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■■第四十八章■■
――・・とても良い匂いがする。とても落ち着く匂い。
長い眠りから目を覚ました少女は、目の前にある少年の泣き顔に気づいて、微笑んだ。
「・・・アユミちゃん・・!」
その名前で呼ばれ、少女はゆっくりと首を横に振る。
「ちが・・う・・私は・・・」
口の中に血が溢れてきて、上手く言葉を紡げない。
エリオットが咄嗟に身体を抱きかかえてくれたので、少しだけ声を出しやすくなった。
身体の触れた部分から、エリオットの優しい匂いが漂ってきて、少女は幸せそうに目を細めた。
この匂いは魔王が大好きだったあの少年の匂いと変わらない。
無邪気な笑顔も、明るい笑い声も、変わらないままで居てくれたんだね。
――・・でも随分・・大人になっていたんだな。
少年が成長する過程を見ることができなかったのがほんの少しだけ残念で。
それ以上に、立派に育った彼の姿が誇らしかった。
「俺は・・君を助けられなかった・・」
エリオットの声は、涙でグズグズだった。
ずっと泣くのを我慢して、戦ってきてくれたのだということがわかる。
エリオットの零した涙が少女の頬に落ちて、流れを作る。
少女は、ゆっくりと手を伸ばし、エリオットの頬に触れた。
「・・・ずっと・・傍にいてくれてありがとう・・私は・・」
もう息もまともに出来ない。伝えたいことの大半を言葉にすることが出来ないまま、きっと自分は死ぬのだろう。
「私は・・エリオットがいたから・・ここまでこれたんだよ?」
そう語りかけると、エリオットは悲しそうな顔をして、自身の頬に触れた少女の掌を握り締めた。
「アユミちゃん・・?」
その声が聞こえた途端、少女は僅かに身を起こし、震える彼の唇に自分のそれを寄せた。
「・・・っ!!」
とても間近な位置で、エリオットの瞳が見開かれるのが見えた。
少女はほんの少しだけ微笑んで、囁く。
「・・ずっと・・貴方に会いたかったんだ・・ずっと・・」
そしてゆっくりと身体を離した少女は、瞼を伏せ。
そのまま二度と目を覚ますことはなくなった。
――・・アユミちゃん・・?
最期に彼女が触れてくれた自身の唇に指を当て、エリオットは信じられない気持ちで自分の腕の中で眠る少女を見た。
安らか寝顔はもう、何の恐怖にも侵されていない美しいもので・・
「マァ・・・!」
エリオットは思わず、その名前を呼んでいた。
これは幼い時分に名づけた魔王の渾名・・ずっと会いたかった、エリオットに最初に出来た友達の名前だ。
離れたくなかった。いつまでも一緒に居たかった・・なのに!
「・・エリオット!」
カーティスに名前を呼ばれても、エリオットは顔を上げることができなかった。
いつまでもこの少女の亡骸を抱きしめていたかった。もう二度と離れたくなかった。
「・・っここは危険だ!既に因果律が元に戻り始めている!」
そう叫び、カーティスがエリオットの腕を掴んだ。
「・・あ・・」
無理矢理身体を立たされ、エリオットの腕の中から少女の亡骸が落ちた。
それを拾い上げようと身を屈めるエリオットを制し、ピアが叫んだ。
「駄目です!アユミさんは・・もう・・!!」
途端、足元に転がる少女の身体から、眩い光が零れ出した。
光は少女の身体を覆い、足元から少女の姿を消し去ろうとする。
――・・嫌だ・・
このまま居なくならないで。折角また会えたのに・・!
涙で滲むエリオットの視界に、ふと黒い影が伸びた。
「・・っ!」
呆然とするエリオットの身体を掬い、カーティスは地面から伸びるその影からエリオットを守った。
一面の草地だったその場所に今、森の木々が生えはじめていた。
「この場所は・・もともとこのような空間ではなかったのです!
直にここも他と同じよう、木々が現れます!」
叫ぶピアの前で、また新しい木の芽が大地を突き破った。
ボコボコと波打つ大地の上では、既にまともに立つことも危うい。
「逃げるぞ!」
カーティスに腕を引っ張られ、エリオットはよたよたと走り出した。
後を付いてくるピアよりもずっと向こう、未だ横たわっている少女の亡骸から視線を外せないまま、エリオットはカーティスに従った。
「・・・・!」
不意に、少女の亡骸に寄り添う人影に気づいた。
胸を開けた傷に悶えながらも、インフィニティは必死に少女の亡骸へと手を伸ばす。
そしてその亡骸を抱きしめ、薄っすらと唇で言葉を紡いだ。
――・・お母さん。
確かに、彼女がそう言ったように見えて、エリオットは目を見開く。
少女とインフィニティの亡骸は直に完全な光に包まれ、そこは元の因果律に倣った木々が鬱蒼と生い茂った。
「・・大丈夫か・・?怪我は・・?」
自分のほうが重傷な癖に、カーティスはエリオットを心配し、声をかけてきた。
その言葉に、首を横に振って返す。
「・・大丈夫・・俺は・・なんとも・・」
既に二人は草地だった場所を抜け切り、神社へと続く道の途中に立っていた。
星の巡る夜空も、今では木の枝に覆われ、細い月の姿すら確認できない。
「・・・ピアちゃんは?」
不意に思い立って、エリオットは辺りを見渡した。
それに気づいて、カーティスも眉を潜め、視線を走らせる。
今ここに立っているのはエリオットとカーティスの二人だけ。
後ろから付いてきてるものだとばかり思っていたピアの姿がどこにも見当たらなかった。
「・・まさか・・まだ森に?」
先程の因果律の混乱に巻き込まれてしまったのだろうか。僅かに顔色を失ったカーティスの前に、
――ガサリ・・
薮を踏み分ける音が聞こえて、木々の影からピアが姿を現す。
「・・エリオット・・」
何故か酷く戸惑った表情をした少女の腕の中には、白い塊が抱かれていた。
「・・一体どうしたんだ?何が・・?」
尋ねるカーティスをちらりと見上げ、ピアはエリオットの元へ歩み寄る。
「魔王の・・首を探していたんです。
森の中に落ちたのが見えましたから・・近くにあるんじゃないかって・・」
そして茂みにはこれが落ちていたのだと。
ピアはそう言い、エリオットの手にその白い塊を移した。
一見、それはポチに見えた。
白い犬が背を埋めて眠っているように見えた。
しかし、いざ手を触れてみれば、エリオットはその表皮が固く、ほんのりと青白く光り輝いていることに気づいた。
「これは・・・」
息を呑んだ。
「進化の・・卵なのか?」
驚き、カーティスが呟くのが聞こえる。
腕の中にある卵は、今そこに新しい命が宿っていることを示すようにずしりと重く、温かい。
不意に、エリオットの瞳から涙が零れた。
「エリオット・・貴方の・・
アユミさんの死を悲しむ思いが、新たな魔王を生み出してしまったのかもしれません・・」
ピアはそう言い、今にも泣き出しそうな顔でエリオットを見上げた。
俯き、卵を抱き締めて泣きじゃくるエリオットの頭を、カーティスの手がくしゃりと撫でた。
「・・お前の力だ。全て・・」
――お前が魔王を倒し、そして魔王を救ったのだ。
「よく・・頑張ったな。」
その言葉に、エリオットは堪えきれず地面に座り込み、泣いた。
誰よりも優しかった少年はこうしてこの日、真の勇者となったのだ。
勇者の涙が零れ落ちる中で、ピアの杖は夜空を指して一振り、二振り。
澄み切った彼女の声は森の中に響き渡り、そこに彼らの世界へと繋がる光の扉を生み出した。