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薄く白く、辺りに漂う幾欠片もの霧があった。
灰色のアスファルトの上を、幼い頃のアユミは駆けて行った。
まるで父の手から逃げるように、幼い頃のアユミは泣きながら母の元へ走った。
「おかあさん!」
拙い声でそう叫ぶ。
アユミの頬に跡をつけたのと同じくらい涙を流していた母が、目の前の信じられない光景に目を見開いた。
母はきっと思っていた。アユミが自分を選ぶ筈がないと。
仕事に呆けて、育児を放棄した自分を、いつも我が子に寂しい思いばかりさせていた自分を、アユミは選ぶわけがないと、そう思い込んでいた。
――そんな母の姿が切なくて、アユミは耐え切れなかった。
父も母も、アユミにとっては大好きな人たちだった。
どちらか片方についていかなければならなくなったとき、戸惑うアユミの手を、優しく握ってくれたのは父だった。
母は結局一度も、アユミに自分と暮らすことを勧めたりしなかった。自分に母親としての責任が欠けていることを自覚していたのだ。
アユミも、そんな母の様子に、幼いながら感じるものがあった。
自分は父に付いて行くべきだ。父こそが真にアユミのことを考えてくれ、アユミを精一杯愛してくれた。
何よりも、父はアユミのことを、自分の新しい生活の中に招待してくれた。
だからアユミは決めたのだ。父に付いていくことに。
・・・なのに。今、アユミは母の腕の中にいる。
泣きながら、離れたくないと言ってる。自分を包み込む温もりが遠ざかるのが嫌で、アユミは母の胸に必死でしがみついた。
「アユミ・・もう、行かないとね?」
困ったように、優しく語り掛けてくる父の声にアユミが返事する間もなく、その小さな耳に、震える母の声が聞こえた。
「一緒に暮らそう、アユミ。今度こそきっと、きっと良いお母さんになるから・・っ」
驚いて、アユミは顔を見上げた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった母の顔は、アユミとそっくりだった。
アユミは気づいた。今まで決して、優しくしてくれたことはなかったけれど、この人が間違いなく、アユミの母親であることに。
そのことが嬉しくて嬉しくて、アユミはもう一度声を上げて泣いた。
――・・そうだった。私はあの時、お母さんを選んだんだ。
とても懐かしい気持ちが心を満たしていた。
今年で十六歳になったアユミは、今も母と一緒に暮らしている。幼い時分の選択は、何も間違っていなかった。
母はあの後、心を入れ替えたようにアユミを愛してくれた。一度失いかけた恐怖が、彼女をそうさせたのだろう。
今度の彼女は仕事も育児も両立させ、アユミに楽しい家庭をくれた。
――だから、もういいのだ。
アユミも充分大人になった今、母には自由に仕事をやって欲しかった。だからアユミは、今回母の海外出張を止めなかったのだ。
ゆっくりと目を覚ました十六歳の少女は今、ほんの少し母が恋しくなった。