phase3.2
穹が袖を捲り、コスモパッドの嵌められた左手首を露出させる。
もたついた仕草だったが、先程までの空気の抜けた風船みたいな顔とはだいぶ違っていた。
美月が呆れ混じりの安堵の笑みを見せようとしたときだった。
「あら、変身するの? それで、どうするっていうのかしら?」
「どうって、戦います!」
「へえ~、そうなの。殴ったり蹴ったりするっていうのね。私を」
ビーナスは、口だけで笑った。
穹の顔色が、どんどん青ざめていった。美月は目の前が、絶望の色に染まっていくように見えた。
「……ならば離して下さい。お願いです」
「それはもっとダメよ。さっきも言ったけど、これは命令なのよ。こんな卵、どうにかなるなんて思わないけど、連れて来いって言うもんだから。それに、あんの馬鹿が失敗したし……。なんで私が尻ぬぐいなんか……」
最後のほうは上手く聞き取れなかったが、その時の表情は、女神とも魔女とも見えなかった。人間がする、人間の表情だった。しかし、それはすぐに見えなくなった。
「私もね、本当はこんなことしたくないの。早くその卵を渡せばそれですむ話」
痛い思いから解放されるわよ、と無邪気な子どものように笑う。
首を振る力すらも、弱まってく。それでも、美月はいやいやと首を振り続ける。
穹はコスモパッドの液晶画面に指を当てた状態のまま、固まってしまっていた。
あとはもう、変身するための口上を上げるのみ。たった一言、それがどうしても出てこない。
「一つ教えてあげるわ。弟の話、あれ嘘よ。まんまと引っかかってくれてありがとうね、あんな陳腐な話に。逆に怖いくらいよ。あんなに容易くいくなんて、思ってもみなかったわ」
穹の目が見開かれる。
更に強く液晶画面に指を押し当てるが、もう一つ必要な、変身に必要な台詞はやはり出てこない。
苦悶の表情を浮かべる穹に、痛みを懸命に耐える美月。
勝利を確信したのか、誇ったようにビーナスは天を仰いだ。
「そういえば、ジンクスがあるのよね。プレアデスクラスターが産まれた星は、ずっと繁栄し、幸福に満たされるって。あと確か、産んだ卵を見つけた人も幸せになれるって話も聞いたことがあるわ。せっかくだし、私の星で孵化させてみようかしら? きっと色んな人からちやほやされるわね」
最後の駄目押しとばかりに、もう一息力を込める。
「いいこと? プレアデスクラスターが卵を産む星に選ばれる、しかもそれを見つけるだなんて、まず滅多に無いことなの。自分の星だけじゃない、よその星からもいっぱい羨ましがられる事態よ。でも、この地球って星は、他の星との交流も、プレアデスクラスターも知らないのよね。それじゃあ宝の持ち腐れよ。この動物の本当の価値を知っている星に連れて行ったほうが、この卵も幸せよ」
遂に美月の両腕が、門が開けられたようにして、開かれた。
「ぐあッ……!」
腕が解放されても、美月はまだ、きつく掴まれているような感覚がしていた。
なので、抱っこ紐の中から卵が抜き取られたことにも、一瞬反応が遅れた。
「あっ!」
青く、白く、輝く卵は、自分ではない腕の中にいた。
つい先程まであった温もり。この堅い、鎧でもある殻の内側に潜む命の暖かみ。
さっきまで、胸のすぐそばにあったというのに。
残されたのは抱っこするものが無くなってぺらぺらになった抱っこ紐と、空しく風が吹き抜けていく隙間のみだった。
「さて、とりあえずこれで目的の一つは達成ね」
ビーナスは丁重に扱う素振りなど微塵も無いのがよくわかる。片手で卵を持ち上げ、まじまじと見入ったかと思うと、その腕に抱えた。今にも落ちそうなほど、不安定だった。
「ロボットも持ってきてないし、ハルも宇宙船も見当たらないし、これで引き上げてあげるわ。今日のところは、ね」
うふふと漏らすその顔は、もはや意地の悪さを隠そうとしていなかった。
くる、と姿勢の良い背を向けられる。
「返して!!!」
変身する時間などない。
きびすを返すビーナスに、美月は我も忘れて飛びかかっていった。
しまった腰に、先刻まで掴まれ、ろくに力のこもらない手で抱え込む。
「邪魔よ!」
片手で簡単に、美月は尻餅をついた。
どん、と思いの外大きく、鈍い音がする。
美月は打った場所を、真っ赤になっている手首でさする。
穹が、意を決したように、前を向いた。
鬱陶しそうに蔑むビーナスの姿を、捉える。
「コスモパワー、フルチャー……!」
「キャアッ!!!」
ビーナスが甲高い悲鳴を上げた。
「えっ……?」
「は……?」
まだ何もしてないんだけど、と穹が視線をさ迷わせる。
美月は注意深く、立ち止まったビーナスの動向を監視する。
そのビーナスは、気持ち悪いものでも見たようにして、下に目を向けていた。
視線の先にあるのは、卵だった。
変わらずに、それは輝いている。先程よりも、遙かに強い光を放ちながら。
ことん。
次の瞬間、左右に揺れた。
かすかに、なんてものではない。
大きく。メトロノームのように、だ。
いや違う。どちらかというと、幼い頃に源七から貰ったおもちゃ、やじろべえの動きに似ている。
かたん。
また大きく揺れる。
さっきよりも揺れの幅が大きくなっていた。
ことん。
かたん。
一度揺れる度に、その幅は大きくなり、感覚も狭まっていく。
ぴしり。
雷のように突然だった。小さな稲光のような、じぐざくとした線が横に走った。
その亀裂の隙間から、真っ白い光が漏れ出しているのがわかる。
ぴしいっ。
更に大きな音が響いた。
殻に走る線が、長くなる。
かたん、ことんと尚も揺れ続ける。
早く出たいと、暴れているのか。その揺れは、まるで卵そのものが震えているようだった。
かたんことんかたんことんかたんことん。
「何よこれっっっ!!!」
その動きは、コマ送りの動画でも見ているかのように、美月の網膜にゆっくりと映った。
ビーナスが、腕を高く上げた。ボールでも投げるように、勢いよく。
卵が、手から離れた。空高く、舞っていく。
ふわりと、大空を飛ぶ。弧を描く。
もうすぐ天気が崩れてくるのか。黒い雲が増え始めた空を背後にして。
ある一点で、卵の飛翔が止まった。
そして――落ちていく。
美月は駆け出していた。
何も考えてはいなかった。
手首の痛みも、今の状況も、全てのことが、何もかも頭から消え去っていた。
自分のことも。
代わりにあるのは、卵のことのみだった。
足が勝手に、交互に出る。腕が勝手に、前へと伸びていく。
頭は、顔は、上の卵一点のみに向けられている。
誰の声も、風の音も、自身の心音すらも、耳に入らなかった。
これでもかというほど手を伸ばす。とにかく速く、速く、足を、体を前に出す。
卵が、重力に委ねられる。地面へと強い力で引きずられていく。
卵は向かっていく。何の抵抗も無く。大地へと。
その瞬間。美月は自分が、今どこにいるのか、わからなくなった。
心臓が停止する時は、きっとこういう感覚なのだろう。




