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■■第三十章■■
新しい太陽が昇り、家の前のアスファルトを白く照らし出していた。
「・・夢じゃ・・なかったんだよな。」
手の甲に巻かれた包帯を見ながら呟く。昨晩、トウヤ自らの手で巻いた包帯だ。
白い布地には、うっすらと血の跡が滲んで見え、この奥に未だ生々しい傷跡があることを語った。
昨晩大賢者の意思で、神社に向かい、発動させた奇妙な術。森の中で遂に出会うことができた少女アユミ。
それらがすべて現実の出来事だったと、手の甲の傷が教えてくれた。
――ヴ・・オォオオオオ・・
遠くに聞こえ始めた重低音に、トウヤは顔を上げた。
道の向こうを見渡せば、巨大なアメリカンバイクがこちらに接近してくるのがわかった。
「・・リカさん!」
手を振り、バイクを運転する女性にに自分の居場所を示す。
リカはトウヤに向かって軽く手を振ると、ゆっくりと速度を落とし、トウヤの前に停車した。
「おはよう。いい朝ね!」
ヘルメットのシールド越しに、リカは笑顔を向ける。
バイクに乗ってる所為もあるが、今日は普段のフェミニンな雰囲気とは一味違うようだ。
「カッコいいですね。今日。」
リカの様相に目を走らせ、トウヤは驚いて言う。
ダークグレーのコットンジャケットに細身のジーンズ、ロックテイストのベルトに編みこみのロングブーツという衣装のセレクトは、今までトウヤが見てきた、彼女の印象を大分変えた。
「・・そう?ありがとう!」
バイクを降りたリカは、フルフェイスのヘルメットを外し、嬉しそうに答える。
彼女はこうしてバイクに乗る自分と、普段の自分に差をつけることを楽しんでいるのだろう。
「バイクは乗ったことある?」
リカに尋ねられ、トウヤは頷いた。
「免許を持ってるわけではありませんが・・少しくらいは動かしたことがあります。
でも、この大きさのバイクは初めてですよ・・・」
苦笑いで言う。正直、今回の遠出は少し緊張していた。
そんなトウヤを安心させるよう、リカは笑顔を向けた。
「そう、じゃあ、大丈夫ね。
このバイク、車体が大きくてが安定してるから、走り始めれば意外と楽よ。」
「・・そういうもんなんですか?」
「そういうものよ。」
リカは言いながら、バイクの座席の下を漁り、トウヤの分のヘルメットを取り出した。
白地に額から後頭部までに太い黒いラインが入った、シンプルなデザインのヘルメットだ。
黒い耳当てと、ゴーグルがついてて、リカが着ければ可愛いんだろうな、と思う。
「耳当ての裏にマイクとスピーカーがを仕込んであるから。運転中でも会話できるわ。何かあったら、言って。」
自身もヘルメットを被りなおしながら、リカは言った。
ちなみにリカのヘルメットはアイボリーホワイトにダークレッドの地に、花と蔓草の模様という非常に女性らしいデザインだ。
衣装はクールに決めていても、ワンポイント女性らしいアイテムを加えたがるところが、リカの個性なのだろうか。
トウヤは少し微笑ましい気持ちになりながら、受け取ったヘルメットを装着し、リカに促されるまま、後部座席に上った。
『じゃ、出発しましょうか。』
ヘルメットに備え付けられたスピーカーから、リカの声が聞こえ、返事をする。
「今日はどこに行くんですか?」
その質問に、リカは楽しそうに笑いを零した。
耳元でリカの吐息が聞こえて、ゾクっと背筋に電流が走る。
『まだ秘密。でも、きっとあなたも気に入る場所よ。二時間くらい走るから、疲れたら言ってね?』
リカはそう言うと、エンジンを掛けた。
現在の時刻は早朝七時である。正直寝不足なトウヤは、移動中寝てしまうかもしれないな、などと思いつつ、動き出した辺りの景色を見た。
改めて、やはり、このバイクは人目を引くのだと知る。道行く人々が皆こちらを見ているような気がして恥ずかしくなった。
・・・女性の運転するバイクに乗せてもらっている男なんて、あまりカッコいいものではない。
知り合いに見られないことを祈りながら、トウヤは顔を伏せた。
交差点を三つ程越えた辺りで、道を歩く人の姿は極端に減っていく。リカは国道を走り、山岳地帯を目指すようだった。
視界を横切る建物は徐々に質素になっていき、辺りに緑の気配が漂い始める。
――インフィニティ・・
不意に、その言葉が脳裏に浮かんだ。これは、大賢者の記憶にある名前で、確か、アユミたちと敵対する存在だったように思う。
何故、今そんな名前を思い出してしまったのだろうか?
――彼女が、インフィニティだったのだな。
意識の中で、大賢者の声がはっきり聞こえた。大分、眠気に冒されてきたのかもしれない。
『お目覚めですか?大賢者様。』
うとうとと船をこぎ始めたトウヤの耳に、リカの声が聞こえたような気もしたが、トウヤはそれに答える暇もなく、意識を手放してしまった。
「・・ねぇ起きて!」
気づいた時には、目の前に既にヘルメットを外したリカの不安そうな顔があった。
「あれ・・?」
ゴーグルを外し、瞼を擦りながら周囲を見回す。
辺りは鬱蒼とした木々に覆われており、どうやら、今は山道の途中にある休憩所の、パーキングエリア内らしい。
「俺寝てました・・?」
移動中の記憶が、見事なまでに無い。トウヤは呆然と尋ねた。
「うん。途中から返事がないな、とは思ってたんだけど。
まさかこんなにぐっすり寝ちゃってるとは思わなかった。落ちなくてよかったねぇ?」
困ったように笑いながら、それでも心底ほっとした声で、リカは未だ寝ぼけているトウヤの顎のベルトを解除し、ヘルメットを取ってくれた。これではまるで母親と子供である。
「あ・・すいません。」
思わず謝り、トウヤもバイクから降りた。
「疲れてたんだねぇ〜。気づいてあげれなくてごめんね。」
申し訳なさそうに、リカは言う。同じく申し訳なさそうにトウヤは返した。
「いや、こちらこそごめん。リカさんに運転してもらってるのに、寝ちゃうなんて。」
なんだか、男子として非常に情けない行動をしてしまった気がして、顔が熱い。
「いいって。それだけ私の運転が安定してたってことだから、なんか嬉しいし。」
リカはそう笑うと、目の前にある木造のコテージを指差した。どうやら、山菜料理のレストランになっているらしかった。
「連れて行きたい場所はこの近くなんだけど、一旦休憩して行きましょう。私お腹空いちゃった。」
「・・そうですね。もうお昼ですもんね。」
頷いて、トウヤはリカに付いて歩きだした。
正直、トウヤは特に空腹を感じていなかった。元々身体の飢えに対する感覚が鈍いのだと思う。
――シャラァアン・・
ドアに設置されたウィンドベルの音を潜ると、店内は二人がけの簡素な木製のテーブルが三つにカウンターの座席が七つという、こじんまりとした内装だった。
それぞれのテーブルに生けられている花は、この付近の野草なのだろうか。
周囲に観光スポットがあるわけでもないのに、客の入りは良いようで、既に大半の席は埋まっていた。
「マスター、久しぶりです!」
入って直ぐに、リカはカウンターの奥、コーヒー豆を挽いていた白髪交じりの男性に声を掛けた。
「ああ、伊藤さんか!その節はどうも。お陰で客も増えたよ!」
マスターと幾つか言葉を交わした後、席についたリカは、トウヤに教えてくれた。
なんでも、この店は最近、雑誌に掲載されたらしく、その取材を担当したのがリカだったらしい。
「編集長にこの店推薦したのも私なんだ〜。本当、ここのコーヒーと山菜パスタは絶品だから。」
嬉しそうに言いながら、リカはメニューブックを広げる。
「・・そういえば。雑誌の記者なんでしたっけ?」
メールの遣り取りの中で、トウヤはある程度、リカの仕事の話は聞いていた。
確か、地元の出版社に勤めていて、LIVEの記事も、彼女が担当していたらしかった。
「そう。でも今は、お休み中なんだけどね。」
そう言うリカの姿は、まるで拗ねているように見えた。相当、記者の仕事が好きなのだろうと思う。
「お母さんが入院中なんでしたっけ?」
リカは今、父に言われ、店の手伝いをするために仕事を休んでいる筈だった。
以前リカが話していた内容を思い出しながら言ったのだが、リカはそれにゆるく首を横に振って答えた。
「それもあるけど・・それだけじゃないのよ。私今、ちょっと妙な事件に巻き込まれてる気がするの。」
「・・え?」
それって、もしかしてアユミの事件や大賢者の記憶と関係するのだろうか。
詳しく尋ねようとしたのだが、丁度店員が注文を取りに来たので、話を中断させる。
リカが山菜パスタとオニオンスープを注文したので、トウヤも同じものを頼んだ。
「・・あの、妙な事件ってどんな?」
店員が姿を消したのを見計らって、トウヤは尋ねた。
リカは不意に真剣な顔を作り、テーブルの上に身を乗り出した。
「あのね、私ってたまに変になるの。一瞬自分が今まで何していたかわからなくなったり、気がつけば見知らぬ場所に立っていたり・・昔からそういう事多かったんだけど、
最近になって、自分のものじゃない意思が自分を支配していることに気づいたの。」
自分は誰かに殺されようとしている。そして自分は会ったこともない筈のその相手を知っているのだ。と、リカは囁くように言った。
「・・最初はね、全部気のせいだって思ってたのよ。
でも、つい昨日、うちの敷地で育てていた榊の木が全焼する事件があったの。
私・・怖くなった。この騒ぎが起きる前から本当は私知ってたの。
あの榊の木に火を放った人がいたということ。その場にいたわけでもないのに、知ってたの。」
「・・・そんな・・。」
リカの話す内容に、トウヤは言葉を失った。
森の中の木々が燃え盛る光景はトウヤは覚えている。そしてそこに火を放った男のことも。
何故なら、トウヤもそこにいたからだ。
リカと全く同じように、気がつけばそこに立っていて、自分のものじゃない意思に支配されていたのだ。
「正直に言えば、私、貴方と最初に会った時も途中から記憶が抜け落ちているの。
気がつけば私の身体は、私のじゃない意思に乗っ取られていて、雨の中、貴方に告白していたわ。」
震える唇で、リカは言葉を紡ぐ。
「・・ねぇ、私は貴方に何かしたの?
なんで貴方は、初対面の私の告白を受け入れたの?」
不安そうなその言葉に、トウヤは僅かに俯いて、それでもはっきりと答えた。
「・・俺がリカさんの告白を受け入れたのは・・それは単に、俺が以前からリカさんに惹かれていたからです。
告白してもらった時は、素直に嬉しかった・・」
そう言って、リカを見つめる。
リカの目は戸惑いにうっすらと涙を浮かべ、潤んで見えた。
「本当に・・あの日のことは何も覚えてないんですか?」
そう尋ねると、リカはゆっくりと頷いた。
「覚えてない。今日あなたを誘った理由の半分は、その話が聞きたかったから。」
「・・・もう半分は?」
リカは一度深く息を吸い込み、まるで自分自身が嘘をつかないか確かめるように、慎重に言葉を紡いだ。
「もう半分は・・私の中にいる別の誰かが、あなたをここに連れてくるよう、言ったから。」
自分はその命令に逆らうことができないのだと、リカは言う。
・・同じなのだ。リカは、今のトウヤと大賢者と同じような状態に陥っている。
「わかった。話すよ、あの日のこと・・」
覚悟を決めて、トウヤは語り始めた。
あの日、リカが突然話し始めた魔法陣のこと、催眠術のこと。
その後体験した、奇妙な戦いと、つい昨晩、トウヤの身体を大賢者が乗っ取り、奇妙な術を使ったこと。
「・・この魔法陣を・・私が知っていたっていうのね?」
「そう。リカさんはこの画像を見て、懐かしいって言ってたんだ。」
リカは、トウヤが差し出した携帯の画像を、興味深そうにじっと見て、言った。
「やっぱり、私は何も覚えてないわ。この画像も知らないし・・
その・・催眠術なんて、習った記憶もない。」
情けなさそうに瞼を伏せてから、トウヤに携帯を返してくる。
「本当は俺、今日リカさんに、術を解いてもらいたかったんです。
昨日の出来事があってから、俺は自分の中にいる大賢者のことを邪魔に感じるようになってて・・」
「・・・ごめんなさい。私にはどうすることもできないわ。」
申し訳なさそうに、リカは頭を下げた。当然トウヤに彼女を恨むような意思は無い。
それ以上に、今はリカのことが可哀想だった。
「リカさんと俺の症状は似てますが、決定的な違いがありますね。
俺は自分の中にいる存在がどういう人間なのか知っているし、そいつが俺の身体を乗っ取ったとしても、大抵の場合は俺は意識を保っていられる。
自分の身に何が起きているのかはリアルタイムに確認できるし、そいつとの会話も可能だ。」
「・・・私の場合は、乗っ取られている間の記憶がないし、そいつが何者なのかもわからない。」
トウヤの言葉に、リカは溜息交じりに答えた。
そう、どちらかといえば症状が重いのはリカの方なのだ。
「多重人格・・っていうんでしょうかね、こういうのは。」
ようやく運ばれてきた料理をテーブルに並べながら、トウヤは呟いた。
「少し違う気がするわ。だって私の中にいる誰かの記憶と、あなたの中にいる大賢者の記憶には一致している点が多すぎるもの。
これは個人がそれぞれの内面世界に作った別人格と考えるよりも、まるで・・前世で一緒に経験した魂の記憶みたい。」
「・・前世か・・。」
トウヤは、リカに催眠術を掛けられた当初目にした光景を思い出した。
あの時トウヤは大賢者と呼ばれる老人の姿になり、見知らぬ森に立っていた。
直感だが、あの場所は日本じゃない。
大賢者に身体を乗っ取られた時、見知らぬ言語の呪文を唱えたことも思うと、リカのいう前世という表現も、あながち間違っていない気がする。
トウヤは前世を大賢者として生きていたのかもしれなかった。
「リカさんは、インフィニティという人を知っていますか?」
ふと思い立って、尋ねてみる。
大賢者の記憶の中で、大賢者と同盟を組んだ、あの魔物の名前だ。
「インフィニティ・・?」
リカはパスタを巻き取ったフォークをぱくりと頬張り、考え込むように視線を動かした。
「永遠・・とか、無限・・とか。」
唇からフォークを抜き取ったリカは、そう呟きながら、指で宙に∞マークを描いてみせた。
「・・無限・・ですか?」
「そう、インフィニティって、日本語に直すと無限ってことよね?それがどうかしたの?」
きょとんと首を傾げられ、トウヤは一気に力が抜けるのを感じた。
どうやら、リカはあの魔物のことを全く知らないらしかった。
・・おかしいな。と思う。リカはインフィニティと関係がある筈だ。
先程から意識の中の大賢者が言っているのだから間違いない・・と思うのだが。
「単に・・記憶がないだけなのか?」
口の中だけでそう呟いてみる。リカの中にいるそのもう一人の誰かがインフィニティである可能性は高いように思われた。
しかし、彼女にその記憶がないのだからどうしようもない。
トウヤの中にいる大賢者は、その記憶をトウヤと共有してくれているが、リカは相手の記憶を何も知らないのだ。
「リカさんの中にいる人は、俺の中にいる大賢者の知り合いらしいんです。
恐らくインフィニティという名前の女性なのだと、彼は言ってるんですが・・」
暖かい湯気を立てるスープを掬いながら、トウヤは言う。
不意に、リカの瞳から光が消えたような気がした。
「・・詳しい話は、向こうに着いてからにしましょうか。行けばわかることが多いから。」
続いて出てきたリカの言葉はどことなく冷たく聞こえ、トウヤにデジャヴを感じさせる。
この様子は・・一昨日、トウヤの魔法陣を覗き込み、催眠術の話を始めたあの時のリカと似てる。
「・・・リカさん?」
咄嗟に腕を伸ばし、その肩を掴む。
「・・・・・・・・・あ・・。」
随分と間が開いたのち、リカの瞳に光が戻った。
「ごめんなさい・・何か・・今、そう言えって言われた気がして・・」
トウヤの視線から逃げるように俯いたリカの声は震えていた。
トウヤも寒気がする気がして、そっとリカの肩から手を放す。
「・・俺は行かなくちゃいけないんだね。その場所に。」
口から零れるように、その言葉が出た。
「ごめんなさい。本当は私、これから行く場所に何があるかなんて、知らないの。
ただ、言われるままに動いてるだけで・・」
激しく混乱しているのか、リカは一度自らの額を押す仕草をした。
その様子に、トウヤは自分の胸が痛むのを感じた。
自分はリカ惚れていて、経緯はどうあれ、一応彼女は自分の恋人なのだ。
「・・大丈夫です。何があっても俺がリカさんを守りますから。」
クサい台詞かもしれないが、そう言わずにはいられなくなった。
「・・・ありがとう。」
そう顔を上げたリカは、少し泣いていたようだった。
トウヤとリカはその後は暫く黙って、目の前の食事を片付けることに集中した。
美味しい食事なのだろうとは思うが、今のトウヤにとっては喉を通りにくい代物だった。
味わうというよりも、ただ咀嚼し、飲み込むだけしか出来ず、折角の料理が勿体無く感じた。
出来ればこの店には、この問題が解決した後、また二人で訪れたい。
その時はきっと、今よりもずっと、美味しい料理が楽しめるのだろう。
静かに食事を済ませ、トウヤとリカは立ち上がった。
「行きましょうか・・」
リカの言葉に、トウヤは頷くと、不安に震える彼女の白い手を、そっと握った。