が借りてくれたバン二台で運べてしまい、運転手として来てくれた祖母の会社のスタッフが呆気なさに驚いた程だ。

 何もかも新築の家で新たにそろえたがった千夏ではあったが、冷蔵庫と洗濯機は換えない訳にはいかなかったから、大物家電もなく荷物も運びやすかった。

 荷物のなくなった部屋はガランとして寂しく広く感じられた。広い方の洋室は母が取ったので、狭い和室で学習机もベッドもなく勉強する時はリビングのテーブルか、誰かに貰ったローテーブルだった。小さなプラスチックの衣装箪笥が二つ置かれていた場所の畳が白い。

「悠斗忘れ物ない?」

 物思いに耽っていると母から声が掛った。

「俺のも姉ちゃんのももうないよ」

 姉の穂那実なら、忘れる程たくさん物を持ってない、と嫌味で答えるところだ。

「こうして見ると広い部屋だったわね」

「そうかな?よく詰め込まれてたよな俺と姉ちゃんって思うよ」

 少しばかり大きくなると子供達は親の苦労も知らず嫌味を言うようになるのだ。千夏には先が思いやられた。

「…キッチンの戸締りが出来たわ。この部屋も戸締りは済んでる?」

「いつでも出られる」

「じゃあ行きましょう」

 荒川に近い部屋はいつだって川から来るモノがあった。通り過ぎる時に悪さをしていくモノもいたが、大抵は漂い流されて長く煩わされることはなかった。悠斗も穂那実も関わるような真似はせず、いないものとして振舞ってやり過ごすようにしていた。

 《行っちまうのか~》

 ふお~んと悠斗の周りを漂いながら回る妖があった。

 無視する。中古とはいえ折角の新居に憑いて来られても嫌だ。

 車に乗り込む前、ふと視線を感じて隣接した神社の方に目を向けた。

 神社といっても小さなお社が木々に囲まれてちょこんとあるだけなのだが、その陰から少女が覗いている。

 姉より綺麗な少女を悠斗は初めて見た。

 穂那実は瑞々しい生気を漲らせているのに対してその少女は人間離れした雰囲気で、透き通る肌に黒目勝ちの瞳、ストレートの長い髪は黒く艶やかで、まるで白狐だか白鳥の化身を思わせるものがあった。しかも肩にはナマケモノの姿の式神を乗せている。なんて珍しい上に珍しい少女だろう。近所の娘ではないはずだ見掛けたことがない。春休みだから何処かから親戚の家にでも遊びに来ているのかもしれない。物怖じしない悠斗は笑顔で手を振って物問いた気な視線を送った。

 あからさまに覗いていた癖に、気付かれたと知った少女はくるりと踵を返して速足で去って行った。

「悠斗、友達?」

 穂那実が訊く。

「いや、全然知らない子」

「見ない顔だったよね。しかも肩のあれ…ナマケモノ?なんで」

「さあ?俺にも分かんない」

「だよねー。行こ」

 姉に促されて、日々伸びる細長い身体を折るようにして軽自動車の後部座席に納めた。

 後日、中学校の入学式に悠斗は少女の正体を知ることになった。

 彼女は東京から引っ越して来た()(しゅう)(ゆず)()で兄は()(ひろ)。奇しくも兄は姉穂那実と妹は悠斗と同じクラスになった。


 新しい家を契約してからも茜は、庭の味気無さやら欠点を色々探しては独り言めかして文句をたらたらだったが、家が広いと聞き流すのも楽だと知った。何せゲーム禁止だしTVだって好きな番組を観れる訳ではないから、姉弟はリビングをたまにしか利用することがないし、母は一階、子供達は二階で食事や家事以外では自然と離れることになった。

 東向きで四畳の続き部屋のある八畳の洋室を穂那実は選び、悠斗は南向き八畳押入れと納戸の付いた部屋を選んだ。

 穂那実の部屋の方が広いのに千夏はいい顔をしなかった。

「同じ大きさで同じ間取りの部屋があるのに、あんた弟より広い部屋を取るの?」

 お互い好きな部屋を選んだのだ。何故穂那実が責められるのか姉弟は理解出来なかった。

「部屋がたくさんあんだから、好きなとこ部屋にしたんだよ?俺達」

 と悠斗の抗議で収まった。

 子供達の部屋を覗いていた母がいなくなると、穂那実は大きな溜息を吐いた。

「やだやだ、お母さんジェンダー差別がどうのって普段から偉そうに言ってる癖に、自分だって長男優遇?男子優先?じゃん」

 悠斗は反論したいが事実だった。

 中古の電動自転車が家にあるのに気付いた千夏は説教を始めた。

「中古って言ったってこんな高価な物を貰って」

 相手が山川兄弟であることも気に入らない一つだった。

「中学から遠くなったし食料品の買出しだって私がしてんだよ?上り坂もあるんだから必要に決まってるでしょ」

「悠斗は持ってないでしょ?」

 自分に必要だとは思ってもみなかったし、自分の所為にされるのが嫌で悠斗は速攻で反論した。

「買い物は姉ちゃんに任してっし、俺は足腰を鍛えられっからいいんだよ」

「悠斗は優しいから穂那実に譲ってばっかりで…」

 ならば悠斗にも買い与えて公平にするということにはならない。

「お母さんだって職場そんな遠くないのに車だろ?」

「車はあんた達の為もあるの。秩父で車がなくてどうやって生活するの?」

「生活ね。大事なことだからもう一度言うけど、食料品の買出しは私がしてんだからね」

「私は働いてるの、家族として支え合うのは当然じゃない?」

 自分への都合の良い論理の切り替えが姉弟には腹立たしかったが、それを千夏に自覚させるのは困難だった。

 お金持ちになったからって仕事は辞めない、という千夏の姿勢は殊勝だが、経験から穂那実には千夏がそう遠くなく仕事を辞める気がしていた。仕事上の人間関係を愚痴って、恩着せがましくするからだ。

 仕事は大変だと思うから仕事の愚痴は逆らわず聴くようにしていた。お金の余裕が出来ただけにそれは以前以上に露骨になっていて、流石の穂那実も一言言ってやりたくなっていたところに、母から辞めると言い出した。

 心静かにその言葉が聴けて良かった。千夏が仕事を辞めても生活はそのままを維持出来たから。


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