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「アユミちゃんって、あんまり食べないんだね?」
エリオットがそう問うと、アユミは首を傾げた。
「そうかなあ?」
時計は十九時を指していた。
印刷されたトウヤからの報告書と睨めっこしているカーティスとピアの傍らで、アユミは遅めの夕食を摂っていた。
アユミの目の前にある皿には、昼に作ったチャーハンの残りが入っている。
これがアユミにとっての夕食らしい。
エリオットだったら確実に足りないし、エリオットの知る同世代の女の子でも、この倍の量は食べている。
「もしかして・・食料不足になってたりしない?」
エリオットは心配していた。
そうなのだ。アユミは今自分たちの巻き添えでこの家に監禁状態になっている。
アユミは生身の人間だ。食料の確保は非常に重要な問題だというのに、
今まで一度も、アユミはその手の話を自分たちに振ることはなかった。
「まぁ・・正直そろそろきついかなぁとは思うけど。
一応、まだ少しくらいなら食材残ってるし・・。
最悪でも、お母さんの部屋に行けば非常用のインスタント食品溜まってるから、あと一週間くらいなら大丈夫だよ。」
アユミは簡単そうにそう言いのけた。
「そうなの?でも、無理しないでね。俺たちもこれ以上はアユミちゃんに迷惑かからないようにしたいから・・」
申し訳ない気持ちで言うエリオットの言葉に、アユミは明るく笑って答えた。
「何も気にしなくていいよ。不謹慎かもだけど、私はこの状況楽しんでるから!」
どうせ私しかいない家だもの。賑やかになって嬉しいわ。アユミはそう続けた。
「アユミちゃんはお母さんと二人暮しなんだっけ?」
「そうだよ。でもお母さんは雑誌の記者・・つまり、本を作る仕事をしてて、
よく遠くに出掛けるの。最近は滅多に家に帰ってこないから、殆ど一人暮らしみたいなものなんだよ。」
「でも、それじゃあ・・寂しいでしょ?」
いつも通り明るく話すアユミの様子に、エリオットは胸の奥が痛くなるような感覚がした。
エリオットの傍にはいつも誰かがいてくれた。
今もピアとカーティスがついているし、元の世界での・・勇者になる前までの生活でも、やはり孤独になることはなかった。
いつも近くに誰かがいて、エリオットを見守っていてくれていたように思う。
エリオットは孤独を知らなかった。だから、アユミの話を聞いて同情してしまったのだ。
「そうだね。寂しいと感じることはあるけど、でも慣れてるし。
それに伊藤のお姉さんが殆ど毎日、家に寄ってくれてたからね。」
「イトウの・・おねーさん?」
聞き覚えのある単語が出て、エリオットは記憶を辿る。
「確か・・俺たちが来る前にこの家に来ていたっていう人だったよね?」
「そう。お母さんのお友達でね、この家にも昔からよく来てくれてたんだけど・・
そういえばあれ以来うちに来てないんだよね。お仕事忙しいのかな?」
アユミはそう言うと、はむっと一口、チャーハンを頬張った。
「これも俺たちが原因だったりしないのかな?」
エリオットは紙の束を睨んでいるカーティスに尋ねてみる。
「関係ないだろうな。因果律の壁は、この世界の人間が来るのを拒むことはできない。
その人間がこの家にこないのは、その人間の都合だろう。」
紙を睨んだまま、カーティスは答えた。
エリオットは溜息を一つついて、アユミに向き直る。
「・・だってさ。お仕事忙しいんだろうね。」
「うーん。まぁ、今は来られるとむしろ困るんだけどね!」
冗談っぽくアユミが言うので、エリオットは笑って返したが、アユミの表情はどこか寂しげだった。
そのイトウのお姉さんとやらが、早くこの家に来てくれることを願わずにはいられない。
「ところでアユミ。この建物は間違いなく、アユミの通う学校なんだな?」
不意にカーティスが顔を上げた。その手元にあるのは、トウヤからの観察記録として贈られてきた写真を、アユミが拡大プリントしたものだった。
広い砂地に聳え立った、まるで城みたいに巨大な建物。これが、アユミが普段通っている学校なのだという。
「そうだよ。ちょっとびっくりしたけど・・確かに、この時期の学校なら人気も少ないし、空き教室も多いからね。
上手くいけば、誰にも見つからずに進入できるのかも。」
「となると・・敵がまたこの建物を利用する可能性もあるな。
しばらくは、トウヤにこの学校の様子を探るよう指令してもらえるか?
カーティスの言葉にアユミは笑顔で頷いた。
エリオットはふと視線を移す。相変わらず無言で画像と今日の報告文面を見比べているピアの姿があった。
「ピアちゃん、そっちの画像はどう?何か見つかった?」
声をかけ、ピアの横から画像を覗き込む。
「・・もしかしたら気のせいなのかもしれないので、断言はできないのですが・・」
エリオットの目の前に、ベランダの画像が差し出された。
これは今日撮影された写真の筈だが、一見では、昨日撮影された写真との違いなど見当たらない。
「これがどうかしたの?」
「昨日よりも歪みが大きくなってるような気がするのです。」
自信なさげなピアの口調を聞き、カーティスがアユミに声をかけた。
「アユミ、昨日の分の報告書を取ってくれないか。」
「・・おっけーぃ」
ゆるい返事と共に、アユミはソファの背後にある棚の上から、ファイリングされた昨日の報告書を取り出す。
どうやらアユミにとって、書類を整理するのは癖みたいなものらしい。
本人曰く、母の仕事を手伝っているうちに、散らかった書類を見るのが嫌になってきたのだそうだ。
なので、昨日の報告書の束は、夜のうちにアユミの手によって、一冊のファイルにまとめられている。
カーティスはアユミの手からファイルを受け取り、昨日撮影されたベランダの写真が載ったページを探し当てた。
「これか・・?」
そう言ってピアに差し出す。
エリオットも身を乗り出して、そのファイルの画像と、ピアの手元の画像を見比べてみる。
「微妙だね・・」
エリオットはそう評価した。
二枚の画像の歪みには違いがあるといえばあるし、ないといえばない。
あえて評価するならば、昨日の画像の歪みは右回りで、今日の画像は左回りのように見えるかもしれない。
「歪みの形事態が変化しているのかもしれないな・・。
なんにしろ、こちらの因果律の壁の傷の状態もしばらく観察する必要があるだろう。」
カーティスの言葉に、ピアは黙って頷いた。
「じゃあ私は、トウヤさんに明日もまた、ベランダの写真を撮ってもらうよういえばいいんだね。」
「ああ、頼むぞ。」
そう言ってアユミを見たカーティスは、少し笑っているように見えた。
――平和だな。
しみじみとした気持ちで、エリオットは思った。
今自分たちはインフィニティという強敵と対峙していて、危険な状態な筈なのに。なんだろう、このほのぼのとした気持ちは。
見た限り、アユミは戦いと切り離された生活をしているに違いない。
だから、この家には温かな時間が流れている。討伐の旅を始めてから、殆ど目にしたことのなかったカーティスの笑顔を見る度に、エリオットは自分も、この世界の平和さに流されそうになるのを感じていた。
――流されたら楽なんだろうけど・・
そんな甘い誘惑に、エリオットは拳を握った掌に爪を立てて耐える。
『それは困るな。』
先程、台所でカーティスが言った言葉を思い出す。
カーティスのあの台詞には、エリオットが勇者としての自覚を失うことに対する警告以外にも、もう一つの意味があった。
今、エリオットたちはこの世界のパラレルワールドの内部に入り込んで、それを具現化させている。
エリオットたちの本当の肉体は、今現在はパラレルワールドを具現化させる成分に変化しているため、
実質、エリオットたちは自分の肉体を失っていることになる。
アユミにも言ったが、実体を持った幽霊といった表現が一番しっくりくるだろう。
つまり現実味のない、曖昧な存在。それが今のエリオットたちの状態なのだ。
――異世界旅行の最中は、本来の自分たちの世界での出来事が全て夢だったかのように感じることがある。
それは異世界とこちらの世界の差が大きいため、起きてしまう錯覚だ。
これはエリオットが向こうの世界で、まだアユミと同じように学校に通っていた時分、師事していた人から聞いた話だった。
一昔前まで神隠しと呼ばれていた現象、つまり人がある一定の期間姿をくらませ、その期間中の記憶を完全に失った状態で戻ってくるという現象も、
今では、自然界にある空間の狭間に紛れ込み、一時的に異世界に飛ばされてしまったために起きるものだということが明らかになっている。
彼らは異世界にいる間はこちらの世界の記憶をなくし、こちらの世界に戻ってきてからは異世界での記憶を無くしてしまうのだ。
そしてこの現象は、どんなに安全性の高い異世界旅行であっても、起こりうることであった。
だから異世界旅行中は、意思を強く持っていなくてはいけない。
一度流されてしまえば、エリオットは本来の自分の目的を忘れてしまうだろう。
下手すれば、そのまま<この世界を監視する目>にかき消されてしまう可能性もある。
どんな時でも気を抜くことは禁忌だった。
「しかし・・学校かあ。なんだか随分行ってないような気がしてくるなぁ。」
暢気な声が聞こえて、視線を向ける。
アユミは先ほどまでカーティスが睨んでいた学校の校舎の写真を見ながら頬杖を付いていた。
「敵は学校の関係者のパラレルワールドに入っているのでしょうか。それともただ学校忍び込んだだけなのでしょうか・・・」
「どちらもありえる話だ。学校内部に聞き込みができればいいのだが・・
積極的な動きは、敵の目に付きやすい。何も知らないトウヤに頼むのは危険だろう。」
ピアの呟きに返したカーティスの言葉に、アユミは溜息混じりに答えた。
「私が行けたら早いんだけどねぇ。」
「俺も、いい加減外に出たいな。」
アユミの言葉につられるように、言葉にしてしまってから、エリオットは慌てて手で口を塞いだ。
案の定、カーティスから冷たい視線が向けられた。
「エリオット、安易な行動は危険だぞ。」
「わかってるって。言ってみただけ!」
照れ笑いでごまかしてみる。しかし実際のところ、エリオットにとっての退屈は危険な領域にまで達していた。
それを知ってか知らずか、カーティスは溜息混じりにこう言った。
「・・まぁ、確かにこのままこの家から動かないわけにもいかないだろうな。直に嫌でも、外に出る時が来るさ。」