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■■第三十三章■■
カーティスは再び、夢の中にいた。
勿論、今度は悪夢ではない。しかしやはりこの夢も、彼の記憶から生み出されたものだった。
本当なら、元の世界にいたころの夢など、異世界滞在中に見るべきではないのだが、カーティスの場合、先に見ていた悪夢の影響もあったのだと思う。
彼は今、本来の赤い髪と赤い瞳の姿に戻り、王城の中にいた。
城の廊下、壁際に立ち並ぶ白い石柱を早足に過ぎながら、カーティスは自らの主の姿を探していた。
国王より、主に剣術の稽古をつけるよう仰せられているのだが・・いかんせん、当の主の姿が、今朝方から見当たらない。
「・・全く。次期王になろうという人が・・こんなことでは困る。」
苦い気持ちでぼやく。
カーティスがロナルド王子に仕えることになったのは、父親であるルーファス公爵の遺言があったからこそだ。
自分の息子であり、次期に紅鴉の長となるカーティスにはロナルド王子の臣下という立場を与え、国王とルーファス公爵がかつてそうであったように、ロナルド王子とカーティスにはこの国を支える双璧として成長して欲しいと。ルーファス公爵は生前、国王にそのような願いを託したのだ。
そしてそのお陰で、カーティスは実質、ロナルド王子のお守りをする役割を担ってしまった。
正直、カーティスはこの立場に嫌気が差している。
幼い自分の、惨めな幻覚から逃れたくて、力を、名誉を求め続けた結果がこれだ。
閉じ込められる場所が牢獄から城内に変わっただけで、実質、あの惨めな日々が再来したかのように感じていた。
ロナルド王子はカーティスを、自分の飾りとして扱った。
一方的にこちら側の人格を無視されて、都合の良い存在として認識するのは、実質、幼い自分の彼を実験体として扱っていた多くの大人たちと何ら変わらない。
それが堪らなく不快ではあったが、自分の立場が一族最大の名誉であることは事実だ。
仮にも一族の長を任せられた者として、甘受せねばならない指令なのである。
憂鬱な感情を吐き出すように、深く溜息をついたカーティスの目に、不意に黒い影が飛び込んできた。
紺色の絨毯が敷き詰められた廊下から、城の外部に連なる山岳の壮麗な風景へ解放される白亜のバルコニー。
カーティスの足がそこを横切ろうとした時、その黒い影がちらりと見えたのだ。
一瞬だけだと黒髪の女性に見間違えてしまいそうなその後姿のそれは、この場所から見える景色が好きなのか、時折こうしてバルコニーに座り込む姿が確認されている。
その姿に驚く新人の女中も多いと聞くが、これこそが、紛れもないこの王国の象徴。魔王そのものであった。
立ち上がれば子馬ほどの大きさになるであろうか、漆黒の艶やかな体毛に覆われた魔王の姿は、どことなく犬に似ていて、愛嬌がある。
幼少期の魔王は、国中の子供たちから大層可愛がられていたという話も聞く程だ。
「・・魔王。」
バルコニーに一歩踏み入り、声をかけたカーティスは、振り返った魔王の黒い瞳に見つめられた。
その瞳に、僅かな不安の色を見つけ、肩を竦める。
「お前も・・ご主人の居場所を知らないわけか。」
溜息混じりに呟いて、カーティスは魔王の隣に並び、外の景色に視線を乗り出した。
眼下に散らばる城下町の建物の小ささや、遠くまで広がって見える山々の姿が、この場所こそが城の最上階であることを示していた。
一階からここまで、念入りに探してきたつもりなのだが、結局ロナルド王子の姿は見つからなかった。
恐らく、今隣にいる魔王も似たような理由で途方に暮れていたのだろう。
魔王もカーティスと同様、常にロナルド王子の傍にいるよう、国王から命じられている身だった。
魔王はその名前の威厳と、立派な体格に似合わず、純朴で、鈍い性質をしている。
恐らく、まんまと隙をつかれ、ロナルド王子に逃げられてしまったのだろう。
「一緒に捜しに行くか?」
そう言って、魔王の首筋を撫でてやる。仲間が見つかって安心したのだろうか、魔王は心地良さそうに目を細めると立ち上がった。
その様子に、カーティスも僅かに顔を緩める。魔王は本当に純粋で、大人しい魔物だ。
カーティスの後について歩き始めた魔王は、ふさふさとした尾を、優雅に振りながら、歩き始めた。
その黒い瞳はきょろきょろと、主の姿を探して休まらない。
――・・こんな大人しい魔物が、何故あんなことを?
何故国王に背き、王城を逃げ出した?何故国民に呪いなどかけたのだ?
不意に自らを過ぎった疑問に、カーティスははっとする。
瞬間、周囲の景色が変わったことに気づいた。
赤黒い雲に覆われた城下町。馬車から降りたカーティスを、小粒の雨が数滴叩いた。
明るい日差しの下でなら、色とりどりに輝いて見える石畳も、低い屋根の下を鮮やかに彩る屋台の品々も、今日は全て色褪せて見える。
高台に並ぶ風車すら、今日はその動きを止め、寂しい影を落として、人気の無い街並みを見下ろしていた。
「・・・本当に、嫌になるよ。早く済ませて、戻ってきてよね。」
馬車の中から聞こえる、気だるい声に眉を潜める。振り返れば馬車の小窓の奥、蜂蜜色の髪を煌めかせた菫色の瞳の少年が、グラスを傾け、黄金色の液体を呷った。
あれは彼にとって、持病に効く薬なのだというが、実のところ、ただ甘いだけのシロップであることをカーティスは知っている。
幼い頃に病んでいたという彼の病は、もう既に完治している筈なのに、ロナルド王子は未だに病気のふりをしていた。
病床で甘やかされて育った癖が、未だに抜け切れていないのだ。
「了解しました。」
苦い気持ちを飲み込んで、カーティスは王子に一礼を向けると、石畳を踏み、歩き始めた。
カーティスの後からは、鎧姿の城の兵士たちが、各々に大きな袋を担いで付いて来る。
「・・既に街の女子供は呪いの病に倒れていると聞いております。」
カーティスと共に馬車を降りた白髪の魔術師が、ぼそりとその事実を伝えた。
「そうか・・」
カーティスは頷いてそれに応える。
今日の外出の目的は、国民に救援物資を届けることにあった。
本来ならば王室を代表して、ロナルド王子がカーティスの隣に立つべきなのだが、王子曰く、持病が悪化するから行けないのだそうだ。
王子は頑として王城から一歩も外に出たがらなかったが、国王からせめて、城下町の民には顔を見せてやって欲しいと頼まれ、渋々ここまで来ている。
この事態を招いたのが王室である以上、王室の人間が謝罪に向かわなければ、国民は納得しないのだ。
そこまでわかっていて尚、馬車から降りようとしない王子の姿には、カーティスも苛立ちを通り越し、呆れている。
こんなロナルド王子の態度で、国民が納得するとは思えない。
だから、国民を納得させるために、カーティスは嘘をつかなくてはいけなかった。
「・・・では、王子様はお病気で・・?」
病床から黒い斑点に覆われた顔を覗かせる女性に尋ねられ、カーティスは頷いた。
「ああ、この事態を憂いるあまりに持病が悪化されたのだ。しかし、それでも貴方たち民を心配し、今日は無理をしてまでもこの街まで赴いてくださった。
今も馬車の中から、民の健康を祈っていらっしゃるよ。」
「勿体無い話です・・」
カーティスの隣に立つこの家の長である男が、涙ぐみながら呟いた。
この家ではまだ歳も若いこの夫婦と、彼らの年老いた両親が暮らしており、家族全員、既に魔王の呪いに冒されている。
唯一元気そうに見えるこの男の腕にも、うっすらとではあるが、呪いの斑点が現れていた。
直に、この男も寝たきりになってしまうだろう。そうなれば、この家の人々全員の命が危ない。
魔王の呪いは、国民の身体に謎の斑点を浮かび上がらせ、寝たきりにしてしまうという奇病となり、今や王国全体に広がっていた。現時点で無事なのは、王城に住まう人間だけだ。
何故か、魔王の呪いは王族にだけは効果をなさなかった。
「・・なんでこの国を呪ったの・・魔王は・・一体何を・・?」
弱々しい声で、病床の女は言った。
「きっと、国王陛下が皆さんを呪いから救ってくれます。
それまでは、これで持ちこたえてください。」
何も知らない、哀れなこの病人の手を握り、カーティスは部下の兵士に救援物資を運び込ませた。
袋の中にあるのは精々三日間持つかどうかという程度の水と食料。どれも質の低いものばかりだ。
しかしそれすらも、後何回配布できるかわからない。
王国の予算から、国民に与えることができる物資は限られていた。
今は何も知らず、カーティスに頭を下げ喜びを表してくれるこの家族も、時が来れば、国王に対する反感に胸を染めるのだろう。
そう考えると辛かったが、城を代表する存在である自分が、不安を国民に知らせるわけにはいかないので、無理矢理顔に笑顔を作って、その家を離れた。
「・・魔王が何故・・このようなことを?」
次に物資を届ける民家へ向かう道を急ぎながら、カーティスは呟く。
『おいカーティス!早く戻って来いって言っただろう!』
石畳を駆ける足を、不意に呼び止める声がして振り返った。
途端、また景色は変わり・・
カーティスは再び、王城の廊下に立っていた。
目の前には、その顔に怒りを露にしたロナルド王子の姿。
母親に良く似た美しい顔も、今では醜く歪められている。
どうやら、カーティスが彼を怒らせてしまったらしい。
「どうなされましたか?」
尋ねるカーティスの高い背を、ロナルド王子は憎憎しげに睨んできたので、慌てて、その場に跪く姿勢を取る。
「どうなされたも何もない!早く戻って来いと言っていただろう!
お前があまりにも遅いから、俺は一人で父上からの呼び出しを受けなくてはいけなかったんだぞ!?」
そう強い口調で、ロナルド王子はカーティスを詰った。
確かに、今朝城を出る前にカーティスはロナルド王子から言いつけられていた。
今日は国王に呼び出され、昼には会議に付き合わないといけないから、その時間に間に合うよう戻って来いと。
しかしカーティスはそれに間に合わなかった。
それは仕方がないことで、カーティスは今日も、国民に救援物資を届けるために方々を飛び回っていたのだ。
重病患者が居れば手当てをしたし、亡くなった者がいれば、その埋葬の手続きもした。
そうやって忙しく過ごすカーティスが、昼までに王城に戻ってこれるわけがないのだ。
カーティスは怒り狂うロナルド王子にその事を伝えたが、王子の怒りは増すばかりだった。
「とにかく、お前がいない所為で俺は面倒な立場になっちまったんだ。
魔王を討伐しろ、だってよ。狩りすらまともにしたことない俺が、できるわけないだろ?
父上が行けばいいのに、自分はもう歳だからって言うしよ・・」
跪いた自分の前でぶつぶつ愚痴を零すロナルドから顔を伏せ、カーティスは深く溜息をついた。
普段から会議を嫌うロナルド王子を無理矢理呼びつけてまでの会合だ。
恐らくはこの手の話題が上がるものだと予想はしていたが。やはりその予想は当たっていたようだ。
「俺は今から母上に相談しに行くつもりだったんだ。
母上はいつも俺の味方でいてくれるから、今回の件もなんとかしてくれる筈だ。お前も着いて来い。」
促され、カーティスは立ち上がる。
そんなカーティスの顔も見ずにさっさと歩き始めた王子の背中に、今一度溜息を吹きかけてから、カーティスも歩き始めた。
辿りついた王妃の部屋は、同じ城内でも国王やロナルド王子の住まう塔とは離れて建てられた、一際豪華で、乙女趣味な空間だ。
菫色の壁に黄金色の装飾は、全て王妃のために施されたものだった。
その空間に一人、人形のような姿で腰掛ける少女染みた姿。彼女こそが王の妻であり、この国の母。
「・・ロナルド王子。一体どうなされたのですか?」
突然現れた愛息子の姿に、驚きと、それ以上の愛情を声に表しながら、王妃は彼女の菫色の瞳を細めた。扇形の睫が、瞳の中に華奢な影を落として震える。
国王を腑抜けにした甘い視線は、今ロナルド王子に注がれていた。
「・・母上!」
感極まったように瞳に涙を浮かべ、ロナルド王子は母の膝元へと駆け寄った。
過ぎた愛情の交換と、泣きつく王子の子供染みた様子に、カーティスは扉の前から動かないまま、静かに眉を潜める。
「・・・というわけなんだ。僕に魔王が倒せるわけないだろ?」
「ええ。全くです!」
全てを話し終えた王子の姿に、王妃は幾分かの怒りを滲ませた声で頷いた。
「でも大丈夫。それなら母上には良い考えがあります。国王陛下にも伝えておきましょう。」
――・・きっと・・
王妃はそう呟いて、ふとその視線をカーティスに移した。
「きっと、なんとかなる筈ですから。」
ふわりと咲いた花弁のような微笑。誰もを魅了する王妃の笑みに、何故かこの時、カーティスは薄ら寒いものを感じていた。