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■■第一章■■
手元からするりと抜けた無機質の感触。
踏み出した足の踵の裏に感じる異物感。そして儚い何かが割れる音。
サァっと血の引く音がした。
ヤバイ、これはマジでヤバイ。できれば夢でありたい。
恐る恐る片足を上げ、落としてしまった上に踏みつけてしまった裸のメモリーカードを見た。
割 れ て る
「ああああああ"」
アユミは頭を抱えてその場にへたり込んだ。絶望だった。
「どうしよう!お母さんのプレイ途中のゲームが!セーブデーターがあ!」
アユミの母は現在海外出張中。
雑誌の編集部で働く彼女は、不定期に与えられる休暇の大半を趣味のゲームに費やすゲームマニアだった。
そしてアユミもその血は争えない。
今この瞬間も、母のいないこの隙に普段触らせてくれないような、買いたて新品のゲームでちょっと贅沢に遊んでみようかと、母の自室にあるゲーム専用TVの前に陣取っていたのだ。
普段、アユミは母が一度クリアしたゲームのお下がりが回ってくるだけだった。だから、たまにはまだ母もクリアしてないような新作に憧れたのだ。それだけなのだ。
「私のドジ・・!」
なんで踏んでしまったんだろう。母のメモリーカード。
なんでこのタイミングで繰り出してしまったんだろう。見事な踵落とし。
綺麗に割れてんじゃねぇよ、母のメモリーカード。
アユミの目にはうっすらと涙が滲んできた。
母にバレたらサイアクだ。ゲームに闘魂を注いでいた母の報復は多分踵落としじゃすまないだろう。
壁にかけてあるカレンダーを見る。
八月一日。
十六歳、高校二年生のアユミは今まさに、嬉し楽しでテンションも上がり、
恥ずかしい歴史の一つや二つ作ってみたくなるようなサマーバケーション真っ只中だ。
「お母さんが帰ってくるのは・・多分まだ先よね。」
母の海外出張は、七月某日、夕餉の食卓を囲む際、唐突にアユミに告げられたのだ。
『もうね、お母さん、このチャンス活かしたいの!夢だったの!中国、亳州市!曹操の故郷ー!』
ダークブラウンの髪を後ろに束ね、ひよこ色のエプロン姿の、主婦ルックのまま、アユミの母はそう熱く語った。
たしか、母の担当する取材の内容は現地のグルメとか、ナントカっちゅう有名な料理人やらだったと思うのだ。
三国志の知識とか、多分関係ないのだ。
しかし、ゲームオタクが高じて歴史オタク化している母にとっては、
海外出張=史実にあった場所の現物が転がってるというオイシイものなのだろう。
『アユミにはお土産に、亳州市の砂、持って帰るからね!』
甲子園球児か。
彼女が感涙に咽びながら、現地の砂を小袋に収める姿を想像して、
アユミはちょっと面白いと思ってしまった。
夏休みが終わるころには流石に帰ってくるとは言っていたが、なんにしろ、一ヶ月近く、母がいないことになる。
こうして、一人になると妙に広く感じるこのアパートの一室で、アユミは寂しい夏休みを送る羽目になっていたのだ。
一応、母の同僚である伊藤というお姉さんが、ちょくちょく様子を見に来てはくれるのだが。
自他共に認める生粋の寂しがり屋にとっては、ついつい、ゲームに逃避したくもなる現実だった。
そう、ゲーム。こうしてようやく話は最初の事件に舞い戻る。
「どうするかなぁ。お母さん結構進めてた筈だもんな。
なんとか、お母さんのプレイしてたところ近くまでのデータを残せたら・・ちょっとは許してくれるかな?いや、マジ上手くいけば気づかれないかも!」
うん。と一人納得。
アユミは自分のメモリーカードを取り出し、ゲーム機に差し込んだ。電源を入れ、ゲームを起動する。
ゲームデーターを読み込むわずかな時間の後、割と良く目にするゲームメーカーのロゴが画面に浮かび上がる。
続いてタイトル画面。カラフルなキャラクターの並ぶ一枚絵の前に『SYNAPSE FANTASIA』という英語の羅列。
「シナプス・・ファンタジアか。」
ざっとゲームの説明を読んでみる。
このゲームは勇者の少年が、仲間と共に魔王を倒す王道をベースに繰り広げられるクイズやパズルの要素が強いRPGのようだった。
頭の弱いアユミにとっては若干苦手なジャンルである。
「げげぇ。あとで攻略サイトとか探してみようっと。」
とりあえずは、と、ゲームのスタートボタンを押す。早速出てきたのは、キャラクターメイキング画面。
どうやら、主人公である勇者と、お供の二人がここで選べるらしい。
まずは勇者の顔グラフィック、六種類の中から選ぶのだが。
「お母さん・・主役に感情移入しないタイプだからなぁ。」
多分、選ぶのに一番労力のいらない選択肢を取るだろう。
アユミはそう予想して、横一列にならんだ勇者顔のなかから、一番左端を選択する。選択画面に切り替わった際、デフォルトで既に選択状態にあるのがこの顔だったのだ。
赤茶色のベリーショートに紫紺色の鉢巻。耳には露草色のピアスが輝いている。六つの顔グラフィックの中で、一番童顔かもしれない。
名前の設定はデフォルトのまま。エリオットで決定だ。
「まぁ、これでいいでしょ。問題はお供の二人で・・・」
お供の二人。僧侶、盗賊、戦士、魔法使い、弓士の職業の中から選べる上に、それぞれ男女のキャラを用意してくれているという親切ぶり。
「お母さんだったら、どれ選ぶか、だね。」
むぅ、とアユミはうなる。母のことだ、とりあえず職業よりもビジュアルで選ぶだろう。
ずらりと並ぶ十種類のグラフィックの中から、アユミは母の好みに合いそうなキャラを選択する。
盗賊の男、魔法使い女。それぞれの名前もデフォルト名のまま設定した。
アユミの母はちょっと悪役っぽいキャラが好きなのだ。
今選んだこの二人は、他のキャラに比べて若干目つきが悪い気がした。とりあえず悪役っぽい。
だから多分、こんなところで満足するだろう。・・・するかなぁ?
自らも半信半疑のまま、アユミはそれらのキャラクタを登録してゲームを始めた。
最初、ゲームのバックストーリーを説明するオープニングアニメーションが流れる。
魔王を倒すために国王から呼ばれた勇者志望の少年が二人。
その会場でゲームのチュートリアルも兼ねたように簡単なクイズが出され、正解したエリオットが正式な勇者として認められたという展開だ。
そして、名誉ある勇者になったエリオットは王室仕えのお供二人と一緒に旅に出るよう命じられる。
「・・って。盗賊も王室仕えなのかよ!?」
思わずアユミは呟いた。突っ込みは彼女の癖みたいなものだ。
誰もいない家に一人きりになってから、彼女の独り言は増えてきている。
そんなアユミの突っ込みが入る中。画面の中では、威厳ある銀髪の王様がダンディな声で喋っていた。
『勇者よ、御主たちはこの町を出たらまず、東の塔の大賢者様に会うのじゃ。
大賢者様は以前から魔王についての研究をされておる。きっと討伐の案を授けて下さるじゃろう。』
多分王様の需要は最初のほうだけだろうから、この王様にとってはこれが最大の見せ場の台詞になるのだろう。
心して聞きたいところだったが、残念ながらその台詞と被せて玄関でチャイムがなった。
――ピンポーン
「あっ。」
アユミは慌てて立ち上がる。時計をみたらもう十八時。今日は伊藤のお姉さんが会社帰りにうちに寄ってくれる手筈になっていたのだ。
まだ勇者と二人の仲間の姿を映した画面を部屋に残したまま、アユミは母の部屋から玄関に向かって走って行った。