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夕焼けだった空が星空に塗り潰される頃。
あれから時間は随分流れたように感じるのに、辺りを包んでいるのは相変わらずの冷め切った空気と重い沈黙だった。
エリオットは息をするほどためらうほど、緊張していた。
カタンと小さな音を立てて、目の前に湯気を立てたカップが置かれる。多分これ、この世界のお茶だろう。湯気が香ばしい。
お茶を出してくれたのは、例の少女。先程の庭での一悶着のあと、彼ら三人はこの家に住む少女に促されるまま、リビングに戻った。
とりあえず話し合おうか、ということらしい。
着かされたテーブルを囲むのは椅子が二つにソファが一つ。四人で座るのが、ギリギリだった。
エリオットとカーティスは椅子に座り、ピアがソファの片隅にかけてる。今、それぞれの目の前にカップに入れたお茶が出された。
「あ・・あの。」
沈黙に耐え切れず、エリオットは声を上げる。途端、空になった盆を抱えた少女に睨まれた。
「あ・・あの、お茶・・どうもです。」
最後の言葉は尻すぼみだ。場の空気を和らげたくって口を開いたつもりが、逆効果になってしまったようだった。
無言のまま少女は盆を片付けると、あえてピアの隣には座らず、ソファの向こうにある壁際に座り込んだ。
そしてそこには彼女が室内に連れ込んだ、白い犬。大賢者様の姿もあった。
「・・・。」
ぎゅっと賢者様を抱きしめる少女。まるでエリオットたちに指一本触らせまいとするようだ。
先程の出来事が、彼女にすっかり疑いの心を植え付けてしまったらしい。
――まいったな・・。
エリオットは思った。まず彼女に心を開いてもらわないことには、話も聞いてもらえそうにない。
怒っているのなら、そう言ってくれればいいのに、なんで彼女は黙ってしまったのだろう。
「・・・はぁ。」
遂に耐え切れなくなったのか、今度はカーティスが口を開いた。
「そう警戒しないでもらえないか。それにどうしてそう・・大賢者様から離れない?」
「・・ポチだもん。」
それが今の大賢者様の名前なのか、少女は拗ねたように言い返した。
「だから、大賢者様は今、因果律の問題でそういう姿になっておられるだけで・・」
そう言い聞かせるカーティスの言葉を、少女は鋭い剣幕で遮った。
「ポチはポチだもん!大賢者様なんかじゃない!
叔母ちゃんのうちから貰ってきた、ずっと前からうちにいる犬なんだから!大賢者様なんて勘違いだよ!」
――なるほど。このこにとって大賢者様は家族になってしまっているわけか。
エリオットは少女の戸惑いが理解できた。なので、より一層、説得に困る。
こういう損な役目はだいたいいつもカーティスが引き受けてくれる。エリオットは今、カーティスの容赦なさに感謝していた。
「・・それが因果律の歪みだ。」
「・・え?」
「つまり、君にとって大賢者様が飼い犬のポチに見えるということこそが、大賢者様がこの世界に飛ばされたことによって生じる因果律の歪みなのだ。」
当然意味がわからなかったのだろう。きょとんとした表情を浮かべる少女に、エリオットは口を開いた。
「・・パラレルワールドって言葉、知ってるかな?」
「パラレルワールド・・?聞いたことあるよ。」
急に素直になった少女に、エリオットは内心ほっとする。
カーティスが因果律のややこしい話を持ち出してくれたことにより、彼女の怒りは一時的に冷めたようだった。
「パラレルワールド・・ここにはない、もう一つの現実。可能性の世界のことを指す言葉だね。
例えばこうして今、君が俺たちにお茶を出してくれたけど、もし、君がお茶を出すという選択をしなかった場合の『今』、
このテーブルにお茶が乗ってない『今』の状態があったかもしれないんだ。」
「その、もしかしたらの今・・っていうのがパラレルワールドなんだよね。何かの本で読んだことあるよ。」
急に物解りがよくなった少女に、エリオットは思わず微笑んだ。続いてピアが口を開く。
「一部の世界では、異世界移動が可能になったとはいえ一人の人間が存在できる世界は常にたった一つのみ。
そして、一人の人間が存在してる世界には、その世界のルール、つまり因果律があるの。」
「先程ピアから聞いただろうが、本来、因果律は異世界からの訪問者を許さない。
我々は今、因果律に突き立てたナイフのような存在だ。我々は、我々の世界の因果律を身に纏ったまま、この世界の因果律の中にいるのだからな。」
ピアの言葉を補足したカーティスに次いでエリオットは口を開く。
「異世界移動・・それを可能にするためには、
移動先の世界の因果律とこちらの世界の因果律を巧く交互変換する必要がある。そのとき重要になるのが、例のパラレルワールドの存在なんだ。」
「・・え・・えっと・・なんか難しくて解らないんだけど。」
引きつった笑顔で、少女が答えた。ちょっと話が複雑すぎたらしい。エリオットは少し考えてから、
言い方を変えて、もう一度同じ説明をすることにした。
「つまりね、ここに白と黒の二つの蓋を開けた箱があったと想像してほしい。
その白い箱がこの世界、黒い箱が俺たちのいた世界。白い箱の中には白い珠が詰まっていて、黒い箱の中には黒い珠が詰まってる。想像できた?」
「う・・うん。」
話についていこうと必死な様子で、少女は頷いた。
「白い箱には黒い珠を入れてはいけないし、黒い箱には白い珠を入れてはいけない。
もしこのルールが破られたら、その箱は壊れてしまうんだ。このルールこそが因果律。
そして因果律を守るために常に箱の中身を監視している人がいる。俺たちは<この世界を監視する目>と呼んでいるけど・・
この監視者は、箱の中に異色の珠を見つけたら排除するように仕組まれている。俺たちは黒い箱の中から白い箱の中にやってきた、異色の珠。
本来なら既に監視者によって排除されている筈なんだ。」
「じゃあ・・どうして??」
ぱちりと目を見開いて問う少女の言葉に、エリオットは軽く頷いてから続けた。
「最初に言ったとおり、この二つの箱には蓋がない。それは監視者が箱の隅々まで目を光らせやすいようするためなんだ。
でも、蓋のない箱をずっと放置しておくと確実に、そこに埃や砂が溜まっていくよね。
この埃や砂は、箱の色に関係なく共通して降り注ぎ、その箱の世界の中に様々な可能性を運んでくる。
そして、監視者はこれを排除することはしない。何故なら、それらは箱の中に詰まっている珠と珠の隙間に入り込んでしまうからなんだ。
監視者は、箱の中にある同色の珠に触れることは出来ないように仕組まれている。
珠と珠の間に入り込んだ埃は、監視者にとって対応のしようがない。つまり、これこそが<この世界を監視する目>の盲点になる。
そして、こうした可能性の含まれた隙間の世界のことを、皆はパラレルワールドと呼んでいるわけ。」
「・・へぇ。」
長い説明になってしまったが、少女はこれで理解してくれたらしい。感心したような呟きをもらした。
「パラレルワールドは、一つの箱の中に無限に存在し、その一つ一つには様々な可能性が詰まっている。
そしてたまたま、白い箱の中には、黒い箱のパラレルワールドと非常に近い可能性を含んだパラレルワールドもあったんだ。
これを俺たちは<共通するパラレルワールド>と呼んでる。
この共通するパラレルワールドの中でなら、白い箱の中にも関わらず、俺たち黒い珠も存在しやすいことが判明したんだ。
俺たち黒い珠は、自らの身体を砂のように細かくする技術を編み出して、この共通するパラレルワールドに紛れ込む方法を思いついた・・
・・とまぁ、こういうことなんだ。」
エリオットがそう説明を締めると、
「なんか、凄い。そっちの世界って、進んでるんだね!」
すっかり感動してくれたのか、少女は煌めいた瞳で応えてくれた。
これらの例え話は、以前、エリオット自身が異世界移動の理論を学ぶのに、自らを納得させるため考えたものだった。
それが他の誰かの役に立つことがあるなんて、当時は夢にも思わなかったのだけど。
「・・異世界移動も、最初の頃は本当に酷かったな。異世界と自分たちの世界とで共通するパラレルワールドを探して潜り込む、たったそれだけの技術だったんだ。
しかもこの共通するパラレルワールドというのが曖昧な上に膨大な量だったからな。
なんの準備も無く異世界移動をした人間が行方不明になる事件は、異空間科学が発展した世界でも未だに起きているよ。」
思い出すことがあったのか、カーティスは遠い目をして言った。ピアが少女に向かって口を開く。
「一度パラレルワールドに閉じ込められると、本人は自我を失ってしまうもの。もう二度と、自力で元の世界に戻ることはできないの。」
「・・・それはつまり・・」
一度に大量の情報を与えられて、混乱しているのだろう。少女は言葉を探すようにゆっくりと言った。
「つまり、その大賢者様はこの世界のパラレルワールドに閉じ込められてる。そういうわけなのね?」
「そう!その通りなんだ!」
良かった、少女に自分たちの説明は伝わったみたいだ。エリオットは一安心して、再び口を開いた。
「・・それであの、話は戻るんだけど。その大賢者様の迷い込んだパラレルワールドっていうのが・・・どうも君のペットのポチみたいなんだよね。」
少女の腕に大人しく抱かれている、白い犬、同時に三人の気まずい視線がそこに注がれた。
「でも!ポチは四年も前からうちにいるし!それに私、生まれたてのポチ抱っこしに叔母ちゃんの家にも行ったよ!」
熱くなる少女の口調に、少し面倒くさそうにカーティスが答える。
「それこそが因果律の歪みなんだ。本来存在する筈がなかった『ペットのポチがいる今』が存在してしまってる」
「無茶苦茶だわ!そんな理屈じゃ、なんでもありになっちゃう!
だいたい、パラレルワールドっていうなら、ポチの存在以外にもあるわけでしょ。
だって、最初はあなたたち、虫とか探してたんでしょ? その可能性はどうなったのよ!?」
僅かに頬を赤らめ、反論してくる少女に、
「・・・この犬を見たとき、我々のマナが引き合ったのです。この犬が大賢者様、間違いありません。」
淡々とした声でピアが返した。
「マナ・・・って?」
再びきょとんとする少女。また一つ、知らない単語があったらしい。
「時にオーラと呼ばれたり、気の波動と呼ばれたり、魔力と呼ばれたりもするが、
ようは空気中を漂う不可視のエネルギー体。運勢といってしまったほうが解りやすいかもしれないな。」
カーティスが説明する。
「我々は我々の世界のマナを取り込み、今こうして生きています。
つまり、我々と同じ世界から移送された人間は身に纏うマナが一緒なのです。
そして、異世界に入った時点で、我々のマナは強烈に共鳴しあうようになります。
マナというものは同じ世界のマナに惹かれるものですから。」
「共鳴って?」
ピアの言葉に、少女はまた、疑問を上げる。今度はエリオットが答えた。
「同じマナを纏う相手に対して縁が深くなったり、直感が鋭くなったりするんだよ。
例えばこれから俺たち三人が外に出て、バラバラに行動したとしても、
会いたいと誰かが望めば、偶然が起きて、再会することができるだろうね。」
「へえ・・なんか凄いや。」
ちょっと感心したのか、少女の目の奥に好奇心の輝きが見えた。
「・・それでね?」
エリオットは気まずそうに笑う。少女ははっとしたように、ポチを抱く腕に力を入れた。
「だ・・駄目だよ!そんな直感なんて、なんの証拠もない曖昧なものじゃない!ポチは私の家族なんだよ!絶対に渡さないんだから!」
やっぱり言うと思ってた予想通りの台詞に、エリオットは溜息をついた。
続いてカーティスも何か言おうと、呆れた様子で口を開いたが、エリオットがそれを制して立ち上がった。
「わかったよ。もうだいけんじゃ・・じゃなくって、ポチは連れて行かないから。」
少女の目を見つめて、言い切ったエリオットの姿に、カーティスとピアが息を呑むのが聞こえた。
「おい・・」
カーティスの低い声。しかし、エリオットはそれに構わず、少女のいる壁際へ歩いていった。
「・・え?」
ぽかんと間抜けな声を出した少女。エリオットはにっこり笑って、少女の前にしゃがんだ。
「大事な家族なんだね。俺も向こうで犬飼ってたことあるから、わかるよ。
大丈夫、もう連れて行ったりしないから。君の気持ちも考えないで、勝手なことして、本当ごめんね。」
そう頭を下げる。
「・・・っおい!エリオット、何言って・・!!」
瞬間、カーティスは立ち上がり、叫んだが・・
「黙ってて!」
強い口調で、エリオットはやはりそれを制した。
「責任は俺が取るから。」
その一言に重みを込める。エリオットが責任を取ると約束するのなら、カーティスにそれ以上言えることはない。当然カーティスは口を閉ざす。
背後で彼が再び椅子に座る音が聞こえた。多分今振り返れば、彼の渋い顔が見れることだろう。
「・・本当に?本当にもうポチをさらわない?」
期待半分、不安半分の顔で、少女はエリオットを見上げた。
まっ直ぐ肩まで伸びた黒い髪に同色の瞳、華奢な肩が、少し震えている。
そんな少女の姿は、小さな子供に似ていて、対峙するエリオットは胸の中に、何か暖かいものを感じさせた。
「約束するよ。」
エリオットは出来るだけ優しく笑んで、それに答えた。安心してくれたのか、少女もようやく表情を緩める。
その笑顔に思わずつられて、もう一度微笑んでしまったが、エリオットはあわてて真剣な顔を作ると言った。
「・・それで、君に俺たちから話しておきたい事があるんだ。話を聞いてもらえるかな?」
静かに頷く少女。とりあえず、これでようやく、少女もテーブルに着いてくれる流れになった。