phase2「理想と現実」
家に戻ってきた美月と穹は、なるべく音を立てないように玄関を開け、中に入った。
とりわけ美月は、普段はまずやらない慎重な足取りで、廊下を進んだ。
家と店を繋ぐドアの前で、美月は一旦立ち止まった。耳を澄ますと、かすかに客と思われる人の話し声や、調理をする音、足音などが聞こえてくる。
美月は、聞こえないように息を漏らした。
「美月? 穹?」
心臓が一気に縮小するような感覚に陥った。だがその声は、警戒していた店からのドアではなく、反対方向から聞こえてきたものだった。
源七が、ちょうどトイレから顔を覗かせていた。
「帰っていたのか。その子は確か……」
「星原 未來です! 美月と穹君のお友達です!」
お邪魔してます、と玄関で立っていたままだった未來がお辞儀をした。ココロの荷物が入った鞄を抱え直し、三和土から床に上がった。
「好きなだけゆっくりしていきなさい。……ん? 穹、まさか犬を拾ってきたのか?」
尻尾と翼を隠せば、シロはどこからどう見ても柴犬の子にしか見えない。穹の抱えているものを見つけた源七は、少しだけ目を見開いた。
「い、いや、この子は、シロは、その」
穹は慌てながら、美月を指さした。
そこでようやく、源七は美月が赤ちゃんを抱っこしていることに気づいたようだ。更に目を見張り、「美月、その子は?」と近寄った。
「珍しい髪と目の色じゃな」
見知らぬ顔に警戒しているのか、ココロは源七を真顔でじっと見つめている。
「えーとね、外国人なんだよ!」
源七は一瞬疑わしそうに眉根を寄せたが、すぐにそうかとココロの顔を優しげな目で覗き込んだ。
「お世話になってる知り合いの赤ちゃんなんだ。シロもその人の家の子なの。訳あって48時間預からなくちゃいけなくなって」
「おや、そんなに急に? 48時間ということは……二日間か」
ふーむと腕を組む源七の顔を、美月は見ることが出来なかった。
いくらなんでも急すぎたかもしれない。突然預かるなど、無謀だったろうか。
預けられないと言われた場合、どうしよう。
そう考え出したとき、「美月、穹」という声が降ってきた。
「犬も、赤ちゃんも、どちらにしても預かるということは、恐ろしく責任重大だ。生きている命を、一時にせよ背負うわけだからな。そのことを、ちゃんとわかっているのかい?」
美月はこくりと、頭を上下に振った。何か台詞も添えたほうがいいかと思ったが、良い言葉が思い浮かばなかった。
「本当に世話になってる人の頼みなんだ。……っていうか、僕たちが強引に預からせたんだけどね。力になりたいって思って……」
「その人、体を壊してしまって、二日間休まなきゃいけなくなったんですよ」
穹と未來の訴えも聞いた源七は、目を閉じ考え始めた。だがすぐにふっと目が開き、組んでいた腕が解かれた。
「わかった。きっと、事情があるんじゃろうな。すぐに用意をするから、待っていなさい」
用意、と美月が聞き返すと、源七は頷きながら、自身の部屋に体を向けた。
「わしの部屋は和室だし、高い所に物も置いてなければ危険なものも置いていない。家具の角にもカバーがつけられているし、赤ちゃんが使っても問題ない部屋のはずじゃ。ちゃんと掃除して、物を片付けてくるからな」
それと、と祖父は笑った。
「お父さんとお母さんには、わしからも頼んでおくからね。でも、やるからにはしっかりやるんじゃぞ」
美月の目が輝いた。次いで、晴れやかな笑みになった。
「おじいちゃん、ありがとう!」
「ありがとう、じいちゃん……!」
「ありがとうございます~!」
三人からの礼に、源七は微笑みで返した。
源七から呼ばれるまでの間、美月達はリビングのソファで待って過ごした。
その間、穹と未來と相談した結果、今日は美月と穹がココロを、未來がシロを預かり、明日は交代して、美月と穹がシロを、未來がココロを預かろうということになった。
「シロさん、今日はよろしくお願いしますね~!」
未來がそう言いながら首元を撫でると、シロは気持ちよさそうに「ピ!」と鳴いた。
「家が家なので、シロさんが宇宙生物ってばれても、全然なんともないと思うよ!」
「ごめんね、未來。頼むね」
「任せて! ココロちゃんは明日だね~!」
顔を寄せてきた未來に、ココロは「う」と短く返すと、すぐに手元のおもちゃに目を落とした。
環境が短時間の間にころころと変わるのは赤ちゃんにとって良くないことだろう。が、何しろ突然のことで、家族になんの説明もできていない。いきなり48時間ずっとなどと言っても、聞き入れてくれないかもしれない。その点、せめて今日一晩だけなら、どうにか妥協してくれる可能性が高い。
ココロは、持ってきた荷物のうちの一つであるおもちゃをしきりにしゃぶっている。その様子から、ホームシックの影は微塵も感じない。
ハルと一緒に宇宙を旅してきたのなら、案外他の、地球の赤ちゃんと比べたら、たくましいほうなのかもしれない。
ぺたんと座るココロは、新種の生物じみた奇妙さが漂っており、しかしとても、可愛らしい。美月は抱っこ紐から解放された肩を揉みながら、小さく丸いその姿を見た。
「だう、だう」と小さな口から小さな声を漏らすココロを見ていると、次第に美月は胸の辺りがじんわりと暖かいものに包まれているような感触に陥った。
初めての感覚なのに、昔から知っているような、懐かしいような。
今までどちらかというと、ずっと歳の離れた友達のように感じていたが、これは、友情のそれではない。
「やっぱり、もう母性本能ってあるんだなあ……」
「急にどうした……?」
ふにゃふにゃと気の抜けた笑みを浮かべる美月に、穹は一歩引いたような目で見つめてきた。
「今日は、ずっとココロと一緒なわけだよね! うふふふ……!」
楽しみのあまり、ゆらゆらと左右に体を揺らす姉に、弟は苦笑混じりに肩をすくめた。
雑談を交わしているうちに、いつの間にか時間が経っていた。源七に呼ばれ、ココロが今晩泊まる部屋に行った美月達は、思わず感嘆の声を上げた。
祖父の部屋は常日頃から清潔にされていたが、今日はことさら磨きがかかっていた。どんなに目を凝らしてみても、埃一つ落ちていない。
誤飲してしまう恐れのあるものは全て片付けられ、コンセントにはカバー嵌められていた。更にココロが使う布団は、今日洗ったばかりのものだという。
「やっと雨がやんだから久々にと思って洗濯をしたんじゃが、良いタイミングじゃったな」
源七は荷物の入った鞄を部屋の隅に置き、自由に使って良いと付け加えた。
もともと和室で、家具もそんなに置かれていない源七の部屋は広く、ココロものびのびと動き回れるだろう。早速ココロは畳の上を、我が物顔でずりずりと這って移動している。
「何度か知り合いの託児所さんのところでお手伝いをさせてもらっているから、お世話にはわりと自信があるんじゃが……」
源七の言わんとしていることが伝わって、美月は首を横に振った。
「私がやる! やりたいの!」
自身の内に芽生えた母性本能は、今も強く燃えている。これを消したくはなかったし、消させるつもりもなかった。
少し拍子抜けしたように、源七はそうか、と返した。
「大変だと感じたら、すぐに言うんだよ」
「僕も手伝うよ」
「穹はいい!」
ココロを自分の手で世話をしたいという欲求が出てきたせいだろうか。今美月の目には、穹がいつもよりもっと頼りなく映っていた。自分よりも弱い相手に、ココロを任せるなどできない。
例えば、今この部屋に突然地球の裏側まで到達する深い穴が出来て、ココロが真っ逆さまに落ちていったとしても、自分だったらすぐさま、ココロを無傷で助けられる。
美月は自分でもどういうわけかわからないのだが、強烈な自信に体をみなぎらせていた。
「それじゃ私、そろそろ帰るね。お邪魔しました!」
いつの間にか、時間は6時になろうとしていた。窓の外は、夜を運んでこようとしている。
手を振る未來と、耳をぴくぴく動かすシロに、美月は同じように手を振った。
「でも美月、大丈夫なの? 赤ちゃんのお世話、したことがないんでしょ?」
「まあ、気合いで乗り切るよ!」
未來は、その言葉には応えなかった。ただ笑って、また明日、と告げて、部屋を出て行った。
玄関の開閉音を聞きながら、美月は友人の反応に、少しの引っかかりを覚えた。だがそれは、すぐに消え失せた。
店が閉店するなり、美月と穹はココロのことを、両親に報告に向かった。弦幸と浩美は突然の赤ちゃんの預かりに、当然驚きを隠せなかった。
美月は源七に言ったように、普段お世話になっている知り合いから頼まれたのだと説明した。
お世話になっているところを強調して言ったが、逆にその知り合いとは誰かを尋ねられ、墓穴を掘る羽目になってしまった。穹と二人して学校の友人なのだと慌てて言うと、二人とも首を傾げていたがとりあえずは信じてくれたようだ。
源七もやんわりと説得してくれたのもあって、反対はされず、無事にココロを泊まらせることに成功した。
「じゃあ早速遊ぼうね、ココロ!」
和室に戻った美月は、小さな箱と、メモ帳の紙をくしゃくしゃに丸めたものを何個か用意して持ってきた。
「それは何?」
鞄からおもちゃを取り出していた穹が聞くと、美月は答える代わりに、丸まった紙を心の前に並べ始めた。
きょとんとした顔をしながら座るココロの正面に座ると、箱をココロに向けた。
「さ、その紙を、この箱に入れてみて!」
何をすればいいのかわからなかったのか。ココロはしばらくの間、紙をつついたり手にしてぐしゃぐしゃといじっていた。そのうちの一つを、ぽいっと箱に向かって投げた。ぱさ、と小さな音と共に、紙は箱の中に消えた。
「凄い! その調子だよ、ココロ!」
やり方が通じたのか。ココロは次々と、紙を箱へと投げ入れていった。
投げるといっても、力は弱く、投げられた紙はふわふわと頼りなさげに宙を舞う。
そのせいで何度か外すと、ココロはむっと口を閉じ、落とした紙を拾っては入るまで投げ続けた。やがてコツを掴んだのか、ほとんどの紙を箱に入れられるようになった。
「ココロ、コントロールが良いね!」
美月の言った意味がなんとなくわかったのか、ココロはにんまりと笑った。ふふんと胸を張って、自慢をしているように見えた。
紙を全部箱の中に入れると、横で見ていた穹が箱を指さした。
「次、僕がやっていい?」
「穹? ……良いけど、大丈夫かなあ……」
渋い顔だったが、美月は箱を穹に手渡した。
穹は美月と場所を交代し、再びココロの前に紙を並べた。もう既にやり方を把握しているココロは、迷うことなく、紙を箱に向かって投げ始めた。
その様子を、美月は優しく見守っているとはとても言えない目で見ていた。
自分はココロのことをわかっているが、穹はどうなんだろうか。穹に不信感のこもった視線を送り続けていたが、その漠然とした不安は、的中した。
ココロが、また紙を一つ投げた。だがそれはどう見ても、距離が足りなかった。
すると穹は、自分で紙に近づき、投げた紙が落ちる場所まで、箱を移動させただ。
ココロはあからさまに不満げな、嫌そうな顔を浮かべた。もし喃語でない言葉が喋れるなら、「余計なことしないで」と口にしたかもしれない。そんな直感が、美月に伝わった。
ココロはぽいっと、紙を投げた。先程よりもいくばくか、投げやりな投擲だった。
またもや穹が同じように、箱を動かして、その紙をキャッチした。すると途端にココロは、ぷいっとそっぽを向いた。
「あれ、もうやらないの? まだ残ってるよ?」
ほらほらと紙を見せても、ココロは無反応だ。むしろ、今にもぐずりそうになっている。悲しいからというより、苛つきからなのではと、美月の目に映った。
「だめよ、穹! ズルは!」
美月の指さした箱に目をやり、「ズル?」と穹は怪訝そうに尋ねた。
「投げた紙を箱が全部キャッチしてちゃだめなの! ココロの実力で入れさせなきゃ」
「でも外したらかわいそうだよ」
「ココロはズルのほうが嫌なの! 見なさい、あのご機嫌斜めな姿を!」
「あれ、今機嫌悪いの?」
「どこからどう見てもそうでしょうが……」
まだ顔を逸らし、背中を向けるココロを、穹は首を傾げながら観察した。
ココロの機嫌の悪さが伝わっていない穹が、美月は不思議でたまらなかった。
どうしてわからないのか。本当にわからないのだろうか。
ココロの、しっかりと自分の力で成し遂げたいという気持ちや、頑固なところ。そのような性格も、どうして穹にはわからないのだろうか。
美月が考える横で、穹はずっと、ココロの損なった機嫌を直そうと、あれやこれや話しかけている。だがココロは無反応のままだ。打つ手がわからず動揺する穹を、美月は押しのけた。鞄からぬいぐるみを取り出し、興味を惹きつける。
ちらり、とココロは美月の持つウサギのぬいぐるみに顔を向けた。
穹には顔すら向けなかったのに、自分にはすぐに振り向いてくれた。どんなもんだと、美月は得意げに笑った。
あっという間に機嫌が直り、ぬいぐるみを手にして遊ぶココロに、穹はびっくりしたように目を見張った。
「どうしてわかったの?」
「ふふん、本能よ」
実際は、箱に入れるゲームもぬいぐるみも、ハルから渡されたマニュアルに書いてあったことを試してみただけだ。
でも、いとも容易く、それらがぴたりぴたりとココロに当てはまる。
それはもしかしたら、自分の力のおかげなのでは。
ココロが、自分に心を許しているからなのでは。
それにココロの性格は、ぱっと降臨してきたかのようにわかったものなので、あながち嘘でもない。
喃語を発しながらぬいぐるみと戯れるココロを見守る美月の心中は、強い優越感で満たされていた。
ココロは、ハルが育てている。
でも、もしかしたら、自分が育てたほうがいいのではないのだろうか。
美月は、そんな考えが、思いつくまでになっていた。
少なくとも、今は。




