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アユミもエリオットも、しばらくはその扉から視線を動かせずにいたが。
「・・はぁ。」
どちらからともなく溜息をつき、互いに顔を見合わせた。
今更ながら、アユミは自分が寝巻き姿のままだったことを思い出したが、
ここで着替えを取りに行ってはピアの睡眠を邪魔しそうなので、しばらくはこのままでいいかと開き直る。
「カーティスさん・・大丈夫なの?怪我は治ってるみたいだけど・・」
ピアに代わって、椅子に座り、カーティスの手を握り締めるエリオットの様子に、アユミは不安を感じて尋ねてみた。片時も手を放さないなんて、まるで重病患者みたいだ。
「問題はカーティスが取り込んだ瘴気なんだ。呼吸は勿論、傷口からも瘴気を吸収してしまっていて、今のカーティスの身体は瘴気に満たされている。
これを取り除かないことには、目を覚まさないだろうね。」
カーティスを見つめたまま、エリオットは言う。心なし、カーティスの掌を握る手に、力が込められたように見えた。
「瘴気・・。カーティスさん、一度はそれで倒れた筈なのに。よく、あれだけ長い間戦えたなって思うよ。」
思い出しながら、アユミは呟く。アユミが森に到着したとき、彼は既に傷だらけだった。
瘴気を浴びながら、ずっと戦っていたのだろう。そして遂に力尽きた瞬間をアユミは見たのだ。
もしあの瞬間に自分が間に合っていなかったらと思うとぞっとした。
「どうやってかは知らないけど。カーティスは聖剣を手に入れてたみたいだね。
瘴気の中で生き延びることができたのはそのおかげだと思うよ。」
エリオットが視線で示した先を見やる。窓枠の下には、紅色の鞘に収められた日本刀が立てかけられてあった。
「・・瘴気は、どうやったら取り除けるの?聖剣は役に立つ?」
思い立って聞いてみる。聖なる力が瘴気に有効なら、今のカーティスも救えるんじゃないかと思ったのだ。
しかし、エリオットは残念そうに首を横に振った。
「俺も同じことをピアちゃんに聞いたんだけど。聖なる力は体外の瘴気を払うことはできても体内の瘴気を払うことはできないんだって。
体内に取り込まれた時点で、瘴気はカーティス自身のマナと反応しあって、別の物質になってしまうから。」
どうやら、今カーティスの体内では化学反応のようなものが起きているらしい。
「別の物質って?」
アユミの問いに、エリオットは少し考えてから返答した。
「一言で言うと・・悪夢かな。
下手すれば命すら失ってしまうほど、最悪な悪夢。
瘴気を体内に取り込んだ人間は、必ず悪夢を見せられる。
瘴気の摂取量が多ければ多いほど、性質の悪い夢を見てしまう羽目になるんだ。」
「悪夢・・。」
アユミは思い出した。昨日カーティスを神社に運び込んだ時、彼は暫くの間眠っていたが、あれはただ眠っていたわけではなく、悪夢と戦っていたのかもしれない。
アユミはそのことを話すと、エリオットは頷いた。
「だろうね。カーティスは戦ってたんだ。
悪夢に自我を奪われれば、精神は滅んでしまう。
瘴気を体外へ追い出すには、自身の力で悪夢を倒すしか方法がないんだ。」
カーティスは今も悪夢と戦っている。エリオットたちはその戦いを助太刀することが出来ないから、
せめていつも彼の傍に人がいるようにしているのだと、そう教えてくれた。
「カーティスさん・・絶対負けちゃだめだよ。」
アユミはそうカーティスの髪に触れた。指先からサラサラと青い髪が零れる。涼やかな寝顔をして、一体どんな強敵と戦っているのだろう。
カーティスは強い。そのことはアユミにもよくわかっているが、それは現実世界での話だ。
夢の中では全ての常識が覆る。カーティスは果たして、悪夢に勝てるのだろうか。
アユミはそれを考えると落ち着かない気持ちになった。
エリオットはアユミの不安そうな顔に、少し悲しそうな笑みを向けると言った。
「大丈夫。時間はかかるかもしれないけど。カーティスは絶対負けないよ。彼はそういう一族なんだ。」
それは淡々と、事実を述べただけの口調で、瞬間アユミはきょとんとした。
――・・カーティスさんの・・一族って?
そのアユミの疑問は顔に表れていたらしく、エリオットは説明してくれる。
「俺たちの世界にはね、昔契約の魔法というものがあったんだ。
それがあったのは本当に古い時代。神と人が共存していた頃。
契約の魔法というのも、本来は神と人との間に協和を築くためにあったんだけど、時が流れ、地上から神は姿を消した時、人間は自らの欲望のためにこの魔法を使うようになったんだ。」
契約の魔法、それは、強い魔力を持つ二者が、互いの願いを相手に叶えさせることで成り立った。
そして同時に、契約の魔法を発動させた二者は、それぞれの一族に永遠と継承される呪いを受けることになる。
「いわば、関係の鎖だね。」
エリオットはそう言い現した。
「鎖・・?」
今一ピンとこなくて、アユミは首をかしげた。
エリオットはそんなアユミの様子に、少し微笑むと、僅かに茶目っ気を含んだ口調で言ってきた。
「これは実際に行われた契約の魔法の話なんだけど・・。
一人の男が願ったのは『自分にだけ忠実な家来』の存在。
もう一人の男が願ったのは『全てにおいて完全な能力』の存在。
この二人が出会い、契約の魔法を発動させた時、二人の関係はどうなったと思う?」
尋ねられて、アユミは慌てて頭を働かせる。
「えっと・・もしかして、二番目の男が最初の男の家来になった?」
互いに望みを叶え合うということは、互いの条件を飲み込み合うということなのだと認識した。
そうなると、まず最初の男が家来を欲しているのだから、二番目の男はその家来の任務を引き受けなくてはならない。
アユミがそう言うと、エリオットは嬉しそうに笑って言った。
「正解♪ここには上下関係が生まれたんだ。
最初の男は二番目の男に『全てにおいて完全な能力』を授けた。
その見返りに、二番目の男は最初の男の家来になった。」
「うんうん。」
珍しく、アユミの推理は当たっていたようで、少し嬉しくなる。
「そしてこの契約の魔法の効果はそれぞれの一族にも継承されることになる。
二番目の男の一族は、最初の男の一族に永遠に従わなければならないという呪いさ。」
二番目の男の一族は『全てにおいて完全な能力』を維持するためにも、最初の男の一族に逆らうことができないのだと言う。
アユミはここまでの話から、気づいたことがあった。
「その・・二番目の男の一族が、カーティスさんの一族なんだね?」
『全てにおいて完全な能力』その言葉は完璧人間のカーティスにこそ相応しく感じた。
そして案の定、エリオットは頷いたのだ。
「その通り。アユミちゃんは察しがいいね。そして最初の男の一族、これが今の王族になるんだよ。」
カーティスの一族の備える完全なる能力を配下に収めた人間に、恐れるものは何もなかった。
たちどころに国を支配する立場に立ったのだと、エリオットは教えてくれた。
「つまりカーティスさんは王族の命令には逆らえないんだね?」
そう自分で言った時、アユミの脳裏に先程見た夢のワンシーンが過ぎった。
確か夢の中の国王も、カーティスを見てそんなことを言ったような気がする。
「そう。そして今カーティスは国王から命令を受けている。俺を守り、魔王討伐を見届けろって。
この命令はカーティスにとって呪いなんだ。だから俺が魔王を倒すまで、カーティスは絶対に死なない。」
そう言って、カーティスに視線を向けなおしたエリオットの横顔は、どこか目の前の男を哀れんでいるように見えた。
「・・それなら。安心していいのかな?」
アユミは自身に出した答えを呟いた。それに対して、エリオットは頷いて答えてくれた。
「うん。カーティスは悪夢になんか負けないよ。・・・というか、それよりもアユミちゃん?」
「え?」
急にこちらを振り向かれて、アユミは戸惑った。
「一応アユミちゃんも瘴気を浴びた筈なんだけど・・今平気?どこかおかしいところとか・・ない?」
どう見ても健康体なアユミを、エリオットは不思議なものでも見つけたかのような目で見ていた。
「え・・えっと・・。」
アユミは考える。そういえば昨日、瘴気でカーティスが倒れた後のピアとの会話でも、アユミは心配されていた。瘴気はこの世界の人間の身体にも影響を与えるとかなんとか。
しかし、その瘴気をガンガン浴びた今となっても、アユミの身体に異変は見られなかった。
――もしかして私・・鈍すぎる?
そう考えるとちょっと恥ずかしくなってきたかもしれない。
「いや、本当なんともないみたい。元気だし・・。」
情けない声でそう答えると、エリオットは心底意外そうな声を出した。
「へぇ!アユミちゃんって強いんだね!悪夢とかも見てないの?」
見てないねぇ。と答えかけて、アユミはふと思い出した。
「あのね。悪夢は見てないんだけど、変な夢は見た気がする。」
「へぇ、どんな?」
そう小首を傾げるエリオット。途端、蜂蜜色の髪をしたあの勇者がダブって見えた。
勇気を出して、アユミは話すことにした。
あれはただの夢だったのか、それともエリオットたちの世界と何かしら繋がっていたのか。気になっていたのだ。
「・・凄いね。」
全てを話し終えたアユミに、エリオットが返した言葉はこれだった。
腕を組み、考え込むようにカーティスに向き直ったエリオットの姿に、アユミは意味深なものを感じずにはいられなかった。
「どうなの?これってただの夢だったのかな?」
直球で尋ねてみるとエリオットは言った。
「夢じゃないよ。本当にあったことだ・・。」
自分たちの世界の瘴気を、この世界の人間が取り込んだことにより、今まで観測されたことのない作用が生まれたんだろうと、エリオットは予測した。
「ただ、俺向こうにいた頃の自分たちがどういう人間だったか忘れてるから・・
それぞれの人物描写までは当たってるかわからないんだけど。謁見の間での出来事は、全くもってその通りだったよ。」
その真剣な顔に、アユミは息を呑んだ。
「確かに・・俺はカーティスから仮面を受け取った。
旅の道中に顔を隠さなくてはいけないこともあるからって。仮面の色は、確かに銀色だった。・・本当、不思議だね。」
そう言って振り向いたエリオットの瞳は、少し潤んでいるように見えた。
郷愁に襲われたのかもしれないので、アユミはよしよしとその頭を撫でてやる。
なんとなくの行動だったのだが、エリオットは予想以上に戸惑った反応を示した。
「・・え?何?」
「いや、いつものお返し。エリオットさんがホームシックに見えたからさ。」
撫でながらそう言ってみると、エリオットは少し息を呑んで、笑った。
「俺ってアユミちゃんには、嘘がつけないのかな?」
その笑顔が、やはり今にも泣き出しそうなものに見えたので、アユミはそれ以上何も言えなくなった。
夢の中の王妃の言葉に、アユミが不安を感じていたことも、今言うべきではないと判断した。
誰にとっても故郷とは美しい、安らげる場所であるべきなのだ。
今のエリオットには、安らげる故郷の思い出に浸って欲しかった。
ピアが短い休憩から戻ってくるまでは、二人の間に沈黙が続いていた。
家中が静かで、穏やかな時間が流れていて。なのに今ここには戦い続けてる人がいる。
――・・頑張れ!負けるな!早く戻ってきて!
テレパシスが使えたならそう伝えたい。アユミは心内でカーティスを応援し続けていた。