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――大賢者様!
不意に何者かに呼ばれた気がして、視線を動かした。
しかし、辺りにあるのは相変わらずの静かな森だけ。気のせいだったのかと視線を元に戻した大賢者は、
インフィニティの姿が消えたことに気づいた。
「・・もう帰ったのか?」
挨拶もせずに消えるような輩には見えなかったので、少し驚いた。
――違います!早くこちらへ!事態が急変したのです!
再び声が聞こえた。今度は気のせいではないらしい。
大賢者は声の在り処を探って、羊歯の上を歩き始めた。
――こっちです!早く!
まるで妖精に誘われるかのように、大賢者は歩き続けた。
気がつけば、森の様子はすっかり変わっており、足元は羊歯ではなく、深い薮に覆われていた。
木の形も随分低く、歪になってしまったように見えて、大賢者は眉を潜めた。
自分の居た地方に、こんな場所があったとは知らなかった。
「・・ここは随分と、暖かい場所なんだな。」
差し込む日差しに、思わず目を覆った。
たしか今は雪がようやく溶け終えたばかりで、季節でいうと春。
ここまで暖かい日は珍しい。この日差しじゃ、まるで夏じゃないか。
――さあ、大賢者様。敵はここにいます。
再び声が聞こえて、大賢者は歩みを止めた。
目の前には少し木々が開けた広場があり、まるでその中央に小さな森を作ろうとしたかのように、同じ種類の木々が群がって生えている。
大賢者は恐る恐るその木々に近づいた。
聞こえる声はインフィニティのものだが、やはり彼女の姿が見当たらない。
自分はどこに連れてこられてしまったのだろうか?
「敵・・とはなんだね?」
見えない相手に尋ねてみる。
――我々の計画を脅かす存在です。ピアとエリオットの旅路に付いてきた害虫。ロナルド王子の手下です。
インフィニティの声はそう答えた。
「・・なるほど。国王はエリオットの旅に監視をつけていたのだな。」
――はい。その男は旅の道中常にエリオットの正体を隠し、勇者はロナルド王子だと触れ回っているのです。
彼がいては、エリオットの手柄が全てロナルド王子に奪われてしまいます。
「その男が、ここにいるのか?」
――直に辿りつく筈です。彼は私を狙っていますが、まだ私が戦う時ではありません。
代わりに大賢者様の手で、排除してください。
目の前にあるこの木々は、全て私の配下の魔物です。
大賢者様の指令に従うよう、言ってあります。どうぞご自由に使ってください。
大賢者は鬱蒼と茂る木々の葉を見た。どう見てもただの木にしか見えないこれが、魔物らしい。
軽く目を見張った。そして丁度その時だった。
「・・・おい。」
背後から男の声が聞こえた。遂に来たのかと振り返る。
視線の先にいた男の琥珀色の瞳は、目が合うなり、大きく見開かれた。
「お前っ・・!」
続いて出てきたその言葉に、思わず眉根を寄せた。
この青い髪の青年自体は、見たことがなかったが、彼の持つマナには見覚えがあった。
向こうがこちらの姿を見て驚くのは解るが、いくらなんでもこれだけ身分の差がある相手に「お前」はないだろう。
・・・しかしそうか。この男、いつの間にやらロナルド王子の部下に配属されていたらしい。
従う相手を選べないのが、彼の一族の欠点である。
「ああ・・なんでお前が来てしまったんだ・・」
長いこと王室には居たので、彼が幼い頃から、その姿を見ていた。
生まれつきの柄の悪さで、周囲によく誤解を受けていたが。真面目で誠実な人柄は高く評価していた。
まさか、彼と敵対する日が来るとは思わなかった。少し残念である。
「来てはいけなかったのに。お前だけは来てはいけなかったのに。
なんで来てしまったんだい?カーティス?」
その名前を呼ぶと、男は凍りついたように動かなくなった。
「俺は・・お前を知らない。お前は誰だ?」
震える声で、カーティスは言う。その様子が可笑しくて、思わず声を上げて笑ってしまった。
その声に反応して、周囲のマナが震え始める。既に、大賢者の感情は、木の魔物と一体化していた。
ボコボコと地面から現れる木の根たちに、カーティスを襲わせる。
長年生きてきたが、魔物を操作した経験だけはなかった。なので新鮮な感覚なのだが。操ってる最中、魔物の感情が次々と自分の中に流れてくるのだ。
それは主に、戦闘による気分の高揚。魔物たちは今、カーティスを攻撃することを心から楽しんでいるように見えた。
カーティスが攻撃をかわすたびに高まる興奮。大賢者はそれに耐え切れず笑い続けてしまった。
魔物に感情を支配されてしまうとは情けない。これはまだまだ、自分も精進せねばなるまい。
不意に、肩を上から降ってきたカーティスに踏みつけられて、後ろに倒れる。
おかげで笑いは止まったし、機敏な動きをするカーティスには感心するが・・それにしても。年寄り相手に手荒な真似をしてくれる。
「何者だ?何故俺の名前を知ってる?何故俺を狙う?」
焦ったようにそう尋ねてくる様子に、思わず眉をしかめた。
「無礼だな・・。」
教育の意味を込めて、右腕を突き上げた。
木の魔物と一体化している今の状態なら、魔法の発動に詠唱は必要なかった。
魔力の増幅装置を使うのと同じ感覚で、楽に掌を開く。
瞬間。白い閃光が生まれ、カーティスの肩を貫いた。
「・・・・っく・・は!?」
一応手加減はしてあるが、それでもかなり熱かったのだろう。カーティスが背中から倒れるのが見えた。
「・・詠唱なしで魔法だと・・?」
大層驚いた表情で呟いている。ようやく身体をどかしてくれたので、やれやれとした気持ちで大賢者は立ち上がった。
腰を抜かしてしまったカーティスを上から見下ろしてやると、途端、彼の顔が青ざめた。
力の差にようやく気づき、反省したのだろうと思った。が、
「魔物・・なのか?」
次の瞬間の彼の言葉には力が抜けるのを感じた。
その間抜けな質問に、思わず、笑ってしまう。
「あははははは!!何言ってるんだいカーティス。まさか俺を忘れてしまったのか?」
「お・・俺はお前を知らない!!」
おや、と驚いた。そういえば自分が王室を追放されて結構な年数が経っていたのを忘れていた。
カーティスは、既に大賢者である自分の顔を忘れてしまっていたようだ。
「懐かしいなぁ。カーティス。今はエリオットの世話をしてくれてるんだってな。感謝してるよ。
俺の弟子のピアは、きちんと働いているかい?迷惑をかけていないかい?」
そうヒントを出してやる。これで気づかないほど彼も愚かではない筈だ。
「ピアが・・弟子?」
カーティスはそう呟き、一呼吸おいた後、再び目を見開いた。
「そんな・・馬鹿な・・何故、貴方がここに?大賢者様・・貴方が・・何故・・?」
その腕はガタガタと震えだして、止まらない様子だった。
「ようやく気づいたか。無礼者めが。」
そう笑って見せる。同時に、この男のことが無性に哀れに感じた。
彼は従うべき相手を選ぶことができなかったのだ。
その結果、我々と敵対する立場となっただけで、別に彼自身が悪いわけではない。
あえて言うなら彼の生まれた時代が悪かっただけなのだ。エリオットと同じ、被害者だったのだ。
大賢者は少し周囲の木々を見渡した。今の自分は、この木の魔物の感情全てを理解することが出来た。
彼らは皆、カーティスの負の感情を求めている。その身体を貫き、全ての感情を吸い取りたいという欲に溺れている。
その禍々しさには思わず溜息が出た。
「さてカーティス。賢いお前なら既に気づいているだろう。
この木々の群れは我々の世界の魔の森と全く同じ条件を作っている。
魔の森は人間の抱く負の感情を好む。怒り、妬み、悲しみ。
それらに惹かれて止まない。
カーティスよ。何故魔の森がお前を狙うのか、気づいていないわけがあるまい?」
警告のつもりで、そう言う。
このままのカーティス相手だと、この木の魔物たちの制御が利かなくなることが容易に予想できた。
早く危険を察して、自らこの場を撤退して欲しい。
大賢者も幼い頃から見てきた相手を殺すようなことはしたくなかった。
「わからない・・!俺は・・何も・・!」
なのに、カーティスは相変わらず理解の悪いことを言う。
「カーティス、お前程度がこの私に隠し事ができると思うなよ。」
溜息をついて言った。
このままでは埒が明かないのだ。ここは思い切って指摘してしまったほうが早い。
大賢者はカーティスの抵抗を無視して、話始めた。
「死ぬつもりだったのだろう。カーティスよ、お前は最初から死ぬつもりで旅をしていたのだ。」
木の魔物が感知していた彼の最も重い負の感情を指摘する。瞬間、琥珀色の瞳に涙が浮かんだ。
木の魔物の感情を読むと、今のカーティスは幼い頃から積み上げてきたプライドを崩された屈辱感に襲われているようだった。
その頬に、一滴の涙が落ちた。既にカーティスの心の中は空っぽだった。
大賢者が突きつけた事実は、それだけの脅威を彼にもたらしてしまったらしかった。
「可哀想な男だ。インフィニティは、死ぬつもりの人間には倒せぬよ。」
空っぽになった目の前の青年が哀れで、見ていられなかった。
木の魔物たちが目の前に現れた上等な果実を貪るために蠢き始めたのを感じ取った。
彼らの欲望は育ちすぎた。もう、この魔物たちを制御することはできない。
そう諦めて、俯いた大賢者の耳に、不意に幼い声が聞こえた。
「カーティスさん!!」
驚いて顔を上げた。そこにいたのは一人の少女。黒い瞳が愛らしい、どこにでもいる一般的な少女。
その少女が今、カーティスを庇い、木の根に貫かれる瞬間を見た。
「・・あれは・・」
アユミさんだ。と、大賢者の中で声が聞こえた。
「アユミ・・さん?」
自らに問いかけるよう呟く。途端、流れ込んできた記憶の波に、大賢者は恐怖した。
何だこれは。俺はこの少女を知ってる。・・・そして俺は・・目の前の男を知ラナイ。
「どういうことだ・・?何が起きてるんだ?」
少女の制服に開いた穴から滴っているリアルな血液に、トウヤは我を取り戻した。
ここはどこだ?今まで自分は何をやっていた?
混乱してる間に、青髪の青年が不思議な力で背後の木々に火を放ち、
気がつけばトウヤ自身も、炎に包まれていた。
悲鳴を上げたような気もするが。その後の記憶は曖昧で・・・
ただ、気がつけば雨の中。花屋の軒下にリカと立っていた。
「降り出しましたねぇ・・。」
呆然とした様子でリカは言う。
「そうですね・・夏の天気は変わりやすいから。」
トウヤは答えた。
軒下に立つ二人の周囲は、いつの間にか、ザアザア降り注ぐ激しい雨に景色を眩ませている。
リカはちょっと待っててと言い残し、一旦店の奥に消えると、一本のビニール傘を持って戻ってきた。
「はいこれ。貸してあげるわね。」
そう優しく言ってくれたので、お言葉に甘えることにした。
「ありがとうございます。」
お礼を言って受け取ると、リカは思い出したようにもう一つ、店の奥から包みを持ってきた。
「忘れるところだった!はい、これが商品。」
白い紙に包まれた、艶やかな緑色の葉っぱを差し出される。
トウヤが料金を差し出そうとすると、リカはそれを制した。
どうやら既に、トウヤは支払っていたらしい。記憶がないのだが、リカが受け取ったというのだからそうなのだろう。
再びお礼を言って、店を出ようとしたトウヤに、リカは声をかけてきた。
それはその場に不釣合いなほど意外な言葉で、だからこそ、トウヤはその言葉だけははっきりと記憶している。
「――・・あれ?どうしちゃったんですか。今日はずっとぼーっとしてますね?」
不意に隣を歩くミチコに声をかけられ、我に返る。
「あ・・ごめん。」
この謝罪の言葉は、今日何度目かわからない。トウヤはまた頭を掻いた。
今日はミチコに悪いことをしてしまったな、と思う。
今居る場所は喫茶店。映画を観終わった後、ずっとここでミチコの話す映画の感想に、相槌を打っていたのだが。
当然、映画の内容なんて覚えてないし、ミチコの話も聞いていなかった。
「んー。いいんですけどぉ。」
少し拗ねたようにそう言いながら、ミチコは自分が頼んだアイスコーヒーのストローを齧る。
どうやらストローを齧るのは彼女の癖らしかった。
「私はね、楽しかったです。こうやって一緒に遊んでもらえて。」
もごもごストローを噛みながら、視線をキョロキョロさせ、言う。
「そう。なら、よかった。」
少しほっとした気持ちで答えた。とりあえず、ミチコは楽しんでくれたようだ。
「それでね!」
不意に、ミチコは噛んでいたストローごとアイスコーヒーのグラスを横に捌けると、決心したようにトウヤの目を睨みつけた。
「う・・うん?」
小首を傾げて返す。見る見るうちに真っ赤に染まっていくミチコの顔が、ちょっと面白かった。
「あの!私、できればまたこうして一緒に遊びたいなって・・ううん!できればずっと!!」
・・ああこれは困った。
トウヤは苦い気持ちを噛み殺して、微笑んだ。
「ミチコちゃんごめん。それはできないんだ。俺、彼女いるから。」
「・・へ?」
きょとんとしたミチコの顔から、今度はみるみるうちに血の気が引いていくのが見えた。
本当、見ていてわかりやすい、可愛らしい少女だとは思う。
もし、告白のタイミングがもう少し早ければ、トウヤも彼女と付き合うことを考えたかもしれない。
しかし、時既に遅し。
「そ・・そうですよね!こんなにカッコいい人に、恋人いないわけないですもんね!」
溢れる涙を抑えきれず、それでも必死で笑おうとする少女は健気だった。
「本当・・ごめん。」
申し訳なくて、どう対処すればいいかわからない。とりあえずハンカチを手渡そうとすると、ミチコは震える手でそれを拒否した。
「いいです!あの・・!私、帰りますね!今日はありがとうございました!」
片手で顔を覆い隠しながら、店を出て行く少女を、トウヤは止めることができなかった。
一瞬周囲の視線を集めてしまったような気がするが、そこは溜息一つで誤魔化す。
少しの間携帯を弄った後、トウヤは支払いを済ませ、店を出た。
ミチコには本当に悪いことをしたと思うが、別にトウヤは嘘をついたわけではなかった。
昨日、トウヤには恋人ができたのだ。
『ね。私たち、付き合いましょうか?』
別れ際の、あまりにも唐突な告白だった。
その時、トウヤは雨の音を何かと聞き違えたのかと思って、再び聞き返してしまった。
『だから!私たち付き合いましょうって言ってるの!』
可笑しそうに笑いながら、リカは言う。
トウヤは一瞬呆然として、次の瞬間には真っ赤になった。
この女性は、いきなり何を言い出したんだろう?
『あれ・・?もしかして、嫌?』
その声は急に不安そうになり、トウヤの高い背を、子猫のように見上げていた。
ドキンと心臓が跳ねた。自信を持って「貴方の全てが好きです」と言えるほど、この女性はトウヤのツボを抑えている。
この誘いを断るわけがなかった。
まるで子供のように、ぶんぶん頭を振ってリカの言葉を否定する。
『嫌じゃないです!・・あの、俺でよければ喜んで。』
ダサイくらいしどろもどろに、トウヤは答えた。
『良かった!じゃ、これからよろしくね♪』
嬉しそうに、リカは手を差し出した。
・・握手?付き合う証に握手?
少し意外な気がしたが、リカが差し出した手を握らないわけにはいかない。
トウヤは照れながらも、リカと握手をした。
その瞬間、リカの唇が、一瞬言葉を紡いだ。
――同盟成立ね。
決して聞こえたわけではないが、トウヤはリカがそう言ったような気がした。
その後リカと連絡先を交換して、傘を差して帰宅して、一緒に住んでいる祖母が大喜びするのを見ながら、神棚に本榊を供えた。
一応、時間が来たらコウノスケに電話し、恋人ができたことも報告しておいた。
コウノスケのやつ、案の定驚きまくってて、面白かったな。と、思い出し笑いが零れる。
――・・ピピッ♪
「・・お。」
携帯がメールの受信を告げたので、歩きながら、トウヤはポケットから携帯を漁った。取り出して、メールを確認する。
『FROM:リカ
SUBJECT:明日予定ある?
リカです。明日うちの店定休日だから、
久しぶりにバイクで遠乗りしようと思うんだけど。後ろに乗らない?』
「・・っふ。」
メールの内容に、思わず噴出した。
まさか、女性のバイクの後部座席に誘われる日が来るとは思わなかった。
とてもそうは見えないが、これがリカなりのデートの誘い方なのかな、と思うと、胸の中がほわっと温かくなる。
当然、断る理由はなくて了承の旨をメールした。
暫くすると、リカから待ち合わせ場所と時間を指定する文面が届いて、
それを確認した後、メールする。リカからまたメールが返ってきて、それに返事する。
ここまで誰かに夢中になることなんて、今までありえなかったから。
自分の新しい一面に気づいて驚きつつも、トウヤはリカのメールに返信した。
そうこうしているうちに自宅に辿りつき。
そうこうしているうちに今日は、コウノスケへの定期連絡の時間に遅刻してしまった。