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「どうしちゃったんですか?ぼーっとして。」
もしかして、睡眠不足ですか?と、目の前を歩く少女は可愛らしく尋ねてきた。
「いや、大丈夫だよ・・なんかごめんね。」
余り力の入らない声で、トウヤは返す。
今、トウヤはミチコと二人で映画館に来ている。
昨晩ぼーっとした頭でミチコとメールを交わしているうちに、気がつけばデートの誘いに乗ってしまったらしい。
今朝その意思を確認するメールが届いたのを見て気づいたのだ。
不本意だったが、一度了承してしまったものを断るわけにも行かず、トウヤは今日、ミチコがオススメする新作の映画を観る羽目になっていた。
いや、勿論映画自体は好きだ。ただ、今はとてもそんな娯楽に興じる気分にはなれなかった。
実際、シアターホールの座席についた後でも気持ちは変わらなかった。むしろ、周囲の明りが一気に落ちたことで、トウヤの集中力は完全に自分の内面に向いてしまったといえる。
隣でジュースの缶片手に涙ぐむミチコを他所に、トウヤの意識はますます目の前の現実から離れて彷徨い始めた。
――昨日の出来事は夢だったのだろうか?
彷徨う意識がまず最初にたどり着く疑問はそこだった。
昨日、トウヤの身に起きた出来事は、誰かに相談することなど不可能なほど意味不明だった。
とにかく、自分が何をやったのかすら朧で、その朧な記憶を手繰り寄せた結果見えてくる事の顛末はこうだった。
花屋で出会った女性、リカと話し込んでいるうちに、トウヤは奇妙な体験をした。
ほんの一瞬ではあったが、視界が真っ白に染まり、意識も飛びかけたのだ。
倒れかけたトウヤを、リカが支えてくれたから怪我もしなかったが、実に奇妙な感覚だった。
まるで、自分の身体から一瞬魂を抜き取られたみたいだ。
「ごめんね!まさかこんなに効きやすいタイプだとは思わなかったの!」
ちっとも申し訳なさそうには見えない様子で笑いながら、リカはまず謝った。
話を聞けば、彼女は今通信教育で催眠術を習っているらしく、何を考えたか今このタイミングで実践に移ろうとしたらしい。
そしてトウヤは、まんまとその技にひっかかったわけだ。
「はぁ・・催眠術だったんですか。」
「そう!面白いと思わない?」
胡散臭いとは思うけど・・と言いかけて、この台詞はその胡散臭いものにひっかかった立場から発するものじゃないなと思いとどまった。
モヤモヤとした気持ちのまま、言うべき言葉を探しているその前で、リカは嬉々とした様子で話を続けた。
「私ね。元々自分が自分じゃなくなる瞬間ってのが好きだったの。
女の癖に大きいバイクなんて乗りたがるのもきっとそのせいね。
あれに乗ってると、自分なんて忘れて、風になれちゃうもの。気持ちは最高よ。」
「ああ・・その気持ちはわかります。」
リカの言葉に、トウヤは思わず頷いていた。自分が自分でなくなることの快感。トウヤはそれを誰よりも実感しているつもりだった。
こうして少女Iの事件に顔を突っ込んでいるのも現実のつまらない人生からの脱出が目的だし、インターネット上で演じるもう一つの自分は、もう癖になってしまってやめられない。
トウヤもまた、自分を見失う快感に溺れた側の人間だった。・・・そう考えると、リカが催眠術に嵌った訳も、割と理解できる。
「良かった!やっぱり貴方ならわかってくれると思ってたわ。貴方みたいな人、探してたのよ、私!
そんな絵、持ち歩くくらいだものね。元々好きなんでしょ、こういう遊び。」
トウヤの携帯を指差しながら、リカは笑った。
「この絵・・知ってるんですか?」
驚いてトウヤは尋ねる。先程も懐かしい等と言っていたくらいだ。リカはこの魔法陣について詳しい情報を持っていると見て間違いなかった。自然と期待は膨らんでいく。
そんなトウヤの様子に、リカはふふっと笑うと、エプロンのポケットから一枚の白紙を取り出し、レジに置いてあったボールペンで何か書き込み始めた。
何を書いているのだろうかと、トウヤが覗き込む前に、彼女はその作業を終えて、トウヤに向き直った。
「はい!」
そう可愛く言って、今仕上がったばかりの作品を差し出してくる。
トウヤはそれを見て驚いた。自分の持ってる魔法陣とそっくりだったのだ。
トウヤが携帯の画像と何度も見比べる様子を面白そうに見つめながらリカは、こう教えてくれた。
「その模様はね、通称魔法陣と呼ばれている、幾何学模様の一種よ。」
トランス状態に陥った人間が見る幻覚の中でも、幾何学模様はポピュラーな存在になるのだという。
魔法陣と呼ばれるこの図形は、一部の催眠術師がトランス状態になった患者の見た幻覚の情報を集計し、それらに多く見られた共通点を統計し、作られたものだそうだ。
「不思議なことにね。魔法陣は人をトランス状態に持っていく効果があるらしいの。
今のところ原因はハッキリしていないんだけど。この図をじっと見ていると、図に変化が起きて見えるんだって。」
「・・・詳しいんですね。」
トウヤは素直に感心した。まさかこんなところで、魔法陣に対する答えが得られるとは思っても居なかった。
幾何学模様で作られた錯視画像。一度トウヤも体験したことがある。
平面に描かれたただの正方形の連なりが、目の錯覚でグネグネと揺らいで見える、アレのことだろう。
トウヤはリカに話した。自分が学校校舎で見た、この魔法陣の変化のことを。
それと、この魔法陣を送ってきたのが、ネット上で知り合った女の子であることも言った。リカになら話しても大丈夫なような気がしたのだ。
リカはトウヤの話を興味深く聞くと、嬉しそうに言った。
「面白いお友達だわ。あなたはまんまと、彼女の術に嵌っていたようね。」
それを言われると妙に屈辱的だったのだが、リカの笑顔を見てると、トウヤも笑わずにはいられなかった。
リカは不意にトウヤの手から自身の描いた魔法陣を抜き取ると、それを見せ付けるように言った。
「ね。今から最高にハイな体験、させてあげようか?」
薬なんか使わなくても、自分が自分でなくなる快感は味わえるのだと、リカは言った。
正直、怪しい誘いだなとは思ったが、トウヤの好奇心は飢えの限界を訴えていたので、断れるわけはなかった。
ちょっとした催眠術ごっこくらい、面白いかと思えたのだ。
「じゃ、お願いしようかな?」
トウヤは少し笑って、そう答えた。
早速店内の椅子に座らされたトウヤは、リカが新しい魔法陣を書き込んでいる後姿を見ていた。
「・・それ、何に使うんですか?」
素朴に尋ねてみると、リカは悪戯っぽく振り返った。
「魔法陣はね、人をトランス状態に落とす補助もしてくれるのよ。こんな風にね。」
そう言うと、トウヤに今仕上げた魔法陣を突きつけてきた。
「・・・っ!」
思わず、息を呑む。魔法陣が輝いている。これも催眠術だというのだろうか。
確かに、トウヤの頭はぼーっとなっていた。トランス状態というよりも、急激な眠気に襲われた感じだ。
耐え切れず、瞼を落としたトウヤの耳に、リカの唇から零れる、奇妙な音が聞こえていた。
笛のような、風のような。聞いたこともない言葉・・・
『思イ出シテ』
不意に、風の隙間で囁く声を聞いた気がした。
『思イ出シテ。本当ノ貴方ヲ』
二度目の声。今度は聞き間違いなんかじゃない。
驚いて、瞼を開いた。
トウヤは既に花屋の店内にはいなかった。というよりも、今まで行ったことのあるどの場所にもいなかった。
「ここはどこだ!?」
立ち上がった瞬間、トウヤの座っていた椅子が倒れた。
この椅子だけは花屋で腰掛けていたものと全く同じだった。
転がった椅子は今居る場所との違和感を放って、霧のように消えてしまった。
辺りを見回してみる。足元には柔らかい羊歯植物が生え揃っており、目の前には澄んだ藍色の湖畔があった。
水の中では何匹もの金色の魚が連なって泳いでいるのが見える。
見上げれば青い空の下、黒い幹の、やたらと背の高い木々がトウヤを見下ろしていた。
不意に、その視界に自身の手が入った。黒いローブに通された、細く、皺のある手。
「・・・っ!」
半ば反射的に、トウヤは羊歯に両手を埋め、目の前の湖畔へと身を乗り出す。
澄み切った水面に映った姿は、既に自分ではなかった。銀髪に藍色の瞳を持った、皺だらけの見知らぬ老人。
・・いや違う。この姿こそが本来の自分なのだ。
国王の友人として王室に招かれ、そして王妃に逆らう者として王室から追放された年寄り。
人々は自分のことを、大賢者と呼んでいた。
そう。何故か、トウヤにはその老人の持つ全ての記憶があった。
「お探ししました。大賢者様。」
背後から、囁くような声が聞こえて振り返った。
立っていたのは黒い髪を波打たせ、長く背中に垂らした美しい女性だった。
身につけているのは装飾など殆どない浅葱色のドレスで、その白い足は剥き出しのまま、羊歯の絨毯を踏んでいた。
「君は・・」
誰だと聞こうとして、大賢者は言葉を止める。
その女性の金色の瞳に、肉食獣のような瞳孔を見つけたのだ。
彼女の持ち合わせる上級の魔の力は、歩くだけでも辺りのマナを発光させるらしい。女性の周りには黄金色の光が満ちていた。
明らかに、彼女は人間ではない。
「貴様・・何者だ!」
咄嗟に袖の下から漆黒の杖を取り出して、構える。
人型の魔物は性質が悪い。賢い故に、人間を陥れようと考える輩が多いのだ。
しかも目の前にいるこの魔物は、とんでもない魔力を持っている。
人間の中では最高位の魔術を操れる大賢者といえど、勝てる存在でないことは明らかだった。
しかし目の前の魔物は、そうして警戒する大賢者の様子を鼻先で笑うと、美しい唇で言った。
「私に貴方を攻撃する意思はありません。私の名前はインフィニティ。魔王の娘。そして貴方の仲間です。」
甘いその声に、身体から力が抜けるのを感じた。
「魔王の・・娘だと?」
魔王が城から抜け出したことは知っていた。勿論、魔王が産み落とした新しい進化の卵と、そこから誕生した人型の魔物についても。
「お前があの時の魔物なのか・・?」
既に城への立ち入りを禁止されていたため、噂に聞いただけの存在だったが。こうして目の前にしてみると、彼女の圧倒的な存在感に目も霞む。
「そうです。人々に愛され続けた魔王が、自ら王族の檻を抜け、国民に呪いを振りまいたことにより、人々に愛され続けた魔王は死んだのです。その死の証拠に生まれたのが私。」
どこか悲しそうに、インフィニティはそう自分の胸に手を置いた。
「・・・魔王が・・死んだ、だと?」
衝撃に目を見開いた。インフィニティは僅かに微笑んで続けた。
「正確にいえば、魔王の肉体が滅びたのではなく、魂が滅びたのです。
今の魔王は抜け殻です。何もすることはできません。」
「それでお前は・・一体何故、俺を仲間だと思うのかね?」
混乱する頭を静めるように、そう尋ねた。魔王が死んだ今、この魔王の娘は何を望んでいるのだろうか。
何故、全く別の生命体である自分を、仲間だと言ったのだろうか。
「貴方はこの国を憂いています。このままでは王国は滅びると恐れています。間違いありませんね?」
インフィニティは言った。そしてそれは、大賢者を知るものなら誰もが気づいているであろう事実だった。
「ああ。」
大賢者は頷いて肯定した。傾国の美女という言葉があるが、数年前にこの王国に嫁いできた隣国の姫君はまさにそれだった。
若く、麗しい容姿に、この国では珍しい黄金色の髪。国民の全てが彼女の虜になり、国王に至っては完全な骨抜き状態になっていた。
国政を疎かにし、王妃の機嫌取りに国家予算を動かす国王の姿が目に余った大賢者は、度々それを注意したのだが、国王の機嫌を損ねるばかりで、何の役にも立たなかった。
しかもこの国王は、遂に第一王子のエリオットまでも、王妃のために王室から追放すると言い出し、それに唯一反対した大賢者も、同時に王室からの追放処分を受けることになった。
一人の女のために、長年の友人も、自分の息子すらも投げ出してしまった国王の姿は、酷く惨めだった。
既に国民からは王室に対する避難の声が溢れている。このままじゃこの王国は滅びてしまうだろう。
古き時代より栄えてきた栄華も、愚かな一人の国王により失われる。なんとも悲しい事態だった。
しかし、自分にはもうどうすることもできないのだと諦めてもいた。
インフィニティは、そんな大賢者の様子を少し哀れむように見つめると、再び口を開いた。
「王子エリオットと共に追放された貴方様の気持ち、察するに余りがありますわ。
もし、大賢者様にこの国を立て直す意思がおありでしたら、私はそれを手伝いましょう。」
驚くべきことを言い出した目の前の魔物に、大賢者はしばし言葉を失った。
「・・・何だって?」
ようやく出てきた言葉はこれで、インフィニティの金色の瞳を見つめるだけで精一杯だった。
大賢者と呼ばれる男でも、目の前の魔物については何の知識も持たなかった。
魔王は長い間王族に継承され飼育されてきたが、その魔王が子供を産むなど、初めての出来事なのだ。
この子供が何者なのか、大賢者であれ、わかる筈がなかった。
少なくとも大賢者は、一介の魔物が人間の住む王国に興味を持つなどと言う話を聞いたことがなかった。
魔物は、他の多くの獣と同様、自分の生活のためにだけ行動する。
国など作らずに、大自然を謳歌して生きる。それが彼らの美徳である筈だった。
なのに何故、この魔物は人間の王国などに関心を持つのか、理解できない。
大賢者の疑問に気づいたのか、インフィニティは少し面白そうな口調で言った。
「確かに、私にとって、人間の王国の衰退などどうでも良いことです。
ただ私は、魔王が喜ぶことをしてあげたいだけ。
魔王は王国の平和を心から願っている。ならば私はその願いを叶えるだけです。」
どうやらインフィニティは魔王に対し、並みならぬ想いを寄せているらしかった。それは即ち、子が親を慕う気持ち。
彼女はただ、魔王に親孝行がしたいだけなのだ。
「なるほどな・・。」
大賢者は頷いた。インフィニティはどうやら、自分に協力を求めてやってきたらしい。
しかし解せないのは、魔王の行動だ。
「王国を愛していた筈の魔王が、何故王国を敵に回すような行動をした?
魔王の呪いにより、今も多くの国民が苦しんでいる。王族を非難する声もより一層強まったのだぞ?」
そう疑問をぶつける。
途端、インフィニティは顔を曇らせた。
「それは・・私にもわかりません。魔王は何も教えてくれなかった。
ただ、魔王が国民に呪いをかけたくてかけたわけでないことは確かです。
国民が苦しんでいる事実を、魔王は悲しんでいる。」
「ふむ・・。」
大賢者は頭を捻った。自ら後悔しながらも、その呪いを解かないのはどういうことなのだろう。
既に呪いを解く力すら残っていないのか、はたまた何らかの目的があって呪いを解かないのか。
「既に魔王の呪いは王国中の人々を衰弱させています。このままでは死者も出るでしょう。
国王も、そろそろ解決策を投じることだと思います。」
「魔王の討伐命令だな。」
真剣なインフィニティの声に、大賢者も答えた。
「その通り。そして勇者に選ばれるのは、元第一王子のエリオットでしょう。
王妃が、王位継承者であるロナルドを危険な旅に出すわけがありません。
王族の中で唯一戦いに耐えられる人間は、エリオットだけなのです。」
「・・・!」
エリオットの名前が上がったことに息を呑んだ。
そうだ、今こそ、国王はエリオットの存在を必要とする。
幼い日、父親から追放命令を受け、悲嘆にくれていたあの少年を思い出した。
そこにどんな腐った理由があったとしても、久しぶりに父に会えることを、エリオットは心から喜ぶだろう。
実の父親から都合の良い駒のように扱われるエリオットを思うと、胸が痛かった。
「お前は・・私に何を望んでいる?」
尋ねた。インフィニティがわざわざ大賢者である自分を協力者として選んだのには訳があるのだ。
国王を脅かす発言力があるのは、この国の中で自分だけだった。
彼女は、魔王の討伐を止めさせたいのだと、そう予測した。
しかし意外にも、インフィニティは首を横に振ったのだ。
「いえ。私が望んでいることはその逆です。
どうか、エリオットを勇者に、魔王討伐に向かわせてください。」
「・・なに?」
その言葉に思わず眉根を寄せた。こいつは、自分の親を殺されてもいいというのか。
「魔王自ら、死を望んでいるのです。討伐されることは既に覚悟しています。
重要なのはエリオットを勇者として仕立て上げることです。
魔王を倒した英雄を、国民が認めないわけがない。
エリオットが王族としての地位を確立させるチャンスです。」
その言葉にピクリと肩が跳ねたのを、インフィニティは見逃さなかった。
にこりと笑うと、彼女は言った。
「大賢者様。貴方様は昔から望んでいらっしゃったのでしょう?
エリオットを、真の王位継承者にすることを。」
「ああ・・」
ゆっくりと頷いた。
真っ直ぐな瞳、決して曲がることのない強い意思を持った、優しい少年。彼ならば、この腐った国家を建て直してくれるだろうという期待はあった。
しかし、彼も自分も王室から追放された身。考えるだけでも無駄だと思っていた。
だから、この魔王討伐はチャンスなのだ。
「私が・・エリオットを立派な勇者に仕立て上げよう。そして彼に国民の支持を集める。」
そう呟いた大賢者に、インフィニテイは静かに答えた。
「エリオットこそ、この国の王に相応しいのです。
私は人々の支持を集めるのに充分なだけの演出を、彼の旅路に仕掛けましょう。」
互いに顔を見合わせ、頷く。奇妙な同盟が結ばれた瞬間であった。