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終章

■■終章■■

 薄く白く、辺りに漂う幾欠片もの霧があった。

昨晩は酷い雨で、今朝は僅かに霧がかかっているように見えた。

 八月十四日、時刻は午前七時。

朝の空気を吸い込みながら、アユミは一人、バス停へと降り立つ。

低いエンジン音が聞こえ、バスはアユミを残して通りを去って行く。


 今被っている赤いキャップ帽子はアユミの彼氏であるコウノスケから譲り受けたものだった。

彼の部屋に行った時、なんとなく気に入って、強請ってみたらくれたのだ。

 赤い生地に、金色の刺繍で英字が綴られているだけのシンプルなデザインだったが、コウノスケ曰く、アユミにはよく似合って見えるそうだ。

だからというわけでもないのだが、最近アユミはこの帽子をよく被っている。


 カラカラと音を立て、キャスター付きの旅行鞄を引きずって歩き始める。

片手には父に書いて貰った地図。

 確か、この交差点を真っ直ぐいけば、見えてくる筈なのだが・・


「・・・ここかな?」

 辿りついた鉄筋コンクリート仕立てのアパートを前に、アユミは地図に書かれている住所と、アパートの入り口に書かれている住所を見比べ、頷いた。

間違いない。このアパートに、アユミの母は住んでいたのだ。


 彼女が亡くなったと知らされたのは、二週間も前のことだった。

雑誌の記者として勤めている彼女は、取材先の海外で、不幸な事故に巻き込まれ、命を落としたのだという。

仕事ばかりに感けて、まともな親戚づきあいをしていなかった彼女には、その死を見取る身内が誰も居なかった。

 結果、葬儀の喪主には、一度は彼女と生活を共にした経験のあるアユミの父が選ばれ、アユミも先日、彼女の葬儀の喪主席に座った。


 幼い日に両親が離婚して以来、一度も会うことの無かった母親が棺桶に眠る姿を見るのは、奇妙な感覚だった。

薄っすらと化粧を施され、穏やかな寝顔を称える母の顔は、どことなく、自分に似ているような気がした。


 葬儀の後、疲れたのか早々と自室で眠っている父に、アユミはそっと声をかけた。

一度、母の住んでいた家に泊まってみたいと。

アユミの母はいつも、どんなものに囲まれて生活していたのか、自分はそれが知りたいのだと。

眠る父が聞いてるわけがないのに、アユミは横たわる父の背中に向けて、そう口にした。

 そんな父からの思わぬ返答があったのは、つい昨日のことだった。


『・・行って良いぞ。』

 母の死後の管理を一身に任せられていたアユミの父は、少し疲れたような声で呟いた。

丁度、二人TVを見ながら、夕飯を囲んでいる時間だった。

 父親との二人暮しという性質上、料理を作るのはアユミの役割で、故に、たまにアユミが帰宅しない日があると、父は大層怒る。

若い女が夜中まで遊び呆けてだの、お叱りの言葉は様々だが、結局のところ父は、アユミの作った料理が食べれないのが嫌なだけなのだ。

 それが解っているから、怒る父をウザイとは思いつつも、嫌いにはなれない自分が居る。


『・・へ?』

 魚の煮付けを口に頬張り、顔を上げたアユミに、父は言った。

『母さんの家に・・泊まってみたかったんだろう?

 向こうの家にある遺品も・・整理しないといけないし。お前がそれをやってくれるのなら、

 別に何日でも、泊まってきたって構わない。』

折角の夏休みだからな。

父はそう言い、俯いて食事を続けた。


 そしてアユミはそんな父の言葉を受け、今は亡き母の住んでいたアパートを訪れたのだ。


 三階、階段の直ぐ近くにある三○七号室の扉を、アユミはアパートの大家から借りた鍵で開けた。

大家には、しばらくアユミがここで生活することを伝えてある。

事が事なので、快く了承し、合鍵を渡してくれた。


 ガチャリと鍵を外し、扉を開けたアユミは、中から漂ってくる湿りきった熱気に顔をしかめた。

母が出張してから一ヶ月弱、この家には誰も居なかったのだから仕方がない。

アユミは玄関を上がると、とりあえず家中の窓を開いて回ることにした。

 まず手近な扉を開けると、そこはリビングで、テレビの前に木製のテーブルが一つ、ソファと二つの椅子に囲まれていた。

その他棚やら箪笥やらも並んでいて、彼女の生活スペースは主にこの部屋だったのだろうと予想した。

壁の向こうにある台所を覗けば、その奥はベランダと繋がっているようだったので、アユミはそのガラス戸を思い切って開けた。

 心地よい風が吹いて、アユミはこの部屋が、意外と見渡しに長けていることに気づく。

遠くの街並み、道路を歩く人々の姿も良く見える。

アユミはしばらく、ベランダの柵に腕を持たせて、のんびりと景色を楽しんだ後、部屋に戻った。


 リビングの窓を全て開き終えた後、次に入った部屋は母の寝室のようだった。

寝室というよりも、資料倉庫のような趣のあるこの部屋は、とにかく本棚がいっぱいあって、その蔵書量には目が回った。

 流石は雑誌の記者である。色々と知識を持たなくてはいけないのだろう。

呆けながら部屋に足を踏み入れると、アユミの足元に硬い感触が当たった。

見下ろしてみれば、そこにあるのはゲーム機である。

地面に直接置かれたTVと接続されており、アユミの母がつい先程までゲームに夢中だったのだと言わんばかりだ。


「・・こんな趣味があったのか。」

 呟いて、見渡してみると、この部屋は書籍も多いが、それ以上にゲームディスクの収められたケースが目立った。

アユミの母は、雑誌の記者であると同時に相当なゲーマーでもあったらしい。

 アユミ自身もゲームは嫌いではなかったので、興味を持って電源を入れてみた。

既に機体にはゲームソフトが収まっていたらしく、TVの電源を入れると同時に、ゲーム画面が起動した。

メモリーカードを読み込む画面が現れ、アユミは好奇心から、母が一番最後に残したセーブデータを読み込んだ。


「SYNAPSE FANTASIA・・ね?」

 タイトルを読み上げ、首を捻る。正直、全く聞いたことがない。

おそらくマイナーなゲームなのだろう。

 ポップな絵柄の勇者パーティが現れ、彼らは今、冒険を終え、元の街に戻るところらしかった。

一国の王子が仲間を連れ、魔王を倒す旅に出るという、何の捻りもないストーリー。

旅から戻った勇者は父親である国王から王位を受け渡され、国民は新たな王を歓迎する。

 そんな余りにも使い古されたシナリオを、ゲームの中の勇者パーティは恥ずかしげもなく受け入れている。


『国王:おお!良くぞ戻ってきた勇者アユミよ!』

 突然画面に現れたその台詞に、アユミはポカンと口を開いた。

母はプレイヤーキャラクターである勇者に、娘の名前を使っていたらしい。


「・・なによ・・これ。」

 男の勇者に、娘の名前をつけるとは。アユミの母はなんて適当な性格をしているのだろう。

アユミは大層呆れ、同時にとても悲しくて、涙が出た。

 母の死の知らせを聞いてから今まで、一度も泣かなかったアユミは、今唐突に自分を襲う喪失感に気づいた。


――お母さんは・・こんなことをして、私と一緒にいるつもりになっていたのだろうか?

 ゲームの主人公に自分の娘の名前をつけ、一緒に冒険している気持ちになっていたのだろうか。

そう考えると、無性に腹が立った。

 そこまで思ってくれていたのなら何故、あの時アユミの名前を呼んでくれなかったのだろう。


 両親が離婚し、離れ離れに暮らすことになったあの日の出来事を、アユミは未だに根に持っていた。

母は最期まで、アユミに言葉をかけることなく、夫だった男と共に去っていく娘の姿を見送った。

 アユミはもう、母から優しい言葉をかけてもらうことは諦めていて、少し寂しかったが、大人しく父の運転する車の助手席に座っていた。

走り出した車の中で、ふと、母はまだ自分たちを見送っているのか気になり、振り返ったアユミは、そこで何かを耐えるように顔を歪ませ、アユミに向かって手を振っている母の姿に気づいた。

 瞬間、心は激しく揺さぶられた。

もし今、母が自分の名前を呼んでくれたなら、車を飛び降りてでも彼女の元へ走って行きたい気持ちだった。

なのに、母は一度もアユミの名前を呼んでくれなかった。


 あの時、母がアユミの名前を呼んでくれていたならば、アユミには、父親と暮らす今の自分とは別の現在があったのかもしれない。

もし、アユミが母と暮らしていたのなら、母はアユミのために、海外の仕事を断ってくれたかもしれないから、こうして事故で死ぬなんて事態もなかったのかもしれない。

 そこまで考えて、アユミは馬鹿らしくなった。

こんな事考えたって仕方がないのだ。所詮どれも、ありえない事。

 幼い時分のアユミが、自分の保護者を選択するなんてこと、出来るわけないのだし、もしあの時、母がアユミの名前を呼んでくれようが、車から飛び降りれるわけがない。

こんなの全て、ただの意味のない空想なのだ。

 考えても意味がないことはわかっているのに、アユミは涙を止め切れなかった。


 ゲーム画面に現れる台詞の文末に、ふと白く半透明の三角形が浮かび上がった。

決定キーを押すと、次の台詞に移るのだろう。

 震える手でコントローラーを操作したアユミの見つめる中、ゲームはエピローグの言葉を紡ぎ始める。


『人の心に闇がある限り、魔王はまた生まれるだろう。それでも今、世界は平和に包まれていた。』


 そうして暗転した画面の中で、このゲームは締め括られた。

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