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階段を降り、青空の下に飛び出したアユミは、ベランダからこちらを見下ろしているピアとカーティスの二人に大きく手を振った。
「じゃ、行ってきます♪」
アユミに続いて、エリオットも二人に手を振った。
「行ってきまーす!」
二人が無表情のまま、軽く手を振り返すのを確認し、アユミとエリオットは歩き始めた。
「変だねー?あの二人がわざわざお見送りしてくれるなんて。台風でも来るのかな?」
面白そうにクスクス笑いながら。アユミは跳ねるようにエリオットの前を歩いて行った。
今日のアユミは、白黒ボーダーの生地にフリルのついたミニスカートと、胸元に大きなリボンのあしらわれたTシャツを着ている。
オーバーニーソックスに、黒のパンプスが可愛い。髪は二つに結わえて肩に下ろしてあり、髪留めにレースをふんだんに使ったゴムを使用している。
以前一緒に外出した時と比べ、お洒落をしてくれているのは、エリオットがアユミに告白したことの影響だろうか。
ふと、告白の最中に漏らした言葉を思い出す。
確か自分はあの時・・アユミが大賢者に会うために可愛い服を着ていたことにショックを受けた旨を話したのだ。
もし、今日のアユミのお洒落が、そんなエリオットに気を使ってくれたものなのであれば、これは喜べばいいのか、恥ずかしがればいいのか、わからない所である。
「今日はポチ、連れてこなくてよかったの?」
自然笑みが零れるのを感じながら、尋ねると、アユミはくるりと振り返って、手提げ袋を掲げて見せた。
「駄目駄目。こういうのがあると、ポチ興奮しちゃうから、周りの迷惑になっちゃうもん。」
袋の中からは香ばしく焼けた肉の香りが漂っており。なるほど、これだと犬は一溜まりもないだろうと納得した。
「なんだか最近、ずっと慌しかったから。たまにはこうやってのんびりしても、いいんだよね?」
嬉しそうに首を傾げ、尋ねてくるアユミに、エリオットも笑顔で頷いた。
今日は誰よりも、アユミにとって楽しい一日になればいい。空が晴れて、本当に良かった。
アユミが幸せになることが、今日はいっぱい起きますように。エリオットはそう願いながら学校への道を歩いた。
何とか十時のキックオフに間に合ったらしい。
学校に到着した時、運動場は独特の騒がしさと、緊迫したムードに包まれて、賑やかだった。
「あちこちの学校から、選手が集まってきてるんだよ〜。」
ニコニコ笑いながら、アユミはエリオットにそう説明してくれた。
なるほど。確かに今日の校庭には、以前は見かけなかった大きなバスが数台停車していた。
これに乗って、今日は遠くの学校の生徒も来ているのだろう。
運動場を整備して駆け回る教師たち。校庭の済みで、熱心に最後のトレーニングに打ち込んでいる数名の選手。
皆目が輝いていて、エリオットは微笑ましく思った。
「・・いいな。ここは平和で。」
誰に話しかけるわけでもなく、ぼそり呟くと、アユミがこちらをじっと見ていたことに気づき、はっとした。
「そーだね!エリオットさんも、今日は魔王討伐なんて忘れて、試合応援しよ♪」
ふにゃりと笑い、無邪気にそう言うアユミを見て、エリオットはほっと息を付いた。
今のエリオットの台詞で、彼女自身が平和な身の上でないことを感づいたならば、危険だったのかもしれない。
安易な言葉は口にできないぞと、エリオットは自身を諌めた。
「ね!もっと近くに行こう?うちの学校、第一試合なんだって!」
そう言うアユミに腕を取られ、エリオットは少し慌てて運動場内を走った。
恐らくここが応援スペースなのだろう。
私服の生徒や、保護者の姿が多く見られる一角にアユミとエリオットは混ざり、コートに集まる選手たちを見守った。
審判役の竹平先生が、高らかに対戦するニ校の名前を言い、選手たちに礼をさせた。
各校代表の人同士がジャンケンをし、先攻後攻を決めるようだ。
「・・・オザキっち。どこだろうね?」
ぼそり、エリオットの隣でアユミが呟いたのが聞こえた。
確かに、並んでいる生徒たちの中には大崎少年の姿が見当たらない。
彼程の選手が、選抜で外されることはないと思うのだが・・。
――ピィーー!
鋭くホイッスルが鳴り響き、試合は始まった。
先攻はアユミの学校のチームのようだ。
以前エリオットに付いて試合中支持をくれたあの少年の姿を確認し、エリオットは眉を潜めた。
何故あの少年がいて、大崎少年がいないのだ?
「・・まだベンチなのかな?」
そう言い、アユミがその場を離れたので、慌てて後を追った。
アユミは、自分の学校の選手が控えるスペースを覗きに行くつもりらしかった。
「まったく・・オザキっち。私に自分はレギュラーに選ばれるって宣言しといて・・」
ぶつぶつ呟きながら、早足に観客の後ろを歩いていく。
「怪我とか・・病気とかしちゃったのかもしれないね。」
大崎少年をフォローするつもりで、エリオットがそう言うと、アユミは唇を尖らせた。
「なによぅ。私に話があるって呼びつけておいて。
そういうことだったら、連絡してくれてもよかったのに。」
「まぁまぁ・・」
不機嫌になるアユミを宥めながら、エリオットたちは選手の控えベンチに辿りついた。
アユミは手近な所にいた体操服姿の少年に話し掛ける。
「ねぇ。今日は大崎君、来てないのかな?」
きょろきょろ辺りを見渡していたエリオットは、アユミの言葉でようやく気づいた。
ここにもやはり、大崎少年の姿が見当たらないようなのだ。
「大崎・・っすか?うちの学校にいるんすか?」
きょとんと目を見開き、アユミを見返してくるその少年に、アユミは困ったように言った。
「ありゃ・・もしかして、新入部員だったりする?大崎孝則って・・うちの学校で有名な選手なんだけど・・」
アユミの言葉に、その少年は不機嫌そうに眉を潜めて言った。
「新入部員じゃないっす!これでも二年ですし・・。
でも、先輩にも後輩にも、そんな名前の奴、居ませんよ。
他の学校と勘違いしてるんじゃないっすか?」
その言葉に、今度はアユミがきょとんとなる番だった。
「・・・・っへ?」
随分間が空いたのち、ようやく出てきたその声に。
エリオットはふと悪い予感を感じた。
「あ・・そうなんだ!ごめんね!俺たち何か勘違いしてたみたい!」
慌ててそう取り繕い、アユミの手を引いてベンチを離れる。
「エリオットさん・・あのコおかしい。
オザキっちが、うちの学校に居ないって言ってるよ?」
混乱しきった様子のアユミに、
「そうだよね・・変な人だったね。」
エリオットは同意を示すことにした。
恐らくまた、因果律が歪んでいたのだろう。大崎少年は本来、この学校の生徒ではなかったのだ。
「・・・どうしよう。お弁当・・作ってきちゃったのに。」
しょんぼりと項垂れるアユミが可哀想で、エリオットはアユミの頭を撫でてやった。
「アユミちゃん。ちょっとどこかに座ろうか。こんなに暑いと、アユミちゃんも疲れちゃうでしょ?」
本当は、アユミもエリオットと同様、暑さに対する感覚は鈍い筈で、暑さに参るなどということはありえないのだが・・
それでもそう声を掛けて、手近なベンチにアユミを座らせる。
「どうしようかなぁ・・こんなに食べれないよ。」
膝に乗せた手提げ袋を見つめ、アユミは溜息をついた。
「・・オザキっちも。困った奴だね。」
アユミの隣に腰掛け、エリオットは彼女の髪を撫でた。
仕方がないことだとはわかっているのだが、アユミを騙している自分に気づく度に、心が痛む。
アユミは何も知らなくて良いのだ。アユミは何も知ってはいけないのだ。
それはわかっているのに、隣で俯くアユミの横顔があまりにも心細げで、エリオットの胸はズキズキ痛んだ。
『・・おい。膝の調子はどうだ?』
不意に、背後で声が聞こえて、エリオットは振り返る。
他校の顧問の先生なのだろう一人の中年男性が、彼の生徒なのであろう一人の少年に向かって、話をしているようだった。
中年男性の背中に隠れて、彼の前にいる少年の姿は見えないが・・
『はい。大丈夫です。』
そう答えたその声に、エリオットは聞き覚えがあった。
「・・あれ?」
アユミも気づいたのか、背後を振り返る。
『大崎はうちのエースなんだからな。他の部員を引っ張って行くつもりで、頼むぞ。』
そして中年男性のその言葉に、アユミとエリオットは同時に声を失った。
「・・・え?」
先に言葉を取り戻したのはアユミだった。
瞬間、エリオットはこの危険に気づいたが、間に合わず。
無情にも、少年は中年男性の影から出るよう、動いてしまった。
『勿論、解ってますって!』
その返答は、彼らしい実に勝気なもので、エリオットはその少年こそがあの大崎少年であることを認めなくてはいけなかった。
「・・オザキ・・っち?」
ぼそり、アユミの唇からその名が漏れた。
しかし目の前の少年は、自分の名前からかけ離れたその渾名に気づくことなく、アユミの前を横切り、去ってしまった。
――これは・・マズイものを・・
戸惑うアユミに、何と声をかけるべきかわからない。
どう言い訳すれば、あの状況をアユミに都合の良いよう受け入れてもらえるのだろうか。
「・・ねぇエリオットさん。オザキっちね・・」
ふと、アユミは言葉を零した。
視線は大崎少年の背中を追いかけたまま、つらつらと言葉を続ける。
「オザキっちにね、私尋ねたことがあるの。
エリオットさんが言ってたじゃない。竹平先生が、オザキっちがこの学校にいるのは勿体無いって言ってたって。
だからさ・・私聞いてみたんだよね。
なんで・・オザキっちはうちの高校選んだのか・・って。」
「うん・・」
まるで抜け殻のようなアユミの声が不安で、エリオットは喉が詰まったように声を出せない。
エリオットがろくな返事もできないうちに、アユミは続きの言葉を言った。
「オザキっちはね・・言ったの。
うちの高校を選んだのは、私が居たからだって・・言ったの・・!」
急に、アユミの瞳が涙で滲んだのが見えた。
訴えるように、エリオットを向いた瞳は、どこまでも真っ直ぐに澄んでいた。
「アユミちゃん・・」
ようやくそう彼女の名前を呼び。エリオットはアユミを抱き締めた。
アユミはそれを拒まなかった。むしろ、エリオットが何をしたかすら気づいていないようだった。
「エリオットさん・・私・・」
耳元に、アユミの力ない声が聞こえる。
「駄目だよ・・アユミちゃん・・言っちゃ駄目・・」
優しく、何度も言い聞かせるように伝えた。アユミの背中を撫で、彼女の傷ついた気持ちを少しでも癒せるよう。
・・でも、それでもアユミは言ってしまった。
「私・・やっぱり、居なくなっちゃったのかな・・?」
そう呟いて、泣いてしまった。
「アユミちゃん・・・」
そっと身体を離し、エリオットは俯いた。
今、自分はアユミのために何が出来るだろうか。
少しでも、アユミの悲しみを和らげることはできないだろうか。
思い立ち、エリオットは顔を上げた。
「・・・それ、頂戴!」
「・・え?」
戸惑うアユミの膝の上から、手提げ袋を取り上げて、中の弁当箱を一つ出す。
蓋をあけると、アユミのマメさが伺える、丁寧な作りの、可愛らしい料理の数々が姿を現した。
箸は今まで、使ったことが無かったので、拳で握りこむようにして無理矢理口に突っ込む。
「・・あ・・エリオットさん・・!?」
すっかり涙は乾いてしまったらしい。アユミは心底驚いた顔でエリオットを見た。
何故なら、以前エリオットは彼女に言っていたのだ。この世界で、エリオットたちは食事を摂らない様にしていると。
この世界の食物を摂取することが、パラレルワールドの身体にどう影響するかわからない以上、安易に物を食すことは危険なのだと。そう伝えていたのだ。
だからこそ、エリオットたちは今まで一度も、アユミと食事を共にしなかった。
「・・食べれたの?」
瞳を丸く見開いて、呆然と尋ねるアユミに、エリオットは口を動かしながら頷いた。
「食べれるよ。俺お腹空いてたから・・アユミちゃんが作ったものなら、どれだけでも食べれる。」
空腹であるということは、当然嘘なのだが。自分がアユミを慰めるには、これしか方法がないと思ったのだ。
こんなに食物を摂取して、後からピアに何と言われるかはわかったものではないが・・
それでも、アユミの作った弁当は、間違いなく美味しかった。
この弁当を食べるのが、大崎少年ではなく自分であったことを、ほんの少しだけ誇らしく思いもした。
そうして無心に弁当を食べているエリオットを、アユミはしばらくぼうっと眺めていたが・・
「・・・ありがとう。」
ぽつりそう呟くと。エリオットに背を向けて、目に溜まった涙を払う仕草をした後、再度、エリオットに向き直った。
「あのね・・。エリオットさん。私言い忘れてたことがあるの!」
「・・ふぇ?」
決心したように、強い口調をエリオットに向けたその姿に、エリオットは口に物を入れたまま、間抜けに返した。
しかし、アユミはそれに構わず、続けてくれる。
「エリオットさんに返事・・今日、しようと思ってて・・あのね?」
ごそごそとスカートのポケットを探りながら、アユミは言う。
「返事って・・?」
一瞬アユミの真剣な眼差しの意味がわからず、ぽかんとしたエリオットは次の瞬間、アユミの言う返事というのが、エリオットの告白に対する返事であることを悟り、赤面した。
「い・・いや・・ちょっと待って!別にあれは・・!」
自分が言いたくて言っただけで、アユミに答えを求めていたわけではないのだと。
そう言い訳しようとしたエリオットの言葉を遮り。アユミはエリオットの前に拳を突き出した。
「・・・これ・・」
俯いたアユミは、薄っすら頬を染めているようだった。
アユミの突き出した拳の中に、何かがあることに気づいたエリオットは、そっと掌を差し出し、彼女の拳を覆う。
ぽとりと、アユミの手の中からエリオットの手の中へ、布の感触が移った。
「これ・・ね。下手だけど、作ったから。
エリオットさんに持ってて欲しくて・・。あのね?」
たどたどしく言葉を紡ぐアユミが、愛しかった。
エリオットに渡されたのは、青いはぎれで作られた小さな包みで、可愛いリボンが通してある。
「お守りなんだよ。中に・・私の命助けてくれたブレスレッドの石が入ってて・・
これがエリオットさんも助けてくれたらって思ったの。」
「・・そうなんだ・・」
ありがとう。感極まったエリオットはそう言おうと顔を上げたのだが。
「・・なんでこんなの作ったのかって・・聞いて!?」
唐突に、アユミが真っ赤な顔してエリオットを睨んできたので、自身の言葉を飲み込んで、言った。
「え・・・なんで・・なの?」
戸惑い、それでもきちんとアユミの要望に答えると、アユミは再び、顔を伏せ、
「エリオットさんのことが、好きだからだよ!」
そう、言った。
「・・・え?」
かぁと、顔に火がついたのかと思った。
これ以上にないくらい、顔面が熱くなるのを感じた。
「俺で・・いいの?」
震える声で、情けない声で、そう尋ねると
「エリオットさんじゃないと・・嫌だ。」
アユミはそう言って、またほんの少しだけ、泣いてしまった。