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カーティスは星のない夜空を見上げていた。
温度を感じ辛い体を今、ぬるい風が横切った。辺り一面を、夏の虫がさざめいて、賑やかだ。
今は月の光に青く照らされた人工芝の上、彼は背の高い影を落としてて立ち竦んでいる。
夏の風に、青い髪が一房持ち上がる。ベランダの風は心地良かった。
ポチは、カーティスが来たのが嬉しいのか、足元にじゃれついて、楽しそうにしている。
ベランダの柵に寄りかかったカーティスは、ふと、風が吹くたびに聞こえる乾いた音に気づいた。
見下ろしてみれば、人工芝の上には数枚の枯葉が散らかっている。
ぐるりと視線を変えて、ベランダの柵の向こうに広がる夜景に目を遣った。
随分と高い場所にこの家はある。正直な感想、カーティスは驚いていた。
カーティスの住む世界では、こんなに背の高い建物はそうそうない。このベランダから見える景色は、まるで空でも飛んでるような錯覚を起こす。
小さく明かりを点した民家が、まるでブロックのように眼下に敷き詰められている。カーティスにとって、それはとても非現実的な光景に見えた。
――しかし、平和なのだろう。
この家の少女、アユミの平和ボケした態度を思い出していた。彼女はきっと、命の危機を知らない。きっとこれからも。
カーティスは外の様子を頭に書きとめ、家に戻ろうと踵を返した。途端、目の端で一人の少年の姿を感じ取った。
「エリオットか。」
余り目立つような行動は避けて欲しいものだ。
どうやって昇ったのか、ベランダの上に被さる雨避けの屋根の上からぶら下がる二本の足が見えた。
カーティスは小声で呟いたつもりだったのだが、それで充分届いたのか、エリオットはぶら下がる足を軽く揺らして応えた。
カーティスは、エリオットに注意しようと、ベランダから半身を乗り出すような形でエリオットを見上げる。
やってることの割りに、至って真面目そうな顔をした少年がそこにいた。
「なぁカーティス、気づいてたか。」
そんなことより、とりあえず部屋に戻れと言ってやりたかったが、エリオットの声のトーンに、今は話を聞くべきだと悟る。
「なんのことだ。」
「魔王のことさ。あいつの知能は獣に近い筈だ。
異世界移動の技術なんて理解できるわけないと思ってたのに。」
「その話は、この世界に来る前にもしたな。」
大賢者の塔に書き巡らされていたのは転送魔法陣だった。
転送魔法はあらゆる魔法のなかで最も高度な術だ。本来魔王に使える筈がない。
しかし、その魔方陣に染み付いた残り香も、その筆跡も、間違いなく魔王のものであると鑑定されたのだ。
「・・魔王は、進化しているのかもしれない。それとも、あの魔法陣を描いた奴が他にいるのか・・」
「インフィニティか。彼女なら筆跡や残り香の鑑定結果が魔王と一致する可能性があるな。」
カーティスはぼそりとその名を呟く。魔王が産み落としたという、強力な魔物の名前を。
「こっちの世界に送り込まれた奴の配下・・それも彼女の可能性が高い・・。
予想外だったんだ。あんな強力な魔物が誕生するなんて。こっちに奴が来ているのなら、今の俺に勝ち目なんて・・・」
エリオットの語尾が震えていた。
「なに、大したことじゃないさ。」
カーティスは言ってやる。
「お前も強くなっている。俺とピアもついてる。異世界という悪条件は、上手くいけばあいつも苦しめるだろう。」
「カーティス・・」
戸惑うような、縋るようなエリオットの声に、カーティスは僅かに微笑んで答える。
「これは心理戦だ。相手もお前が悩み苦しむのを狙っている。自信を持て、お前がそれを忘れたら、もう俺には何もできない。」
だから・・負けるなよ。それだけ言って、カーティスは家に戻った。
エリオットはしばらく彼の消えた場所を見ていたが、ふと顔を上げた。薄く張った雲の後ろから、丸い月が朧に燈っている。
「俺が・・勇者だ。」
星のない夜空の下で一人。エリオットは自分に言い聞かせるために、呟いた。