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■■第四十三章■■
八月十四日。朝日が差し込むと同時に目を覚ましたエリオットは、ベッドの上にアユミの姿がないことに気づいて跳ね起きた。
ピアもカーティスも、昨日はアユミのことが心配で、皆この部屋に集まっていたのだが。いつの間にか、全員眠ってしまっていたようである。
未だ寝息を立てている二人を起こそうかとも思ったが、それ以上にアユミのことが心配で、エリオットは部屋を飛び出していた。
アユミは大丈夫なのだろうか。あんなに意識が危うい状態で、外に出ていなければ良いが。
廊下を歩きながらエリオットは、扉の向こうから漂ってくる香ばしい匂いに気づいた。
慌ててリビングに入り、台所を見ると、そこにはエプロンを付けて、フライパンと格闘しているアユミの姿があった。
「・・あ。おはよう〜♪」
扉の前に呆然と立ち尽くすエリオットの様子に気づいたのか、アユミは振り返り、やんわりと笑った。
「早起きなんだね〜。良く寝れた?」
ほのぼのとした口調で、無邪気にそう尋ねてくるアユミの声に、エリオットの中で凍り付いていた何かが溶け出したような気がした。
「アユミちゃん・・大丈夫なの?」
エリオットは恐る恐るアユミに近づき。震える手でアユミの髪に触れた。
「え・・?何・・・あ・・っちょ!料理中は危ないから、触ったら駄目!」
突然髪を撫でられたことに、頬を膨らませて抗議するその様子は、とてもアユミらしくて。エリオットは顔が緩むのがわかった。
思い切って抱きしめてやりたかったが、流石にそれは自重する。
「うん。ごめんね。今日は・・何作ってるの?」
名残惜しかったがアユミの髪から手を離し、エリオットは尋ねた。
「んー?お弁当だよ。
試合は一日掛かるらしいから。自分の分と、あとオザキっちの分!」
アユミは再びフライパンと睨めっこを開始して、答えた。
「へぇー。それは羨ましいなぁ。」
「オザキっちはうちの学校のエースだからね!力つけてもらわないと♪」
エリオットの言葉に次いで、アユミは嬉しそうに言った。
今、アユミの操るフライパンの中では、数種類の野菜と豚肉がタレを絡めて甘辛い匂いを放っている。
既に皿に盛られている完成品は、カボチャのひき肉餡かけ。実にスタミナが付きそうなラインナップである。
アユミが作ってくれる弁当が食べれるなんて、大崎少年に少し妬いてしまいそうだ。
「・・でも、アユミちゃん今日は外出して大丈夫なの?
昨日はあんなにきつそうだったし・・あまり無理しないほうが・・」
ふと心配になって、尋ねてみると、アユミは驚いたように振り返った。
「・・え?昨日って?」
「・・へ?」
この返答には、エリオットも驚いた。これはどうやら・・
「アユミちゃん・・覚えてないの?」
そう尋ねると、アユミは考え込むように視線をうろつかせて、
「うん。何にも。」
はっきりと、そう答えた。
「・・そっか。」
急に、肩から力が抜けるのを感じた。そうか、アユミは何も覚えていないのだ。
だったら、全て忘れてくれていたほうが都合が良い。
あの話題に触れなければ、アユミはずっと、このまま平和に生活してくれるかもしれないのだ。
『・・エリオット。』
不意に名前を呼ばれて振り返る。
いつの間に起きてきたのだろう。扉の向こうから、カーティスが手招きをしていた。
「ごめん。ちょっと行って来るね!」
アユミにそう断って、その場を離れる。
「んー。まだ出発まで時間あるから、ゆっくりしてていいよー?」
そんなアユミの返事に手を振って答え、エリオットは廊下でカーティスと落ち合った。
そこにピアの姿も確認する。
「・・アユミの様子はどうだ?」
カーティスに尋ねられ、エリオットは小声で答えた。
「何も・・昨日のことは何も覚えていないって言ってる。
今はいつも通りのアユミちゃんにしか見えないよ。」
「・・一時的に、記憶の封鎖が起きているのだと思います。
またいつ、自我の崩壊に陥るかわかりません。注意が必要ですが・・」
ピアの視線を受け、カーティスが続けた。
「アユミのことを考えれば、極力、普段通りの生活をさせてやった方がいいだろう。
折角、今幸せそうなんだ。無理に押さえ込むようなことはしたくない。」
そのカーティスの言葉が、暗にアユミの寿命が残り僅かであることを示しているようで、エリオットは思わず彼から視線を逸らした。
「・・今日は。アユミちゃんとサッカーの試合、見に行く約束してたんだ。」
そう呟くと、カーティスとピアは視線を交わし、頷いた。
一緒に行って来いと、彼らはそう言っているのだろう。
「アユミに何か異変が起きたら、直ぐに連絡しろ。」
「余り長時間、この世界の人間と接触させるのは危険です。
アユミさんが自分の正体に違和感を感じる可能性がある行為は、極力避けさせてください。」
二人の真剣な忠告に、エリオットは黙って頷いた。
無言のまま、三人の視線はアユミに注がれる。
鼻歌交じりにフライパンを揺すっていたアユミは、
今、出来たての焼肉を、取り皿に移し始めた。